ポリエチレンテレフタラート

岬 いさな

	◇◆

 喉の渇きを覚えて目を覚ましたのは、天辺を回る頃だった。夢現の意識のままに伸ばした手が、冷え切った躯に触れる。
「ーーっ」
 啜りたい、と思った時には、唇に触れていた。喉を下りる微かな甘みが、体温と融け合って得も言えぬ恍惚感をもたらす。溺れ悶える躯を握り潰すように、私は夢中で欲求を貪った。
「ぷ、ぁ」
 気が付くと、私の布団には私と無様に倒れ伏すガラクタが転がっていた。乱れた自分の呼吸音がやけに耳障りで、月明かりの差し込む夜の静けさを一層際立たせる。まるで、生きているのは世界で私独りみたいな気分になる。充たされた高揚と、充たされない渇望。相反する昂ぶりに、目の前の現実はひどく冷淡だった。
 雫が一片、透明でまろやかな曲線を滑っていく。半端に開いた口から、泡と共に気の抜ける蛙のような音が漏れる。無様で無粋な、見下げ果てた中身の無さ。ついさっきまで欲望の限りをぶつけたそれが、今の私にはどこまでも無機物的で、血の通わないモノに写る。嗚呼、私はこんなモノに昂ぶっていたのか? そんな醒めた意識の中で、身体だけが正直に応えた。
「……」
 足りないなら、代わりを買いに行けばいい。目の前の空っぽなガラクタで充たされないなら、充たされるモノを探しに行こう。提示された合理的な思考を言語化しながら、私は重い腰を上げた。最早、足下のそれには見向きもしないままに。

	◇◆◇◆

 冬の街に人影はまばらだ。特に日付の変わったこの時間では、自分の足音以外にさして聞こえる音もない。白い息を漂わせながら、只黙々と歩く。
 同時に、行く当てを考えてみる。安いに越したことはないが、悪い買い物がしたい訳でもない。馴染みの店は既に店仕舞いの時間だろうから、近場で別の選択肢を見つけねばならない。ならば歩いて四半時の駅近くで探そうか。寝惚けて取り留めもなかった考えが次第に纏まっていく。
 ふと、小さな灯りが見えた。どうも、この寒空の下で客を待つ阿呆が居るらしい。前を横切る折に横目で覗いてみれば、案の定値段は相場の五割増しだ。どこの誰がこんな脳足りんを買うのだろうか。見れば、背丈も大人と子供ほど違う。親に手を引かれるのが似合いと言わんばかりの小柄さは、よほど身銭に切羽詰まったか出来損ない粗悪品かに違いない。
「……っ」
 あれで充たされる人間は居ないだろうという私自身の裡から湧き出る率直な考えと、売ると言うことは買う輩が居るのだろうという純粋な推論が、口の中に苦いものを残す。理解の出来ないことだ。口の端から言葉が溢れないよう唇を引き結んで、私は足早にそこを離れた。

