ターンマークで会おう

河嶋こずえ






                河嶋こずえ

 



 平成の終わりが近づく今日は、少なくとも衣食住に不足はしない時代である。新作ゲームを買う為にアルバイトに励む大学生。ブランド物の洋服を着たいが為に親におねだりの殺し文句を考える女子高生。給料の残高を気にしながら、慌ただしく跳ね回るパチンコ玉とにらめっこする新入社員。みんな、明日の食事と住処を探しているわけではない。それが当然だと平気な顔を晒している。社会はそんな具合に回っているのだと、健康的なテレビが今日も清潔なコマーシャルを打つのだ。  

 そんな飽食の時代に、あくまでも飢えを感じたいのなら、そんな人は競艇場へ行こう。波の上に浮かぶ頼りなさ気な六艇が、一レース一分五十秒の人生を駆け抜ける。他人の人生に部外者であるべき我々は、わざわざ人生の「勝者」を予想して金を賭け、さらに予想者の中で「勝者」と「敗者」が選別されるのである。これほど不毛で、優雅な飢えに満ちた場所があるだろうか。

 競馬ではいけない。特に中央競馬はいけない。

 (私がアンチ巨人なのも関係しているのだろうが)公営競技の中で、おしゃれな宣伝と断トツの売り上げを誇る存在はいけないのだ。昔から弱い弱い広島カープに熱をあげるばかりに、こんなひねくれた性格になってしまったのかもしれない。

 競輪はどうしても八百長の気配が付きまとうし、オートはそもそも開催場が少なすぎる。

 やはり、競艇なのだ。

 

 波に揺られる不安定なところがいい。

 水面では陸上競技のように、位置についてヨーイ......ができないから、競艇はスタートの瞬間に規定の範囲に艇があればいいことになっている。全速力でスタートラインを越えればそれだけ有利だから、みんなラインの八十から百五十メートルくらい後ろで待機する。スタート数秒前に急加速、百分の一秒でも早くスタートラインを越えてしまえばフライング失格だ。体で覚えた感覚で、レーサーは時計の針と小旗のみで印されたスタートラインを突っ走る。

 上手くスタートを切ってもターンが待っている。競艇の水面は学校のプールを大きくしたものを想像してもらえば差し支えない。一周六百メートルのそれを反時計回りに三周するから、プールの両端には折り返し用のブイが浮いている。これをターンマークと呼ぶ。アイスクリームのコーンより上の渦巻きが水面に浮いているようにも見える。

 当然、早くゴールするには内側を回るのが良いのだから、六艇がそこに密集する。駆け引きと度胸と運が試されて、混戦を抜け出したものが勝つ。

 海の水を引き込んだ水面では、潮の満ち引きによって目に見えない水流が起きていたりする。順当に勝てる展開がこのうねりに捕まったばかりに、負けてしまうなんてザラにある。競艇の勝利の女神は、極端に気分屋だ。

 外界に身を晒して狂ったようなスピードを出す、あの無謀な爽快感がいい。

 競艇の一人乗りモーターボートは時速八十五キロほど出るという。視点は水面から数十センチの位置にある。スケートボードに寝そべってそれだけの速度を出してみれば、恐怖の先に何かが見えるだろう。レーサーから見える世界は、私たちの世界よりずっと鮮明に―夏休みの午後、虫取り網を構えて樹の幹に止まるセミを狙った瞬間のように―人生を見ているに違いない。

 出走枠で有利と不利が決まってしまう、あまりにも理不尽なところがいい。

 周回するレースなのにスタートラインが一直線だから、必然的に走行距離が短い内側の艇が有利である。最も内に入る一号艇の勝率は、だいたい五十パーセントになり、大外の六号艇が一着に入るのは五パーセントもない。駐機してあるピットからスタート待機するまで、進入コース取りは自由なのだが、どうしても一号艇が内側に行きやすいように競艇は設定されている。

 ここまで最初から不公平な競技はない。

 不自由の自由で、レーサーは戦略を練る。

 有利な内側の艇は是が非でも先行逃げ切りを狙うし、大外から機力と鋭いターンで不利を覆そうと外の艇はワンチャンスに賭けている。どちらにも属さない中間にいる艇は、せめぎ合う両者の間をすり抜ける者もあれば、我が道を進み先頭を奪う者もある。人それぞれだ。

 抽象的な人生というものを、ここでは余りにも具体的に感じることができる。

 

 通常、競艇は六日間の日程で開催される。最初の四日間が予選、よい成績の者十八人が五日目の準優勝戦に進む。準優勝戦は六人一組の三レースを行い、それぞれの上位二着の選手が最終日の最終十二レースの決勝戦に出場する。成績の良い者が常に有利な内枠を与えられ、優勝者は一般戦で七十から百万円の賞金を獲得するようになっている。格上のレースになればその額は十倍に跳ね上がることも珍しくない。

 それを繰り返し、実力のある者は一年で数千万円を稼ぎ、勝てない者は予選の数万円に満たない手当で生活することになる。過酷な競争社会である。

 競争水面と観戦スタンドはわずかな距離でしかない。しかし、質的には全く異なる世界が、柵を一つ隔てた場所にある。賭けをする私たちとは、別の世界で彼ら彼女らは生きているのだ。

