死、という空間。

蒔原通流






 これから死ぬ。

 病気やら事故によるものではない。

 自らの手によって、ただ単純に死ぬ。

 自殺といっても、大それた理由のようなものはない。

 何か明白な理由があるわけではないのだ。

 しかし、それでも、今思えば不幸せな人生だったかもしれない。



 はっきり言って恵まれてはいた。

 大きな事故に巻き込まれたことや、重い病気にかかったこともない。

 心優しい両親であったし、心無い暴言や暴力といったものが振るわれることは勿論無かった。

 きちんと聞いたことはないが、こうして大学にも行かせていただいていることだし、そこまで困るほどお金がないわけでもないのだろう。

 友人にしても、そこそこ仲のいいものはたくさんいたし、特別親しい人も何人かはいる。

 頼りになるし、実際、幾度か救われた。

 やはり、恵まれている。

 改めてそう思う。

 人生において、理不尽なほど大きな障害というものに遭遇したことがないのだ。

 当たり前による幸せとでもいえるだろうか。

 これほど恵まれていることなどないだろう。

 けれども。

 私にはそうは思えなかった。

 それが人生において至上の幸せの一つであるとはどうしても思えなかった。

 つまらない、常にそう感じている。

 それが不幸な結果になるとしても、何か刺激が欲しい。

 毎日が満ち足りなかった。

 あえて言えば飢えていたのだろう。

 そのような性格なので、穏やかで幸せな人生をそのまま素直に送ることなどできなかった。

 一応それなりには、人生の生きがいとなるようなことを探した。

 スポーツや読書、音楽、映画、友人との会話、恋愛。

 どれもそれなりに楽しめはする。

 ただ、それをしたくてたまらない、それに打ちこみたいという気持ちにはどうしてもなれなかった。

 次第に絶望していく。

 この世界に自分が楽しいと思えるものなどないのではないか、そう思った。

 やりたいことがない。

 それは人生から活力を奪うには充分なことであった。

 だからだろうか。

 十四歳頃から「死」というものついて考え始めた。

 これほど皆目見当のつかないものはこれだけである。

 色々なとりとめのない考えが浮かんでは消え、浮かんでは消え、消費されていった。

 そのうち、「死」とはどういうことなのかについてよく考えるようになった。

 はっきり言って私の本質は暗い。

 でも周囲にはそう思われたくなくて、演技をした。

 常にこんなことを考えていたとはだれも思わないだろう。

 十七歳の頃には自分がどう死にたいか、そんなことも考えていた。

 漠然と、それほど長生きはしたくないな、なんて考えていた。

 病気で死ぬのも嫌だった。

 そうしていつからか、この恵まれた幸せを享受できないことは罪ではないか、そう思い始めた。

 生きていれば、いくつもの恵まれていない環境を目にし、耳にする。

 ほとんどの場合、そこで虐げられるのは自分よりずっと善良な人であり、この穏やかな幸せを私と比べようもなく切実に求める人だった。

 これを受け入れられないことは彼らを踏みにじることにならないだろうか。

 頭の中で自分の有罪を叫ぶ声が響いている。

 それももう限界である。

 だから今日死ぬことにした。



 今の世の中、自殺の方法は多岐にわたる。

 どうすべきかはずいぶん迷った。

 罰として死ぬのだ。

 遺体が汚く、後片付けに困るような死に方は論外である。

 立つ鳥跡を濁さず、重要な項目だ。

 次のポイントは確実に死ねることである。

 罰として死ぬのだから死ねないことなど論外、本末転倒だ。

 そして最後のポイントは、それなりの痛みを伴うこと。

 罰である以上、楽に死ぬわけにはいかない。

 こう、いろいろと考えた結果、手首を切って死ぬことにした。

 いわゆるリストカットに近いだろうか。

 運よく失敗し、助かったという話がよくあるが、それは様子を見に行く人がいる、傷が浅いといったことが原因であり、そこにしっかり気を配れば大丈夫だろう。

 明後日は父が実家からいらなくなったタンスを持ってくる予定だった。

 授業でいないかもしれないとのことで、合鍵も渡している。

 息子の自殺に付き合わせるのは大変申し訳ないが、心の強い人であるし、母が私を発見するよりましだろう。

 仮に前倒しになったとしても、今から明日まではなんとか時間が確保できるはずである。

 それなりの遺書でも用意しておけば、いつか彼らも折り合いをつけてくれるだろう。



 風呂場へと移動する。

 浴槽に四十三度のお湯をほんの少しずつためていく。

 手が冷たいなあと思いながら死ぬのは勘弁したいところだ。

 一度、リビングに戻り、洗濯物を取り込み、アイロンをかけた。

 さらに掃除をして、洗い物もした。

 椅子に腰かけて、冷たいお茶をコップ一杯ぐいっと流し込む。

 これから死ぬのか、そう思うと心臓がバクバクとし、興奮してきた。

 きれいに整った机の上に、これ見よがしに遺書を置く。

 少し早歩きになりながら、風呂場へ向かった。



 ほとんど使っていない新品同然の果物ナイフ。

 刃がぎらぎらとして恐ろしげだ。

 右手のそれを眺めながら風呂場の椅子に腰かけた。

 たぶん四十度くらいのお湯が八割ほど。

 手首を浸けるにはちょうどいいくらいだ。

 ふぅーっと深く深呼吸する。

 勢いよく、ひと思いに、切断するくらいの気持ちで。

 三つのワードを三回。

 じっくり繰り返して、心を落ち着かせる。

 ゆったりと呼吸を意識する。

 右手に力を籠め、

