黎明の蕎麦屋 居待月 都心をぐるりと取り囲む環状線の高架下にある商店街。周辺にオフィス街が広がっていることもあって、その商店街には背広姿の人影が多い。駅に近い商店街の入り口には全国チェーンの飲み屋や、二四時間営業のファストフード店が並んでいる。 そんな人通りの多い商店街も、奥へ進むほど次第に閑散としてくる。オフィス勤務の人々は姿を消し、通向けの店が増える。黄ばんだ紙の束ねられた本が入り口に無造作に重ねられている古書店、どこかの国の怪しげな置物が並べられた骨董店、年月を重ねて汚れたショーケースに年代物の商品が飾られた時計店。そんな店々を通り抜け、駅の裏側の住宅街へと繋がる商店街の出口近くに、その蕎麦屋はある。 その蕎麦屋が開いていることを見たのは一度もない。色あせた藍の暖簾に白抜きの文字で「かわらや」と書かれたその店には、いつも人の気配がない。蕎麦処と書かれた看板には、蜘蛛が幾重にも巣を作り、店の窓ガラスは所々ひび割れている。以前、暇があって商店街を散策していたときに、何となくその店に目を引かれた。おそらくその理由は、暖簾にある。潰れた店に暖簾なんて掲げないだろう。だからもしかしたら、いつか来たら開いているかもしれない、そんな淡い期待を抱いて時々その蕎麦屋の前を訪れている。それから数年、自分はまだその蕎麦屋が開いているところを見られないままでいる。 * そんな俺が、その蕎麦屋に明かりが灯ったのを見たのはある夏の夜のことだった。元々駅周辺のオフィス勤めではなかったので、ちょっとした買い物や用事でしか商店街を訪れる機会はなかった。頻度で言えば年に一、二回だ。 しかし最近は、現場が駅に近いということもあって商店街を訪れる機会は格段に増えていた。もっとも仕事帰りは、疲労感でとても散策という気にはなれず適当なカフェに入って始発までの時間を潰しているのだが。 しかしその日は、違った。八月半ばの深夜。仕事が早く終わったが、少し気が立っていて駅前の店に入る気分にはなれず、とはいえタクシーを呼ぶ金の余裕もなく、気分転換がてら商店街を散策してみることにした。 お盆休み真っ只中の深夜の商店街。何かがあるとも思っていなかったし、出会うにしてもホームをレスした人間か野良猫かだろうと思っていた。だから、商店街の出口近くで、赤い提灯の灯りを見た時は、思わず喉の奥から短く声が漏れ出てしまうほどには驚いた。 それが、以前から気になっていたその蕎麦屋だったことに俺はさらに驚いた。窓から、明るい光が漏れ出しており、店先には普段見慣れない大きな提灯が掲げられていた。 本当に開いていたのか。 ――助かった そのとき、なぜか心の奥でそんな言葉が横切った。なぜだかはすぐには分からなかった。 だが火に入る夏の虫のごとく、その光に引き寄せられるようにして俺はその蕎麦屋の戸を引いた。 「いらっしゃいませ」 優しそうな男性の声に迎えられ、俺は店内に足を踏み入れた。店内は、思った以上に整えられていて綺麗だった。テーブル席とカウンター席があり、部屋の隅の高い所に、一昔前のブラウン管テレビが置かれていた。 画質の悪い画面からは、バラエティ番組が流れている。最近テレビでめっきり見なくなった芸能人たちが出演している光景がどこか懐かしい。こんな時間にテレビを見ることがなかったが、彼らはこんな時間にテレビにでていたらしい。 店内に客は一人。四十代後半から五十代くらいの男性がカウンターで蕎麦をすすっている。男の傍には高そうな一眼レフが置かれていた。 入口で立ち止まっていた俺にカウンターの奥の店主は声をかけてくる。 「どうぞこちらに」 店主に示されたカウンター席に着く。もう一人の客とは、カメラを挟む形で座ることになった。 「注文は?」 店主は店の壁面を目線で示し、俺に問う。 壁には短冊形の紙に筆で書く形でメニューが貼ってある。 かけ蕎麦。たぬき蕎麦。きつね蕎麦。ざる蕎麦。月見蕎麦。力蕎麦......。 「えっと......『かけ』で」 「はい」 頷いて店主は背を向ける。 物静かな人だ。だが厳格という雰囲気は感じない。むしろ声色から人のよさが伝わってくる。年の頃は六十代後半くらいだろうか。深く刻まれた皺と、褐色の肌がその重ねてきた年月を物語っていた。 