閉じた穴
                    
蒔原 通流


 最近、よく夜に目が覚める。
私が起きたのを感じたのか、横で妻が身じろぐのを感じる。
しばらくじっと寝ている妻の顔を眺める。
彼女にうるさくないよう、そっと、そして深く、息を吐く。

 眠ろうと目をつむる。
しかし、たやすく眠れやしない。
なにかひどく不快なものがそこに在るような気がして、落ち着けない。
苦痛やそのたぐいのものというわけではない。
ただなにか、なんとはなしに関わりたくないものが、そこら中、そして私の身体の内をずるり、ずるりとその身を引きずり、蹂躙しているのだ。
私はそれにただ耐える。

 それは私を探している。
私がじっと息をひそめ、身動きしない限り、それは私に気づかない。
そして決してそれに私が起きており、それを認識しているということを悟られてはならない。
だから、それにばれぬよう、さも寝ているかのようにゆっくりと静かに息を吸い、肺を満たす。

 が、しかしいつまでも寝たふりがもつとは思えない。
それゆえに深くゆっくりと息を吸い、精神を安定させる。
夜のうちに潜むように息を繰り返し、意識を溶かし、眠りへと落ちていく。

 例の不快なものは、私が寝て、はじめてそこに私がいたことに気づく。
明日こそは、そういうような顔をして、その冷たくぬるりとしたもので私のほほを撫でる。
私はそのおぞましい感触を頬に感じながら、眠りへと、とぷんと吸い込まれていった。


 寝巻がぐっしょりと濡れている。
最近、この不快感で目が覚めることが多い。
病気ではないのだろうが、健康でもないのだろう。
歳が歳とはいえ、頬も少しばかりこけてきた。
きっと幸せではないのだろう、そう思わせるような顔をしている。
一人で使うには大きいベッドに腰かけ、軽く伸びをする。
誰もいない家に体の軋む音が響く。

 朝食は食べなくなった。
味気なくなったからだ。
それに、それほど活力がいるほどのことはしない。
ただ同じことを繰り返すだけだ。
同じようにワイシャツのボタンを留め、同じように曜日ごとに決まったネクタイを締め、同じように電車に乗り、同じように出勤して、同じように仕事をする。
こんな風になってから、世界は色味なく、味気ないものへと変容していった。
食べ物にあるのはなんとなくの歯ごたえのみ。味というものはとうにわからなくなった。
色についても同じようなものだ。白、黒とも言い難い色褪せた二色の濃淡で私の世界はできている。
何かに絶望してできたひどく陳腐な世界。
こんな場所を終の棲家にするなんて、ひどく虚しい奴だ。
自分でもそう思ってしまう。

 なぜあんな夢ばかり見ているんだろう。
揺れる電車の中、考える。
他に考えるべきことも、興味もあることもないのだから仕方がない。
 夢の中の私は、現実とは少し異なる。
少し上品にしたような感じなのだ。
部屋の雰囲気や家具、服なども私が実際に使っているものより価格帯が二回りほど上なのだろう。
おだやかな静けさ、高級感、幸せ、そう言ったものがあの部屋にはあふれていた。
今の私とは遠いところにあるもの、でもいつか手に入っていたかもしれないもの、それが見えて、うらやましくさえ感じた。
 そして何より違うところ。
彼には妻がいる。
私にはもういない。
ずいぶんと前に失った。
彼女はある日を境に、ぷつりと私の前から姿を消してしまった。
まるで彼女がホログラムか何かで、突然、投影機のスイッチが切れてしまったのだとさえ思った。
どこで何をしているのか、はたまたこの世界にいるのかさえ分からない。
いないと言われてもおかしいとは思えなかった。
突然、世界から抜け落ちる。
彼女はそういう風に姿を消したのだ。

 そもそもあんな夢を見出したのは、妻が消えてからだった。
すこし気が落ち着いて、というよりも彼女のことを現実の生活と切り離せるようになって、初めて見るようになった。
そのせいか、どうにもあの不快な生き物が、彼女の失踪に関する私の思いの内、どうにもならないものが蓄積してできたものように感じるのだ。
本当の意味で落ち着いていたら、あんなに禍々しく大きなものにはならないだろう。
そして私を絡めとろうとはしないだろう。
だからこそいつかはあれを振り払わないといけない。
私を探す奴の前に立ち、振り払わなければいけない。
そうしてはじめて、この世界は私にとって少しはまともな終の棲家へと変わるのだろう。

