りんごの皮むき

蒔原通流




 軽い脳梗塞らしい。

一昨日の午後十一時頃、父は倒れた。

職人気質の頑固な人で、私や姉がいくら健康診断に行ってくれと言っても、「店を開けるわけにはいかないから」と聞いてくれなかった。

 毎日の晩酌や新メニューの試食。

普段の食事には多少気を使っていたらしいけれど、それでもやはり多少は高血圧だったようだ。

 幸いなことに大きな障害が残ることもなく、入念なリハビリと食生活の改善により、また店に立つこともできるだろうと、担当医の先生が言っていた。

 それを聞いてほっとしたのだろう。

父は少し前から浅い眠りについていた。

 しょりしょりとお見舞いの品のリンゴを?いていく。

父は果物の中ではリンゴが一番好きで、母が癌で亡くなるまではたびたび?いてもらっていた。

普段は果物なんて食べない父が、母の?いたリンゴにだけは必ず手を伸ばしていたことに気づいたときはなんだか微笑ましかった。

母が亡くなってからは、同居している姉が?いても手を付けず、時折、夜、みんな寝てしまってから自分で剥いて食べていたという。

亡くなる直前、母が言っていたことを思い出す。

「あの人ね、リンゴが食べたくなると私しかいないときにこっそり言うの。なんだかあなたたち娘に自分はリンゴが好きだってばれるのが気恥ずかしかったらしいわよ。

おかしいわよね。自分ではまだあなたたちにばれてないと思ってるのよ。」

母は柔らかな笑顔でそう言っていた。

 しょりしょりしょり。

リンゴの皮を途切れさせないように上から?いていき、一本の長いひものようにする。

切り分けたリンゴを皿に盛りながら思う。

これから大変なことになっていくだろう。

父はちゃんとわたしたちを頼ってくれるだろうか。

せめて自分の好きなものくらいは作ってくれと言えるくらいにはなってほしいものだ。

窓に反射した私の小さくふふっと笑った顔が、あの時の母の微笑みにそっくりで、なんだか母が大丈夫だよと応援してくれているようだった。













 包丁を手にしたことなんていつ以来だろうか。

独身時代はたまには料理していた。

それでも既にカットされた野菜などを使うことが多く、本格的に包丁を扱ったことなど片手で足りる程度の回数だろう。

 よく手入れされた白くきれいなキッチン。

結婚して二年目に建てたマイホームには料理好きな妻のこだわりが詰まっていた。

包丁にしても用途に合わせて、何本もある。

その中でも刃渡りの短く、扱いやすそうなものを手に取った。



 昨日、妻が見つかったと連絡があった。

既にいなくなってから一週間たっている。

見た目から確認できるような状況ではないが、頂いたサンプルからみて間違いないと電話の男は言う。

遺書はないが、自殺に間違いないらしい。

後でいくつかの重要事項について書いたプリントを持っていくと言っていた。

あえて心配するような言葉をかけてこなかったことが少しありがたかった。

自分とは思えないようなかすれた声で礼を言い、電話を切った。



 食欲はわかないが、何かは食べたほうがいいのだろう。

妻が常に冷蔵庫にストックしていたリンゴを取り出す。

赤々とした実にどうしようもない切なさを感じた。

 いつも妻がやっているように、リンゴを八等分していく。

四等分まではきれいにできても、最後にもう一度、等分するときには妻のようにはできず、大きさの不揃いないびつなリンゴになってしまった。

八等分したものから種と中心部分の食べられない軸の部分を取り除いていく。

無駄に大きく切り取ってしまったものばかり。

上達の色は見られず、七個目を切っているときに左手の親指を薄く切ってしまった。

切ったリンゴのでこぼこな表面に血が薄く滲んでいる。

いびつな円を描くように広がっていく。

妻はこんな風に指を切ったことがあったのだろうか。

妻について何も知らなかったのだろうか

そう思いながら、ただ、ぼうっとその光景を眺めていた。













 最近、うわさで知恵の実なんてものがあるって聞いた。

なんでも四本となりのかしの木に住むヘビとかいうやつが言うには食べたらかしこくなれるらしい。

