Dear My Friend 麻利支亜 拝啓、名も知れぬ貴方様。 この手紙が貴方に読まれることは決して無いでしょう。そして貴方にとって、私と言う存在が記憶に残っているとも思えないので自己紹介はしません。 私は貴方に救われました。それが貴方にとって、何気無い一言だったのでしょうが、その言葉が鳥籠の金糸雀だった私を外の世界に連れ出してくれました。 しかし、束の間の自由を手に入れた私は世界に馴染むことさえ叶いませんでした。生きる術を持ち合わせて居なかったから、独り立ち向かうこともできず、気が付けば淘汰され、元の木阿弥となっていました。そして、私の生きる場所はここなのだと、ようやく納得することができました。天の配剤、全て収まるべきところに収まりつつあるのかもしれません。 もし、貴方様が一緒にいてくれたら、そして面倒を見てくれていたなら。そう思わない日はありませんでしたが、それは私の心があの時のまま何ら変わらず、弱いままだからなのかもしれません。 今は、それなりに上手くやっています。少ないながら友人もでき、交渉の末、自由な時間も頂ける様になりました。自由と言っても、いざ唐突に与えられると何をすればいいのか分からず困ってしまうものですね。初めての自由時間、思慮に思慮を重ねた結果、貴方への手紙の執筆をすることに決めました。 貴方ならきっと、私のことを馬鹿馬鹿しいと嗤うでしょうね。自分でもそう思います。届くならまだしも、蓋し届かないのですから。こんな無駄なことに感けていられる時間こそが自由なのだとしたら、存外、自由を満喫しているのかもしれません。 けれども、私の自由は貴方の自由には程遠いのでしょう。無知な私は、自由とは得てして貴方のようなもののことを言うのだと考えておりました。しかし、貴方にほんの少し近づいたことで、その距離の遠さが肌身に染みて感じられます。 私は貴方のことを夜空の星、加えて言えば、決して揺らがず人の道標として佇む北極星に例えておりましたが、それは強ち間違いではなかったのでしょう。天上の星は、得てして遠いものでしたが、それに近づくための技術を会得した結果、改めてその距離を知覚したと書籍で読んだ記憶があります。私が感じているのは、まさにその瞬間の天文学者のそれなのでしょう。 だからこそ、私は貴方に逢いたいと強く願います。もう一度話がしてみたい。貴方の言葉が、私だけの世界を紡いでいてくれている。その言葉がもう一度私のもとに届いたら、もう一度あの日と同じく選択権が与えられたら、今度こそ・・・ 「今度こそ、か」小さく息を吐き、認める右手の動きを止めた。そうして痙攣ともつかない笑みを浮かべながら、呟いた言葉は宙を掻いた。千載一隅の好機が再び訪れたとして、私は本当にその手を掴めるのだろうか。 力を持つ人間には相応の責任が生じる。望まずにそれを持たされた私には、それを揮うことさえ叶わない。ただ、その重さが目と口を塞ぎ、沈黙を押し通してきた。織りなされた世界の重さに骨の髄まで侵されて、ただ保身に走ることしかできなかった私。 そんな過去を捨て、新しい未来に生きること。それは閃光のように輝かしいものであるが、私がそれを掴むためには、捨てなければならないものがあまりにも多すぎる。 道は爾きに在り、而るにこれを遠きに求む。けれども私にはその近道を選べない。変節するためには、ただ壊すだけでなく、過去を無かったことにしないためにも慎重になる必要がある。それが社会のルール、責任と言い換えてもいいものの正体だと言ってもいい。 貴方のように責任に縛られず自由に生きたいと思う他所に、自分の過去も否定したくないと思う。それが無意味であったとしても、それならそれでけじめをつけたい。 だから、歩く。全ての柵から解放される世界を目指して、ひたすら歩みを進め続ける。そんな場所はどこにもないと知っているのに、歩き続けていればいつかは辿りつくと自分に言い聞かせて。枯れることのない希望を見出し、その見果てぬ夢の片鱗として現れた存在こそが貴方だった。 眼下に見据える街は何一つ変わらない。人間味が感じられず、聳え立つ摩天楼は蘭塔場のように思われた。