ハッピーレモネード 街田灯子 私が紫乃と出会ったのは、小学五年生の夏休みが開けた頃だった。 紫乃は転入生として、私たちのクラスにやってきた。先生に紹介されたときの紫乃はみんなの注目を浴びた。紫乃は都会育ちらしく、女の子らしいワンピースは洗練されていて、天然パーマの髪を二つに結んでいた。綻び一つない赤いランドセルはみんなが羨ましがった。この田舎の小学校では、ランドセルではなくやたら大きくて実用的なリュックみたいなのを使っていたから。 私は初めて転入生というものを見て、ちょっと感動した。紫乃は目が大きくて、とてもかわいい女の子だった。そして都会育ちらしく明るくて社交的だったので、すぐにクラスに溶け込んだ。私はクラスの中でも頼られるタイプの人間ではあったが、紫乃のかわいらしい様子が羨ましかった。着ている服を比べても、私なんて動きやすい恰好のものばかりだし。 紫乃がやってきて一週間ほどが経った、とある放課後。ちょうどいつも遊ぶ友達はみんな習い事があるといって先に帰っていた。私はひとりで帰っていた。家に帰っても父はまだ帰宅していないし、特にすることもない。仕方ないので宿題をやるしかないかとぼんやり考えながら帰り道を歩いていた。すると、 「瑞希ちゃん」 私の名前が呼ばれた。振り返ると、紫乃が立っていた。赤いランドセルを背負って。 「瑞希ちゃん、一緒に帰ろ」 さも当然のように言われたので、私は少し安心した。向こうもひとりのようだし、せっかくだから一緒に帰ることにした。 「紫乃ちゃんの家はどこらへんなの?」 「あっちのほう。小さい公園の近く」 そういって紫乃が指さした方向は、私の家とは真逆だった。しかし、紫乃の家が見てみたかった。 「紫乃ちゃん家、ついていってもいい?」 紫乃は一瞬びっくりしたようだが、すぐに微笑んで「いいよ!」と言ってくれた。 「たぶんお母さん帰ってきてないし、紫乃のの家で一緒に遊ぼう」 彼女は、自分のことを「紫乃」と呼ぶらしい。 「紫乃ちゃん家のお母さん、お仕事?」 「うん。だから家の鍵持ってるの」 そう言って紫乃は首から下げた紐を見せてくれた。ピンク色の紐の先には、鍵がぶら下がっている。 私も鞄から鍵を出して見せると、紫乃は喜んだ。 「瑞希ちゃんも鍵持ってるんだね! 仲間だ」 紫乃の笑顔につられて、私も笑顔になる。親が仕事で家にいないという共通点が、なぜか嬉しかった。 紫乃の家は、公園近くのアパートの中だった。ドアの前まできて紫乃が鍵を差し込む。中はそんなに広くなかったが、片付いていて綺麗だった。紫乃の部屋に案内してもらう。 紫乃の部屋は、部屋の主と同様、少女趣味のかわいらしいものだった。ピンク色のカーテン、ベッドのふとんカバー。赤いクッション。木でできたタンスの上には、動物のぬいぐるみ。まるで自分が小さくなって、ドールハウスの中に迷い込んだかのようだ。私の部屋とはかけ離れている。自分の部屋を不満に思ったことはないが、こんな部屋に住むのが当然と思えるようなかわいい女の子になりたいとは思った。 「座って座って」 紫乃にすすめられ、ベッドに腰かける。私の家はベッドはなくて布団を敷いて寝るから、新鮮だ。 「すごい……かわいい部屋」 私は正直に感想を言った。 「えへへ、ありがとう」 紫乃も正直に照れている。私は紫乃に好感を抱くようになった。 その日は、紫乃とお菓子を食べたり、置いてあった少女漫画を読んだりして、夕方まで過ごした。そろそろ帰ろうかという頃になって、紫乃の母親が帰ってきた。 「ただいま。あら、紫乃ちゃん、お友達連れてきたの?」 