誰が追憶は誰がために きなこもち 気持ちのいい朝だった。 「おはよう、冷」 「おはよう、鈴。何か、思い出したか?」 「なんにも。嫌になっちゃうね」 会話の内容はさておき、二人の間には穏やかな空気が流れている。 「まあ、焦らずに気長にやればいいさ」 「そうするね」 少女はそう言って、ふわりと微笑んだ。少年はそれを見て呆れたような笑みを浮かべ、少女の頭を優しく撫でた。パタパタと少女は駆けていった。そんな後姿を見て、少年はため息をついた。悲痛にも似た表情で呟いた。 「思い出してよ、鈴」 オチロオチロ イマナラオトセル アノ陽ガクルシメバイイ モウスコシモウスコシ 少年は暇を持て余していた。神社の社の中、ご神体と呼ばれる鏡のそばに腰を落ち着け、参拝に来る人間を見ていた。どの人間の願いを叶えるか、どの人間に相応の罰を与えるかをぼんやりと考えていた。 自分たちが見える人間は大分減ってしまったものだ、と少年は思った。にも関わらず、この国では今でも神という存在は強く信仰され、また、人間と深く結びついていて、『神隠し』なんて言葉が平気でまかり通っている。神事につく人間は、いつ神に見初められてもいいように世間とはあまり関わらないようにし、それが世間一般で認められている。とある神社の巫女が何年も年を取らないだとか、とある神社の宮司がいなくなっただとか、割とよく聞く話で、大概その神社の神の眷属やら神嫁にされているのだ。見えていないはずなのに、それをあっさりと受け入れてしまうのが、この国の人間たちのおかしなところだな、と少年は何とはなしに思う。 そんな中で、何の変哲もない一人の少女と目が合った。気がした。 「俺が見えるのか? 珍しいこともあるものだな」 跳ねるようにして、社を飛び出し、少女の前に出る。社の中で胡坐をかいていただけでも驚きなのに、目の前にいきなり来た少年に、少女は何も言えなかった。周りの人には見えていない気がするのも、少女の口を閉じるのを手伝っていた。 「本当に俺が見えているのか。今の時代、ほとんどいなくなったと思っていたが」 「あ、あの。あなたは?」 「俺は人ならざるものだ。他の人間には基本見えないから、ここで話すのは得策ではないだろう。ついてきてくれ。人のいない場所がある」 そう言って、少年は歩き出し、少女も迷いながら少年についていく。 これが、少年と少女の出会いだった。 「俺のことは冷(れい)と呼んでくれればいい。あ、君は名乗らなくていいぞ」 「もとより、本名を名乗るつもりはなかったので。でも、お気遣いありがとうございます」 「おや、俺に名乗ってはいけないと知っているのか?」 驚いたように少年が問う。それに少女は質問で返す。 「桜と梅の花びらの紋の家に思い当たる節はないですか?」 「なるほどな。桜梅家か」 冷は納得したように頷いた。そして、新たな疑問に首を傾げる。 「どうして君はここに? 桜梅家は西の守護だろう?」 「友達に誘われて。ここはかなり力の強い神社なので、あまり気は進まなかったのですが。でも、あなたのような神様でよかった。私のことは鈴(すず)と呼んでください」 「分かった、鈴。いや、なに、久しぶりに人と話せて楽しかったぞ。またいつか来てくれ」 「ありがとうございます。では、また」 そう言って、一礼すると鈴は去っていった。 「まあ、もう会うことはないだろうが」 冷は鈴の後姿を見送りながら呟いた。そして、背伸びを一つしてから、社の中に戻っていった。 冷の予想に反し、二人はあっさりと再会を果たした。 「君、どうしてまたここにいるんだい?」 「もう向こうに戻るので、挨拶をしておこうかと思いまして」 「物好きだな。君、西の方から来たと言ったな? 俺の兄上の神社は分かるか?」 「はい。というか、彼の神社の守護を任されています」 守護とは神社で働く者だ。神の託を授かり、それを人々に伝える者。西には彼女の家系をはじめとして力を持ち、彼らと会話を為せる者も多く残っているが、東には会話をできるものはほとんど残っておらず形だけのものだ。