「あの」 俺は店主に声をかける。 「俺、この店に何度か来たことがあったんですが、いつも開いていなくて。こんな時間に開いていたんですね......人、来なさそうなのに」 思った以上に毒を含んだ言い方になってしまい、慌てて言い直そうと口を開く。 俺の言葉よりも、店主の振り返るのが先だった。店主は微笑んだままだった。 「そうですね」 それだけ言って、再び前を向き蕎麦を茹で始める。 「えっと......」 「それでも、そう悪いことばかりではありませんよ」 俺に背を向けたまま、店主は言う。 「こんな時間じゃないと来られない、という人もいるでしょうし、こんな老人がほとんど趣味でやっている蕎麦屋です。今更利益を求めるつもりもありません」 厨房の中を移動しながら、店主は続ける。 「この店が開いているお陰で、あなたが今助かったというのなら、それこそこの時間に店を開いた意味ということでしょう?」 助かった――この店に入るとき、なぜかそう思った。もちろん、始発まで時間つぶしをする手段を得たからという理由もある。......だが、それ以上にこの店には俺を素通りさせない何かがあったような気がするのだ。目を離せないような、呼ばれているような。そうでなければ、わざわざこんな時間に誰もいない商店街になんて行かない。 「......仕事帰りなんです。道路工事の作業員。現場は駅近くの通りです。日中は車通りが多いですから、深夜に工事をしているんですよね」 「それで、こんな遅い時間に」 「工期が遅れて、お盆真っただ中のこの時期まで作業ですよ。まあ、今日は作業が中断されて早めに切り上げたんですが」 「中断、ですか」 理由を訊きたげな店主から、目線をそらし大きく一つ溜め息を吐く。 「クレーマーですよ、悪質なね」 ――もう少し、時と場所考えてできないの? このあたりに住んでる人、毎日迷惑しているんだから! 今日は母が来ているのよ、小さい子供だっている。今すぐこの工事をやめてちょうだい。 外食帰りの酔った女だった。突然、俺に掴みかかるようにして、大声で怒鳴ってきた。親戚で集まって宴会でもしていたのだろう。まわりにいた人たちは、女を止めようとする者もいたが、加勢しようとする者もいた。結局女は食い下がったままで、諦めて今日の工事は中断という形になった。 「それは災難でしたね」 俺の話を聞いた店主は、同情するように優しく微笑みかけ「お待ちどうさま」と、かけ蕎麦を俺の前に置いた。 「ただでさえ工期が遅れているっていうのに中断なんかするから、上司は機嫌最悪で、俺たちに当たり散らしてくるんですよ」 割り箸をパキンと割って、店主に軽く頭を下げる。 少し濁ったつゆの中に、太めの蕎麦が入っていた。駅の立ち食い蕎麦とは違い、麺の上には葱だけでなく赤色の蒲鉾が乗せられている。 「大体クレームっていうのは末端の俺たちに言われても困るんです。現場に出てる作業員じゃなくて、きちんと会社の方に連絡してくれないと、なんとも対応できない」 思い出すと、また腹が立った。 深夜の作業にこの手のクレームは少なくない。工期は遅れ、上司に怒られ、結果的に工事が長引くという悪循環に陥るだけだ。 「ほんっと、もうやめて欲しいですよ」 また一つ大きな溜め息を吐き、蕎麦を啜る。 あの店主が作ったことが納得できる優しい味わいだった。かつお出汁のつゆが、蕎麦と絡み合って口の中で広がる。 「なんで続けてんだ、その仕事」 聞こえきたその声は、店主のものではなかった。声のした方に顔を向けると、カメラを挟んで隣に座った髭面の客と目が合った。 「なんでって......」 突然話しかけてきた男に怪訝な目を向けながら、小さい声で呟く。 「お金が欲しいからですよ。将来の目的のためには、金を溜めないといけない」 「はぁー。バカだなてめえ。金が溜めたいだけなら、その仕事に拘ることねえだろ。世の中にゃ、仕事はいくらでもある」 「バカって。なんなんですか、あんた」 客は愉快そうにニヤリと笑った。 「偶然居合わせただけの客に名乗るつもりはねえなあ。なんならてめえが、オレが何者か当ててみな」 俺は男と、男の手元の一眼レフとを見比べて言った。 「......写真家?」 すると男は声をあげて笑った。 