そんな中、光害に負けじと星の光が青々と夜空を浮き彫りにしている。新月であることも幸いしてか、それらが掻き消されることも無く、普段は見ることも叶わない二等星さえ薄らと姿を見せていた。 一人で見る夜空は、少し寂しくて、切ない。二人で見上げた夜空は、あの時から色褪せることなく網膜に焼き付いていて、探し物もすぐに見つかった。揺らがぬ迷わぬ不動の光。ほんの僅かな優しさと勇気を賜ってくれるそれは、幾多の星の中でも一際輝いているように感じた。そういえば、あの時も新月だったな。そう独りごちて、件の夜を思い返していた。 目まぐるしい速度で景色が流れていく。薄いガラス板の向こうに見える巨大な摩天楼達。その姿形は違えど、黒地の外装と均質な白の光は共通項であり、乱数生成されたコントラストを眺めているだけのように感じて仕方がない。大昔の白黒テレビの方が、まだ多少なりとも愛嬌を感じるのではないだろうか。そう思わせるほど無機質で侘しい景観だった。 遠く瞬く無数の光。連続したそれは鮮烈な白の絨毯となって私の網膜を焼け焦し、ハレーションを引き起こした。けれども私の心には、その光でさえも届きはしない。世界でも有数とされる大都市の夜景も、私の瞳というフィルターを通せば、ただの素気ない光景に成り下がる。 昼とも夜とも言えない曖昧なこの時刻ということもあってか、まだ光も疎らであったことが唯一の救いだったのかもしれない。それでも目の前に茫洋と広がる世界と向き合っている気分には到底なれそうにない。変わり映えしない外に嫌気が差し、逃げるように目を背け小さな箱型の密室へと視線を移した。 軽い振動を伴いながら走り続ける旧式の電車は、未だに通勤には欠かせない足として重宝されていた。これから夜の仕事でもしに行くらしい厚化粧をした壮年の女性に、死んだように眠りこける中年男性。これから働く者働き終えた者を乗せた車内には、饐えた化粧品の臭いやら、ヤニや酒に由来する不快臭で澱みきっている。この不快臭を紛らわせようとして、外を眺めていたことを思い出し、小さく息を吐いた。この密閉空間の中でさえも、私の居場所は無いらしい。 車内の誰もが表情の抜け落ちた顔を、どこか遠い世界へと向けている。車内の様子になど微塵も興味が無いようで、思わずつり革を離した拍子に態勢を崩しかけてしまった私に対して、誰もこちらに視線を向けようともとしなかったのは幸いなのか、あるいは不幸なのか。いいや、幸運に違いないだろう。 失踪事件と評して表示され続ける電光掲示板の広告を横目にしつつ、大人には小さすぎる一人掛けの座席に収まった。誰もが寝静まったように無言を貫いており、まるで生気が感じられない空間であるが、これほど誇大に喧伝されていれば、何かの拍子に私のことに気づく者が出ても不自然ではない。 この身を繋ぎ止める見えない鎖の重さを改めて感じさせられることとなった。血筋という呪縛。逃れられない責任。兼ねてより憧れていた青春という輝きは、手が届くようになると木霊のように霧散してしまった。事実、呪われていると思った。 黒色の雨合羽を深々と被り、顔を見られないように小さく縮こまる。視界を自分の膝小僧で塞ぎ、これからの行き先についてぼんやりと考えていた。 壊れものを扱うような待遇を受ける日々から、自分が学校という組織の癌細胞であることに気づくのにそう時間は掛からなかった。和気藹々と会話を弾ませながら過ごす日々への憧れは、送迎のリムジンにより儚くも崩壊し、学校内では教員でさえも私に寄り付こうとしない。最大の憧れだった恋心は、顔も知らない婚約者の存在により躊躇させられていた。婚約者が居なかったとしても、私に寄り付いてくるとすれば、金に目が眩んだ低俗な連中か余程の物好きくらいしかいないに違いない。 誰も私を見ようとしない。向き合おうともしない。私は、独りだ。これまでも、そしてこれからも。きっと。 独りでいるのに慣れていた。読書でもしていれば暇は潰せるし、毎日のように責務が数多と課されることを踏まえれば、そんな一息する時間さえも惜しく思えてくる。為すべきことが積層された日々の繰り返し。誰かと過ごす時間なんてただの無駄でしかない。 