そのため、東の神は西の神に頼んで託を伝えてもらうようになったのはもう随分と前のことだ。事実、冷も兄に頼んで託を伝えてもらったことがある。 「会ったことはあるか?」 「ええ、よくお供え物を分けてくださいますよ」 「兄上らしいな。兄上によろしく伝えておいてくれ」 「分かりました。きちんとお伝えしておきます」 「ありがとう。それにしても、君とこんな縁があるとは」 そこまで言って、冷はふと気が付いた。 「君、俺のこと知っていたんじゃないか?」 すると、鈴は数回瞬きをしてから、してやったりと言わんばかりに微笑んだ。 「ふふっ。彼に『知らない振りをしろ。東には俺たちを見える人間は ほとんどいないから、きっと自分を見える相手を見つけたら喜ぶぞ』と言われていたんです。大成功のようですね。彼も喜びます」 嬉しそうな鈴に冷は苦笑いをした。それと同時に、冷は少しだけ兄に対して羨ましいと思った。 「君のような守護がいて、兄上も幸せだな。俺の守護は俺のことが見えていない。寂しいものだ」 鈴は少しだけ考えて、そしてすぐにふわりと笑う。 「家の方に持ち掛けてみます。確かにいちいち西の神に託を頼むのは効率が悪いですよね。それでは、そろそろ失礼します。また来ます。さようなら」 鈴はそう言って去っていった。 鈴は本当に家に掛け合ったらしく、彼女の家系から、新たな守護が冷の神社に就くことになった。冷は浮足立っていた。自分と会話をしてくれる者が来ると言うのは嬉しいものだ。どんな者が来たのかワクワクして見に行った冷は心底驚いた。 「鈴......?」 「冷。お久しぶりです」 「なんで君が......?」 「私は、今日からここの守護をさせていただくことになりました」 「兄上の神社じゃなかったのか?」 鈴は端的に事情を話す。 「私、見習いだったんです。兄が彼の神社の正式な守護で、その元で修行をしていました。家の方にあなたのことを話したら、私に白羽の矢がたったので」 驚きを隠せない冷をよそに鈴はニコリと微笑んだ。 「これから、よろしくお願いします」 そして、二人の日々は始まった。 鈴が来てからの日々はあっという間なように冷は感じていた。千数百年という月日を過ごしてはきたが、こんなに早く日々が過ぎるのは久しぶりだと思った。 「冷はお供えは何が好きですか?」 「冷にとって一番思い出深い記憶は何ですか?」 「冷、これ一緒に食べよう?」 「冷ー、見て見て、境内の紅葉すごく綺麗だよ!」 冷と鈴はあっという間に打ち解けた。冷の許しもあって、鈴は冷に敬語を使わなくなった。嬉しそうに話しかけてくる鈴に冷はどこか懐かしさを感じていた。 「冷、これすごく美味しいよ、一緒に食べようよ!」 『神様、これとても美味しいですよ、一緒に食べましょう!』 懐かしさを感じると同時に、冷は千年近くも前に出会った少年の面影を鈴に見ることあった。冷は、言葉遣いも雰囲気も少年と鈴は似ていないはずなのに、二人が重なって見えることがよくあった。鈴に少年の面影を見つけるたびに冷は胸が痛かった。 「あいつは今、元気なのかなあ」 「あいつって誰のこと?」 冷の独り言に鈴が質問を投げかける。冷は鈴を見て微笑むが、鈴の目にはその笑顔が随分と痛々しく映った。 「もう千年近く前の話だ。俺に色々な楽しいことを教えてくれた人の子だった。色々なものを一緒に食べたし、色々なものを一緒に見た。人の願いを淡々と叶えることしかしてなかった俺は、日々に飽きていてなあ。願いは叶えるから人には割と崇拝されていたんだが、そんなことに興味もなくてな。そんな俺の目の前に唐突に現れてあいつが何て言ったと思う? 『相変わらず随分とつまらなそうな顔をしていますね。そんな顔した神様に願いを叶えてもらうなんて面白くもなんともないですね』だとよ。初めて会ったのに相変わらずってなんだよって思わず言い返したっけなあ」 鈴は思わず笑ってしまった。神に対して随分な物言いだと思った。 「でも、あいつは俺に言ったんだ。『僕の人生をかけて神様に世界が面白いことを教えてあげます。