「写真家か、まあいいんじゃねえの? てめえがそう思うんならそう呼べよ、土工」 「どこう......って俺のことすか」 「写真家」は、もちろん、と頷いた。 「えっと......写真家、さん。じゃああなたはどうするべきだと思ってるんですか」 「そりゃお前。やめりゃいいだけの話だろ」 「やめる、って」 簡単にものを言う。 「つらいならやめればいい。それで自分を追い詰めるのはただのバカだ」 写真家はたぬき蕎麦を食べていた。陶器の椀の上には大きなかき揚げが乗っている。 顔を上げないまま写真家は言った。 「つらいのは今日に限った話じゃねえだろ」 ぎくりとした。 「ブルーカラーの夜勤なんて、楽にできる訳がねえ。生活習慣は乱れるわ、疲労はたまるわ」 写真家はこちらの表情を伺うように、チラリと視線をよこす。まるで、心の奥底まで見透かされているようだった。 「......それもそうですよね。確かに」 写真家の顔を直視できず、椀に返事するように俯いてつぶやいた。 「そ、そういえば......写真家さん。あなたはこの蕎麦屋によく来るんですか?」 「......まあ、な」 露骨に話題転換に、写真家の眉がピクリと動いた。 「彼はよく来店してくださいますよ。うちの常連さんの一人です」 カウンターの奥で店主が言った。 「......こんな時間にしか開いてない店なのに?」 写真家は、フゥと、息を吐いて言った。 「こんな時間しか開いていないから、だな」 「はあ」 「オレは、夜が好きなんだ」 写真家の目は、どこか遠くを見ている。 「昼間とはまったく違う風景を持っているからな」 中年の男は静かに語り始めた。 闇に包まれた都会の街角。昼間よりも人通りの多い飲み屋街の喧噪。晩御飯の香りが漂う住宅街の路地。虫の音しか聞こえない田舎の畦道。緑の煌々とした明かりに照らされた海辺の工場地帯。季節や時間によって変わる月や星の描く空の表情。雨の音。風の音。音の消えた雪の舞う日。何も見えないから、聞こえる音。真っ暗だから際立つ雪の姿。 町は一時の眠りを経て、そして朝を迎える。 「姿は見えなくても、人間の営みは絶対にそこにあって、それは建物や道が証明してくれる。人工のものが一つもない荒野にだって、そこで寂しさを感じるのなら、それは人のいたことの証になる。夜にしか分からない、人間の存在感っていうのかな、そんなもんがある。......だから好きなんだ。それを写真っていう形で収めておきてえ。すべては無理でも、可能な限り届けたい。それが、オレが夜を歩く理由」 写真家は、手元の一眼レフの上に手を重ねた。 「おっと、少し喋りすぎちまったみてえだな。ま、オレがこんな時間に町をふらついてるのはそういうこった」 写真家は、ヒラヒラと手を振った。 「......自由に生きているんですね」 「皮肉か?」 「いえ。素直に感心したんです。毎晩仕事していると、嫌な気持ちにしかならなくて」 「そんなもんか」 俺は頷く。 「夜の作業なんて、眠いし、手元暗いし、夏は暑いうえに虫が寄ってくるし、逆に冬は寒くて指先が凍えそうになる。......夜ってこんな楽しみ方もあるんだ、って分かったような気がします」 「そりゃあよかった」 「......つまりあなたは、夜景専門の写真家ってことですね」 納得して何度も頷く。 「いや」 「は?」 驚いて写真家の方を見ると、彼は顔に意地の悪そうな笑みを浮かべていた。 「写真を撮るのは趣味。普段は近くのオフィスのデスクワーカー」 そう言って、写真家の告げた会社の名前は、誰でも一度は耳にしたことのある大企業だった。 「に、似合わない......」 俺の呟きに、写真家は一瞬怪訝そうな顔をしたが、何も言わなかった。 「一日中机の前でパソコンいじってると、肩が凝って仕方ねえんだわ。オレの性に合っているとも思えねえ。だから仕事帰りとか、休日とかに旅に出て写真を撮ってるってわけよ」 仕事帰りに趣味に走るとは、随分タフな人だ。 「そんなことして、家族はいいんですかー? 家ほったらかして家族も困るでしょうに」 少し意地悪な気持ちで、問いかける。 「困らねえな、子供は一人暮らし始めたし」 「奥さんは」 「いねえなあ。オレのカミさんは、もうこの世にゃいねえ」 「え――」 思わず口をつぐむ。 