あの子にやっと彼氏ができただとか、今季のコーデは雨模様のワンピースだとか、駅前のケーキ屋の新商品だとか。フィクションの中に垣間見えた同級生たちの日常が、なんて蒙昧で下賤染みていることか。毎日が眩い光に満ちた彼らには、私に負わされた義務と責任の重さを、きっと想像すらしないだろう。 彼らと同列に扱われていたら、きっと今頃の私は、令嬢という分厚い衣を失い、持たざる者となって、代わりが効く一要素として溶け込んでしまっていたに違いない。そんなことにはなりたくない。きっと。いや、絶対に、そう思っているはずだ。 だからこそ、私は独りでいたかった。気が付けば独りだったのは、私にとって最大の幸運とも言えるだろう。独りでいることに慣れていることも、それを苦に思わないことも当然の帰結だ。 それが自己暗示に過ぎないと分かっている。本当は、普通の毎日に憧れていた。けれどもそうやって自分を騙し続けなければ、きっと私は私で無くなってしまう。 男が男、女が女として産まれるように、私は私として産まれた。だからそのように振る舞い、そのように生きる。深く考える必要もない。これまでも私らしく生きてきた。そのことに、いったい何の不満があるのだろうか。 いいや、不満が無いならば、どうして私は目的無き逃避行を続けているのだろうか。自問に返る自答は無かった。 誰も聞いていないらしい車内放送では、やれ資金目的の誘拐事件だの、怨恨による殺人事件だの、真実とかけ離れた情報が錯綜としている。各所から集った犯罪学の専門家達は、口々に陰謀論を唱えるが、誰一人として事件の真相が家出に過ぎないと推測していないようだった。 いいや。真実は揉み消されて、私の失踪は、そういう事件に巻き込まれたことになってしまう。事実が公表されることもないし、無論報道もされない。予感めいた思考は真実味を纏い、私の中で確信へと昇華していた。 心成し顔を上げ、トレインチャンネルを疑望すると、私の失踪については文面だけに過ぎず、顔写真等は一切公表されていないらしいことが分かった。いいや、公表は為されていたが、説明された私の身体特徴は実態と余りにも乖離しすぎていて、自分ではない別の誰かのことなのではないかと思わせるほどだった。 それもそのはずだ。令嬢が家出をした。そう公示できるだろうか。してしまえば一族の、また一族が街に及ぼしている影響力と支配力を考慮すれば、さらに広義的にはこの街全体の信用問題にも繋がりかねない。損得勘定を旨とする根っからの商人気質である父はそれを防ごうと躍起になっているに違いない。 けれども私の手綱が外れた状態にある以上、真実を完全に隠蔽することは難しい。だからこれは私に対する通告だ。余計なことはするな、と。 考えれば考えるほどに、私の胸中ではこの事件が肥大化を続けていく。予感めいたそれはざわつきとなって心身を蝕み、寄る辺のない心細さだけが心の奥底に残された。今から自宅へと引き換えし、「ただいま」の一言を告げて収拾がつく問題ではない。迎えを待つ他無いだろう。 精々お付きのボディガードとメイドたちが街を探し回る程度だろう。そう思っていた自分の計画性の無さ、私という資本価値の見積もり不足、それらを自責したところで事態が好転する由もない。 独りごちてみて、醜行が過ぎると改めて思う。全てが計算の上に成り立っているわけではない。偶然の符合と、気の迷いから生じた暴挙。自分の行動を振り返ってみて、これほど震撼とさせられた瞬間がこれまでにあっただろうか。 私の身から出た錆であることも踏まえれば、この件はなんたる愚かなことか。まるで周囲に災厄を撒き散らす凶星のようではないか。頬を伝った滴が落ち、乾いた黒色のドレスに染み込んでいくのが分かる。少しばかり頭を上げると、ガラスに反射して自身の姿が薄っすらと反射していた。自分を憐れんで涙を流す姿は。どこまでもみっともなく映っていた。 絶え間無い煩悶と己への愚鈍さを呪いに悩まされ、思わず発狂したくもなった。けれども人は極限状態になると遺伝子に刻まれた生存本能が呼び起こされるらしい。 もう、やめだ。これ以上考えても、私には何もできない。それなら向こうが私を見つけるまで、しばしの自由を謳歌するとしよう。