 ザクっといった。



 痛いなんてもんじゃない。

 経験したことのないようなえぐい痛み。

 そりゃそうだ。

 こちとら、擦り傷、打ち身、捻挫ぐらいしかしたことのない超健康体である。

 こんな痛み、知るわけない。

 もちろん血もドバドバ出ている。

 狙い通り、深く傷ついたようだ。

 あっという間にお湯が真っ赤に染まった。

 湯から出してみると、手首からぴゅー、ぴゅーと血が噴き出している。

 鏡に映る顔色も文句ない程に土気色だ。

 もう痛みはそれほどない。

 アドレナリンとかいう奴だろう。

 目の焦点が合わないような感覚に襲われる。

 軽い頭痛。

 それ以上にぼんやりとした感覚。

 脳に、自分というシステムに、きちんとアクセスできていないような感じだ。

 自分自身からの解離。

 手首の痛みは引いていくのに、頭痛はひどくなっていく。

 システムの警告みたいなものなのだろうか。

 眼前はもうよくわからない。

 相当にぼんやりしている。

 頭痛は耐え切れない程になっていく。

 頭に万力をはめ、ぎりぎりと絞っているようだ。

 責め苦というにはふさわしい痛みだろう。

 もう視界は真っ暗。

 そろそろ死ねるだろうか。

 そのままじっとその時を待つ。

 するとパンと音がして、痛みが消え、























































 身体に液体が纏わりつく。

 濡れるといった感覚ではない。

 水よりも多少粘度が高いだろうか。

 頭上の海面は淡く輝いている。

 薄い墨のような海。

 周囲を掠れた黒が覆っていた。

 身体はその墨の中をじんわりと沈んでいる。

 息苦しさのようなものはない。

 じわりじわりと沈んでいく。

 とはいえ、沈んでいる感覚はほとんどない。

 ふと気付けば、海面の輝きが随分と小さくなっている。

 それでようやく沈んでいたんだと気づく、そういうレベルだ。



 もう海面の輝きなんてとても小さくて、まるで水溜まりみたい。

 そうやって上を見てて気づいた。

 ジタバタともがく人。

 私より上に何人か見える。

 あの人たちにはここは息苦しいのだろうか。

 なんとか這い上がろうとしている。

 力尽き、沈んでいく者もいた。

 なんとか海面まで這い上がれる者もいた。

 多少、察しはつく。

 ここはいわゆる死後の世界。

 這い上がれれば、息を吹き返す。

 そういったルールなのだろう。

 時には、適切な治療でも受けれたのだろうか、ひとりでに海面に上がっていくやつもいた。

 私はまだ沈んでいる。

 もっとも這い上がる気もないが。



 深く、深く、落ちていく。

 今や海面はのぞき窓のような小ささだ。

 勿論、辺りに這い上がろうともがく人などいない。

 すでに力尽きたか、私のようにもともとその気がないからだろう。



 また、長い時間落ちていく。

 頭はなぜかぼんやりとしている。

 ふと思えば、周囲の人が消えていた。

 半分くらいに減っただろうか。

 しばらくじっと観察する。

 すると、みんな何処かのタイミングで、身体から薄黒いものが流れ出ている。

 色は周囲の液体よりも幾らか濃い。

 煙が散るように、流れ出たものも周りの液体に溶け込んでいった。

 人の色が薄くなっていく。

 存在が薄くなっているのだろう。

 凹凸がなくなり、身体の密度も減っていく。

 そしてだんだんさなぎのような形へと近づいていき、やがて完全に溶けた。

 人が一人減った。

 何人か減るのを見ている間に私はさらに深いところへ落ちていった。

 周囲の液体の色も次第に濃くなっていく。

 上で溶けた人たちの澱が溜まってきているのだろうか。

 少々ぞっとした。



 そろそろわかってきた。

 落ちる深さは生前の罪の重さなのだろう。

 その証拠にまだ残っているのいかにも悪そうな奴ばかりだ。

 とはいえ、そういうやつでももう溶け始めている。

 それなのに私はまだ。

 ただ死ぬというだけではそれほど償えないだろうか。

 そんなことはないだろうに。

 そうぼやいてもまだ私は沈んでいく。



 もう薄い墨とは言っていられない。

 濃紺に近いような色合いである。

 色だけではない。

 粘度も随分高くなっている。

 液体はぶにゅぶにゅとして、生き物の中のように感じた。

 周囲に人はもうほとんどだれもいないだろう。

 ここまでくる奴は相当だ。

 きっとヒトラーとかそういう奴だろう。

 噂に気づいたのか、海の底から視線を感じる。

 背骨にびりびりと電流が走り、心臓をわしづかみにされたかと思った。

 さすがに恐ろしい。

 こんなところにはもういたくない。

 身を震わせながら落ちていく。

 震えがおさまったあたりで気づいた。

 私もそろそろらしい。

 指の先が溶け始めている。

 ほうっと息を吐き、先ほどのようにじっとその時を待つ。

 そろそろ意識も溶けていくだろう。

 ゆらゆらと安楽椅子に振られる感覚。

 身体がほどけていくようだ。





 そして私は、











 ここでは人が溶ける。

 そして時にはそこに澱が残ることがある。

 最期の思い、それが澱だ。





 また一人溶けた。

 深い場所では珍しいことに澱もある。



 こんな恐ろしいところまで落ちていくことになるとは、やはり自分は不幸せだったんだなぁ。

 それはそんな澱であった。



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