シュガー・ドロップ クロ太郎 私の涙は砂糖水でできている。 しかも、その時の感情によって砂糖に色が付く。嬉しい時はオレンジ色、悲しい時は青色。 もっと複雑な感情の時は、黒色になる。 みんなが珍しがる。そして気味悪がる。 私がまだ小さかったころ。他の人との違いに気がついてしまった。あれは、幼稚園にいた時。転んで泣いてしまった時のことだ。助け起こしに来てくれた先生の表情を、私は未だ覚えている。近くにいた子の「おまえのなみだ、へんな色!」という声も。私はあまり泣かない子だったから、この異常になかなか気づかれなかった。気づけなかった。随分長い間変な目で見られた。遠巻きにヒソヒソと話されることも多かった。小さい私は、少し聡かったのが災いしたのか、幸いだったのか。自分の涙が、他と違うということを理解してしまったのだった。他の子は、泣いても色が付いた涙は出てこないことを。ふつうの涙はしょっぱいものなのだということを、幼いながらに知ってしまった。知ってしまったから、他の人が私を避けた理由もわかってしまった。 もう、周りにそんな目で見られるのが嫌で、私は泣くのをやめた。泣かなければ、他の人と違うことがばれなくて済むから。 たとえ、冷血だと言われようと、感情のないロボットだと言われようと。私は無感動に生きていく。無感情で生きていく。 冷血だって、感情のないロボットだって、いつかは忘れられる。気にされなくなる。 でも、多分、涙が砂糖水でできているなんて、忘れてもらえない。ずっと変な目で見られるに違いない。 だから、私は守る。私を世界から守るために、感情を守る。眼鏡をかけて、外の世界から私の感情を守るの。 私の見る世界は眼鏡のレンズに写った世界。レンズの向こうの世界に興味なんてない。 今日も学校。 私は眼鏡をかけて、無感情な私になる。 今日から新学期。同じクラスの人にも、担任の先生にも、興味ない。 始業式。学校の近くで起きた痛ましい事故の話をされた。興味ない。 今日は授業がなく早く帰れる。皆、連絡先を交換するらしい。興味ない。 家へ帰る。 次の日、授業が始まった。授業中退屈そうにしていたら、先生にあてられた。正解を言って座る。褒められたけど、興味ない。 昼休み。皆は机をくっつけ合って仲の良い人同士でグループを作って昼食を食べるらしい。興味ない。 午後の授業。何事もなく終わる。 味気ない日々。変わりばえのない日常。それこそが私を守ってくれる。文句なんてない。感謝しかない。 放課後。他の人は部活へ行ったり、友達と遊びに行くらしい。興味ない。 何もなければ私は帰る。まっすぐに、どこにも寄り道せずに帰る。そして家に帰って勉強をする。きちんと勉強をしていれば、親も先生も何も言わないから。 教科書とノート、それから辞書くらいしか入っていないカバンを持って立ち上がる。 「――ねぇ」 誰かの会話がまた始まるようだ。なるべく聞かないようにする。 「ねぇ、藤崎さん」 話しかけられていますよ、藤崎さん。 「あれっ、名前間違えた? ……いや、藤崎さんであってるよね。ねぇ、今もしかして忙しい?」 前に回り込まれて、初めて、私が話しかけられていたと知る。 「何か、用でしょうか」 「俺、隣の席の――あ、名前分かる?」 「いえ」 何だろう、この男。少し慣れ慣れしい。 「そっか、分かんないよねー。昨日名簿配られたばっかだし。すぐには覚えられないよね。 俺、藤崎。隣の席の子も藤崎だったからさ。運命感じちゃって。 あ、急に話しかけられて、運命感じちゃってとか言われてもびっくりするよね。困るし、警戒するよね。ごめんよ、俺ってそういう配慮がないってよく言われるんだ」 「いえ、そんなことはありませんが」 「あ、そう? なら良かったー」 何故この男は私に話しかけているのだろう。 「あ、でも話しかけたのには、別にちゃんとした理由があってさ。この後時間ある?」 話しかける必要なんてない、つまらない人間でしょうに。 