五線譜の木洩れ陽を歩くように

岬 いさな

	1

 山の季節は変わりやすい。知識として知っていても、知恵として活かせるかは別問題であるということを、恥ずかしながら私は高校三年生になってようやく知る機会を得たらしい。
「……止まないなあ」
 通い慣れた校舎から程近く、しかし散歩には多少険しい山間の道。華の女子高生の細足でも何とか登ってきた道程は、既に重い雨の緞帳に閉じ隠されてしまっている。このまま木陰で雨宿りするか、それとも鞄を傘に強行突破するか。こうして悩んでいる間にも、疎ましかった西日の眩しさが恋しく思えるほどに、秋口の寒々しい夜が足元から這い寄って来るのが肌で分かる。
 ふと腕時計を見ると十八時半。夏の盛りならまだ明るかったが、この時期なら既に陽が落ちている。これ以上明るくなることは、もうない。
「……っ」
 喉が鳴り、身震いする。言葉にして認識した現実は思ったより残酷で、進行する事態は思ったより深刻だ。先週早めに衣替えした冬用のセーラー服は言うまでもなく、枝葉の隙間から滴る雨粒でつむじから足先までぐっしょりと濡れている。慣れない登山で火照っていた身体は既に氷の様に冷たく、ローファーの中で不快な水音を立てる足指は半ば感覚がない。
このままだと  。頭を振って暗い考えを断ち切る。馬鹿馬鹿しい、冬前の氷雨なら寒いのは当然だ。身体を掻き抱いても寒気が止まらないのはそのせいに違いない。違いないんだ。そう、そのせいに  。
『          ッ!』
「ひっ」
閃光。そして轟音。千々に乱れた思考を引き裂くように、『落雷』という台詞が頭の中を乱れ飛ぶ。
(大きな樹の下は危ない  )
 咄嗟に鞄を左手で持って木陰から駆け出した。一層濡れ鼠になるが構っていられない。木陰と木陰を渡っていくように来た道を引き返そうとした。
 二度目は、ほぼ同時だった。
『            ッ!!』
 衝撃で吹き飛ばされたのか、驚きのあまり木の根や石に躓いたのかは分からない。それでも気が付けば、私は泥塗れで地面に這い蹲っていて。
「……あ」
 ついさっきまで背中を預けていた大きな木が、見るも無惨に引き裂かれていて。
「……ああ」
 ついさっきまで求め焦がれていた暖かな火が、湿気と共に私の頬を舐めるように照らして。
「……ああああああっ!!」
 緞帳の様な重苦しく暗い夜の空に、星でも月でもない眩い光が三度(みたび)閃いた。
 知識として知っていても、私は知らなかった。
 死ぬのは怖くて、痛くて辛いものだ。

	2

 走った。
 走った。走った。走った。走った。走った。走った。
 ただひたすらに。ただ前に。火照る頬を枝が弾く。鞄を握り締めた手が汗で緩む。喉の奥から血の味がせり上がり、息は吐くばかりで吸うことも出来ない。それでも。
「……っ、やだ……」
 真っ直ぐ走っているかも疑わしい夜闇。勢いを増す雨で目を開けることも出来ない。朽葉で滑り、岩肌に躓く。柔肌を這う雫の感触が汗か血かも分からない。それでも。
「……やだ、よ……っ」
 死にたくない。その一心が身体を突き動かす。口の端から零れる拒絶が、悲鳴を上げて軋む脚を黙らせる。私がこの山に来たのは死ぬためじゃない、楽になりたかったからだ! 首吊りでも飛び降りでもいい、自由になりたかったからだ! 決して苦しんで死にたかったわけじゃない  !
 知らないことばかりだ、この世界は。稲妻の形をもって現れた死への根源的な恐怖。芳しくない運動神経が全力以上で稼働する昂り。思い付きが裏目に出て、不幸は波濤の如く次の不幸を呼ぶ世の理。みんなみんな知らなかった。知ろうともしていなかった。ただ  。
 脚と共に唸る思考が、背後からの轟音によって掻き消される。またも転んで尻餅をついたその先で、見覚えのある看板の影が視界に入った。
(案内板  !)
放課後山道を歩く中で何気なく目に留まっていた、山頂への道程を示す簡素な案内板。立っているのは麓ばかりで中腹に差し掛かってからはほとんど姿を見せなかったそれは、今となっては天啓にさえ感じる。この朽ちかけた小さな看板は、この夜闇の逃避行があと僅かであることと、この先の道筋を具に語ってくれるからだ。
(助か、った  ?)
半ば這うように近寄り、縋りついて書かれた文面に目を走らせる。そこにはこうあった。
『注意! 滑落事故多発の危険個所。立ち入り禁止』
『自殺を選ぶ前に、一言相談を。電話番号は  』
『自殺はダメ! 警察官巡回エリア』
「  あ、はは」
何度目か分からない雷鳴が、ひどく遠く感じる。
行きがけに敢えて見て見ぬふりをしたこの看板は、山の中腹になかったか。遥か彼方に街を見下ろす開けた岩肌、せり出した崖の先端にあったものではないか  。
雷鳴とは違う轟音が、足元  地の底から響く。驟雨で緩んだ地盤、大地を揺るがす雷霆の衝撃、突如襲い掛かる浮遊感。崖が崩れ落ちている、と気付いた時には、もう遅くて。
左腕を伸ばす  届かない。岩肌の手前で空を切る。
右腕を伸ばす  届い、た。岩肌に触れ、空を掴む。
「      ああ」
 暗闇の中を堕ちながら、私は確信した。数瞬先に訪れる死と、私という人間の愚かしさを。
そして。
「……神様、私のこと嫌い過ぎでしょ……」
 轟音と共に、眠るように目を閉じた。

	3

 生まれつき、私は耳が良かった。
 部屋の片隅で誰かが落とした針の音が分かるくらい。ペンの走る音だけで何を書いているか分かるぐらい。木陰で息を潜める子猫の息遣いが分かるくらい。ピアノのちょっとした調律のズレが分かるぐらい。
 それと。
『  あの子、調子乗ってない?』
『分かる、いつも一人でお高く留まっちゃって』
『ちょっとピアノが弾けるからって』
『『『  ホント、イヤな子  』』』
   どんなに声を潜めていても、自分の陰口が絶え間なく聞こえるぐらい。
 人と喋るのが苦手だから音楽にのめり込んだのか、音楽にのめり込んだから人と喋るのが苦手になったのかはもう覚えていない。でも、私の人生が音楽と罵倒に満ちていたのは確かだ。
 他の子たちがお人形やお花、スイミングや塾で交友関係を築く中、私はただひたすらに音楽に打ち込んだ。皮肉にも、縁や友人と引き換えのそれが私の血肉となった。
 ピアノ。オルガン。バイオリン。トランペット。ギター。マリンバ。フルート。ドラム。三味線。トロンボーン。チェロ。サックス。ベース。箏曲。ハープシコード。リコーダー。ティンパニ。グロッケンシュピール。二胡。オカリナ。口笛。テルミン。ホルン。ユーフォニアム。ファゴット。バグパイプ。スーザフォン  。弾けるようになるのは楽しかったし、弾けるようになったことを褒められるのは嬉しかった。洋の東西も楽器の大小も問わず、メジャーで広く知られたものから好事家でも名前さえ知られていないものまで次々と修めていく私に、父や母親をはじめとする多くの先生が面白がって教えてくれた。
 特に、トランペットが好きだった。遠く地の果てまで響く高らかで華やかなファンファーレ。甘く艶やかに薫り空間を染め上げるジャズ。数多の楽器を背に主旋律を高らかにに歌い上げるオーケストラでのソロ。一糸乱れぬ行進の中でも一際存在感を放つマーチングブラスバンド。小さなその身体に無限の可能性を秘めた楽器に、どこか親近感を抱いていたような気もする。
 小学校に上がっても、中学生になっても、そんな生活に変わりはなかった。体裁上吹奏楽部に所属し、ホームルームが終わるや否や楽器のレッスンかコンサート、コンテストに向かう日々。学校での付き合いは最小限に、ただ音楽に打ち込む。表立った文句がなかったのは、他の生徒とは一線を画す  中学生にしてトランペットの世界的コンクールにて最年少受賞という  雷名のお陰だったろう。
 当然歳を重ねるごとに名前も顔も知れ渡り、面と向かって面罵してくる人はいなくなった。
 同じように、歳を重ねるごとに私の悪名も知れ渡り、好き好んで話しかけてくる人も居なくなっていったが。
(私と彼らでは、住む世界が違うのだもの)
 これ以上なく思い上がった考えに自嘲しながら、私は態度を改めなかった。少なくとも、高校三年生の夏までは。
  私が全てを失った、夏の日までは。