紫乃の母親は紫乃とそっくりの優しい雰囲気を持つ、明るい人だった。私には母親がいないので、こんなお母さんがいたら素敵だろうなと思った。 「うん。瑞希ちゃんっていうの」 「瑞希ちゃんね。今日は紫乃と遊んでくれてありがとうね」 私もお礼を言って、紫乃の家を出た。空は甘ったるいオレンジ色だった。 家に帰ってしばらくすると、父が帰ってきた。父が買って来た唐揚げ弁当を食べながら、私は早速、紫乃のことを話した。 「転入生の子か。いい子みたいでよかったな」 「うん」 父も紫乃の話を聞いて好感を抱いたらしい。それがまた嬉しかった。 それからも、私はたびたび紫乃の家に遊びに行くようになった。紫乃と一緒にいると、私も女の子らしくいられるような気がした。 紫乃のクローゼットの中から服を選んで、ファッションショーをして遊んだこともある。紫乃は私の前に服をかざしながら、「瑞希ちゃんもこんな感じの服、似合うんじゃないかなあ」と言った。 「そうかな」 「そうだよ。あ、これどう? 紫乃のお気に入りのやつ」 クリーム色のワンピースだった。優しい色合いで、派手なものを着ない私のことを考えてくれたのだろう。それでいて、ボタンや刺繍はかわいらしい。いつもTシャtにジーパンという格好の私だが、かわいい服には憧れる。 「ちょっと着てみて!」 紫乃があんまり嬉しそうに言うので、私は「えー」と不満げにしながらもそれを着た。内心では、ちょっと楽しみでもあった。 いざ着てみると、案外悪くなさそうだった。私は紫乃より背が高いので、そのぶん丈が短かかったけれど。 「うん、似合ってる!」 「そうかな……」 私は照れたが、紫乃は笑顔だった。 紫乃の母親が仕事を早く終えて帰ってきて、私たちにレモネードを作ってくれたことがある。残暑の暑い日だったので、冷たいレモネードは甘く、爽やかでおいしかった。なんでも、レモンを絞って作ってくれたのだという。 私は自分の家でレモネードなんて作ったことも飲んだこともなかったから、やはり憧れた。レシピを教えてもらい、後で自分の家で試してみたこともある。しかし、紫乃の家で飲んだときのようにうまくはいかなかった。父にも協力してもらって一緒に作ったが、どうも甘すぎたり、酸っぱすぎたりするのだった。 紫乃が引っ越してきて三ヵ月ほどが経っただろうか。授業参観の日があった。 親が見に来る授業は五時間目。昼休みに、紫乃は私のところに来て、聞いた。 「紫乃ちゃん家は、誰が来るの」 「お父さんが来るよ」 お母さんは? と聞かれるかと思って身構えたが、紫乃はそうは言わなかった。 「そうなんだ。いいな、お父さん」 とだけ言った。 五時間目になった。教室の後ろに、父が入ってくるのが見えた。廊下のほうを見ると、紫乃の母親もいる。私はいつも通り、いやいつも以上に熱心に授業を受けた。放課後になり、父は私のもとへやってきて「よく頑張ってたな」と褒めてくれた。 私は紫乃のほうを示して、「あの子が前話した紫乃ちゃん」と紹介した。紫乃も母親と話している。 「そうかそうか、じゃあ挨拶してこよう」 父は紫乃と、紫乃の母親に挨拶した。そういえば私は紫乃の母親に会ったことがあるのに、紫乃は私の父に会ったのは初めてだ。 「いつも瑞希がお世話になってます」 「いえいえ、うちの紫乃こそ……」 紫乃の母親と私の父は意気投合したようで、「授業参観も終わったし、せっかくだから一緒にご飯でもいきましょう」ということになった。その夜は四人でレストランに行った。四人家族ってこんな感じなのかな、と思った。私と紫乃はオムライス、私の父はカレーライス、紫乃の母親はパスタを食べた。