「部活がある人はしょうがないけど、時間ある子でクラス交流会をしよーって話になってるんだ」 事務的な受け答えしかしない、ロボットでしょうに。 「昨日連絡先交換してなくて、連絡つかなかったでしょ? だから教えてあげた方がいいかな〜って」 「…いえ、行かないです。どうぞ、皆さんで楽しんできてください」 どうせ、こんなロボットを連れて行ったって楽しくない。場の空気を悪くするだけ。 それに、そういう場は要らない(怖い)。クラスの人との交流は、私には必要ない(危険なんだ)。交流の果てに感情が生まれてしまったら。もしその感情が涙に繋がってしまったら。恐ろしくてたまらない。 「そっか。じゃあ、また今度。また誘うから、時間があったら来てね」 だから行けるわけがない。と、行きたがる私を押さえ付ける。貴女は、外の世界に興味なんてないでしょう。 「あ、じゃあ連絡先だけでも交換しておこうよ。連絡つかなかったら、いざという時困るじゃん?」 「いえ、携帯電話を持っていないので」 「まじ!?」 何を、そんなに驚くのだろう。携帯がなくたって生きていけるのに。 「おーい、藤崎! 置いていくぞ!」 「あ、了解! ごめんね、皆もう行っちゃうみたいだから。これ、俺の電話番号。何かあったらかけてよ」 「おーい! 本気で置いていくぞ!」 「今行く! じゃあ、また明日」 「…また明日」 ボソッと返せば、彼は笑って手を振った。 手の中に残った彼の電話番号が書かれた紙。いつもなら外の世界とのつながりを断つために捨てるそれを、何故か今日の私は、ポケットに入れた。 * 「藤崎、女の方の藤崎と話したって楽しくないだろ」 交流会の会場であるカラオケへの道中、友達がそう言った。 「藤崎だって知ってるんだろ? 機械の藤崎って。必要最低限の会話しかしないし、全然表情変わらないし。なのに成績だけは良いから、藤崎って中身は機械なんじゃねーのっていう噂があったよなー」 「そーだよー。私たちが話しかけても、全然興味なさそうだし。話しててもつまんないよねー」 「一応業務連絡みたいなことはしておかないとダメだとは思うけどさ」 「あ、でも楽だよ? 仕事頼んだら、いつでも引き受けてくれるし」 「本当に機械だよな」 「…本当に、そーかな?」 「ん? 藤崎、何か言った?」 「いや、なーんにも。さ、早く行こうぜ」 誰も、気が付かないのだろうか。あの子の瞳の奥で揺れていた色に。いや、知る機会がないのか。誰も、あの子の瞳をのぞき込むことをしてこなかったから。あの子が、させてこなかったから。 とってもきれいで、知らないのは勿体ないな。 ――いや、知らせる方が勿体ないや。 あの色を独り占めできたなら―― 随分と自分勝手な欲望。口元に浮かんだ笑みを、これは交流会を楽しみにしている笑みだと、自分で自分をごまかした。 * 今までと同じ無感動な一年。それが始まるはずだった。 いや、始まっている。一部、違うだけ。 満開だった桜が葉桜になり、そして緑だけになった。 無感動な私は、一人、変わらぬ日常を過ごしてきたはずなのに、いくつかの鮮明な記憶が日常に軋みを与える。 彼――藤崎君との会話が、わけに記憶にこびりつく。 いつだって彼のほうから話しかけてくる。私はそれに答えるだけ。それだけなのに、何故かひどく鮮明だ。 いつも他愛ない話題。 「昨日〇〇って番組見た?」 「いえ」 「そーなの? △△って芸人が面白くってさー」 「駅前にできた□□□って店知ってる?」 「いえ」 「あそこのフレンチトーストが美味しいらしくてさ。 前、テレビの取材が来たらしいよ」 「そうですか」 「行って見たいんだよなー」 「英語の××先生、妊娠したんだってね。俺、あの先 生の授業好きだったから、残念だなー」 「そうですか」 「でも逆に数学の**先生は何言ってるか分かんない し、出来れば来年はどこかの学校に移動してくれねー かなー」 「…数学は、苦手ですか」 「! そう! 俺数学苦手でさ〜。