	4

……嫌な夢を見た。最近毎晩のようにうなされる悪夢と比べれば些か古くはあるが、思い出したくもない記憶に変わりはない。寝汗が遅れるように背中や脇を不快に濡らし、ぶつけようのない苛立ちと共に喉の渇きが湧き上がる。
(……みず)
のろのろと身体を起こすと、花と緑の和やかな薫りが鼻腔をくすぐった。見れば、湯気の立つ湯飲みの中に見た事も無い程透き通った翡翠色のお茶が燻っている。
「…………」
 何気なく左手を伸ばし、啜る。熱い。淹れたてじゃないか。両手で包むようにそっと息を吹きかけ冷ましながら、やっと一口喉を通る。
「  っ。何これ……」
 美味しい、ではない。むしろ苦くて渋い感じはする。しかしてそれを不快に感じない、体中に陽だまりのような優しい熱が染み渡って行く様な感覚が迸り、手足の先まで温まる。二口目が喉を下りる頃には、四肢の末端から揺り返してきた暖かさの波濤が肺腑から花開く温もりの渦と弾けて交わり、びりびりと共鳴する。その感覚は、美食を堪能する際の幸福感というより薬が効果を発揮する時の多幸感に感じられた。
 三度、四度と嚥下するうちに、湯飲みは空になっていた。不思議なお茶にほう、と一息吐いて、周りを見回す。
そこは、六畳ほどの細やかな和室だった。三方を慎ましやかな障子戸と襖に仕切られ、漆喰壁の床の間には薄を基調にした竜胆の生け花が厳かに揺れている。薄手の木綿布団は井草の嫋やかな薫りを帯び、小さく八ッ橋をあしらった半纏がそっと掛けられている。何時の間にか袖を通していたのは浴衣であろうか、萌葱色に萩柄の装い、帯と髪留めは紫苑に整えられていた。竜を模した欄間と障子戸の向こう側は縁側らしく、涼し気な風の音と鹿威しらしき澄んだ音が漏れ聞こえている。
此処はどこだろうか? なぜ私は此処に居るのだろうか? 懐かしくも幻想的な空間は、当然の疑問を浮上させる。
湧き出る疑問に突き動かされるように改めて立ち上がろうとして  。
「    ッ!」
 予期せぬ激痛と共に倒れ込む。痛みは脇腹から迸り、飛んでいた記憶を呼び覚ます。
 雨の山中。諦観と不快感。轟音、そして雷鳴。走って走って走って。案内板への憤り、忘れていた自分自身への呆れ。浮遊感。落ちる、墜ちる、堕ちて……。閃く光。届かない左手。掴めない右手  。
 悶えながら蹲ると、はだけた胸元からいつの間にか巻かれている脇腹の包帯と赤い染みが良く見える。左手で必死に押さえるものの、鼻先を流れる滝のような脂汗が唇に塩味を感じさせる。痛い。痛い。痛い。助けて。助けて。
  助けなんて来るわけないじゃないの。あの時だって来なかったでしょう?
聞きたくもない〈声〉が頭の中で反響する。耳を塞ぎたいがそんな余裕はないし、そもそも塞いだところで聞こえなくなる訳でもない。歯を噛み締め耐えようとする思考をあざ笑うように、〈声〉は勢いづいてまくし立てる。
  いい子だねぇ。物分かりのいい、虫唾の走るいい子ちゃんね。助けてくれる人はいない、下等で愚かで低俗だからって自分で全部切り捨てたから! 声の届く人はいない、音楽ばかりにのめり込んで声の出し方も忘れちゃったから! そうでしょう? ぜーんぶ分かってて『助けて〜』の一言が言えない、いい子気取りの虫のいい子ちゃん?
 違う。違う。違う! 私は違う。私は違う! 出て行って、出て行け、出て行け! 足元が崩れ、胃袋が浮き上がる感覚。自由落下という、重力に戒められた悍ましい恐慌。
  否定するならそれでもいいんじゃない? 出ない声でのた打ち回って、人魚姫気取り? かわいそー。
 違う。違う。私は助けてほしかった。助けてほしかった。あれは事故。あれは必然。誰が悪いわけでもない!
  そうだねー悪いのは自分だよねー。誰も悪くない。電車の運転手も傍にいたクラスメイトも馴染みの先生もお母さんも悪くないよねー。あーあ自分が悪うございましたーだから死んで全部放り出してバイバイしまーす。きゃー悲劇のヒロインいっちょあがりー。
もんどりうって声にならない叫びをあげる。出て行って。私の中から出て行って。あの日から何度も繰り返した歎願を、しかし〈声〉は嗤ってあしらう。その間にも、私の意識は闇に落ち、呑まれそうになる。
(  たすけ、て)
もはや限界だった。布団を掴み、畳を転がり、茶卓をひっくり返し、悶え苦しむ。痛みより、苦しみから逃れようともがいて。助けて、誰か。誰でもいい、神様でも悪魔でもいい。誰かこの手をとって。とって助けて、私を見捨てないで。溺れる寸前に水面に手を伸ばすように、我武者羅に右手を突き出し  。
「  起きよったかの。ほほ、元気のよいヒトの仔よな」
 いつの間にか開いていた障子戸の向こうから、零れる様な優しく老いた声。
  ああ、助かっ、た? 予期しない救済に驚く一方で、言い知れない驚愕が身を包む。脇腹の灼ける様な痛みさえ意識の外に追いやるそれは、しかし部屋やお茶の様に恐ろしさをもたらすモノではなかった。
 裂けた口。雄々しい角。煌く牙。逞しい尾。鋭い鉤爪。艶やかな鱗。決して存在する筈の無い、その姿。
 私の手を掴み、私の目の前に現れたのは、紛れもない龍であったというのに。