いつも父と二人きりで夕食を過ごしていた私にとって、新鮮な時間だった。 紫乃と、紫乃の母親と別れて家に帰る。父は、私に行った。 「紫乃ちゃんと仲良くしてあげなよ」 私は「もちろん」と答えた。父も、紫乃を気に入ってくれたのが嬉しかった。 私と紫乃は、学校でも二人でいることが多くなった。なんとなく、気が合うのだろう。 時間は飛ぶように流れ、いつのまにか小学五年生を終えて、六年生になった。春には修学旅行があり、京都へ行った。自由行動の際は紫乃と一緒に回った。かけがえのない時間だった。 春が終わり、秋になった。もうすぐ小学校を卒業してしまうのかと思うと、少し寂しかった。校庭の木の葉が紅くなっているのを見ながら、私は紫乃に尋ねた。 「紫乃はこの学校に来たのは去年だけど、やっぱり卒業は寂しい?」 「寂しいよ。ほとんどの子が同じ中学には行くと思うけど」 「まあね。私と紫乃も同じ中学だし」 「中学、どんな感じかなあ。制服、いいよねえ」 私たちが進む予定の中学は、紺色のセーラー服に白いスカーフといった制服だ。つい最近、採寸して完成した制服が届いた。 制服を着ている自分たちを想像すると、なんだかむずがゆくなった。私たち二人は黙り込んでしまった。 その日の夜のことだ。夕食の後、父が「話があるんだ」と神妙そうな顔で言った。私は何事かと驚いて、固まった。 「父さん、再婚しようかと思ってるんだ」 「え……」 驚いた。今まで、母と離婚してから六年以上経つが、そんな素振りはなかった。父と私の二人きりでも、「このままでいるのが一番いい」と、父は笑っていたはずなのに。 しかし、父が再婚したいと思える人がいるのは、喜ばしいことだ。私は言葉を選んで、「そうなんだ」とだけ言った。 「その女の人っていうのは……お前も知ってる人なんだけど、」 父は前置きした。照れくさそうな表情がほほえましかったが、次の言葉を聞いた瞬間、その表情は私を傷つけるだけのものとなった。 「紫乃ちゃんのお母さんなんだ」 私は一体、何に衝撃を受けているのだろう。素晴らしいことではないか。私の父と紫乃の母親が再婚すれば、財政面で補い合えるし、子育ての負担も減る。でも……。 紫乃ちゃんと仲良くしてあげなよ。 あの言葉は、紫乃ではなく紫乃の母親のための言葉だったのだろうか? そう思うと、今まで慕っていた父に裏切られたような気がした。ただ一人の、私の味方だった父に。 いや、悪いのは父ではなくて、素直に喜んであげられない私のほうだろうか? 次の朝、私は紫乃と目を合わせることができなかった。紫乃も、私と目を合わそうとはしなかった。横目で紫乃の表情を伺うと、あまり顔色がよくなさそうだった。紫乃も、母親から再婚の話を聞かされたのだろうか。 その日は一日中、紫乃と言葉を交わさなかった。それを見かねたのか、友達が私に言った。 「どうかしたの? いつもは紫乃ちゃんと一緒にいるのに……」 私は答えた。 「元気がないだけだよ」 私も、紫乃も。 放課後。いつもなら紫乃と一緒に帰るところだ。みんなが教室を出る中、私も紫乃もなんとなく動けずに席に着いていた。やがて紫乃が「瑞希ちゃん、帰ろう?」と遠くから弱々しく声をかけてきた。私は頷いて、紫乃と一緒に教室を出た。 校門を出てからしばらく歩くと、他の下校する子供たちも見えなくなって、道を歩いているのは私たちだけになった。沈黙を恐れるように紫乃が言う。 「お母さんがね、再婚、するって」 「……うん」 「瑞希ちゃんのお父さんと」 「……うん」 「紫乃ね、素直に喜べなかった。本当はすごくいいことなのに。一人で子供を育てるのは大変だってみんなが言うから、再婚するのが悪いわけない。