そんな自己肯定の意思がどこからともなく湧き出して私の脳を麻薬のように浸していた。 それが自分にとってあまりにも都合が良すぎる解釈は、私の肩の荷を降ろすには十分過ぎるほどだった。人生において何事も偶然である。どこか哲学者の言葉が急に脳裏を過る程度には。 確かこの言葉にはまだ続きがあったはずだ。が、果たしてそれは何だっただろうか。いずれにせよ、ここまで来ればもう少しこの偶然に身を任せてみたいと思う 希望も絶望も、全て心の持ちようひとつ、か。能天気さに呆れる傍らで、ようやく掴み取った自由を喜ぶ自分がいることに驚愕を覚えた。無論、諸々の処理の後には、お説教どころでは済まない教育が待ち受けているだろうが、後のことはもう考えないことにしたのだ。厭なイメージが沸き上がることもない。だからもう、何も恐いものは無い。 限界まで張りつめていた肉体と精神は軋みを上げて崩れ去り、何について思案していたのかさえも忘れて私は意識を手放した。 気づけば知らない駅のホームにいた。都心部特有の騒音はすっかりと鳴りを潜めており、鼓膜を震わせるのは鳥の囀り声が散漫に空気をかき回す音程度だ。もちろん人の気配は感じられず、耳が痛くなるほどの静けさに包みこまれていた。 駅以外に外灯らしいものは見当たらない。周囲の夜影が凝集し、視界を著しく狭めている。可視範囲を見渡してみればほとんど草原と言っていい光景が辺りを埋め尽くしていることが分かる。辺りは暗がりに閉ざされた中、ここだけが別の世界に迷い込んでしまったような感覚。駅を中心として都市部が形成されるという常識を持っていたこの身には、意外さ極まる光景だった。 駅の中だというのにその構造は簡素という他に無い。掲示板のように貼り出された時刻表の文字は掠れており、毎日数本の電車が停車すること以上の情報を読み取ることはできない。駅名を確認しようにも、時刻表の掠れの方が幾分かましだと言わんばかりであり、肝心な文字だけが跡形もなく消えているという始末。雨避け屋根の下から見上げると、天象儀かと見誤るほどの満天の星が広がっていた。 人のいない空は、思ったよりも明るいんだな。真っ先に浮かんだのは、そんな稚児っぽい感想だった。人工灯と星とをきちんと単位を付けて比較すれば、その明るさはきっと比較にもならないだろう。そのはずなのに、不思議と空は街よりも明るく見えた。 都会の空はただの純黒に過ぎず、色が指し示す通りの無形の闇に過ぎなかった。そこに無と虚を示す白の光が加われば、できあがるのは黒白の境界だ。何も生物を生み出さないこの配色は、空が人工物であると錯覚させるようだった。その不自然さが際立って感じられるから、私はあの異質な空が嫌いだった。 けれども眼前に広がる空は美しい。深藍色を塗りたくった調色板の上を、無数の絵の具で彩ったかのような光の饗宴を前にして、湧き上がる興奮を隠しきれないでいた。今まさに、私の頭上では、無数の物語が紡がれているのだ。万華鏡のような煌めきが溢れ出ていて、それが脳の奥へと染み入っていく。 大気汚染が広がっている。そのことは知識として知っていたけれども、この光景を見ればそれも嘘ではないかと思えて仕方がない。あるいはこの空も、昔と比べれば汚れていて、本来ならば今以上に輝く星空に覆われていたのではないか。そう考えて、ふと瞬く星々がじわりと滲むのに気づいた。冷たい滴は、けれども暖かな熱を持って私の顔を濡れそぼつ。 自身の哀れな身の上を憂いた涙ではない。人間特有の情動の涙だった。 余裕が無い生活から生じた生物学的ストレッサー。知らず知らずのうちに溜め込んでしまっていた社会・心理的ストレッサー。それらの結果生じた化学物質が涙と交錯し、体外へと流れ去っていくような感覚。遠い眼差しを天上に星々に注ぎ、熱くなった目頭をそっと抑えた。 そうだ。星を見に行こう。 目的無き旅路に目的が加味された瞬間だった。もっと見晴らしのいい場所から、この空を一望すれば、私は私以外の何者かになれるかもしれない。そんな予感めいた思いが交錯し、私の身体を動かした。 夜も更けた空が閑散としていて、人の姿を視界に捉えることは決して無かった。