	5

「どれ、傷を見せて見よ」
 言うが早いか、帯を脇から引っこ抜かれ、浴衣が盛大にはだける。夜風が痩身を舐め、下腹部に巻かれた包帯以外に何も身に着けていないことに今更ながら気づいた。
「  ッ!?」
「これ、暴れるでない……。猫であるまいし」
 見た目・龍の化け物にとっては、剥かれる側の華の乙女の意思などお構いなしらしい。なけなしの包帯にさえ手をかけてくる変態に蹴りを見舞いながら必死で抵抗するものの、脇腹を庇いながらではそびえる巌の様な龍はまるで意に介していない。
朽葉色の袷に草臥れた紋付羽織、草木の青臭い匂いの染み付いた装い。旧家の隠居を体現したかのような和装が異形の身体にちぐはぐになることなく整って映る。白く長い髭を蓄え足元まで伸ばした白い鬣を揺らし、のそりのそりと腰を曲げてうごめく姿は枯れた老人のようである。しかし、額に見開かれた三つ目の眼は紅玉の如く燦々と輝いて弱弱しさを芥子粒程も感じさせない。せめてもそんな外見の観察をしている間にも、老龍の手付きは淀みなく包帯を解き、柔肌にありありと残った傷跡をさらけ出した。手の平より大きな程の生々しい傷跡は、赤黒い血の塊を帯びて今にも綻びそうに脈打っている。
「……涙では足らんか。こんな老いぼれの血で治ればいいが」
「ちょっ……!」
 さらりと物騒で奇矯なことを口走ったかと思えば、老龍は躊躇いなくその手首に鋭い爪を走らせ、血を垂らす。布団に寝そべる私の下腹部に落ちる赤い液体はおよそ雫と呼べるものではなく、ぼたぼたと音を立てながら見る間に傷跡残る白い肌を染め上げた。
 すると、驚くべきことが起こる。滴る血はみな私の真新しい傷口に滑り込み、どくり、と脈打った。私の心臓の動きと同期するように行われるそれは、じくじくとした疼きと共に傷口そのものを縮めていく。
「……治って、るの?」
 どの程度そうして見ていたろうか。端的な感想が口を吐く頃には、腹部を裂くほどの傷口が跡も残さず消えていた。魔法の様な治療を終えると、剥ぎ取った浴衣を投げ寄越しながら老龍は障子戸に手をかけ立ち上がる。
「  治ったか。これに懲りれば、命を粗末にする行いは避ける事じゃな、若芽の仔よ。空も飛べぬ身で墜ちるのは痛かったろう。健やかにあれ……」
「っ」
 待って、の一言が出ないまま、縋り付く様に着物の裾を掴む。小言を言いつつ部屋を去ろうとする老龍は、驚いたように硬直した。
 言葉が出ない。言いたいのは感謝か、それとも説明の要求か。崖から落ちた筈の私が、どうしてこんな洒脱な和室に寝かされているのか、貴方は本当に龍  ドラゴンなのか。元の世界に帰ることは出来るのか。持ち物  特に制服や乙女の下着類など  はどこに行ったのか。感謝、不安、恐怖、羞恥と、とても一息で語り尽くせない言葉の火花が、脳裏で激しく躍り狂う。
しかし。
「た、すけ、て」
 口を衝いて出たのは、ある種場違いで  それでいて真摯な願いだった。
 沈黙が下りる。「龍の尾を踏む」という言葉が頭をよぎり、蒼白になる。気に障るようなことをしたか、礼を失したか。冷や汗が背中を伝い、手先に震えが走る。それでも、一度掴んだ手は離せなかった。
 この左手を離せば、貴方とは二度と会えなくなってしまう  。根拠のない直観が、私を突き動かしていた。
 何時までそうして居たろうか。そんな私をじっと見つめていた老龍は、ふう、と長い息を吐くと、その場にどっかと胡坐を掻いた。そっと伸ばされた手が頬を不器用に撫で、いつの間にか目尻に浮かんでいた涙の珠を指で掬う。
「  拾うたからには、最期まで世話を焼くのが道理よなぁ」
 まっこと手のかかる仔猫を拾うたものよ、とこぼしながら老龍は、呵々と笑う。部屋を喧しく満たす道間声が、私にとってはたまらなく福音に感じた。
 若芽の仔よ、名は。老龍が問う。
 春日井(かすがい)和音(かずね)、です。私が答える。
「  カズネか。佳い名だ」
 蓄えた髭を扱きながら、はにかむ老龍と向き合う。それは、どんな素晴らしい演奏会でも経験したことのない胸の高鳴りを伴って  。
「  ここは【四ツ辻の庵】。来る者は拒まぬ  カズネよ、若芽の仔よ。ゆるりとして行くがいい。……丁度茶飲み友達がほしかった故にな」
 それが、誰も知らない木漏れ日の日々の馴れ初め(プレリュード)だった。

	6

【四ツ辻の庵】は、歩いて回るに半時間とかからない箱庭だった。古今東西の様々な草木が思い思いに枝葉を伸ばし、豊かな清水が隅々まで巡る。鹿威しなどの調度や主の老龍の和風趣味から日本庭園をイメージしていたが、どちらかと言えば木洩れ日の差す避暑地の小径に迷い込んだような情緒を抱かせる。しかしてぐるりと見渡した後改めて鑑みると、成程これは自然の雄大さでも人の手によるものではない  魔法か何か、人知を超えた力を彷彿とさせる  ものと肌で理解できる。
 鹿威しは空に在った。これはレトリックではなく、そうとしか形容できない。燦然と太陽がある筈の天空は地平線と分かたれる事なく融け合い、遥か頭上に木立が霞んでいる。小振りな平屋建ての屋敷の脇でことことと水車を慎ましく回す清流は、理に縛られる事無く天に昇り、その後天上の枝葉を潤しながら勢いを変えることなく水車の元に戻ってくる。見た事も無い草木を愛でながら庵を一周する間には気付かなかったが、どうやら私は平面ではなく立体的に一周していたらしい。
「虚空から落ちてきた時は流石に驚いた」と老龍は苦笑していた。上も下もないこの空間では、訪れる瞬間を見るのは案外珍しいらしい。それも、生きた人間なら尚更だという。
「ここは、俗世の淀みのようなものでな  」老龍は言い辛そうに切り出した。「何らかの由縁で行き場を失ったモノが自然と集まりやすくなっておるのさ。要らなくなったモノ、留まれなくなったモノ……」
 棄てられたモノ、とかな。そう言って柔らかな土に埋まったものを引っ張り出す。錆付いて半ばから折れているが、金属の小さな棒には見て取れるだけの手垢と摩耗が愛着を示していた。
「……今でこそ体のいい骨董品だが、無くてはならぬ時代もあったの。『の』の字はとりわけ潰れやすい……部屋を埋め尽くすほど仲間がおったろうになあ」
 袖口にしまい込み、しみじみと語る老龍。まるでモノと言葉を交わすかのような素振りだった。
「神通力よ。物言わぬモノの声も儂はよーく聞き取れる……。まあ、口の利ける者には効きが悪いがな」
 まあ、それで事足りるのだからよかろう? そういって老龍はしみじみとした空気を払うかの様に笑うのだった。
「……貴方は、何時からこんな暮しをしているの?」
「そうさな……カズネの祖母の祖母が生まれるより前かの」
 ふとした疑問を投げかけ、はぐらかすような答えに笑みをこぼすことが出来る程度に打ち解けた頃には、私と老龍は元居た屋敷に戻ってきていた。
「どら、よっこいせ」
「それ、言わないとだめなの?」
 縁側に座るにも掛け声の要るその立ち居振る舞いがおかしくて、つい吹き出してしまう。
「何を言う。座る時の礼儀のようなものよ。縁側にしろ腰骨にしろ、壊れて困らぬものではないからなあ」
「……じゃあ、よっこいしょ」
 そっと横に座ると、木洩れ日が心地よい。麗らかな風、暖かな陽だまりに囲まれて、誰かと益体も無い話をしながら腰かける時間。それは、私のこれまでの人生に無いものだった。
「  天国みたい。死後の世界がこんななら、もっと早くに……来ようとしてたかも」
「極楽浄土はこんな辺鄙な所じゃないさな。それに、どちらにせよそんな若い身空で行く場所でもない」
 ぴしゃりと言い含められて、少しむっとする。ただまあ、私も大人気なかったので胸の内に留めておく。
「じゃあ、貴方は何でこんな辺鄙な所に居るの?」
「……さあてなあ……あまりに昔の事で忘れてしもうた」
「出たくないの? 外の世界に興味は無いの」
「……どうだろう、カズネはどう思うのかの?」
「……あんまり帰りたくない、かな」
「なら、儂もそれと同じかの。……そうむくれるでない、ここに来るのは皆同じ穴の狢よ」
 風に舞う枯葉を器用に摘まみ、焔の吐息で焦がしながら老龍は言う。
「ここは四ツ辻  行くも帰るも、知るも知らざるも皆通る道。道は歩むから道であって、歩みを止めれば道で無くなろう……なればこそ、ここに訪れるのは道を失った輩さな。誰からも顧みられず、時にさえ置き去りにされたモノ……故に墓場とさして変わらぬ」
 悼む者がいる分墓の方が幾分ましやも知れんな。そう呟く横顔は儚げで、鏡写しの様に感じられた。
(……? 何、これ?)
話が途切れて、所在なく部屋の中を見回した視線の先に気になる物を見つけた。いや、見つけてしまったと言うべきなのかもしれない。恐る恐る手を伸ばし、引き寄せたのは小さな玩具のピアノだった。試しにスケール  全音階をなぞる様に弾いてみると、安っぽくも案外しっかりした音色が応えた。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。
C、D、E、F、G、A、H、C。
身体に染み込ませた滑らかな指の舞踊が、玩具とはいえ楽器として生を受けたガラクタに改めて命を吹き込む。
「  弾けるのかい?」
ふと掛けられた声に、私は答えない。答えられない。返事は、手元から流れていく。

