名もなき黒猫

アリス








 私は感情を表に出すのが苦手だ。そういうわけもあってか、私には友達が少ない。でも、私はそこまで気にしてはいない。少なくても私を理解してくれる誰かがいる。ただ、それだけで気が楽になる。

 そんな私の数少ない友達が私の膝の上に乗っかっているこのふてぶてしい黒猫である。名前はまだない。というよりこの子の名前を私は知らないのだ。

 私が家のベランダで座っていると必ずやってくる。そして許可も取らずに我が物顔で私の膝で丸くなる。

 これだけならば、まだかわいいと思う人もいるだろう。私が頭を撫でようとすると爪を立てるのだ。私の太股の所有権を主張するなら、それぐらいは許してほしいものだ。

 それに先ほども言ったが、私はこの子の名前も知らない。今となっては呼んではいないが、昔は名前をつけようとしたのだ。黒猫だから『クロ』と私は呼んでいたのだが、一向に反応しない。それもそうだろう。小さい頃には分からなかったが、この子はきっと誰かに飼われているのだろう。この子の首についた鈴が何よりの証拠だろう。

 この子との出会いは私が小学校3年生くらいのときだっただろうか。あれは、私が両親に怒られて家を飛び出したときのことだ。どんなことで怒られたかは覚えていないが些細なことだったと思う。しかし、私は親に何も言うことが出来なかった。その日は大雨だったが、傘もささずに私は駆け出した。ただ、何もかもを忘れたくてひたすらに走った。

 もちろん、そんな風に直向きに走ったものだから迷子になってしまった。小さい子供の行動範囲なんて狭いもので、立ち止まって周りを見回すと記憶にない場所だった。それでも雨は、私を容赦なく強く打ち付けた。嫌に響く雨の音が私にひとりを強く意識させた。

 こんな時、普通の小学3年生なら泣くのだろう。だけど、私は泣かなかった。確かに、泣きたかったのだ。ただ、どういう風に泣けばいいのか分からなかった。とりあえず、なんとなくで歩くことしか、その時の私には思い付かなかった。歩いてしばらくすると、すぐに神社が見つかった。

 見知らぬ神社は不気味なものだ。普段から人が少ないのに、雨のせいでより人気がないからなおさらだ。それでもこれ以上、雨に濡れたくなかった私は雨宿りをすることにした。神社に近付いて、腰を落ち着けることにした。雨に濡れなくなると、不思議なことに寒さをあめにうたれているときよりも強く感じたのを覚えている。でも、それをどうすることも出来ず、ただ降りしきる雨を眺め続けた。

 どれだけそうしていただろうか。もはや、寒さや体の濡れも気にならなくなった。ただ、ぼんやりと雨を眺めていた。すると、雨の中でぼーっと何かが動く。黒。ぬめっと動く黒はゆっくりと私に向かって近づいてくる。のそーりのそりとまるで獲物をこっそりと狙う獣のように。

 雨の中ではきちんと見ることは出来ないけど、幼い私が怯えるには十分だった。ひとりがこんなに怖いなんて。私は目をつぶって、その恐怖を見ないふりをした。

 ただ、次の瞬間に私を支配したのは重力だった。チャリンと、何かが私の膝に乗る。私はおそるおそる目を開ける。私が目にしたのはまるで蹴鞠のように丸くなった黒猫だった。

 突然のことで驚いたが、それでも追い払おうとは少しも思わなかった。私の膝の微かな温もりが孤独を和らげてくれた。

「君もひとりなの?」

 気付いたら私は話しかけていた。返事はなかったが、今はそれが心地よかった。

「私はひとりなの」

 私がそう言うと、黒猫は一瞬こちらに顔を向けた。それはまるで、私の言葉を理解したかのように。それから、私は唯一の理解者に多くを語った。

 それから何を話したかは詳しくは覚えてない。どれだけの時間そうしていたのかも。

 私は溜まっていた疲れからかいつの間にか眠ってしまったらしい。体が揺さぶられるのを感じて起きた。

「やっと起きた。こんな所で寝ると風邪ひくわよ?」

 そこにいたのは、私の友達ではなく私の母だった。私が家を飛び出した後、探してくれたらしい。私は怒られるのが怖くて、助けを黒猫に求めた。だけど、周りを見回しても見つけることも出来なかった。