でも、でもね」 「うん」 「紫乃、瑞希ちゃんとずっと友達でいたいのに」 「うん……」 「家族になったら、どうなるのかな……」 私と紫乃を結びつけていた、片親に育てられているという境遇。それが失われたら、私たちはなにを取っ掛かりにして友達でいられるのだろう。 友達じゃなくなる。家族? 姉妹? 私は、紫乃が手を握りしめているのに気が付いた。そしてその手が震えていることにも。 私だけじゃない、紫乃もまた混乱していたんだ。紫乃も、親に取り残されてしまったんだ。 紫乃の握りしめた左手に、そっと私の右手を添える。強張った力が少しだけ解けたようだ。 「大丈夫。私がいるから」 「友達じゃなくなるのに?」 「友達じゃなくてもいい。なんて呼べばいいかわかんないけど、私は紫乃の味方だから」 紫乃が弱々しく笑った。泣き笑いだった。 「じゃあ、紫乃も瑞希ちゃんの味方でいてもいい……?」 ああ、私は子供だ。どんなに父と協力して家庭を回しているつもりでも、友達に頼られるように努力していても。大人には抗えないし、紫乃を不安にさせてしまった。それに、涙も我慢できないし。 私たちは二人して泣きながら、とぼとぼと帰り道を歩いた。手は決して離さなかった。 親が再婚して、私たちの生活は少し変わった。 私たちが同じ家に住むようになったのは、中学に入るのとほぼ同時だった。遠くに引っ越すこともなく、同じこの町に新しい家を建てた。田舎なので一軒家は珍しくないけれど、紫乃の母親はすごい、すごいと喜んだ。 私と紫乃はそれぞれの部屋を手に入れた。自分の部屋にいることもあるし、どちらかの部屋で一緒に遊ぶこともある。 なにも変わらない。変わったのは、私がかわいらしいスカートを穿くようになったことと、紫乃が自分のことを「私」と呼ぶようになっただけ。 紫乃の母親は私に優しくしてくれるし、私の父も紫乃に優しい。家族円満だ。 中学での生活も、楽しい。紫乃は吹奏楽部に、私はテニス部に入った。二人とも部活が忙しいが、帰る時間は同じだ。 中学一年生の秋に、紫乃の母親が妊娠していることがわかった。私の父はものすごく喜んだが、私と二人きりになったとき、心配そうに私に尋ねた。 「瑞希、いやじゃないか? 最近、無理してないか?」 「いやじゃないよ」 私は気丈に答えた。もう家族四人でいることには、少し慣れた。どうせ一日のほとんどは学校にいるのだし、気にすることもない。 「それより、男の子か女の子か、まだわかんないのかな」 「ああ、まだみたいだ。あと数か月くらいらしい」 私は、純粋に生まれてくる赤ちゃんが楽しみだった。 その後、紫乃と二人で、赤ちゃんの性別を予想した。 「私、妹がいいな。紫乃は?」 「私も妹がいい。そのほうが楽しいよ、一緒に遊んだり、買い物に行ったりしたいなあ」 「うん。でも、女ばっかりだとお父さんがちょっとかわいそう」 「あはは、確かに!」 紫乃は自分のベッドに寝転んでいる。腕に顎を載せて、私を見上げた。 「瑞希ちゃん、私ね」 「うん?」 「生まれてくる赤ちゃんって、瑞希ちゃんとも、私とも血が繋がっているわけでしょう」 「そうだね。私のお父さんと、紫乃のお母さんの子供だから」 「だったらさ、……」 紫乃はその先を言わなかった。言わなくても、私にはわかった。 「そうだね」 生まれてくる赤ちゃんは、私と紫乃の子供だ。 砂糖の甘さと、レモンの酸っぱさを同時に味わったような感覚に、私は笑ってはぐらかした。
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