〜〜♪♪

曲目は『タイプライター』。折しもさっきの散策で見かけた先輩に送る、鎮魂歌の意味合いも込めて。敢えて局長を無視し、Andante(歩くような速さで)をイメージして。指が走り走り走り  。
「  ッ」
 演奏が止まる。これからという旋律の目前で、思い出したかのように。左手で叩いた白鍵から音は出ず、右手で叩いたはずの白鍵から音が出ない。そうだ、ここに在るのは全て行き場の無いモノ。捨てられ、忘れられたガラクタ。当然要らないモノであるからには、『要らない理由』が確かに存在する  。
  当然、私にも。
「おや、もう止めてしまうのかい?」
「……うるさい」
 それは老龍への言葉か、それとも口を開きかけた〈声〉へのものか。自分でも分からぬまま乱暴に立ち上がり、ついさっきまで居心地よく感じた庵に背を向ける形で木立に向ってずんずんと歩き出す。一人になりたい。独りでありたい。さっきのは気の迷いだ。もう私は音楽なんて……。
「……お聞き。服や持ち物は行き先に纏めておる。まっすぐ歩けば山道の入り口に着く。ここは時間の流れが遅いから、出てもまだ明け方であろ」
 それと。足を緩めず顔を伏せるばかりの私の背に、老龍は優しく小言をかけてくる。それがたまらなく胸を締め付けるというのに。
「四ツ辻にまた来ることがあれば、『姿の見えない四葉の影』を探せばよい。……探さず済むことを祈っておるぞ」

『また来ることがあれば』。何もかも見透かしたような老龍に、咄嗟に言い返してやろうと振り向いて。
 いつの間にか、山の入り口に戻っていた。ご丁寧に足元には服と鞄が大きな葉にくるまれ、濡れた岩肌で湿気らないようになっていたので、登山道入り口近くの古びたトイレで着替えることにした。
「……この浴衣どうしよう……」
 着たまま持ち出してしまった浴衣は、曲がりなりにも借り物である。一方的に出て来てしまった場所に戻る理由が出来てしまったことに半ば辟易しながらも、胸に一抹の感情が芽生えた事には気付かないふりをした。
「……ん」
このままここに留まっていても、厄介ごとにしか巻き込まれないだろう。せめて女子高生として居ても怪しまれない場所に移動しようと考えを巡らせる。その癖理性とは違う所にある私は夢見心地のまま、ふと抱きしめた浴衣から、既に懐かしささえ感じる草木の遠い匂いがするような気がして、暫く顔を埋めていた。

	7

 雑音。雑音。
 雑音。雑音。雑音。
雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音雑音
雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑雑
音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音音

「    っ!」
「おわっ、どうした? カズネか?」
 無我夢中で走り抜けた先で、私は老龍の背に飛び込んでいた。言い含められていた『姿の見えない四葉の影』をいつ見つけたのか、どうやってここまで来たのかは、最早どうでもよかった。
「っく、えぐ。……ひっ、う、うええ。けほっ」
「  泣いておるのか? どうした、何があった」
 老龍の優しげで心配してくれる声に、心洗われながら答えることが出来ない。左手で羽織をきつく掴み、右腕で目を擦りながら大きな背中に身を預ける。虫がいいのは分かっている。でも、それでも。最早窒息するまで口を塞ぎでもしない限り、私の身体は私を傷つけるあらゆることを為しかねなかった。腕や喉を掻き毟り、喉が潰れるまで怨嗟を吐き、耳を毟り取って指を食い千切るぐらいの事を。
 ひたすらしゃくりあげる声が続く中で、どれぐらいの時間が経ったろうか。大きな羽織に涙の染みが広がる頃になって、老龍は大きく溜息を吐き出し、私はびくりと肩を震わす。怒らせて、失望させてしまったろうか。説明も無く、孫娘が祖父にするように無様に泣きつくなどは、赤の他人  他龍?  にすべき事ではなかったのではないか。
 しかし老龍は、それこそ孫娘にするようにぽんぽんと頭を撫でると、あやすように言った。
「  答えられんなら答えんでもいい。好きなだけ泣いていけ。儂は……もうしばらく、ここにおるでな」
 そう言って、老龍は縁側に座り直したきり何も言ってはこなかった。時折匂う甘い煙草の香りと風が歯を揺らすさざめき以外に、そこには何の雑音もなかった。
 嗚呼、本当に。本当にこの小さな箱庭には、私の欲しかったものが全てあるのではないだろうか  。そんな考えと共に、私の意識はゆっくりと闇に沈んでいった。