僕がいなくなった後でも、世界が愛おしいと思えるようにして見せましょう。』ってな。有言実行だった。俺は、あいつが愛したこの世界が今でも愛おしい」 遠くを見ながら呟く冷の顔は先ほどと違ってとても穏やかで優しげだった。そんな冷の表情を見て鈴も思わず嬉しくなる。 「そうなんだ。冷にとっては今でも忘れられない初恋の相手ってことかあ。数百年も経ってるのにそんなに想ってるってロマンチックだね」 「初恋か。人の感情に例えるならそうなのかもしれないな。あいつのおかげで俺は随分と日々が楽しくなった。まあ、今でも暇を持て余すことはもちろんあるがな」 「でも、暇を持て余すときがあるってことは、退屈じゃない楽しい時間や愛しい瞬間があるってことなんじゃない?」 そう言ってくれる鈴に冷はまた少年の面影を見るのだ。 『暇が悪いわけじゃないですよ。暇だと感じられるのは、暇じゃない時間が確かに存在するということですから。何も思わないことがダメなんですよ』 少年と鈴は考え方が似ていると冷は思った。そして、自分を幸せにしてくれる部分も似ていると思い、そっと瞼を閉じて鈴に寄り掛かる。鈴は何も言わずに冷を受け止める。話したからか少年の思い出が次々とよみがえってくる。 『桜って面白いと思いません? 葉より先に花ですよ。面白いじゃないですか』 『桜を見てると有限だからこそ美しいっていうことが理解できる気がしますよね。永遠のものはないですけど、永遠であってほしいと思うからこそ有限のものは儚く美しくて愛おしいんでしょうね』 『神様は、何か愛しいと思えるものを見つけましたか?』 『僕は永遠に生きることがいいことだとは思いません。悠久の時を過ごす神様に言うのは失礼かもしれませんが、人に限らず生き物は終わりがあること知っているから懸命に生きるのだと思うのです。その生きる様は何にも代えられないほど美しいと思いませんか?』 『ああ、今年も紅葉が綺麗ですね。神様のおかげかな』 『神様、すみません。僕、ここを出なければならなくなりました』 『死ぬまでここにいたかったんですけどね。僕、神様のこととても好きです。忘れないでくださいねって言いたいんですけど、もし神様が僕のことを覚えていて苦しいのであれば忘れてしまってください。そういう理由で忘れられるのであれば本望ですから。それでもまた会いに来ます』 冷は少年に行かないでほしかった。自分の元で生を終えてほしかったのだ。他の神の元へ行ったのだったか。人として生を終えていてくれれば転生した魂に会うことも可能だろうが、眷属にされてしまっていたらそれは叶わない。少年の魂はとても清く、眷属にされない可能性の方が低いだろう。鈴の言う通り恋だったのかもしれないな、と冷は思う。初めて人を自分の眷属にしたいと冷は思ったのだ。それでも、悠久の時を嫌う少年を眷属にすることはできなかった。眷属になってくれと言い出すことすらできなかった自分は弱虫なのだろうと冷は自嘲気味に考える。言えたら変わっていたのだろうか。案外笑って眷属になってくれたのかもしれない。今となってはもう冷には分からないことだが。 鈴に寄り掛かったまま冷が物思いにふけっていると鈴が不意に口を開いた。 「その魂が幸せになってるといいね」 冷はふっと笑みをこぼす。 「そうだな」 とだけ呟いた。冷は鈴の温かさに安心していた。その魂の幸せと、鈴には自分の元で生を終えてほしいと二つのことを願いながら。 そんな温かい日々は急に陰りを見せだした。鈴には少しずつ異変が出ていた。 「これなんだろう?」 「私、いつここに来たんだっけ?」 「冷と私っていつ出会ったんだろう......」 鈴は、冷に関する記憶だけをどんどん失くしていった。 「すみません、あなたは私の守護する神社の神様ですか?」 冷はとても辛かった。しかし、鈴にそれを悟られるまいと平静を装って返事をした。 「俺は冷だ。君の守護する神社の神だ」 「そうですか......。すみません。なんというか、あなたに関する記憶だけ虫食いで。あなたのお兄さんのことは思い出せるのに」 「おかしなものだな」 本当におかしなものだった。