けれども私は、それが哀しいとは思わず、むしろ人が消えた世界に私だけがいるような感覚に囚われ、ひどく興奮していた。 歩みを進めるコンクリートの道は、既にその機能を果たしていない。土壌に侵食された結果、獣道といっても差し支えない程度には荒廃している。両脇には草木が傍若無人に根を伸ばし、微かに顔を覗かせるセンターラインが無ければ、誰もそれがかつて道路であったと認識できないのではないだろうか。 もはやその上を通る車など存在しないのだろう。本来であれば命の芽吹くこともないコンクリートが、生に溢れた大地へと沈み行く姿。今まさに、道としての長きに渡る生を終え、原初の自然へと回帰しようとしているのだ。 時代の流れに取り残されたものは、等しく原初の姿へと回帰する定めにあるように、そう遠くない未来には、コンクリートの上には草が育ち、木が実っていくことだろう。それを眺めていると、不思議と脳裏に豊かな原風景が過り、まだ見ぬ望郷の念が胸中に込み上がってくる。 大自然とはかくも人の感性を引き上げでもするのだろうか。私らしからぬ鋭い洞察力と、溢れ出る雅な言葉の数々に驚愕を覚えた。 一度は文明に呑まれ、再度自然へと逆行しつつある道路と対するように、目的地として定めた山へと視線を移す。緩やかな斜面で構成され、遠目には二等辺三角形の姿を繕っているように見える山。そればかりか、どうやら富士にも似た綺麗な円錐形状をしているらしい。見る者に人工的な形状だと感じさせる一方で、自然の采配に由来することを示す曲線美がそれを否定する。 山頂付近へと視線を移せば、何やら鳥居らしきものが見受けられる。山中の静寂を保つように佇んでいるそれは、幽玄な星々の光に照らされている。星空と噛み合ったことで織りなされたその光景は、実体のない幻想でありながらも生々しく、不思議なくらい非現実的な光景だった。 古神道の信仰の地、神体山として祀られていたかもしれない。加えて、神と山が不可分であった頃から、社だけがそのまま現世に出現したかのような、神域染みた佇まいでもあった。そう思わせるほどに、できすぎな山であり、科学主義者に自然主義の萌芽を齎す程度には力を秘めていた。 その夢のように美しい光景は、紛うこと無き神の領域なのかもしれない。そう思案する私を、ほんの数刻前の私が知ればどう感じるだろうか。 こんな私でも変節できる。その実感が私の中を流星のように駆け巡る。あそこまで辿りつけば、別の私に、いいや、本来あるべきだった私を取り戻せるかもしれない。突拍子も無い期待に後押しされ、心持歩幅を広げた足取りは軽かった。 境内に無数に設置された灯篭には明かりが灯っておらず、私の他に参拝客らしい姿も見えない。職員宿舎らしき建物も目に入ったが、人の気配を感じないことから察するに、どうやら今は神主も不在らしい。 由緒正しい神社らしく、境内からは言いようのない風格のようなものが漂っている。それが寂寞さと調和したことにより、得体の知れない不気味さが立ち込め、辺りの雰囲気をより幽幽たるものとしているようだ。妖や霊と言った恐怖心を煽る幻想の存在が、いつ現れてもおかしくないと感じてしまうのは、人間の深層に潜在する恐怖が、私のインスピレーションの高まりにより惹起された結果なのだろうか。 夜の神社は邪気や低俗霊の温床になるため寄り付かない方が良いと伝え聞く一方で、強い念が込められた催事、祭りや百度参り等は夜にこそ行われるものである。神様に祈りを捧げに来た、という目的での来訪とは趣旨が異なるものの、何やら因果めいたものを感じてしまう。 夜風の冷たさは肌に心地よく、爽やかな感触とともに、近づきつつある夏の気配を運んできた。大きく深呼吸をし、普段味わうことのない山の空気を肺に流し込んだ。適度に湿り気を帯びた土の香り、嗅ぐ者を光悦とさせるような杉の樹脂の香り。それらは清冽さを帯びており、それだけでも頭と心まで大自然に満たされたような錯覚を覚える。 冷たさの中には不思議と命が脈打つような熱があった。その熱の正体こそが命の煌めきなのだろうか。少なくともこの風を感じられただけでも遥々遠方の地までやって来た価値があったように思う。