愛しい彼女

長須賀




 

 つんつん、と鼻をつつく感触に目が覚める。重いまぶたを上げてのっそりと体を起こせば、愛しい彼女が目を細めて僕の顔を見上げていた。

「......やあ、おはよう」 

 寝ぼけ眼をこすりながら彼女に挨拶をして、何気なく壁の時計に視線を移す。針は午前十一時を指していた。

 いくら休日とはいえ流石に寝すぎてしまった。何とも言えない罪悪感にさいなまれる僕を、彼女はきょとんとした顔でじっと見つめている。

「起こしに来てくれたんだね。ありがとう」

 お礼にその頭を撫でる。温かな手触りが心地いい。そっと体を抱き寄せて顔を近づけると、彼女は喉の奥から微かに笑みのような音を漏らしながらするりと腕から抜け出す。

 そのまま軽やかに扉まで歩いていって、最後にちらりと僕の方を振り返ってから、彼女はリビングの方向へと歩き去って行った。





 彼女の喉は、意味のある言葉を発せない。

 けれど、そんなこと、僕たちにとっては大した問題ではないのだ。

 

   固く結ばれた絆の前に、言葉など必要ないのだから。

 



 普段着に着替えてキッチンに向かう。彼女は僕が起きるのを空腹のまま待ってくれていたようだ。ちらりとリビングをのぞき込むと、ソファでじっと朝食を待つ彼女の姿が目に入った。悪いことをした、と胸が痛むのと同時に、健気にご飯を待つその姿に限りない愛おしさを感じる。

 とは言え待たせていることは事実なので、素早く朝食を組み立ててリビングに向かう。お皿を差し出すと、彼女は待ってましたと言わんばかりに嬉しそうに食べ始めた。

 僕も彼女の隣に座り、薄く淹れたコーヒーを一口すする。今日の朝食  既に昼食と言ってもいい時間だが  は、バターをたっぷりと塗ったトーストだ。

 本当ならベーコンエッグでも作りたかったんだけどな、と改めて今朝の寝坊を後悔する。

 彼女はそんな僕の様子を気にすることもなく、ぺろりと皿を空にして満足げに息を吐いた。しかしすぐに、つんつん、と物欲しそうに脇腹をつついてきたので、「おかわりはないよ」と頭を撫でながら告げる。彼女はちょっと不機嫌そうに僕の顔を見つめていたが、やがて拗ねたようにテレビの方へ行ってしまった。



 食器を片付けながら、僕はふと彼女と出会った日のことを思い返す。

 冷たい雨の降る日のことだった。道行く人たちが皆速足で通り過ぎていく街中で、僕は彼女と出会ったのだ。

 雨の中、傘も何もなくただ空を見上げていた彼女は、僕の視線に気が付くと静かな眼で僕を見つめてきた。その姿が何とも言えず悲しげで、切なげに見えて、僕は思わず自分の傘を彼女に  



 すい、と温かい感触に意識が引き戻される。いつの間にか彼女は僕のすぐ隣にまでやって来ていて、その白い手を僕の腕に重ねていた。

 テレビの方に行ったはずなのに、と少し驚いたが、すぐに得心がいった。ほんの些細なことで機嫌を損ねてどこかに行ってしまうのに、少し僕が離れるとそそくさと寄ってくる。そんな素直じゃないところも彼女の魅力の一つだ。

 洗い物を途中で切り上げてゴム手袋を脱ぎ、ゆっくりと両手を広げる。

「おいで」

 僕が呼びかけると、彼女は少しの躊躇の後僕の胸に飛び込んできた。そっと両手を回してその体を抱きしめる。やわらかくて、暖かい。

 幸せだなと、ただそう思った。

「君と出会えて、本当によかったよ」

 僕の言葉に、彼女も微笑んだような気がした。

 その意味が「私もだよ」なのか、「何を今更」なのか、それは僕には分からなかったけれど。





 カチャリ、扉の開く音。パタパタと軽快な足音が近づいてくる。

「ただいま。キッチンで何してるの......」

 キッチンの入り口から女性がひょいと顔をのぞかせる。女性は僕と、僕の胸の中で満足そうな表情を浮かべている彼女とを見比べて、呆れたような顔をした。

「......ホントに仲良いわよね、あなたたち。妬いちゃいそう」

 言葉とは裏腹に、ちっとも悔しがっていない声で、その女性  僕の妻はクスリと笑う。

「いいじゃないか。この子も僕の彼女みたいなもんだよ」

「何それ?」

 買い物袋を台の上に置きながら、妻は笑みを含んだ声で聞き返す。

 

 少し賑やかになった雰囲気の中、僕の胸に抱かれながら、彼女は「にゃあ」と嬉しそうに鳴いた。







〈終〉



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