	8

  夢を見ていた。

 いつか最高のトランペット奏者になる、ではない。上には上がいる、ではないが、芸術の求道とは得てして果てしないものだと思う。
 どんな楽器にも役割があるように、どんな奏者にも個性がある。一つとして同じ演奏は無く、同じように一人として同じ感性は無い。だからこそ音楽は風のように海のように形を変え、山のように悠然とあり、夜のように掴み所無く、太陽のように全てを照らし、娼婦や英傑の如く人々を魅せ  蛇蝎の如く嫌われるのである。それは、血が繋がって居ようと例外ではない。
 私は両親を尊敬していた。父は指揮者として幅広い音楽や楽器に親しみ、その指導者としても名を馳せた。勿論私は最も近しい弟子であり、多くの音楽や楽器に触れ得たのも父のお陰である。感謝は海より深く、感性の一致は  名声を求めすぎる、音楽にのめり込みすぎる点も含めて  遺伝では足りない天性の相性の良さを感じさせた。
 一方で、母親  母と呼ぶべき人、だろうか  も、私自身大いに尊敬を払っている、つもりだ。私がトランペットを好んで志したのも、著名なトランペット奏者として広く知られた人だったからだ。私自身子供の頃から厳しくも血肉になるだけのレッスンを受けてきている。今の私がいるのは、大切な両親のお陰だと思い込んでいた。
 ただ、それは私の視点での思いであり、母親はそうではなかった。
『  もう教えることはないわ。私は貴女のマネジメントに徹するから……頑張りなさい』
 中学校に上がる直前だったろうか。意気揚々と自宅の防音室でレッスンの支度をする私に、母から告げられたこの一言が  特に最後の、乾き切ったエールが今でも耳に残っている。辛うじて取り繕った母親の母親らしい顔には、かつて見た音楽を志し人を魅せる奏者としての輝きは消え失せていた。
 血縁とは恐ろしいものだ。嫌が応にも親と子は似通う。私は父から感性と音楽への愛を継ぎ、母親から才能の方向性と貪欲な嫉妬深さを継いだらしい。どれも一流の奏者に必要な才能で  私は母親から、支えとなるべき奏者としての誇りを奪ってしまったらしかった。大切にしていた楽器を私に与えると、二度と私の憧れだった演奏をすることはなくなった。思い返せば楔となった台詞の前夜、両親は夫婦喧嘩に明け暮れていなかったか。芸術家は我が強くて当然、両親も論戦は日常茶飯事だったが……涙声が零れながら、私が床に就いても続く喧嘩に覚えはなかった。
『お前は天才だ、和音。父さんは誇らしいぞ、今度はベネツィアだそうだな……きっと上手くいくさ』
 父は変わらなかった。むしろより我武者羅に私を鍛えるようになった。海外を飛び回り高名な賞を取る度に、機械油の匂いがする手で私を撫でた。学校にも話を通し、ほとんど通う事無く音楽に邁進する日々。母親はまるで付き人のように私を全力でサポートし、私が音楽に注力できるよう万難を排することに努めた。
(……私は、何の為に音楽をやっているのだろう……)
 忙しなさを極めた日常には、口が裂けても呈せない疑問。問題なく滞りなく稼働する以上、壊れた機械は直せない。
笑顔で頭を撫でる父の眼は、私を見ていない。私という無二の楽器の肩越しに、自分の名声と名誉を見据えている。
無言で私を支える母の眼は、私を見ていない。私という超えられない壁を前に、自分の居場所と価値に縋っている。
  そして汲めども尽きぬ才能が、私に後戻りを許さない。
そんな日々は、かつて抱いた夢を置き忘れるには十分過ぎるほどだった。

 そして、運命の日。
珍しく日本での公演で、少し浮き足立ってはいた。国際空港から最寄り駅まで新幹線移動とのことで、旅慣れた手つきで改札を抜ける。
 その時、衝撃が走った。
(あの制服……!)
 奥深くしまい込んでいた記憶が蘇る。籍だけ入れているとはいえ、時折顔を出した高校の制服。どうせどこでも変わるまいと母親から言われたので、凝ったセーラー服を採用した私学校を選んだのは不思議と記憶に新しい。修学旅行だろうか、同じ新幹線を待っているようで降って湧いた偶然に心が躍った。
 今は制服こそ着ていないが、月に一度は顔を出し、クラスメイトとも他愛のない話を交わす仲だ。手を振れば気付いてくれるだろうか。覚えてくれているだろうか。音楽に肩まで浸かり切った日々で、音楽とは縁のない数少ない縁故。自然と笑みをこぼしながら、大きく手を振り  。
(…………えっと)
 向けられた怪訝そうな顔。頭を金槌で殴られたような感覚にたたらを踏む。あれ? 私と彼らは、友達じゃなかったっけ? ぐるぐると廻る思考に、後ろから差し込まれる言葉。
『  何をしてるの。あんな高校生ごときにかかずらってないで、貴方は貴女のやるべきことをなさい』
 貴女と彼らでは。
 住む世界が違うのよ。
棘のある母の声。住む世界が違うのは、冗談みたいなものでしょう? 本当に違うわけがないじゃない。気の抜けた合成音の旋律が響き、向かい側のホームを最高速度で駆け抜ける新幹線。足元がふらつく。地面がなくなったみたい。遠くで悲鳴が聞こえる。甲高いのはクラスメイトの? それとも母さんの? 私のトランペットはどこだっけ。足元にあったはずが宙を舞っている。落ちる。落ちる。墜ちる。オチル? 自由落下って自由じゃない、重力に戒められているじゃない。まるで私みたいに。痛い。痛い? 痛いのは背中? 空気を吐き出す。吸って吐く。吸って、吸って。痛い。母さんどうしたの。トランペット拾ってくれたんだ、ありがと痛い。右が痛い。右手が。痛い痛い痛い、痛  。
「ああ、あ、あああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、ああああああっ!」
 叫んだ。叫んだ。それが何を含んでいるかは、分からないままに。

	9

「  起きたかの」
 気が付くと、汗だくで老龍の膝に縋り付いていた。息が荒い。抑えようとするほどに心臓と肺が不協和音を奏で、リズムが際限なく狂っていく。
 その時、そっと頭に手が置かれた。ひんやりと冷たい手はしかし、触れた箇所から熱を持って全身に響き渡る。呼吸困難に喘ぐ私を切り離すように、落ち着きを取り戻した身体がゆっくりと精神を静めていく。
「ほれ、落ち着いたならゆっくり飲め。急げば噎せるぞ、ゆっくりな」
そっと差し出されるいつかの湯飲みを、言われた通りにゆっくり傾ける。かつて三口で干した不思議なお茶を六度七度と啜るうちに、私は息を吐けるまでに回復した。
「……ごめんね、ありがと」
「何を謝る。顔を見せてくれて嬉しい限りぞ。……不躾な物言いで嫌われてしもうたかと冷や冷やしておった」
 それはこっちの台詞だよ。助けて貰った恩も放り出して、一人駆け出した馬鹿な私を受け入れて貰えるなんて思って居なかった。それでも、頼る者がいなかったから恥知らずにも縋っただけだ。
 身体を起こすと、以前と変わらぬ箱庭がそこにあった。少し秋めいたのか、水車を回す清水には一片の紅葉が浮かんで流れている。 
 ふと、右手に触れられる。吃驚して振り返ると、老龍が私の腕を矯めつ眇めつ検分していた。
「……どうやったって動かないよ」
「そのようさな、手指の腱が根こそぎ切れたか」
 何となく察しはついていた。私の意識が落ちている間に見た悪夢は、老龍の神通力とやらで垣間見られたものであろうと。『口の利ける者には効きが悪い』とは本当に悪い冗談だと思う。
「……えっち。へんたい。えろすけべ。……ハダカ見て、夢覗いて、今度は腕フェチ?」
「仔猫がじゃれてもくすぐったいだけぞ。あまり枯れた年寄りをからかってくれるなよ」
 そう言って茶化す老龍の顔に、いつもの笑みは無い。ただ、腕を擦っては唸っている。
「  貴方でも治せない? 涙とか、血とか」
「……治せるものなら治してやりたいが……あれは生傷があればこそできた横紙破りでな。人の業で治ってしまっている以上、例え右腕を裂いても治るのは今のままであろうよ」
 そっか、と素っ気なく答える。元々期待などこれっぽっちもしていなかった。担ぎ込まれた病院で、いやと言う程絶望はしている。「もう二度と右腕は使えず、楽器は弾けないだろう」  医師の診察はこれ以上なく的確で、覆るものではないと自覚していた。
「……すまん」
「何で謝るの。貴方に悪い所なんてないじゃない」
 努めて元気よく立ち上がり、くるくると回りながら歌うように続ける。
「素敵な箱庭、魔法みたいな治療、あったかくて美味しいお茶  私は貰ってばかり。これ以上貰ったって持ち切れないでしょう? ……これが私のFine(曲の終わり)。音楽に呪われて、音楽に憑かれて、音楽に命を捧げて……何も残らなかった女の子の末路。この右手はその証明よ。楽器を庇って娘を見捨てる様な母親になるぐらい、母さんを追い詰めた、ね」
 Cantabile(歌うように).Dolce(甘く柔らかく).Legato(滑らかに).Capriccioso(気まぐれに).染み付いたリズム感に身を任せ、踊るように語る本心。それがどれだけ醜く浅ましいものだったとしても、始まった音楽は終わらない。
「……もう限界だった。父さんも母さんも、私なんか見ていない。観客も先生も同じ、私じゃない私を見て、本当の私を見ていない。本当の私はもう何処にも居られない。?ぎ止めていた楔(才能)も鎖(誇り)も錨(期待)も、もう全部全部捨てちゃった」
 だから。だからこそ。
「  私は私をも棄てたの。崖の上から、ガラクタでも捨てるみたいに。それでおしまい、幕は下りて、喜劇は終わるの。たまたまカーテンコールがあったから、ここにこうして居るだけで。これは幕間の寸劇より下らない、お遊戯みたいな時間なんだから……」
 向けられる感情。同情。憐憫。侮蔑。心配。励起。安堵。叱咤。激励。無関心。無感動。不必要。愕然。絶望。エトセトラ、エトセトラ  。全ての干渉は雑音だと、切り捨てて。
「  だって、切り捨てなきゃ  壊れちゃうよ……」
  切り捨てないと、逃げられないものね? 私自身からさ……。
ほくそ笑む〈声〉に足を止め、空を見上げる。閉じた箱庭に風が吹き抜け、数千の葉が巻かれて踊った。
〈声〉は、私だ。私の嫌いな私が、私を嫌って生まれた心の中のもう一人の私。何よりも私が嫌がることを熟知し、私を傷つけ心を挫くために現れた。丁度右手の治療を終え家に戻った矢先だったか、彼女は平然と話しかけてきた。
  良かったわね、これでもう煩わしい音楽からはオサラバって訳? 元々計画してたのかしらねー?
(耳に痛いのは、心の隅で燻っていた本心だから)
 縄を購入し、インターネットで下調べをしていた時は。
  死んじゃうんだ? 全部放り出して、父さんも母さんもみんなみんな悲しませて、自分だけ楽になっちゃうんだ?
(心に刺さるのは、私を苛むためだけの良心だから)
そうやって、動くことも動かないことも出来ないまま、私はあの日山に居た。
「……だから  」
 突然、視界が真っ暗になる。咄嗟に振り回そうとした手が、草木の柔らかな匂いで弛緩し力が抜ける。抱き締められていることに気付いたのはその後で、熱い雫が背中に落ちたのがはっきり分かった。
「ちょっと……」
「何も言うな」
「放して、よ……」
「もう何も言うな」
 回された手が震えている。鼻息に水音が混じっている。そこまで気付いて、私は目頭が熱くなるのを感じた。
「……若芽が世を儚むな。まかり間違っても自分を棄てたなどと嘯くな。そんな痛々しい顔で笑ってくれるな。……老骨に堪えて敵わん」
 果ても無く当ても無く自分を責める生き写しの幼子など、頼むから見せてくれるな。老龍は涙ながらにそう言った。言ってくれた。欲しかった言葉を。
嗚呼、本当にこの箱庭は、私の欲しかったモノで満ちている  。優しい木洩れ日、穏やかな時間、苛む者の無い安心と、心根を同じくする友達との語らい。身の丈も年恰好も性別も種族も、恐らくは生きる世界さえ異なる老龍と少女は、ともに抱き合ってさめざめと涙を流した。
 鹿威しの澄んだ音が、天上から響く。世界で一番静かな福音が、箱庭のような世界を包んでいた。