この前ならった公 式も、使い方まったくわかんねぇの」 「それは…ほら、教科書のここに書いてあります。こ の形になった時に、ここへ代入して…」 「藤崎さん数学できるの!? て、そう言えばクラス一の秀才さんだったわ」 「…秀才だなんて。人より長く勉強しているだけです」 「それでも十分すごいよ!」 彼はいつだって楽しそうに話す。 私はそれを聞くだけ。 他には誰もいない教室。パチン、とホチキスのたてる音がする。押し付けられた――いや、頼まれた仕事をする私と、頼まれてもいないのに仕事をする彼。 彼の楽しげな声は止まらない。 私がこうして放課後に頼まれて仕事をしているとき、彼はいつだってこういう風に現れては、勝手に仕事を手伝って、勝手にいろいろ話していく。 分からない。なぜ彼がこんなことをするのか私にはわからない。 * いつからか、放課後に彼が来なくなった。 きっと、楽しい話の一つもできない私に飽いたのだ。 当たり前。感情にあふれた彼は、もっと他の人、感情ある人と付き合うべきなのだ。 でも、彼のいない教室。一人ボッチの教室。 夕日差し込む教室に、ホチキスの音がする。 ぽっかりと空いてしまった胸の穴。 ずっと感情なく生きてきたと思っていた。いたのに、全然できていなかったようで。 彼はやってこない。昨日も、一昨日も、一週間前も、二週間前も。 どうせ、今日も来ない。 だったら良いじゃないか。 我慢しなくて、いいじゃないか。 ――そして、私は眼鏡をはずした。 ポロポロと涙がこぼれる。 眼鏡をはずした、感情ある私。 彼のいない放課後はこんなにも味気ないものだったのだと、初めて知る。寂しくて、そして―― こんな感情で泣いたのは初めてで、ただただ、胸を掻き毟りたくなるような情動が私を襲う。何のだろう、これは。分からない。初めてだ。 今の私の涙は、何色なのだろうか。 ――ガラっと音をたてて、ドアが開いた。 「ごめんっ全然来れなくてっ。 母ちゃんが寝込んでて、家の世話で忙しかったんだ! 昨日から仕事に復帰してたんだけど、一度様子を見に行って、て――」 クルリと振り向いた彼女は――眼鏡をはずしていて。ポロポロと涙を流していた。 「きれ、い――」 彼女の瞳から流れる涙は、赤かった。 そして、その源の彼女の瞳も真っ赤だった。 「――あのっ、これ、は…そう! 夕日で!」 初めて見る慌てふためく彼女。 全部全部、可愛くて、愛おしくて――。 「ひゃ!?」 彼女の頬を伝う涙を舐めとった。 「なっ、なん、なっ!?」 「――甘い」 「えっあの…えっ!?」 瞳と同じように、赤くなっていく頬も耳も可愛い。 きっと彼女は砂糖でできているのだ。 壊れやすくもろい砂糖菓子。遠くから見れば小さくてきれいなだけのそれも、近寄って触れて、舐めてみれば、ほらもう隠したかった本心がまるわかり。 「ねぇ、不安にさせてごめんね。でも、もう不安にさせないから。離れないから。それでも不安になるなら約束をしよう。俺も君と過ごせない放課後は寂しかった。キミも寂しかったのなら、今度からきちんと言葉にして約束にして、放課後を一緒に過ごそう。 放課後だけじゃなくて、もっとたくさんの時間を一緒に過ごそう。 ――どうか、俺と付き合ってくれませんか」 彼女の瞳にオレンジ色が混ざる。 ハクハク、と声も出せない姿でさえ可愛い。さっき以上に真っ赤な頬など、愛おしくてたまらない。 答えを確信して、俺は笑みを浮かべた。 彼女を自分の腕で囲う。周りに見えないように。俺の顔も見れないように。 もう自分にごまかす必要はない。この笑みはこの子を独り占めできることへの、自分勝手な欲望の現れ。でもこの表情を隠すつもりもない。だってだって、もう手に入ったのだから。本当に名実と共に、独り占めできるのだから。 甘くて愛おしい俺だけの砂糖菓子。その可愛い顔も、感情の揺れる瞳も、綺麗な涙も、どうか俺以外の誰にも見せないで?
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