 今日も仕事を終え、眠りにつく。
夢のように読書をすることもない。
妻と静かに飲み交わすこともない。
ただ電気を消した暗闇の中で、一時間ほど目を開き、特に何かするわけでもなく、じっと横たわり、眠りを待つ。
 そうしてまた夢を見る。


 夜、目が覚める。
誰かが私の頭をそっと撫でている。
慈愛に満ちた手つき。
手のひらからじんわりとぬくもりが伝わる。
妻が少し心配そうな顔をして、私を撫でていた。
どうやら悪夢でも見て魘されていたらしい。
いつものようなどんよりとした静けさはそこになく、サイドテーブルに置いたランプのオレンジ色の光が部屋を包んでいた。
妻は台所に水を取りに行き、私はまだ少し荒い呼吸をしながら身を起こした。

 いつもとは違う夜の部屋。
あのおぞましいものが出てくるような部屋とは全く異なるあたたかい雰囲気に包まれた部屋。
夜の部屋がこんなに幸せそうに見えるのはいつぶりだろうか。
妻がとってきてくれた水を一杯飲み、ほっと一息つく。
コップをサイドテーブルに置き、二人してベッドに身体を潜り込ませる。
おだやかな顔で妻が聞く。
「さっきは何にそんなに魘されていたの?」
私にもよくわからない。
そんなことを答えようとして、私は眠りについた。


 朝、目が覚めた。
なぜか、嫌に現実的な夢を見てしまった。
むしろ、あれほど大きく違ったところがなければ、現実のことだと思っていただろう。
うちにはあんなサイドテーブルはない。
ましてや暖かな光のランプも。
夢の中とはいえ、あれほど幸福な気持ちになれたのだから置いてみるのもいいかもしれない。
朝食でも取りながら妻に相談してみよう。
そう思い、妻のいるリビングへと向かった。


 また、夜に目が覚めた。
まるで朝、日の光で目覚めるような自然な目覚めだった。
部屋の雰囲気は昨日とは打って変わり、光のない暗く静かな空間になっている。
いつものように妻を起こさぬよう、少しだけ身を起こす。
そしてまた目を閉じ、じっと考える。
あれはまた来るだろうか。
あれをまたやり過ごすことができるだろうか。
あれはいったい何なんだろうか。

 ふと床がぎぃっと軋む音がする。
それほどやわな床ではない。
きっと私の二、三倍の体重をもったなにかが通ったのだろう。
私はいつものようにじっと息をひそめる。
ヘドロにも近いような腐臭がうっすらと漂う。
奴はきっと私を探している。
このまま目を閉じていればやり過ごせる。
でも、もし目を開ければ、何かが変わり、この夢を見ることもなくなるかもしれない。
とはいえ、決心がつかない。
実際に姿を見たわけでもないのにたまらなく恐ろしい。
関わることがどうしても恐ろしいのだ。

 そうこう逡巡しているうちに、化け物は私に気づいた。
ただいつものようにもう眠っていると思ったのか、そのぬるりとした泥を纏った手で、私の頬を撫でた。
なぜかはわからぬが愛おしそうに。
やつは何度も何度も私の頬を撫でる。
我が子だとでもいうように。
いつもと違い、長々となで続けるからか、蓄積した恐怖が弾け、一度大きくビクンと体が震えてしまった。
目は閉じたままにもかかわらず、奴がそれを見てにたりと嗤ったのを感じ取ってしまった。
震えが止まらない。
耐えきれぬほど恐ろしい
思わず目を開ける。

 思っていたような光景ではない。
だがそれよりも恐ろしいのかもしれない。
ただ呆然として、震えは止まった。

 それにしてもいつからなのか。
そんなことになっているとは、ついぞ気づかなかった。
端的に言うと私は包まれていた。
羊水のようにも思える、半透明の少し濁った水の膜。
厚く、密度が高くてかたいように思える。
ぎっちりと詰まった水。
その向こうに歪んで、奴が見えた気がした。
海の中から見る鳥が、途方もないものに見えるように、私からは奴が化け物ではなく、もっとまともなもの、まるで人間のようなものに見えた。
あれは誰なんだろうか。
人ではないのに思ってしまう。
じっと目を凝らして見ようとはするけれど、羊水の中の胎児のように眠ってしまった。