この感動は、私の居た世界では決して生まれ得ないもの、文字通りの自然の神秘なのだろう。 風は私と言う外来者を歓迎するようでいる。けれどもそれだけでなく、人の侵入を訝しむような料簡の狭さも感じ取れた。知らず知らずのうちに肌が粟立ち、冷気が押し広げられていく。長居すべきではない、そう直感が囁いている。目的であった天体観測も手短に済ませ下山しよう。そう決心しようとしたところで、不意に眼前を横切った閃光に視線を塞がれた。 尾を引くように光の糸が闇夜に二度三度と瞬き、一瞬流星でも降って来たのかと錯覚したが、どうやら違うらしい。視界に飛び込んできたのは自分とさして歳の変わらないらしい少年だった。 いかにも現代人らしい華奢な体躯。典型的な日本人顔でありながらも染めた様な金髪をして、星を模したピアスを片手で弄っている。その指には何本ものごつい指輪を嵌められており、彼は年と見た目相応にやんちゃを絵に描いたような人物らしかった。 そんな中、闇夜の中でもはっきりと光を宿す、磨かれた宝石のような彼の金色の瞳が網膜に焼き付いた。何も言わずに動かないそれは思わず吸い込まれそうな力を帯びており、鮮烈な生気を宿して仄かに光って見えた。その一方で、磨き抜かれた瞳の輝きは威圧する冷たさを放って見下ろしているようでもあった。 自分と同年代とは思えない、いいや、それ以前に人間かどうかさえ怪しい幽鬼さながらのそれに気圧された。件の人物は真っすぐに私をその瞳に映して「なにしにきたの?」と甲高い声を投げかけた。 「今宵は星があまりにも綺麗だから、少しでも近くに感じたくて、それで」漏れ出た言葉は今どきの子供でもしないような、意味の無い羅列のようだった。これでは伝わらない。私にはこの旅の目的を上手く言葉にできない。その思いが口を次第に重くさせ、終いには閉じてしまった。この思惟を他人に知らしめる方法さえあれば、という非力さを嘆いた。 この拙い説明からは曖昧にも理解されないのではないか、その不安を他所に、彼はこの言葉で納得したらしく何度も首肯していた。瞳に込められていた圧も抜け、朴訥としたものへと変わっていた。逼迫とした空気も抜け出て、辺りは温和な雰囲気に包まれていた。これが彼本来の瞳なのだろう。よく動く利発そうなそれはやんちゃと言うよりも好青年のように感じられた。 「それならいい場所があるんだ」と、少年の声が弾け、力強く腕を引っ張られた。境内から離れ、道無き道、狭い木々の間へと引っ張り込み、入り組んだ地形を迷うことなく駆け抜けていく。 痛くないように少し力を緩めながらも、何があっても離さないと言わんばかりに張り付く少年の手のひら。こうも遠慮なく自分を引っ張ってくれる手のひらを私は知らない。しかし思いの他柔らかく、同年代の脆さを含んでいるようでもあった。 手から伝わってくる温もりは、夜風で冷えた体温を温め直し、血を忽ち沸騰させた。私という人間の奥底で、私の知らない私が産声を上げている。脈動する思念が囁き、私は己のうちから滲みだしたその声に耳を澄ました。 彼と出会った瞬間、今まで問題無く回っていた歯車が軋み始めるような不思議な感覚があった。何かが変わる。それがどういう形でさえ、私の嫌いな私で無くなるというなら。 突然の出来事に戸惑いもあった。素性も分からない少年に付いていくのは迂闊だとも考えた。が、彼に身を任せてみるべきだと主張する胸中に従ってみることとした。先ほど見せた警戒心を溶かすような微笑を見て、あくどい目的があるとは到底思えなかったから。 その背中を追って足を動かすのに専念した。華奢な背中なのに、奇妙な磁力を発していて、惹きつけられるようなものを感じる。世間一般でいう父親のような包容力を併せ持っていて、必要なことは背中で語っているようだった。実際、振り返らずともこちらの様子を逐次把握しているらしく、不慣れで整地もされていない山道というのに加えて、小洒落たヒールブーツを履いていることが災いし、何度も体勢を崩すこととなった。が、その度に私の身体を支えてくれた体を華奢なものとは到底考えられなかった。 その奇妙な安心感とは裏腹に、第三者の立ち入りを拒むような頑なさも滲み出していて、力強くもあった。