「どうしたの?」

 投げかけられる言葉。それと同時に手が差し出される。だけど、母から差し伸べられた手を握るのを私は躊躇った。まだ、怒ってるんじゃないかと。

「大丈夫、もう怒ってないよ」

 そんな私を見て、母は優しく手を握ってくれた。その手は雨の中、凍えた私の手を優しく包み込んでくれた。

「ごめんね、お母さん」

「お母さんこそごめんね?」

 ただ、どうしてだろう? 繋いだ手はこんなに温かいのに、私の心には冷え切った感情が入り混じっていた。私に優しいのは親であるから。私の考え、私の想いなんてどうでもいい。そんな汚くて醜い感情は帰り道に私の心を塗りつぶしていくのを感じた。

 この子との出会いはこんな感じだ。補足しておくと、私の両親は普通にいい親だと思う。私が病気になれば、心配してくれる。私が悩んでいれば、相談に乗ってくれる。だけど、私には両親に本心を話すことが出来なかった。

「ねぇ、どうするのが正解なんだろうね?」

 私は膝に乗っている友達に問いかけた。もちろん、答えなんて求めていないし、返ってこない。自分の心なんて分からない。まして、人の心なんて分かるはずもない。だからこそ私たちは傷つけあう。お互いの心を守るために。

 そんなことを考えていると、黒猫がすっと立ち上がった。これは帰るというサイン。もう、そんな時間か......。私は彼の体に置いていた手をそっと上げた。

「バイバイ」

 私の挨拶に振り返ることなく、チャリンと鈴の音で返事をする。どうやってるのかは知らないが、このときの鈴の音は普通に歩いているときに鳴る鈴の音よりも綺麗な音が鳴る。まさに、これがこの子なりのバイバイなんだろう。

 今日も私の友達は少しつれない。



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「明日はテストなんだ」

 私は今日も今日とて話しかける。相変わらず返事はない。

「テスト勉強しなきゃね」

 そう言って私は膝から追い払おうとする。本当は追い払う気は微塵もないが。

 すると、思いっきり爪を立てられた。私に勉強をするなとおっしゃる。テストは本来の実力を図るべきなら、抜き打ちですべきだろう。つまり、普段から勉強しておけば、直前でそこまで必死にする必要はないと私の友達はご教授くださる。ぐうの音も出ないほど正論である。高校のテストは難しいのに......。

「分かったよ、行かないから離して」

 こんな何気ないやり取りが心地よい。誰かを気にする必要がないからだろうか? 黒猫は私の言葉を理解して爪を離す。これ以上テストのことで話すこともないので話題を変えることとしよう。

「ねぇ、いつも君はどうやって察知してるの?」

 この子はどうやってか知らないが、私がベランダに来るとのそのそとやってくる。だけど、今回は答える気はないらしい。その証拠に欠伸をしている。人の話の途中に欠伸するんじゃないよ、失礼だよ。まぁ、いいけどね。

「おっと、もうこんな時間か」

 母がテーブルに料理を置き始めたのを気づき、思ったより時間が経っていたことに気付く。というか、母はいつの間にか帰ってきたのだろうか? 私が戻らなければならないことを察したのか、ゆっくりと重い腰を上げてくれる。

「またね」

チャリン。彼は今日も振り向かずに挨拶を返す。



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 私は今、いらついている。誰がそうしてくれと言った。誰がそんなことを望んだ。私なりの否定はしたが、想いは遠く届かない。

「どうして言葉にしないと伝わらないのかな?」

  私はくじ引きで学祭の実行委員に選ばれてしまったのだ。実行委員は面倒なことで有名であり、さらに見返りは何もない。私はもちろん断ろうとしたが、言葉が上手くでなかった。

 私に集まる視線。それが怖かったのだ。そんなこんなで黙っていると、周りはそれを私が引き受けてくれると勘違いしたらしい。というか、お前らが面倒くさいだけだろと思う。

 大丈夫。そんな軽い言葉どこから出てくるのか。私は大丈夫だなんて言えるほど、お前のことは分からないけどな。

 空気感というのは一種の暴力だと思う。逆らう者は容赦なく飲み込まんとする。

「痛っ」

 急に爪を立てられた。まるで、考えすぎだと言わんばかりに。

「君なら私が言葉にしなくても分かってくれるのにね」

 やっぱり君といると私は楽にいられる。私の大切な友達。



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「君はいつも、私といない時は何してるの?」

 君を抱きかかえながら、問う。こんな風に私の前に現れるのなら、町中でも見かけそうなものだが、一回も遭遇したことがない。

 家の中で暮らしているのだろうか? それだと、私がベランダに出てくるタイミングで出てくるのは不思議なものだが。

 そうなると考えられるのは放し飼いだが、少なくとも私の近くの家には住んでいなかった。こ

 まぁ、いいけどね。そうやって、人と会う機会が少ないのなら友達もいないだろうし。私の友達は、今日も膝の上で丸くなる。私だけの友達、これからもずっと。



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 私という人間は歪んでいると思う。人の優しさを素直に受け取ることなんて出来ない。一度甘えてしまえば、ずぶずぶとその人の好意に溺れてしまうだろう。優しさは怖い。きっと、いつか牙をむく。それゆえに、ひとりが怖いのに、ひとりでいいと思う。