 得体の知れない不快な夢ばかり見る。
今日もそんな夢を見た。
なんとも説明しにくい夢ばかり見るのだ。
ごく平凡な日常のこともある。
安っぽいホラーのような変な化け物が出る夢もある。
ただそれらの夢に総じて言えることは、それに出てくる男達、彼らが妙に私に似ているように思えることだ。
丸っ切り、私というわけではない。
どこかまで同じ、そしてどこからかは違う道を進んで、違う人間になった、そんな風にさえ思える。
これらの夢は現実のどこかでつながっていたのではなかろうか。
そしてまた何かの拍子に同じ現実へと進むのではなかろうか。
我々という人間だったものは、いつか誰それという人間に、溶けるように、重なるように、一つに、もっと言えば一人に収束してしまうのではなかろうか。
突拍子もない妄想ではある。
だがあの夢は妙に現実味を帯びているのだ。
我々はとても近しいところでつながっている。
どうにもそう思えてならないのだ。
今日も寝るのが恐ろしい。
朝、目覚められるのだろうか。
目覚められても、今までの私と同じといえるだろうか。
いくら寝たくないと思っても、まるで寝ることを強制するように睡魔が襲ってくる。
眠りたくはない。
だが、いくら抵抗しても意味はない。
こんなことに抵抗できるほど私は強くない。
そう思いながら眠ってしまった。


 夜、目が覚めた。
それほど眠った気がしない。
二時か三時頃だろう。
妻は帰ってきたのだろうか。
目を開けて隣のベッドを確認すれば済む話だ。
だが、する気にはなれなかった。

 彼女は最近、仕事が忙しいらしい。
残業が続いている。
もしくは、単に家にいたくないのだろう。
子どもなんかいなくてもいい。
今でもそう思っている。
だが、彼女は僕が本心では子供を望んでいる、そう思っているようだ。
もうずいぶんと、話をしていない。
最後に話し合いをした時の、彼女のおびえたような顔ばかり思い出される。
あれ以来、会話も目を合わせることも極端に少なくなってしまった。
だが、あの話し合いばかりが原因なのだろうか。
彼女は私の何をそれほど恐れているのだろう。
あれほど怯えられるようなことを私はしただろうか。
暴力も暴言もとんと縁のないような気の小さい人間だと自分では思っている。
どう考えても、身長もさして変わらない気の強い彼女が怯える相手とは思えない。
何故だろう。
僕は何をしたのだろうか。
暗い寝室で考えるにはどうにもつらい話題だ。

 やがて音を立てずに静かにドアが開いた。
彼女もさすがに寝ないといけない
連日、こんなに短い睡眠時間で大丈夫なのだろうか。
ずり、ずり、ずり。
衣がこすれるような音がする。
着替えてベッドに潜りこんだところなのだろう。
隣のベッドに気配を感じた。
疲労した空気が漂う。
本当はここで、「おかえり、お疲れさま」とでもいえばいいのかもしれない。
だが、今、声をかけても驚かせるだけだろう。
それに彼女は僕に声をかけてほしいなどみじんも考えてはいないだろう。
僕はそんな勇気もない小さい男なのだ。
黙って眠りについたほうがいい。

 なんだか臭いがする。
ヘドロのような吐き気がするきついにおい。
夢でも見ているのだろうか。
現実味にかけている。
到底普通の寝室からするようなにおいではない。
夢ならば夢でこのまま目をつむったままにしてしまうのがいいかもしれない。
どうせ碌な夢ではないだろう。
夢が終わるまでじっと耐えるしかない。

 音もする。
巨体を床に引き摺るようなずるり、ずるり、という音。
やはり、碌でもない夢だ。
きっと恐ろしい怪物のようなものに一息にばくりと食べられてしまうのだろう。
眠っていると思われるように息をひそめる。

 やがて置物のように微動だにしない僕のそばへとそれは近づいてきた。
それはなにかを探すように、丹念にじっくりと部屋の隅から隅まで調べていく。
巨体をゆっくりと引きずりながら、部屋をまわっていた。