「癌でなあ。早すぎたよ」 「......すみません」 「もう二十年も前のことよ。気にすんな」 写真家は少し寂し気に微笑んだ。 気にするな、と言われても少し気まずさを感じてしまい、机上の麦茶を手に取って飲み干した。 その時だった。不意に生暖かい風が首筋を撫ぜた。ひび割れた窓からの隙間風が店内に吹き込んできたのだ。それとほぼ同時に、部屋の隅のテレビの音声にノイズが入り画面が砂嵐になった。 俺たちは一斉に戸口の方を振り向く。 店の入り口には一人の男性が立っていた。四十代の前半くらいだろうか。くたびれたスーツを着た痩せた男で、あまり健康とは言い難い肌の色をしていた。 「......お前!」 そう驚いたように声をあげたのは写真家だった。店主も写真家同様、少し驚いたように目を見開いたがすぐに微笑みを取り戻し、「いらっしゃいませ。どうぞ席にお付きください」と招き入れた。 男は軽く会釈をして、俺と席を一つ開けてカウンター席に座る。 「注文は?」 「ざる蕎麦で」 壁のメニューを見ることなく男は答える。 店主は微笑してうなずき、厨房の奥の方に向き直った。背を向けたまま店主が口を開く。 「随分と久しぶりですね」 男は低く小さな声で「はい」と言った。 「あの、みなさんはお知り合いで?」 気になった俺は、口を挟む。 男のクマの浮かんだ不健康そうな瞳と目が合い、たじろいだ。 「『元』常連だ、こいつは」 写真家が空を見たまま言った。 「元?」 「半年ぶりくらいですか。よく来てくださいましたね」 店主の言葉に男は少し嬉しそうに頬を緩めた。 「家族に呼ばれまして、予定はなかったんですが帰ってきたんです」 「そうですか。お盆ですからね」 単身赴任でもしていたのだろう。長期休みで、実家に呼び戻されたのかもしれない。 「失礼ですが、何のお仕事を?」 男はこちらを見て、小さく口を開く。 「ぼくですか。金融関係です」 金融関係......銀行などだろうか。 「......頭よさそう」 それを聞いて男は苦笑した。 「仕事に学力は重要ではありませんよ。どんな仕事に就いても社会を支えていることには変わりないんですから」 「そう、ですかね」 先ほどまで、仕事の愚痴を漏らしていた手前、自信をもって同意するのがためらわれた。 男はにっこり頷き「そういうあなたは?」と問い返した。 「俺は、土木作業員です」 「なるほど。そんな恰好をしているということは、仕事帰りで?」 俺の恰好を見た男は、そう言って首を傾げた。 「はい。現場が駅の近くでして」 「こんな遅くまで......」 「ずいぶん大変な仕事みたいですよ」 側で聞いていた店主が口を挟む。 「まあ、お盆の深夜に仕事というのからして、ブラックな気配が漂ってきますもんね」 工事現場において工期が遅れることは決して珍しくはないが、同情されると少し惨めな気分になってしまう。 「......ホワイトカラーの仕事はいいですよね」 思わず口をついて出てしまったその言葉に、ハッとする。弁解をするより早く、写真家が俺をねめつけた。 「お前、自分が一番不幸だとでも言いたげだな」 写真家の声は低く、感情を押さえつけたかのように震えていた。 「確かにお前らの仕事は、何かと苦労が多いのかもしれねえ。さっきの話を聞いてたら、なおさらだ。だがな、楽な仕事なんてこれっぽっちもない、だからそんなこと口が裂けても言うな」 それだけ言った後、写真家は大きく深呼吸した。吐き出した息に混じって、写真家が小声で「特に今は」と呟いたのが聞こえた。 「まあまあ、落ち着いて。仕事でストレスたまりがちなことは分かりますが」 殺伐とした雰囲気の中で、店主の優しい声が聞こえた。店主は、ざる蕎麦を男の前に置いて、俺たちの方を見る。写真家は目線を逸らして、すまねえ、と小さく口を動かした。 「いえ、俺も言い過ぎました。今日は少しイライラしていて......」 写真家と俺とのやり取りを横で聞いていた男は、申し訳なさそうな顔をして笑った。 「すみませんね、ぼくが来たから空気が悪くなってしまいました」 「い、いやいや。どうしてあなたが謝るんですか!? ......俺が無知なのがいけないんです。他の仕事を知ろうともしないで、自分の不幸自慢をしようとした!」 