冷に関するものだけ消えてしまう。何かの呪いの類なのだろうと冷は思った。しかし、術の気配や痕跡を辿ることが困難であることから自分よりも力のある者が絡んでいることだけが冷には分かる。どうしたものかと冷が考えていると、鈴が静かに口を開いた。 「あの、お願いがあるのですが」 「なんだい? 俺にできることなら何だってするぞ」 「私の名前を覚えておいてもらえませんか?」 冷は驚いた。神に名を渡すということは、眷属になることを望むのと同義だ。 「鈴......。神に名を渡すことの意味も忘れてしまったのか......?」 「いえ、それは覚えています」 「俺に関する記憶しか消えないのなら、名を渡す必要はないだろう。それに、俺でなくとも、家族や友人が覚えているはずだ」 冷が当たり前のことを口にすると、鈴は首を横に振った。 「なんとなく、もうすぐ忘れてしまうと思うので、あなただけには知っていて欲しくて。あなたのこと覚えていないのにおかしいですよね。」 鈴は困ったように目じりを下げる。 「それと、これは桜梅家と五神以上の神しか知らないことなのですが、私の家では、本当の名は家族にも知らせないんです。私の『鈴』という名は、あくまで戸籍上の名前で、本当の名前は、自分と、名付け神しか知りません」 冷は初めて知ることに驚いた。しかし、鈴の家系は由緒正しい家系で昔から神に仕える家系として名を馳せ、その能力で神と人々を繋いできた。だからこそ、独特な風習が残っているのだとしても納得はできた。 「君の名付け神は誰なんだ?」 「あなたのお兄さんです」 「ならば、忘れたら聞けばいいだろう。俺に渡す必要はない!」 冷は思わず怒鳴っていた。前に鈴に話したとある少年と出会ってから人の生きる様を見るのが好きだった。元々人を自分の眷属にすることは好まなかったがその少年の影響もあり人を眷属にしたいとは余計思わなくなった。 しかし、冷は鈴を眷属にしたくないわけではない。鈴に記憶があった上で頼まれたら眷属にしただろう。冷が怒鳴ってしまった主な理由は辛かったからだ。記憶もなく、自分のことを信用できる状況ではないのに自分の眷属になりたいと言われてやるせない気持ちになった。半分は八つ当たりなのだ。 鈴もそれに対して声を荒げる。 「忘れたからといって聞けるものではないんです。いくら名付け神といえど、神は神。もう一度聞くということは基本的には相手の眷属になるのを望むことを意味します。だから、忘れてしまったら私は忘れたまま生きていくか、彼の眷属になるかしか道がありません。それならば、私は......」 鈴はそこまで一気にまくし立て、すっと息を吸った。そして、震える声で呟いた。 「私は、あなたの眷属になりたいです」 冷は今にも泣きだしそうな目で鈴を見つめた。これほどまでに自分の無力さを恨んだことはない。 「鈴、そんなこと言うな。君は、記憶がなくなって混乱しているだけだ。もうすぐ、神在月がくる。兄上に相談してみるから......。お願いだから、そんなこと言わないで」 そんな冷を見て、鈴はそれ以上何も言えなかった。 ―チリンー その音は冷の耳にやけに響いた。この神社にここまで響く鈴があっただろうか。そう思いながら歩いていると、鈴が廊下で蹲っていた。冷は慌てて駆け寄った。 「鈴! どうした!」 鈴の顔は真っ青だ。そして、震える声で呟いた。 「名前が分からないんです」 呆然とする二人をあざ笑うかのようにもう一度、 ―チリン― と鈴の音が響いた。 それから、二人は穏やかに暮らしていた。鈴の記憶喪失はあれで止まった。名前を忘れた以降のことを、鈴が忘れることはなかった。記憶が失われてすぐの頃は他人行儀であったが、時間の経過とともに前と同じような親しさは戻ってきていた。 「おはよう、冷」 「おはよう、鈴。何か思い出したか?」 「なんにも。嫌になっちゃうね」 会話の内容はさておき、二人の間には穏やかな空気が流れている。 「まあ、焦らずに気長にやればいいさ」 「そうするね。