 一度、すぐそばを通った。
臭いが一段ときつくなり、荒々しい息遣いも聞こえた。
それが生きた化け物なのだということが自覚させられる。
身体が言うことを聞かず、震え出しそうになる。
静かに深く、息を吸い、心を落ち着ける。
目が覚めていることに気づかれてはいけない。
なぜだか、そう思った。
そして、それを必死に守ろうとした。
ただ、ただ静かにしてさえすればこの悪夢は終わる。
恐ろしい怪物は何処かへと去る。
それだけを信じて、僕はゆっくりと息を吐いた。

 先ほど、物音がこの部屋から遠ざかっていくように感じた。
五分、いや十分はそのまま堪えた。
さすがにもういないだろう。
ほうっと息を吐く。
その時、横で何かが身じろぐような音が聞こえた。
ドンっと心臓が大きな音を立て、跳ね上がる。
ここまで耐えたのに、そう思った。
もう隠れることはできない。
覚悟を決めて目を開けた。


 目覚ましの鳴る音で目が覚める。
寝巻がぐっしょりと濡れている。
夢でよかった、本当にそう思った。
身体を起こして、しばらくの間、じっとしていた。
そうすることでやっと気持ちが落ち着いてきた。
妻はもう起きたようだ。
昨日の就寝前と変わらないベッドがそこに在った。
ベッドから降り、顔を洗いに洗面所へと向かう。
一瞬だが、何かひどいにおいがした気がした。
身体が内側から凍るような感覚。
言うことを聞かずに震え始めた。
この臭いはあの化け物の臭いなのではなかろうか。
そして、さらに気になることができてしまった。
昨日はどこからどこまで夢だったのだろうか。
あの化け物がうろついていたところだけだろうか。
それとも僕が帰ってきたと思ったのは彼女ではなく、化け物だったのだろうか。
臭いがまたする。
それも今度はもっときつく。
自分が倒れていくのが分かる。
床に顔を叩きつけるようにしながら、ある考えが自分の中を反芻していく。
「もし仮にそうだとしたら、彼女は昨日、何処に行ったのだろうか」


 夜、目が覚めた。


 夜、目が覚めた。

 夜、目が覚めた。
 夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。夜、目が覚めた。
 私はどうやら気がふれてしまったらしい。
最近では、同じようなおぞましい夢ばかり見ている。
何処か私と似通った、むしろ、「私」とは違う選択をした『私』そのものたちが生き、悪夢としてあの化け物に遭遇するそんな夢。
こうすればこうなる、というのを端から並べ立てられているようだ。
それも回を追うごとに悪夢としての呈そうが強くなっている。
螺旋階段が思い浮かぶ。
その螺旋階段の一段、一段が、私の見る夢であり、私を否応なしに深いところへと連れ去ってしまう。
もうそろそろ終点であろう。
そう思えるほどに深いところへと来てしまった。
螺旋階段の一段目ははるか高みとなり、何も見えない暗闇が見通せぬよう蓋をしている。
そんな閉じた穴の底へとたどり着こうとしていた。

 穴の底になにかの息遣いを感じる。
私をここへと追い立てたあの化け物のものではないだろう。
もっと怯えたようなかすれた息遣い。
目覚め、隠れる私の息遣いに近い。
私には確信のようなものがあった。
きっと私の妻だ。
私の世界から突然するりと抜け落ちてしまった妻。
彼女はここに落ちたのだ。
そう思えてならなかった。

 あと何度、夢を見ればいいのだろう。
あと何度で、私はこの階段を降りきることができるだろうか。
もう、彼女の気配を感じ取れるほど近い。
この夢の世界であっても、彼女に会えるならそれでいい。
現実とは思えない歪んだ穴の底。
そこで彼女はきっと待っている。
そこで待つ彼女に会えて、初めてまともな世界へと戻れる。
素晴らしいとは言い難い、けれどゆるりとした幸福の漂う、人肌程度には暖かな終の棲家。
私の求めるささやかな幸せ。
そういうものへと至れるはずだ。

 あと一段か二段。
人間の体温からなる暖かさすら感じる。
きっともうすぐなはず。

 月明かりでほの暗い夜、目が覚めた。




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