 まあ、異質だからといって、薄汚れた一般人の私たちだって財布の軽重を賭けている。決してレーサーと私たちを比較して、劣っているとかそういうつもりはない。

 コンマ数秒の瞬間に生死を見るのは、競艇場に集う人なら誰だって同じなのだ。

 勝負の場とは、そういうものだ。

 競艇が一番、それを感じるような気がする。

 少なくとも私はそう思っている。

 

 私の話をすると、賭け事だから大抵負ける。負けて当然なのだが、要はいかに納得のできる負けができるか。そうすれば稀に穴を取って喜べばいいのだし、自棄になったら必ず負ける。

 その日は丸亀競艇の一般戦最終日だった。丸亀はナイター開催だから夕方から宵の口にかけてレースをしている。昼下がりの瀬戸大橋線に乗ればいい。

 最終日に行ったことに格別な理由などない。その日、予定が空いていた。疾走する舟を見たくなった。それだけのことだ。

 坂出で乗り継ぎ、丸亀から送迎バスに乗り、ようやく着いたころは第五レースの最中だった。入場口にいても、モーターボートの爆音が聞こえてくる。ああ、来たな、なんて思う。

 日が沈みかけて照明塔に灯が入る。小刻みに揺れる水面に夕日のオレンジと電球の白が入り混じって、ネオンのようにチラチラしている。その万華鏡を想起させる波を蹴立ててボートが走る。勝ち負けとは別に、この光景が私は好きだ。少しだけ、煩わしい人間や社会の関係から切り離されたような気分になる。

 その日も私は負けつつたまに勝ちつつ、ほぼ想定内の負け額で最終レースに挑んだ。出走表に珍しい名前のレーサーがいる。苗字が四文字の女性だ。歳は私と同じくらい。聞けば優出は初めてだという。はっと人目を惹くような目鼻立ちではないが、朴訥として穏やかな笑みを浮かべている。競艇場にいなければ、普通に大学の講義室で顔を合わせても違和感がないだろう。

 出走は五コース。六コースと同じくらい不利な枠だ。特に優勝戦の場合、最も成績と調子が良い選手が一コースに入る。五コースの彼女など経験もなければ枠番も不利な選手だ。普通に考えて買い目はちょっと無さそうだ。

 それでも私はあえて彼女の舟券を買ってみた。思ったより所持金に余裕があったのもあるが、私は彼女の初優出初優勝という夢物語を買いたくなった。控室かどこかで、彼女もきっと、心の片隅に野心を飼育している。私とほぼ同い年の彼女が歴戦のレーサーに食いついて、そして引き離し栄冠へ疾走する。年功序列が精神的に染みついたこの社会に、ちょっとくらい復讐してやっても、ね? 

 やがて私は五―一、五―三の舟券を握り水面すぐそばのデッキに立った。座席とガラスと空調のある通常席も良いのだが、勝負でなく夢を買う時は水際にいたい。

 出走直前の競艇場は不気味な静けさがある。淡い期待で舟券を見つめるその静寂は、私にとって尊厳そのものだ。

 そして時間になった。

 ファンファーレと共に艇が駐機場(ちゅうきじょう)から飛び出す。

 理不尽な勝利を目指して、枠順通り五コーナーに彼女は艇を置いた。スタートラインまで約百三十メートル。一号艇は七十メートル程度の位置で浮かび、ほぼ階段状に六号艇までが並ぶ。スタートの瞬間が刻一刻と近づいて、スタートラインから遠い艇のスロットルが開かれる。あと数秒もすれば、各艇が全速に近いスピードで走っているだろう。

 一分五十秒の閃光のような人生が始まった。

 そして、彼女は敗れた。

 一週目の一ターンで勝機は見えていたが、波のうねりに流された他の艇と接触したはずみに、ほんの少し減速した。その間隙を縫ってどんどん抜かされた。それだけのことだった。

 ゴールイン。彼女は六番目に入った。

 つまり、最下位だった。

 着順確定、一―四―三。

 二連単七百五十円。三連単は千三百二十円。

 順当な決着だ。

 財布は多少軽くなってしまったが、悪い気はしない。

 私はそんなものさとうそぶいて、帰り道の真っ暗な瀬戸大橋を渡った。

 

 それから一年以上経った。

 浜名湖競艇場の一般戦で彼女が優勝したと知った。

 初優勝を恥じらうかのように、お立ち台で彼女は白い歯を見せていた。

 四―三―一。三連単一万四千二百四十円。

 万舟を叩き出していた。彼女の舟券で勝った人はハッピィに違いない。私はその一人ではなかったが、やはり悪い気はしない。

 これから実績と経験を積んで、彼女は一流レーサーの狭き門へ挑戦する。それが上手く進むか、それは分からない。

 対する私は彼女の人生をかすかに垣間見て、そして自分の生活は競艇と適度にお付き合いをしながら過ぎていく。 

 一度だけ彼女と私の人生が競艇場でぶつかり、いつかまた、児島か丸亀か、出先の競艇場で彼女の舟券を買うこともあるだろう。その日まで、しばしサヨナラ。



 みんな! ターンマークで会おう!

 



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