でも、私は別に思い出さなくてもあなたがいてくれるからいいかなとも思うんだよ?」 鈴はそう言って、ふわりと微笑んだ。冷はそれを見て、呆れたような笑みを向けながら、鈴の頭を優しく撫でた。パタパタと鈴は駆けていった。そんな後ろ姿を見て、冷はため息をついた。悲痛にも似た表情で呟いた。 「思い出してよ、鈴」 鈴には言えるはずのない冷の願い。冷にとっては鈴との出会いもそれからの日々も全て大切だった。冷とて今の鈴と前の鈴が別人だとは思っていない。これからまた築いていけばいいのだと自分に言い聞かせる。だが、思い出すたびにそのときの想いを共有できない寂しさに支配される。祀られてから千年以上。冷の神社に記憶喪失の家族を連れたものが泣きながら記憶を戻してくれと乞うてきたこともある。その時、冷は忘れられる辛さなんて分かっていなかった。ただ泣いている者が可哀想で何となく記憶を戻す手伝いをしたのだ。今さらになってようやくその辛さが分かるとは。しかも、鈴の記憶喪失は冷ではどうにもできない。 「ははは、辛いなあ」 鈴は記憶が戻らなくてもいいと言う。それが本心かどうかは分からないが、記憶を戻すことに躍起になってはいない。どちらかというと、過去にこだわっているのは冷の方だ。だから、鈴に冷の本心を言うわけにはいかない。冷はぎゅっと唇を噛み締めた。 「それじゃ、一か月ばかし行ってくるな。この時期、参拝者なんていないから、全然神社をあけても大丈夫だ。無理するなよ」 「ありがとう。気を付けてね。行ってらっしゃい」 なんとか落ち着きを取り戻したところで、神在月になり、冷は神社を空けねばならず、とても心配しながらも、神の集う地に赴いた。 神在月。一神と呼ばれる神のもとに全ての神が集まる月。その期間中に一神に挨拶に行くのは常識だ。冷もまた、兄と共に一神に挨拶に行っていた。 「一神様。今年の神在月も無事終わりそうで何よりです。冷、お前も挨拶しなさい」 「一神様。お久しぶりです」 冷とその兄も大分上の方の地位にいるが、一神には頭が上がらない。 「おお、巳陽(みよう)に冷。久しいな。あの娘は元気か?」 「そのことですが、一神様にもご助力いただきたく存じます」 巳陽と呼ばれた兄の一言に一神はすっと目を細める。 「二神ともあろうお主が我に願いなど、どういう風の吹き回しだ?」 一神と二神の腹の探り合いを真横で見ている冷は内心冷や冷やしていた。それにしても、どうして鈴のことを一神が知っているのか、どうして巳陽が鈴のことを頼んでいるのか冷は分からなかった。 「鈴は、冷と過ごした日々のことを全て忘れ、私が与えた名もなくしました」 「それは難儀であったな。して、二神と八神よ。お主らの望みとやらは何だ? 彼女の記憶を戻せとでもいうか?」 冷はその言葉に一神を見た。そして、声を出そうとしたところで巳陽に遮られた。 「いえ、そうではありません。原因となった神、六神である音葉の件です」 巳陽の言葉に少年は目を見開いた。 「兄上、六神様、音葉様が原因とはどういうことですか?」 六神である音葉というのは、西と東の間の神で、冷がまだ弱い神であったころ、よく面倒を見てくれた兄のような神だった。その神と鈴の関係性が冷には分からなかったのだ。 「お前、鈴がただの人間だと思っているのか?」 「え、それはどういう......?」 冷の反応に巳陽はわざとらしくため息をついた。 「まあ、五神にならねば聞かされぬことだからな。五神から外された時点で記憶も消されるから知らなくても仕方のないことか」 巳陽は何かぶつぶつと言っていたが、冷には聞き取れなかった。ちらりと一神に目配せをする。一神は感情の図れない笑みを浮かべながら頷いた。 「一神様の許可のもとに、お前に一部明かそう。本来であれば五神に入らねば知りえぬ情報だ。心して聞けよ」 巳陽のその言葉に冷は静かに首を縦に振った。巳陽は話を始めた。 「お前は桜梅家と我ら神々との関係をどの程度知っている?」 巳陽の質問に冷は素直に答える。 「桜梅家は西の神社の守護であり、一族は皆、神を見ることも会話をすることもできる。