	10

「  似合うておるではないか、益体も無い趣味が初めて役立ったな」
「……どうでもいいけど、これ誰の浴衣なの? 貴方絶対着れないよね……」
「さてな、拾い物と思っておけばよかろ。かめらが動いておれば、記念に一枚撮ってみたかったな」
「…………絶対似合ってないし。そもそも撮って欲しくないし」
「おお、綺麗に映るものだな。襖に針穴を開けた甲斐があった」
「押し入れに何仕込んでたのさっ。……げっカメラあるじゃん!」
「ああ、開けてしもうてはみな真っ白になってしまうではないか」
「撮るなって言ったでしょうが、スケベ爺っ」

「何これハープシコード? ロココはホント悪趣味よね」
「何を言う。このしなり、このねじれが美しい。手間暇かかっておろう? そこな鏡台に高さがよく合う」
「……椅子扱いすんな。楽器は大切に扱うもんでしょうが」
「ん? 楽器なのか? 叩いても捻っても音がせなんだが」
「弦切れてるから当然でしょ……。替えがあるなら、一応張れなくもないけど」
「カズネは何でも出来るなあ」
「ほっとけないだけよ。嫌になるわねこの貧乏性」

「……頬の傷はどうした」
「流れ弾。両親が荒れてるの、楽器投げんなっての」
「……治すか?」
「よろしく〜。……って何しようとしたっ」
「唾つけとけば治るぞ、大概の怪我は」
「直接舐めるバカがいるかっ。貴方大概変質者か!」
「そう言うても、治っとるしなあ……」
「……言葉も無いわ」

「  いい曲だな」
「片手間よ。箏曲は専門外だし」
「几帳面な事だ。物置がすっかり片付いてしまった」
「完璧主義なだけ。そして貴方がズボラすぎるだけ」
「その割に、飯を作る度大騒ぎのようだの」
「……慣れてないだけよ。右手使えないのよ?」
「そうそう、台所の裏手に仕舞い切れないガラクタを埋めておってな」
「…………今日の晩御飯は抜きね」
「……なぬぅ!?」

「何度見ても手際が良いな、女子はみなそんなものか」
「髪まとめないと気が散るでしょうに。そんな詳しいものでもないわ」
「鬱陶しいなら切ればよかろうに。ほれ爪ですぱんと」
「貴方今全世界の女子を敵に回したわね」
「……そうなのか?」
「ああもう、結んであげるからそこに座って」
「どれどれ。……おお、これはいい! 頭が軽くなった!」
「ふふっ。……赤いリボン、似合わないわね」

「…………っ」
「どうした、今日の茶はお気に召さなんだか?」
「……なんでもない」
「……左様か」
「…………」
「…………」
「…………ねえ」
「何だね」
「……神様って、いるのかな」
「見たことないなあ、おるのかも、おらんのかも知れん」
「……そうだね」
「……茶はいるかの」
「……………………いる」

「痛むか」
「……痛い」
「薬は」
「……要らない」
「……左様か」
「……」
「……」
「……ずっと」
「うん?」
「…………ずっと、そばにいてね」
「……」
「……?」
「……そうさな、居たいなあ」
「……ちょっと……?」
「……居たかった、なあ」

