文字化け

内藤紗彩


 科学の飛躍的な進歩に伴い、人々は様々な電子媒体を介して意思疎通を図り、言語はより高度に、文字はより複雑になった。その一方で、誰でも気軽に情報を発信できる環境は、人々に発言への責任を忘れさせた。この時代、言霊なんて信じる人がいるだろうか。

「話には聞いていたが、実際に目の当たりにするとこりゃあ想像以上だな」
「僕は臭いだけで、もう……うっ」
「しっかりしろい。ぶっ倒れるのは自分の仕事果たしてからにしてくんな」
原型を留めていない、肉塊。若いほうの刑事は立っているのもやっとで、話す声も弱々しい。熟年の刑事の激励にもどこか覇気がなかった。
「は、え、ええっとそれが、ここまで破壊されていては身元どころか性別すら判断できません」
「けっ、使えねぇな」
「引っ越したばかりのようで部屋は『達也』という名前で借りていたようですが、ここからの特定はかなり困難になるかと」
「他に今ある情報は?」
「死亡推定時刻は昨夜二十三時半頃。直接的な死因は不明。状況から見て失血死であることは間違いないですが、所々に焼けた跡や爆発したかのような」
「つまりほとんど何も分からない、と」
「……そうですね」
 言葉を遮られ、若い刑事がふてくされて答える。遺体から目を背けようにもそこらじゅうに血が飛び散り、辺り一面薔薇の絨毯を敷き詰めたように真っ赤だった。
「にしても酷いな。とても人の仕業とは思えない」
「最近増えていますよね、通称プチトマト事件。なるほど被害者をトマトのようにプチっと潰」
「やめろ。ただでさえ胸くそ悪いのに」
「すいません」
 まったく若いもんは順応が早くていいよなぁ、と皮肉を言いながら再びごそごそとやりだしたので、もう一人も仕方なくあとに続く。

 ほどなくして上司は部下を呼びつけた。
「クローゼットには真新しい女性用の服、引き出しには女性用の下着。こいつはどういうことだ? 被害者には女装癖でもあったのか?」
「こちらもありました。部屋に置いてあったスマホには大量のメールが、隣の部屋には長文の手紙が、山のように積まれていました。どうやらこの被害者ストーカーにあっていたみたいです。全て差出人不明で、宛名は『美香』、被害者の知人の名前でしょうか?」
 どれ、見せてみろと手から手紙の束を奪い取る。
「『貴女を想うと身も焦がれる』、『心臓が張り裂けそう』どれも陳腐な表現だな」
「もしかして被害者自身が『美香』だとしたら」
「だとしたらつじつまが合う。被害者は女性。ストーカーから逃れるため偽名を使ってこの部屋を借りた。しかしその後も被害は収まらなかったわけだ。となると犯人はこの男か? だがどんな大男にも人をこんなにできるとは思えんがな」
「あくまで可能性ですが差出人の彼が重要参考人なのは間違いないですね」
「にしても妙だ。凶器が見つからない。と言うより何を使ったのか想像もつかない。犯人が一人でやったというのならだというのなら尚更だ」
「……これ、『文字化け』の仕業じゃないですかね」
 誰に言うでもなくぽつりと呟く。
「文字化け?」
 怪訝そうな顔で睨むと慌てて言葉を続けた。
「そういう都市伝説があるんですよ。もちろん噂話なので僕も信じてはいませんが」
「急にどうした。俺は見ての通り古い人間だからな。プログラムの話なんてのはさっぱり分からねぇ」
「違います。文字が、化けるんです。お化けですよ、お化け」
「ますます意味が分からん。そんな魑魅魍魎を当てにするより、この男に話を聞くほうがよっぽどましだ」
「ですが」
「おい、行くぞ」
 得体のしれない何か。心臓が握り潰されるかのような違和感。だが上司の命令はそれらの何物にも勝るのだ。どうせこのご時世、非科学的なものなど誰も信じない。

 案の定、というべきか。犯人は見つからなかった。というより、そもそも犯人などいなかった。

「ごめん待った?」
「もう。連絡も来ないし、美香ったら今日の約束忘れてるのかと思ったよ」
「いやぁ、ちょっとスマホなくしちゃってさ」
「また? じゃあ彼氏との連絡困るんじゃないの」
「あぁ、達也のこと? ストーカーだったから昨日別れたよ」
「え、勿体ない」
「あいつはヤバい。別れるって言ったら、それなら死ぬとか言い出してさ」
「じゃあ今はフリー?」
「まぁね。あ、でも今度ネットで知り合った女の子と会う約束してるよ。男は当分いいや」
「その子もネカマだったりしてね」
「やめて。ホントにありそうで笑えない」
「男遊びばかりしてたからその呪いだよ」
「でも私、正直言って本気で好きって気持ちわかんないんだよね。『死ぬほど好き』とか馬鹿かよ。命のほうが断然重いわ」

「名は体を表す」とはよく言ったものだ。いつしか現実の事象を表すための文字は、逆に自らの現象を生み出すものとなるかもしれない。




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