あと、名付け神に名を与えられる。くらいのことしか知りません」 巳陽は少しだけ目を細めた。 「名付け神のことを知っていたか。鈴が話したのか?」 冷は何も言わず頷いた。 「お前が今言ったことは何一つ間違っていないが、大雑把すぎるな。確かに桜梅家は西の守護だ。だが、鈴はお前の守護をしている。お前は西ではない。ではどういうことか。正確に言うと桜梅家は五神以上の守護なんだ。五神が長い間皆西にいるから西の守護のようになってしまっただけだ。しかし、お前は五神でもない。どうして鈴がお前の守護についたのか分かるか?」 冷は巳陽の問いかけに対して答えを探した。五神ではない冷に鈴が守護としてついた理由。鈴自身も家に冷のことを言ったら偶然鈴に白羽の矢がたったと笑っていたのだから詳しいことは知らないはずだと思った。しかし、本当に偶然なのか。鈴が冷のところに遊びに来たところから偶然ではなかったのではないだろうか。そもそもいくら桜梅家の人間だからと言って、見習い時に二神である巳陽のところで守護をできるなんてよく考えたらおかしいのだと冷は気づく。 五神につくはずの桜梅家の人間。見習い時は二神という上位の神の守護。そして、本人は何も知らずに五神ではなく八神である冷のもとに守護に来た。 「鈴はひょっとして、俺を五神にするための生贄......? それも、一神様や二神である兄上が認めた。しかし、何故」 そこまで口にして冷ははっとした。そこで巳陽がようやく口を開いた。 「そういうことだ。生贄というと言い方が悪いが、鈴はお前を五神にするためのお前の神嫁だ。お前は五神、いや、三神に引けを取らないくらい徳も信仰もある。それなのにお前が八神どまりなのはお前が今までに人間を誰一人として眷属にしなかったからだ。眷属の人数というのは神の力を示す指数になる。眷属が多い方が神の力は上がるし、位を決める基準でもあるからな。それにな、東に五神以上の神が一柱もいないという今の状況は異常なんだ」 「だからお主を五神にしようと思うてな」 巳陽の言葉を遮って唐突に一神が口を開く。ゆったりとした話し方だが、口答えを許さない威圧感もある。 「桜梅家に頼んでな。あの娘が生まれた時から、お主の守護になることは決まっておったのだ。そのために、お主の兄である巳陽に名付け神になってもらい、見習いを受け入れさせたのだ」 一神の言葉を受け継いで巳陽が続ける。 「一神様の言葉もあって、お前の眷属としてふさわしい名前を与え、私の元で修業をさせていた」 「待ってください。ということは、鈴は全て知っていたのですか......? そもそもどうしてこのタイミングで、どうして彼女だったんです。桜梅家は彼女以外にも人はいるだろうし、東に五神がいないのはずっと前からのこと。俺を五神にしたいだけならもっと前から兄上たちは動いたでしょう?」 その問いかけに巳陽は少しだけ困った顔をする。 「お前、気づいていないのか? 鈴の魂は......」 「巳陽」 一神に名前を呼ばれた巳陽はそこで押し黙った。冷は巳陽の言葉の先を聞きたいと思ったが、一神の牽制で聞くことは叶わなかった。巳陽はわざとらしく咳払いをして、話を続けた。 「まあ、色々と今がタイミングが良かったから彼女になったんだ。鈴は全て知った上でお前の守護についていた。どうして知らない振りをしていたのかは分からないがな。次に名付け神についてだ。名付け神は五神以上の神。桜梅家が守護するのも五神以上。これの意味することは分かるだろう?」 冷は頷き、そして、答える。 「五神のための家系。五神としての権力をも意味する。 ということは名付け神に名を与えられるのは桜梅家だけということになるのですか?」 「お前は本当に察しがいいよな。そのとおり。名付け神に名を与えられるのは桜梅家だけだ。そして、基本的には名をもらった神の守護につくんだ。まあ、鈴は例外だが。ここまでくれば、名付けがどういう意味を持つか分かるよな?」 冷は巳陽を真っすぐに見据えて答える。 