少年は、私だけを見てくれている。令嬢としての私ではなく、ありのままの私、今まさに生誕したばかりの私を。それだけで私は得体の知れない満足感に包まれていた。 「着いたよ」と、こちらを向いたときに見えた横顔が誇らしげで、同年代らしさが仄かに漂った。それが意外でもあり、また嬉しくもあった。 導かれた先にあったのはこじんまりとした社殿だった。何の変哲も無く、田舎であればどこでも見受けられそうなものだった。手入れがされたのは随分と昔らしく、荒れた翳が滲んでいる社の肌。柱は虫に食われ、修理の施しようもない茅屋という印象が強かった。 ここまでの経路とこの惨状から察するに、祈る人もいなくなって久しいのだろう。祀られているであろう神様に対し、何やら申し訳なさのようなものが込み上がり、それに向けて両手を合わせた。 再び顔を上げた時、少年は驚いたような表情のまま目前に佇立していた。驚きの中には嬉しさが見え隠れしていて、言葉通りに、彼にとって大切な場所だったのではないかと確信した。小さく口籠ったが、ありがとうと言ってくれたような気がした。 社の退廃具合と対するように、夜空はこの山の自然のように星々が繁茂していた。それはまるで夢の景色のように 美しい眺めだった。 空は、暗く、深く、存在を飲み込まんとする虚無を湛えており、麻薬にも似た魔力を帯びているように感じてしまう。けれども私はそれが好きになった。茫漠と広がる虚空に身を浸している間だけは、社会の柵を忘れさせてくれる。 それでいて、数多ある星の光が宝石をばら蒔いたかのように煌めいている。その一つ一つが太陽の反射光に過ぎないとも思えず、別世界の光景が映し出されているのではないかと柄にもないことを考えていた。 見上げた空は広く、高く、そして遠い。人間の認識能力では計り知れないそれの存在は、ここ以外のどこか、私の居場所でさえどこかにあるかもしれないと思わせた。 「あの星を見てごらん」そう言って少年が指差したのは一見すると何の変哲もない星だった。明るいと言えば明るいが、一際異彩を放っているわけでもない。色も極々平準で、これと言った特徴が無かった。 そのはずなのに、五感では感じられない何か、少年が放つものと酷似した磁力がそこにはあった。あの星はいったい何なのだろうか、そう尋ねてみると少年は北極星だと得意げに答え、続けてこう言った。 「いつだって、あの星は道を示してくれる。いつだって君を迎えてくれる。だから、悩まなくてもいいんだよ」 その言葉を何度も反芻していた。繰り返すごとに、自分の血脈に言霊となって取り込まれていく。そして私に必要だったもの、私らしくあるための言葉をようやく手に入れることができた。 北極星。地球の自転軸を北側に延長した線上にある星。そのため地球から見るとほとんど動かず、星空はそれを中心に回転しているように見える。決して揺らがないために多くの人の道標となり、多くの迷える旅人を導いてきた。 無駄に身に着けた知識から、自分でも驚くほど易々と言葉が出てきた。動くことが無いからこそ、そこに希望が生まれる。幾千もの星、それに連なる光を差し置いて、力強い光となって、私の世界に差し込んでいる。 その輝きが、いくつもの道を照らすように私の道も照らしてくれる。だから、もう何も迷うことが無い。何も恐れることは無い。だから、私と言うものに従って生きてみよう。自分らしさについて、迷うことは何一つない。ずっと遠くても、高くても、道標があるから迷わずに進んでいける。私は、もう独りじゃない。 理不尽と戦って、少しでも前に進んできた先人たちのように、私も歩んでいく。前に進み続けるよりない。私の世界は酷く歪で出来損ないの秩序が支配しているけれども、道標を信じていれば、その理不尽を乗り越えるための力を与えてくれるのだと信じて。 ただ静かに、二人で星を見ていた。 薄い光のヴェールが夜空を閉ざし、まるでオーロラのように揺蕩う光景だった。流星が空を滑り落ちる毎に、毛細血管のような光の筋がオーロラの被膜を走る。空を押し包む光の幕が脈動し、それが空そのものを鳴動させるほどの力を発しているように感じた。