ヘビのやつには口が小さくて食べれたものじゃないから、かわりに君が食べてくれともいわれた。

 ただ、かしこいというのが今ひとつわからない。

どうなることを指すんだろう。

困ってることなんてとくにない。

走るのが速くなるか、泳ぐのが速くなればいい。

競争のたびに他のやつに負けるのはこりごりだ。

 とにかく、なんだかいいことっていうのは確かだ。

悪いものでないことだし、試してみたっていいだろう。

 翌朝、日が昇り始めたころ。

ヘビのやつを起こす。

いつもよりずっとはやいとかしばらくぐちぐちと文句を言っていた。

だらしのないやつだが、知恵の実のことを教えてくれたやつだ。

多少はやさしくしたほうがよかっただろうか。

そう思っていると、やつは手からするりとぬけて案内してやるといって、前をシュルシュルと進み始めた。

 みかんの木で右に曲がり、しばらく進んだところにあるももの木を少しこえたところにそれはあった。

みかんやもものようにおおきな果物がなるどっしりとした木。

その木に赤々として照りのある美しい実がなっていた。

一目でこれが知恵の実というものだとわかる。

そういうふんいきみたいなものが知恵の実にはあった。

 こんな美しいもの、見たことがない。

思わず、手を伸ばし、ぽきんと一つもぐ。

教えてくれたヘビに礼をいうと、においをもっとかぎたいといって腕からのぼり、首に巻き付いてきた。

確かにいいにおいだ。

実の奥からたっぷりと詰まった蜜の甘い香りがする。

口の中ならよだれが溢れてくる。

がぶりと一かじり。

今まで食べたどんな果実とも違う、ざくざくというはっきりとした歯応え。

じゃくりじゃくりと咀嚼すると、新鮮で爽やかな甘さの果汁が溢れ出す。

ごくんと飲み込む。

もう賢さなど言うものはどうだっていい。

確かな信頼性のない無価値なものに思えたからだ。

そんなあてにできないものを大事にするよりは今自分が良いと思えるものを大切にし、発展させることのほうが遥かに建設的である。

だが賢くなれたおかげで一つ良いことが知れた。

それは知恵の実をより美味く食べるためには、皮を剥くべきであるということだ。

とは言え、それをする道具がなく、その道具を作る手段がないとわかるあたり、やはり賢さなどというものは過ぎたものに違いない。









 決勝戦。

ただ一つのミスも許されない。

ここで勝つために今まで技術を磨き、レシピを研究してきた。

レシピはこれ以上ないものが仕上がっている。

あとはそれを正確に再現できるか。

目指すは完璧。

たった一分の狂いもなく、仕上げてみせる。

 まずは素材選び。

用意された様々な品種のリンゴから自分の求める最高品質のリンゴを見つける。

同じ品種でも青い状態、ちょうど熟してきている状態、完熟した状態と大まかに三種類の状態が用意されている。

今回使うのはフランス産のいわゆる紅玉と呼ばれるタイプのリンゴ。

その中でも熟してきている状態のものを使う。

だが、爽やかな甘さの中に適度な酸味と軽やかな歯応えがないといけない。

外見、手触りから最良のものを探す。

しっかり時間をかけて完璧だと思えるものを見つけた。

 ここから下ごしらえに入る。

まずはリンゴの皮むきだ。

ここで選んだが本当に最良のものか確認する。

包丁はよく研げているし、研いだ後もしっかり水に浸していたから金物臭さもない。

大丈夫だ、いつも通り準備も完璧にできている。

最初にスッと力を入れ、半分に割る。

途中かりっと種が割れる感触が伝わる。

半分に割ったあとの包丁を見る。

包丁に付いた果汁も多すぎず、少なすぎずばっちりだ。

このリンゴで間違いない。

更に二度切り、皮をむいていく。

できるだけ、薄く、皮周りの渋みも入るように丁寧に?いていく。

そしてちょうど2.7mmになるようにスライスしていく。

これでリンゴの下処理は完璧。

次は生地作り。

ここからも気が抜けない慎重な作業が要求される。

ただ第一の難関は乗り越えた。

この調子で乗り越えていくしかない。



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