	11

【四ツ辻の庵】には、雨が降り続いている。小雨程ではあっても、秋口の気配を纏った雨粒は冷たい。
「………………………………………………………………………………………………………………………………馬鹿」
 呟いた声は、雨の天鵞絨に融けて消える。大切な友人には、届かない。
 思えば、あの日も雨の降る日だった。古傷が疼き、布団にくるまって唸っていた私を見守ってくれていた老龍は、突然倒れ伏した。慌てて助けようとするが、その巨体は細腕で到底支えられるものではなく、その病状はとても推し量れるものではなく、その危篤を救う当ては一欠片も無かった。
 這う這うの体で布団に寝かせ、はや三日。息はあるので死んではいないようではあるが、冷えた肝は全く休まらない。何をするにも動きがとれなさすぎる。
 いっそ、いつぞやの如く老龍の手首を切って血を飲ませてみるか。確証の無い賭けが頭をよぎり、すぐに打ち払う。今までの話から龍の血は生傷にしか効かないことは明白だ。要らぬ手を打って事態を悪化させることは避けたい。
 一方で、手詰まりなのも確かだった。大恩ある老龍に、出来ることは何もない。ただ座して待つだけという歯痒さが、総身を責め苛む。たまらなく孤独だった。こんな時にいつも口やかましい〈声〉はだんまりで、茶化しもけしかけもしてこない。後一日、何も起こらなければ龍の血を試そう。そう決めた矢先だった。
「……ん」
「っ!」
 小さいながらも確かに老龍の口が動く。こぼれた言葉を確かめるようにぱくぱくと動かし、いかにも気だるげに老龍は体を起こした。
「……おはよう、傍にいてくれたのか」
「……っこの……!」
 馬鹿。アホ。寝坊助龍。どれだけ心配させれば気が済むんだクソ爺。ありったけの言葉が喉まで出かかっているのに、上手く紡げない。そんな私に老龍はそっと手を伸べ、頬を優しく撫でた。
「……痩せたな。ちゃんと食うておるか? 作り方は散々教えたろうに……」
「……一人ぼっちで食べさせる気? 貴方の分もちゃんとあるから、残さないでよね……」
 やっとの思いで吐き出した言葉に、しかしいつもの朗らかで気のいい返事は無い。
 直感した。タクトが上がる。始まってしまう。演奏が始まって、終わってしまう  !
「……カズネ。儂は、恐らく今日、死ぬな」
「止めてっ!!」
絶叫して耳を塞ぐ。演奏をやめろ。これ以上進むな。頭の中で爆発した感情が、全身を奔る。
「……六千三百三十四年  長いようで最後は短かったな。良い良い、生きていれば必ず巡り合うものさ……」
「止めて! 止めて、止めて……。おねがい、やめて……」
 縋り付く様に布団に顔を伏せる。大きな手を握る。しかし、触れれば触れるほどに現実は残酷に頭の中を蹂躙する。
「何で……生きてよ、傍にいてよ! ずっといてよ! 一人に……独りに、しないでよ……」
「巣立ちの時もまた生きとし生けるもの全てにいつか来るものさ。怖れることはない、カズネ……。君は十分飛んでいける」
「置いてかないで、飛べるわけない! ……どうしてもっていうなら、私も  」
 言い切ろうとして、横っ面を叩かれた。一度として感じたことの無い痛みが頬に灼け付いて、思考が一瞬空白に染まる。
「……言ったろう、若芽が世を儚むな。まかり間違っても自分を棄てたなどと嘯くな。そんな痛々しい顔で笑ってくれるな。老骨には堪えて敵わん……愛しい仔を叱るなど」
 ゆるりと逝かせてくれ。そう言って老龍は、いつもの笑みを浮かべた。
「  どれ、ここでは逝けんな……。カズネよ、少し散歩に付き合わんか」
 涙で前が見えなかった。胸が張り裂けそうだった。それでも、大切な人の頼みは断れなかった。


「……さて、いつか聞かれたな。何故儂は此処に居るのか。此処に留まっているのか……」
ゆっくりと歩を進めながら、老龍は語る。肩を貸してはいるが、重さは殆ど感じない。それが悔しくもあり、悲しくもあり、歯痒くもあった。
「答えはほれ、そこの樹の足元にあるじゃろ……」
 指で示された所を視線で追うと、そこには信じられないものがあった。
 骨だ。頭蓋骨。肩甲骨。肋骨。背骨。骨盤。大腿骨。そして、人の物とは思えない長大な尾?骨  骨格標本の様な五体が揃って地面から浮き出していた。
「それが儂の父よな」
「……え」
「そこにもあるぞ。そっちも、あちらも。何なら足元にもあったか」
 次々と指し示される地面には、様々な骨が浮かび上がっていた。皆一様に地中に埋められ、連日の雨で被せられた土が流れたものではないか。つまりいつか話に上がった墓場とは  。
「……違うぞ」
「え」
「言ったろう。悼む者などないなら墓でさえない。儂が殺した同胞なら尚更に、な」
 殺した? 老龍が? 傷つける事なんてしたこと無いような雰囲気を纏った、貴方が?
 湧き出る疑問のままに目を離せずにいると、目線が一瞬合う。そして、老龍の方から目を逸らした。いつもなら、私の方が先に目を逸らすのに。
「ここは【四ツ辻の庵】、行き場の無いモノが溜まる吹き溜まり……儂等も同じ、時代に取り残された龍と蜥蜴の半端者だった」
 歩みを止めることなく、懐かしむように老龍は紡ぐ。
「いつしか一族がここに辿り着いた時、この小さな世界は儂らを養うに足る食い扶持など微塵もなかった。今でこそ青々と茂っている草木や爽やかな清水も、龍の骸を苗床にしてようやっと育ったものに過ぎぬ」
「……でも、貴方は」
「天賦の才、と呼ばれておったよ。力と焔が支配する龍の社会で、唯一知恵まで与えられた『神に愛された仔』ともな。……食料も土地も行き場も無いなら、弱い者が贄となって強いものの糧と為れ、と。発案したのは儂じゃ」
 言葉を失った。それは、あまりに痛々しくて。
「……事実、放っておれば二年と持たず死んでおったろう。共食い、喧嘩、番い選び……。死ぬことには事欠かん。それが三〇〇年持ったのだから、計算に狂いはなかったろう」
 それは、あまりに救いが無くて。
「『生みの親さえ贄とする、贄と出来る貴様は、さぞや長命を得ることだろうよ』……。父の末期に言われた。治らぬ病に倒れ助からぬ父を、自ら布いた掟に従い縊り殺した。医術を修め父を助けられるのは儂以外におらぬ状況で、迷いながらも判断を下した儂に」
 それは、  私と瓜二つじゃないか。
「後戻りは出来なんだ。罪の意識に苛まれながら、長としてやれるだけの事をした。最後の仲間が息を引き取ったのが丁度七〇〇年前……それから儂は、一人で此処におった」
 そして、私と……。
「  礼を言うよ、カズネ。六千余年の生涯で、君といた十四日間が最も華やかだった。無二の友人に巡り合い、並んで木洩れ日を歩き、時たま君の調べに聞き惚れた。これ以上の充足があるか、これ以上の幸せがあるか……。私が欲しかったモノを、君にすべて貰った」
「……私は何もしてない。私は何も出来てない。逃げて逃げて、全部放り棄てて、出逢った貴方に依存してただけだ。何も、何も返せてない……!」
 泣きじゃくる私を撫でながら、「よっこらせ」と地面に腰を下ろす。その仕草は限りなくいつも通りで、それすらも私の心を穿つ。置いて行かれる私に、少しでも幸せを残そうという心遣いが、翻って心に刺さる。
「カズネ、良くお聞き。君は優しい、優しすぎるほどに。大切なものを作っては、大切にし過ぎて壊してしまう。君も、君の宝物も。  けれど、カズネ。君はそれを怖れてはいけない。それは佳い事、美しい事だ。大切にするものだ。君が持つ、君だからこそできる、君が誇れる力だ」
「……そんなことない、私は弱いもの。そんな力なんてないもの……」
 子供の様に泣きじゃくることしか出来ない私に、そんな力があるものか。そんな私を、大先輩は優しく諭す。
「それはの、君が自分に優しくないからよ。自分を虐めて、自分に意地悪をするから、自分の眼にはか弱く映るだけの事。  カズネ。優しい若芽の仔よ。もっと自分に優しくあれ。『人に優しく自分に優しく』あれ。そうすれば、世界の見え方というものが変わるだろう。儂の姿を怖れることなく友人になれた君なら造作もないことだろうて……」
「……っ」
 握った手から力が抜ける。脈がどんどん弱くなる。終わってしまう。老龍が、老龍と過ごした時間が終わってしまう。
「……でも、私は何もかも捨てちゃった。私自身も捨てちゃった。なのに……」
「……心配いらんさ。カズネは棄てても棄てられておらん。捨てたものは拾えばいいし、捨てられていないならまだ続く見込みはあるさ」
「棄てられてないって……?」
 線路に落ちた娘を放って、楽器に手を伸ばす母親が、棄てていないとでもいうのか。憤りと疑問がごちゃ混ぜになった感情が、涙を止める。
「人の手は短い。救いたくても救えぬ時は誰にでもあろうさ。それでもなお手を伸ばすということは、あきらめていない証左に他ならぬ。……君の母上はきっと、君の未来を守ろうとしたのではないか? 君の好きなものを、君の誇りを、せめても守ろうとしたのではないか……?」
 母親とはそういう生き物だろうさ。それだけ言い終えると、老龍は目を閉じる。
「……! 待って……!」
(……笑ってくれ……カズネ……)
 老龍の身体が、樹に変わっていく。死に往く龍はそうなる定めであるように、自然と。
(……泣いてもいい……転んでもいい……また笑って、やりたいことをやって……元気な顔を見せておくれ……)
 脳裏に閃く声が、小さく遠く消えてゆく。
(……儂はいつでも……此処に居る……鍵を預けておくから……いつか返しにおいで……)
 そして、一陣の風が吹き抜ける。そこには立派な柊の大樹が聳えるばかりだった。