 あれ? 私はひとりだっけ? 違う。私には君がいる。今日は私の友達は重役出勤らしい。こういうときに、私を慰めるのが君の役目なのに職務怠慢にもほどがある。

 そう思った瞬間、響き渡る鈴の音。その音は私を世界と繋ぐ音。私にはこの子がいる。ならば、多くは望まない。

 

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「最近、両親が悩みはないかと聞いてくるんだよね」

 確かに最近、成績は少し下がり気味だった。それは、こうしてこの子との時間を多く過ごしているからだと思う。でも、こんな私のことを心配してくれるなんて。なんて優しい人たちだろうか。

 君は心配そうに私の目を覗いてくる。大丈夫だよ。だって君が傍にいるからね。君さえいれば私は大丈夫。

「まぁ、勉強もぼちぼち頑張るよ。心配してくれてありがとう」

 そう言って、私は頭を撫でる。君はくすぐったそうにしながらそれを受け入れる。こんな日々がずっと続けばいいのに。



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 雨は嫌いだ。私に幼い頃の記憶を思い出させる。早く君に会いたい。私は急ぎ足で家へと向かう。

 家に着くとすぐに、私はベランダへ向かった。雨が降っているけども関係ない。

 だけどいくら待てど君は現れなかった。ひとりになるのがこんなに怖いなんて。ひとりでなくなったことで改めて分かる。ひとりの怖さ。

 きっと、今日は体調が悪いんだろう。そう思い込むことにした。大丈夫。そんな軽い言葉で、私は恐怖と不安を塗りつぶすことにした。

 

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 次の日も、雨だった。今日ならば君に会える。今日こそは君に会える。じゃないと私は。

 私は授業が終わるとすぐに帰宅した。雨で視界が悪い中、全力で走った。端から見ればそれは異常だろう。傘も差さずに脇目も振らずに全力疾走する女。

 だが、雨は私が帰るのを妨げるように強く降りしきる。

あぁ、鬱陶しい。雨の音がやけに鮮明に響く。この交差点を越えれば君がきっと待っている。

チャリン。

 雨の音がうるさくても、私には届いている。やっぱり君は傍にいてくれたんだね。私は音の方へ振り向く。だけど、そこに君はいなかった。

 私は周りを見回すが、君は見つからなかった。ただの勘違いと思い、私は前へ向き直ると、車がすごいスピードで駆け抜けていく。そして、そこには見慣れない君がいた。

チャリン。

「うそ......」

 私は君に駆け寄る。膝をつけて君を抱き寄せる。だけど、あの微かな温もりは感じられなくて。私がひとりだということを実感させられる。

「............」

 こんな時でも私は泣けやしない。泣きたいのに泣き方が分からないんだ。名前も知らない君。そんな大切な君のためにどうすればいいの?

「大丈夫?」

 通りすがりの人が声をかけてくる。今、私はどんな顔をしているのだろうか。

「どこか怪我でもしてるのかい?」

 そう言って、私をのぞき込む。

「立てるかい?」

 私の腕をとって立たせようとする。そんな無理矢理立たせたら。ドサッと、私の腕からこぼれ落ちる。私は落とさないように努力したが駄目だった? 私は思いっきり睨み付ける。

「大丈夫............そうだね?」

「大丈夫? 私の友達を傷つけておいてどの口が............」

「ん? どういうこと?」

 こいつは何を言ってるんだ? 私は屈んで、拾い上げようとする。水たまりに映るのは歪んだ私の顔。私の顔だけなのだ。

「大丈夫......そうだね? 痛かったりしたらきちんと病院に行くんだよ」

 私はひとりになった。いや、私はだったのだ。水たまりに映る私の顔は、雨による波紋で笑っているように見えた。

 いつか、こんな風に笑えるのかな? いつか、君のことも忘れてしまうのかな?

 あぁ、鬱陶しい雨だ。だけどこの雨に誓って、君のことは覚えておこい。大切な私の友達。



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