	◇◆◇◆◇◆

 駅近くの店は大層ぎんぎらと派手な灯りに溢れていた。不夜城と言うべきそこなら、大概の事は出来る。飯に酒、女に博打。およそ人の欲を充たすものを寝床以外は用意するとかで流行だ。多少割高でもこういう店こそ大層都合がいい、何を袖や胸の裡に忍ばせているやら分からん露店や立ち商売の類いより、店を構えて暖簾を掲げる身元の明らかな店は安心をこそ売っているのだろう。そう思って足を運んだ。
 しかし、今日ばかりは事情が違う様子だ。店先で便所座りする若い連中が、げらげらと笑っている。皆一様に奇怪で醜悪な服を着崩し、揃いの鉢巻かたすきのようなものを振り回している。十歩先からも臭う酒煙草は、足下に転がったゴミからか連中の口からかは分からない。ただ甘い唇を啜り、柔らかな躯を撫で擦り、纏う衣服さえ脱ぎ散らかして乱れるその姿に、得も言われぬ嫌悪感だけがふつふつと沸き上がった。
「――おっと」
 乱痴気騒ぎに興じる男の一人が立ち尽くす私にぶつかってきた。沸き上がる怒りと裏腹に、私はとっさに声を出しかねない衝動を抑えることで必死だった。如何にも軽薄そうな彼一人でさえ私では太刀打ち出来ないことが体格を見れば分かる。憤りをぶつけられない現実の歯痒さが、私の裡でのたうち回っていた。
 しかし。
「すんません、後ろ見てなくて。  おいテメーら、他のお客さんに邪魔になってんだろ! どけどけ!」
 男は驚くほど素直に謝罪の言葉を述べ、仲間たちに呼びかけて道を空けた。仲間達もぶつくさと文句を垂れながら、そそくさと移動する。その一連の出来事に、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。
 ほんの一瞬前まで見下げ果てていた目の前の醜悪な光景が、自分の濁った目によって生み出された虚影であったこと。色眼鏡無く見た世界は、どこまでも自分と同じ渇望と欲求に忠実な人々の営みであったこと。そして今青年達が足蹴にせず拾い始めた瞬間に、無機質に見えた欲求の残骸が血の通った景色の一部になったこと。怒濤のように脳裏で閃く生きた感情が、自らの空っぽな中身を跳ね回った。
 もう限界だった。せめてもの丁重に謝罪を固辞し、逃げるように闇へと走った。背後から聞こえる溜息や疑問の声、若者の説教が自分に向けられているようで、冷め切った肺腑に痛みを感じながら。

	◇◆◇◆◇◆◇◆

 私は醜い。私は愚かしい。家を出る時目に映ったモノに向けた哀れみの視線は、私自身に向けられるべきモノだったのだ。白く濁った半透明で中身のない空っぽの私を、ありのままに映し出しただけだったのだろう。自分の度し難さに腹が立った。
 ふと、小さな灯りが見えた。行き道で見かけた阿呆  今の自分と比べれば余程ましか  が、そこに佇んでいた。
「・・・・・・っ」
 行き道に抱いた感情は、同族嫌悪だったろうか。口の中で苦いモノを感じながらふと思い返す。灯りは時折点滅し、一際強い木枯らしが吹き抜ける。現実の見えていないその愚かしさに、私は私を重ねて憤ったのか? 答えの出ない悶々とした感情が私の喉に冷えた氷柱を押し込んでくる。喉元で渇きと苦しさがいがみ合い、ついに頭の中で何かが弾けた。
「・・・・・・よし」
 財布を取り出し前に立って見ると、背丈の小ささに改めて呆れかえる。これなら夜明けを待って近場の店を漁った方が質もいいのではないかと、脳裏で合理性が叫んだ。
 だが、不思議と逡巡は一瞬だった。
「――マイドオオキニ」
 間の抜けた機械音声が、妙に面白く感じた。

	◇◆

 外で味わうのははしたなく感じたので、家まで我慢した。それでも、小さな躯から感じるぬくもりは手袋越しでも心地よく感じた。
「――っ」
 そっと唇を重ね、甘い交わりを楽しむ。欲求をぶつけ貪るのではなく、求めるものを確かめ合うような時間。乾いた土に水を注ぐのではなく、水の器に土を入れて混ざっていくような、恍惚と安堵に沈んでいく感覚。何度注いでも充たされなかった渇きが嘘のように、優しく充たされていく。
 唇を離すと、光る糸が名残惜しそうに橋を架けた。小さく映った躯は半分とその透明な輝きを損なっておらず、足りないものが噛み合ったような安心感を感じさせた。
 ふと、部屋の隅に転がったガラクタだったモノが目に入る。無機質さに変わりないそれは、どこか責めるような印象を映し出した。それは、傷の舐め愛ではないのか。弱者同士が、厳密にはお前が弱者だと思うものとの相互依存ではないのか、と。
「……寝るか、明日も早いし」
 時刻は既に丑三つ時。子供の頃は目を覚ますと不安で寝付けなかったものだったのに。今の私は、不思議と程なく眠りに落ちた。

 
 空っぽの私を充たしたのは、ココア味だった。

 明日の私は、何で私を充たすのだろう。


〈了〉




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