痩せた男はその瞳を細めて微笑んだ。 「そんなにつらいのに、どうしてあなたは仕事をするんですか?」 「なぜ――?」 同じことを写真家にも言われた。 「いくら仕事が辛くても、労働の対価としてお金がもらえたら嬉しいものではないですか。土木作業ならデスクワークやライン作業と違って、達成感が感じられないわけでもなさそうです」 「そういやさっき将来の目的のために金貯めるとか言ってたよな」 写真家の言葉に頷く。 「将来、留学をしようと思っているんです。そのための資金を今は貯めていて......。だから、稼いだ金は全部貯金に回してるんです。そういうわけなので、まあ、達成感とかそういうのはあまりないですね」 俺はそう言って、徐につゆを啜る。 「へえ、留学。立派な夢があるんじゃないですか」 痩せた男の感心したような声に、素直に頷けない自分がいた。 「でも毎日仕事をしているうちに、それが本当に正しい選択かが分からなくなっていて......。今の俺のお金の使い方って、言ってみれば投資なんです。『未来への投資』。この苦労をして、得られるものは果たして自分にとってプラスになるのか、今の俺には分からない」 我ながら情けない話だと思う。見えない将来に向かって、対価のない労働を続けている。 「それは......」 男は何かを言おうとして言いよどむ。 「あの......あなたはどんな気持ちで、仕事をしていますか? つらいときどうやって乗り越えていますか?」 俺の言葉に、男の表情が少し曇る。 写真家が何かを言おうとしたが、それより早く男が口を開いた。 「そうですね。金融の仕事というのは、とても責任の重い仕事なんですよね」 男は蕎麦を一口食べ、そして話し始めた。 金融の仕事は、法務、年金など様々な仕事がありますが、やはり莫大なお金を扱うということで、どんな業務にもお金が関わってきます。 投融資などはまさにその代表のようなもので、失敗すると重大な損害を被ることになりかねません。 だから、あなたと同じです。 行く先の分からないままに、選択をしなければならないのですから。もし、相手がどんなに経営が苦しくても......いえ、苦しいからこそ、簡単にお金を貸すことはできません。融資が失敗して共倒れになるようなことがあれば、迷惑を受けるのはぼくだけではないのですから。 男の横顔には、濃い影が落ちている。 莫大な金を背負って、お金を貸すか否かの判断をする。言葉にすると簡単だが、その企業の経営者や従業員を見捨てるか否かの判断をする、ってことだ。それがどんなにつらいことか。男の、人のよさそうな性格を見ればわかる。 「というわけで、ぼくもあなたと同じなんですよね。仕事の苦労を乗り越える方法を見つけられなかった」 男の痩せた体はとても頼りなく見える。男は悲しそうに微笑み、それ以上は何も言わなかった。 ざる蕎麦を食べ終わった男に、店主は蕎麦湯を差し出す。男はお礼を言って受け取り、つゆに注ぐ。 「もし本当に耐えきれないほどつらいことがあったなら、逃げればいいんです。無理して続けて心身を壊すよりはそっちのほうがよっぽどいい」 ――つらいならやめればいい。それで自分を追い詰めるのはただのバカだ 写真家の言葉が頭の中に蘇った。 「意地と責任感からくる往生際の悪さは、日本人の悪いとこだよなぁ。土工、てめぇが外国行くってんなら、そういう社畜精神、見直さなきゃだめだぞ」 冗談めかして、写真家が言う。 「きみは相変わらずですね。相変わらず......生き方にブレがない」 「それ、褒めてんのか?」 写真家の問いに、男は笑って返事に代える。 でも、なんとなく男の言葉の意味が分かるような気がした。写真家の言葉は、自分の生き方に答えを持っていないと、出てこないものばかりだ。 「つらくても、ぼくにはまだ逃げ場があった。いつでも迎えを待ってくる家族がいるってことに、気づくのが遅かったんだよね――」 男はそう言って、残りの蕎麦湯を飲み干し立ち上がる。 「おやじさん、ごちそうさまでした。おいしかったです」 店主はカウンターの向こうから、頭を下げた。 「おい」 写真家の声がして、俺の目の前を横切って男へとお札が差し出される。 「久しぶりに会えた礼だ。今日はオレが奢ってやる。......