「他の神の眷属にされてしまわないようにするため」 巳陽はニコリと笑う。 「ご名答。桜梅家は神にとっての宝だ。だから、五神によって名付けられ、他の神の眷属にされないように護られる。そして、五神は桜梅家の者は眷属にしないというのが掟だ。眷属にしたら家系が途切れてしまうからな。もう一度言っておくが、鈴は例外だ」 「どうして、そこまで頑なに鈴を桜梅家の理から外すのですか?」 「それは私の口からはまだ言えない」 はっきりと告げられてしまったら、冷はそのことに関してそれ以上は聞けない。しかし、冷には他にも聞きたいことが多くあった。 「そうですか。ではもう一つ。桜梅家が俺たち神にとっての宝って......? どうしてそこまで徹底して護っているのですか? 桜梅家でなくとも神を見ることのできる者は少ないながら存在します。桜梅家だけをそこまでして護る理由が分かりません」 そこで静かに二人の話を聞いていた一神が口を開いた。 「冷、それは五神でないお主の知ることではない。巳陽よ、お主は弟に甘すぎる。少し話しすぎだ」 一神の注意に、巳陽が反論する。 「ですが、一神様。冷を五神に、というお考えはそもそも一神様が言い出したことではないですか。それに冷にはやってもらわなければならないこともあります。一神様も同意の上でしょう」 「巳陽。少し黙れ。我はそこまで話すことは許可していない。今、冷に話せることはもう全て話したであろう。どうせ、すぐ話す機会があるだろう。今はここまで。冷ももう下がりなさい。今後のことについては追々通達する。よいな?」 ニコリと笑う一神の顔は恐ろしいほどに美しく、有無も言わせない気迫をまとっていた。しかし、ここで引き下がっては聞きたいことが聞けないと思った冷は食い下がった。 「分かりました。それについてこれ以上言及しません。五神の秘密についてももう大丈夫です。俺が聞きたいのは鈴のことです。音葉様が原因とはどういうことですか? 鈴の記憶は戻らないのですか?」 その質問に対し、巳陽が質問で答えた。 「鈴が名前を失くした時、何かなかったか?」 問われた冷は記憶を探る。そして思い出した。 「鈴の音が響いた。そうだ、あれは音葉様の鈴の音だ」 「術の完了の合図だな。しかし、音葉のやつ、そこまでしたか」 巳陽が悔しそうに呟いた。 「いくら二神である私や、一神様であろうと、一桁の神の最高術式によって失われた記憶を容易に戻すことはできない。鈴の音は奴の最高術式の際の道具だ」 巳陽の言葉に冷はさっと顔を青ざめた。 「では、鈴の記憶は戻らないのですか?」 「戻るには戻るが......」 巳陽はそこで口ごもった。戻る方法があるのであれば知りたい、何でもしたいと冷は思った。しかし、一神の発した言葉は冷を固まらせるには十分だった。 「眷属にしてしまえばよい。眷属になれば他の神の力や、呪い、穢れからも護ることができる。巳陽は名を知っているのだから、眷属にすることもできよう」 冷は指先が凍るような感覚に陥っていた。自分にとって大切な人間がまた、自分の元から離れていく。しかも、今度は自分の兄のものになるかもしれない。兄であろうと、もう誰にも渡したくないと、冷は思った。 「それしか方法をご存じないのであれば、鈴の記憶を戻してくださらなくても結構です。俺は俺なりに方法を探します。それでは失礼します。兄上、またあとでご挨拶に伺います」 二人の返事も待たずに冷は部屋を飛び出した。 「まったく、お主も策士よのう。嫌な役目全部我に押し付けおって。全てお主と娘の作戦だというのに」 「何のことでしょうか、一神様」 「ああ、二人の時はその言葉遣いはよせ、気色悪い。そもそも、我は一神なんて立場向いていないのに、お主が仕向けるから休む暇もないわ」 「ははは。俺の方が一神なんて向いてないさ。巳月(みつき)のその美しさと賢明さには全ての神がひれ伏すんだ。君が一神にふさわしいよ。俺は二神として君を支える方が向いている」 二人は冷が去ってから打って変わって砕けた態度になった。巳月の巳陽を見る目は、とても優しいものだった。 