  いけるの?
   行くよ。
  そう。……頑張れ。
   やけに素直ね。
  いいからとっとと行ってきなさい。私もついててあげるから。
   うん、ありがと。
	12

 学祭は賑やかに盛況を迎え、いよいよ最終日の昼に差し掛かった。例年秋に執り行われることで割合一般の参加者も多く、見慣れた校舎には知らない人間も多く闊歩している。
「……という訳で警備は重要な生徒会の仕事なわけだが、何をしていたか言って見ろ」
「はいな会長! 屋台の商品に問題がないか毒見をしておりましたっ。ご安心を全て安心安全美味しいれす!」
 鉄拳が唸って光る。庶務である男子生徒の下腹部に直撃した鮮やかな正拳突きは、両手に抱えきれないほどの出店の食品ごと寝言を宣う阿呆を吹き飛ばした。
「会長! ひどいですよ! 嫁の貰い手がありませんよ!」
「……その口を縫い合わすぞ。いいから体育館の警備に戻れ」
「あの辺食べ物無いんですけど!? 音楽じゃ腹は膨れないんですけど!?」
「よし分かった、入り口に縛り付けてゴミ箱として利用してやろう。閉会の時間には箸だの串だので満腹になっているといいなぁ?」
 ひいい!? と馬鹿げた悲鳴を上げる庶務を引きずって、体育館まで連れて行く。丁度どこかの団体の演目が始まっていたようで、改めて溜息をつく。
「そら、ここで立って仕事に邁進しろ。これ以上の不始末は庇わんぞ」
「……幼馴染ってだけで生徒会に引き込んだ職権乱用ツンデレオデコポニテ会長には言われたくありませーん。……痛たたたた腕もげるっ!?」
「その脂でてかった顔面でワックスがけして欲しいか……? っと」
 いつものように馬鹿を吐く馬鹿を締め上げていると、暗かったからか他の赤の他人にぶつかってしまう。
「すみません、暗くて手元が狂いました。失礼を」
「いえいえ、仲睦まじいようで何よりです」
 快く流して下さった女性は、制服姿でトランペットを持っていた。タイの色や名札を見る限り三年生のようだが、果たしてこんな生徒がいただろうか?
「……重ね重ねすみませんが、こちらで何を? 吹奏楽部の演目はもうすぐ始まる次の演目では……?」
「ああ、これは『バンダ』といって、舞台から外れた場所で数節演奏する手法の準備です。本当は数人でやるんですけど、無理を言って一人にしてもらいました」
「吹奏楽部の方でしたか。……失礼ながら、お名前は?」
「ああ、ごめんなさい。ほとんど学校に顔を出していなかったものでして。体育館は入学式ぶりです。本当にお恥ずかしい」
「うわぁ、すごい綺麗な楽器……おいくら万円?」
 空気の読めない馬鹿がしゃしゃり出てきたので、肘を入れて黙らせる。ただでさえ馬鹿をやって迷惑をかけているのに、茶々を入れるな。
 すると、女性ははにかむように笑顔を見せて、さらりと答えた。
「  ありがとうございます。母から継いだ大切な楽器なんです……いけない、出番が始まっちゃう」
「お引止めしてすみません、演奏、頑張ってください」
 柔和な姿勢を崩さぬまま暗幕の向こうに消えていく女性を見送って、馬鹿に向き直る。
「『サバの女王ベルキス』だって……じゅるり」
「食い気しかないのかお前は」
「いやいや漢字分からないとカロリーがね? 勉強ってお腹すくでしょ?」
 ほらこれ、とプログラムを見せられる。全く、こんな漢字も読めないのか。
「『交響(こうきょう)詩(し)【柊(ひいらぎ)】』だろう……寡聞にして知らないが、これくらい読めるようにしとけ」
「なんだよぅ。二人きりの時は甘えたがりの癖にがもも……」
 その時、司会の案内と共に、舞台の緞帳が上がる。……体育館から出そびれてしまった。
「……仕方ない。最後の演目だ、聞いていくとするか……」

 舞台の幕が上がる。どれだけ経験を重ねても、この瞬間の昂りだけは変わらない。
 冒頭は出番がないので、ゆっくり心を落ち着けることに専念する。これだけの準備を整えたのだ、失敗するわけには  。
(……違う)
 失敗したっていいのだ。どうせこの手では碌な演奏は出来ない。左手用トランペットなどというものは無いが、左手で強引に弾くことは出来る。ただ、全盛期の三割ほども実力は出せないのだから。
 それでいい。それがいい。これは非公式の引退公演。春日井和音の最後の演奏。だからこそ、完璧である必要なんてどこにもない。
(我ながら甘すぎだよね……こんな気持ちで臨むのは生まれて初めてだよ)
 父も母も先生も、学校の皆や生徒会も、もっと反対してくれて良かったのに。一度覚悟を決めて話してみると、驚くほどすんなりと私の提案は通った。
 勿論、通ったのは提案だけでここ二月走り回った。練習も一からやり直し、顔を合わせての話し合いで疲れ切り、両親とも相当喧嘩した。それでも、やりたいことをやれるだけの準備をやり切った。
(だから、さ)
 演奏が進んでいく。出番はもうすぐ、ひりつくような重圧が肩と胃を押し潰しにかかる。かつてはねじ伏せていたその感覚を、あえて楽しむようにあしらいながらトランペットを構えた。
(これが終わったら、報告に行くよ。今度はトランペットを持って)
 遠くで指揮者がこちらに目線を送る。第四幕のクライマックス、『狂宴の踊り』が佳境を迎える。
 振り上げられたタクトと共に息を大きく吸い込んで。竜の嘶きのように歌い上げよう。
 届け。
 届け。大切な友達のところまで。

	13

 その後、とある私学校の学祭で初演された『交響詩【柊】』は、その後十五年に渡って書き続けられた。
 作曲者は人付き合いを厭い、限られた親交しか持たないままその生涯を終えたが、その作品は広く評価され、21世紀随一の天才と称された。
 晩年は、時折封書で楽譜を出版社に送り付けるばかりで、どこで亡くなったのかさえ定かではない。しかし、現在でも時折出版社に届けられる楽譜に当人のサインがあることから、後の若き俊英に大きな影響を与えたことは言うまでもない。



	五線譜の木洩れ陽を歩くように
		私は旧い友人の元に往こう
			この小さな世界は五線譜の木立だ
				柊の樹の下で飽きるまで踊ろう

Dear my friend

〈了〉


 





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