どうせ、持ち合わせがないんだろ」 男は、実はそうなんです、と頭を掻いた。 「ありがとうございます」 「......また来いよ」 写真家の声に、男は少し寂しそうな顔をした。 「ええ、また来ます......きっと」 店主が、店の前まで見送るというので、俺も店の外まで付き添った。 店は高架下の出口近くにあったから、店の前から、空の様子を見ることができた。 空は少しずつ白み始めており、朝が訪れようとしていた。 男の痩せた体とくたびれた背広は相変わらずで、でも少しだけ男の表情が穏やかになっている気がした。 「久しぶりに立ち寄れてよかったです。本当にごちそうさまでした」 「いえ、ありがとうございました。奥さんやお嬢さんにもよろしく伝えておいてください」 店主は柔らかく笑った。俺も傍で頭を下げる。 「お話聞けてよかったです。もし機会があればまたこの蕎麦屋でお話しましょう」 はい、と男は微笑んだ。 「いつかあなたが、あなたの本当の夢を叶えられる日が来ることを心から願っています。だから、がんばって」 そう言って男は軽く一礼して、商店街の出口へと歩み始めた。 真夏の風が一陣吹いた。 埃が舞い上がって思わず、目を閉じる。目を開けたとき、もう商店街の出口には誰の人影もなかった。 「――ちょうど半年くらい前の話です」 店主は店の前に掲げられた提灯を外しながら、口を開いた。 「それまでよくここに来店されていた彼が突然来なくなったんです。それから数日後のことでしたか。新聞の三面記事に、聞き慣れた名前を見つけたのは。過労による自殺だと、その小さな記事は伝えていました」 「......そうですか」 彼が抱えていたものの大きさに比べて、あまりにも小さいその記事。その光景が、鮮明な映像と共に思い浮かぶようだった。 「彼が初めてこの店に来た時のこと、よく覚えています。仕事で面倒事を抱え込んでしまったと、ずいぶん暗い顔をしていて......あの時の顔、あなたによく似ていたような気がします」 「俺?」 「だから、気になったのでしょうか」 「そうかもしれませんね。......でも、きっと今はもう、大丈夫です」 「そうですね」 店主の表情は見えなかったが、笑っているように思えた。 高架下の出口からは、昇った朝日が真っすぐに差し込んできていた。 町は一時の眠りを経て、そして朝を迎える。 きっと今日も暑い一日になるだろう。 店内に戻ると、いつの間にか写真家が姿を消していた。裏口の戸が開いていたので、そこから出て行ったのだろう、と店主は苦笑した。 「自由に生きている人です。しんみりした会話は好きではないのでしょう」 写真家の座っていた机の上には、二人分の蕎麦の代金と、一枚の写真が残されていた。 「この写真は?」 問うと、店主は、もらっておいてあげてください、と言った。 どこかの民家の写真だった。背景に写っているビルや、塔の見た目からこの町の景色であることが分かった。若い女性とその娘らしき女の子が民家の前に立って笑っている。 写真を丁寧に鞄にしまう。 残りの蕎麦を食べきって、店主にお礼を言って店を後にしようとする。 部屋の隅のテレビはいつの間にか電源が消えていた。真っ黒な画面が、日の光で明るくなった店内を映している。 「ごちそうさまでした」 店主が口を開く。 「つらくても逃げることが難しいこともきっとあるでしょう。もし選択に迷ったら、せめて誰かに相談してみてはどうでしょうか。私どもでよければ話を聞きますし、今日のようにまた自分の好きなこと嫌なこと、語り合いましょう」 強く頷く。 「はい。必ずまた、来ます」 会釈をして、店を去る。 心の奥が温かいのは、きっと蕎麦のせいだけじゃない。 都心環状線の高架下商店街の隅の隅にある、古びた蕎麦屋。深夜しか開いていない、不思議な店「かわらや」。扉を閉め、店を振り向くと、店内の照明は消えており、まるで先ほどまで温かい空間が広がっていたことは嘘であるかのように、ただそこにあった。 でも、そこに本当に蕎麦屋があったことを俺は確かに知っている。だから振り向かずに駅へと、その店を後にした。
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