「しかし、その名で呼んでくれるのもお主と音葉しかいなくなってしまったなあ。巳陽、お主、我についてきたことを後悔しているか?」 「俺は巳月が決めた道に付いていくだけだ。冷があの魂のために何だってしようと思うように、俺だって巳月のためなら何だってしたかったさ。巳月はいつだって、俺の希望だからな」 「巳陽はバカだなあ。あの時、本当に我についてきて、名前まで我と対にしてしまうなんて思ってもいなかった。なあ、巳陽。我は一神から降りようと思うと言ったらどうする?」 試すような、でも、どこかすがっているような目で巳月は巳陽を見た。その姿は冷がいたときから想像もできないほどか弱い、と巳陽は思った。 「巳月が望むならそうすればいい。止めるつもりはない。ただ、俺は絶対に一神にも二神にもならんぞ。巳月と一緒に姿を消す。巳月以外を二神として支える気はない」 そんな言葉を聞いて巳月は、少しだけ頬を緩める。巳月が巳陽を神にして数千年。神として生まれた神よりもよほど機転もきき、徳も信仰もある。そんな巳陽にとって巳月は常に一番だった。 「あの時拾った魂がこんなに立派になるとはなあ。それに、お主が拾った魂も、眷属なしであそこまで上がってくるとは思っていなかった。冷はお前よりも優秀かもしれんぞ?」 「おいおい、ここまで頑張った俺は褒めずに、弟を褒めるのかい? 面白くないじゃないか」 そう言って、拗ねた態度をとる巳陽もまた冷の前ではしない態度だ。もはや、巳月の前でしかできなくなっている。 「まあ、冷は優秀だよ。じゃなきゃ、俺が拾おうと思わないし、あれを一神にしようなんて思わんさ」 「なんだ、知っておったのだなあ」 知られていたことを驚いたかのように言う割には、顔は驚いていない。 「ああ、巳月が一神を降りようとしているのはずっと前から知っていた。元より、なることを望んでいたわけでもないしな。だから、俺は優秀そうな人の子の魂を拾って、巳月が俺にしたようにその魂を神にしようと考えたんだ。俺が思っていたよりもずっと早くあいつはここまで上り詰めてくれた」 巳陽はそこで一度黙った。拳を握りしめていて、少しだけ震えていた。 「でも、音葉がああなるとは思っていなかった。全部俺のせいだ。巳月に何もしてやれない。音葉は堕ちる寸前。冷も鈴も幸せを逃して。俺は神になっても大事な存在程幸せにできない。やっぱり、あの時、巳月に消してもらうべきだったのかもしれない」 巳陽の瞳に影が差す。その不安げな瞳には、二神としての威厳も、兄としての姿もなかった。ただ、大切な存在を想う姿だけがそこにはあった。巳月はその姿に涙を流していた。巳月が気に入っただけで無理矢理神にされてしまった哀れな存在。巳月のためにその能力の全てを使い、巳月のそばにいるために実力だけで二神まで上り詰めた。そんな巳陽を巳月は確かに愛していた。 「我にとってお主は希望だったよ。お主が神としてそばにいてくれなかったら我は父のように頂点に立って神を統べようとは思わなかった。我は、ずっとお主の存在に支えられてきた。だから、そんなこと言わないでおくれ」 巳陽の髪を撫でながら巳月は微笑んだ。 「巳陽。冷が一神になったら、高天原で祝言をあげようか。もう、地上から出てもいいだろう」 その言葉を聞いて巳陽は目を見開いた。 「俺でいいのかい?」 「我は巳陽に対して、嘘をついたことはないぞ。その前にやることは山積みだがな」 巳陽は巳月を抱きしめた。巳月も当然のように巳陽の背に腕を回す。 「俺が責任もってきちんと終わらせないといけない。だから、今すぐ一神を降りるのはよしてくれよ。ついていけないからな」 「それは我のせいなんだからお主が背負うこと自体が間違いだ。それでも、共に背負ってくれるか?」 「巳月のせいではないさ。だが、当然だ。巳月に神にされた時から、俺は巳月と共にあるんだから」 「はは、そうであったな」 いつの間に、こんなに愛しい存在になってしまったのか。巳月は思い出に耽りながら巳陽を抱き締める力を強めた。
さわらび115へ戻る
さわらびへ戻る
戻る