互いにせめぎ合うように明滅する光の波動は、北極星を基点として空をすっぽりと包みこんでいるようだった。 見ているだけで心の澱が溶けだしていき、最後には眼窩から零れた滴の一つとなった。いったいどれだけの時間星を眺めていたのか、空には明るみが差し込み、星の光は次第に薄らいでいった。太陽が昇り、この素敵な時間も終わる。夜明けとともに周辺が視野の中に薄ぼんやり浮かんでくる。 「君に鬱屈した表情は似合わない。今の顔の方が素敵だよ」その声の方に目を向けた時、既に少年の姿は無かった。まるで最初からいなかったように。今日の出来事が全て白日夢であったかのように。けれどもそれが夢などであったはずがない。あの時の手の温もり、一緒に見た星空の光景、そしてあの言葉は今も鮮明に覚えている。二つの思惟が戯れ、溶けあい、独りでなくなった。短い時間のほんの些細な出来事に過ぎないけれども、私にとっては何よりも大切な宝物だ。無かったことになんてさせるものか。 日が昇りきり、星が見えなくなった頃、ようやく重い腰を上げた。消えた少年のことを探そうともせず、記憶に残った経路を一人で歩いた。寂しさは無かった。いつだって私の道を照らしてくれているから。もう一度見上げた空には明けの明星が浮かんでいた。 結局、あの後貴方の足取りを掴むことはできなかった。神社の神主は貴方のことを知らないと言っていたけれども、我が物顔で山を歩き回っていた姿を思い返すと、神社と無関係な人間だとは思えなかった。 私は貴方が誰なのか、何も知らないけれども、少しだけ私なりに考えてみた。どうやらあの神社では天香香背男を祀っていた。正確には封じていたらしい。まつろわぬ神であった天香香背男は国津神平定にものともせず、最後には平和のために和平に応じた神様だとか。とても優しく、愛情に満ちていて、貴方にそっくりだと思った。 また、香香は星の輝く様子を示したことであり、北極星の化身だとも、金星の化身だとも伝えられていた。文献にはこれ以上詳しいことは何も残されていなかった。掘り下げたところで、負けた神に過ぎない以上満足な伝承など残されているとも思えなかったから。 日本の神様は神の宿る場所さえあれば無限に増える。神様とは精神のことを示し、その字に神が含まれているように、考え方は人に伝播しても減らない。だから、貴方は私の中で生きている。 そう、私はあの瞬間、確かに生まれ変わったのだ。自分の殻を脱ぎ捨て、貴方と関わったことで私と言う形が作られた。もし貴方が本当に現世の夢だったとしたら、世界の界面さえも超えて作用し合うことだって可能なのではないか。狭隘な世界の先でまだ見ぬ何者かと出会い、響き合って、それを残留思念として取り込み、私はこれからも変節していけるのだろう。根拠のない自信、けれどもそれは確信めいたものとなって陶腔を叩いた。 貴方からほんの少しだけ分けてもらった勇気。それだけでも、もう少しだけ足掻いてみようという気宇壮大な自信が沸き上がってくる。私の傍にいても、いなくても、貴方はここにいるから。 だから、この悲哀と理不尽に虐げられ、怜悧な現実を突きつけられようとも、与えられた自由を使って、自分らしさと言うものを闇雲に探していくことにしよう。 そう決めた刹那、臓腑を突き上げる激情に急き立てられるまま、綴っていた手紙を読み返した。なぜこの時は弱気になっていたのだろうか。もう迷わないと決めたはずなのに。寂寞とした文章を綴っていたそれを貴方に見せる気にはなれず、最後まで読み切る前に、熾火にも似た熱の灯った手のひらで力強く握りしめた。 一夜限りの短い逢瀬、けれどそれは永く美しい夜だった。贅沢な時間だった。貴方はその時間で私に全てを教えてくれた。だからもう一度逢いたいという真摯な願いは、いつの間にか散逸していた。ただ、もしも願いが叶うなら、ただ一言、貴方に伝えたい。 足元に置いた通学鞄に手を伸ばし、メモ帳を取り出した。すると顔を上げた際に北極星が今一度目に入り、メモを千切ることなくそれを鞄に戻した。何も言わず、動かない瞳を向けたまま、胸中で小さく呟いた。 ありがとう、と。
さわらび115へ戻る
さわらびへ戻る
戻る