焔は巡る

岬 いさな

 道に迷ってしまった。秋の山中は既に闇に呑まれ、足元の視界すら覚束ない。木立を頼りに進むものの、真直ぐ歩いて居るのかすら分からない。月明りが雲間に消えると、虫の音や風に揺れる葉音ばかりが感じられる。
 元より、死ぬ積もりで此処に来た。在り来りに全てを失い、流される儘に死を選ぶ。何を為すでも無く、只生きて死ぬばかりの人生に、細やかな抵抗を思い立った結果が是れだ。
人目に付く山道を外れ、痛み苦しみを避ける様に滝壺や崖を離れ、死に場所を探す。如何やら、私は其れすら満足に出来ぬ能無しだったらしいというだけの話である。
「……如何した物か」
考えあぐねて、懐に手を伸ばす。最後の煙草は既に湿気ていて、燐寸箱の鑢は剥げかかっている。点かぬ火に舌打ちしながら紫煙を呑み込むと、迷い路にあった思考が一時緩んで解ける。
「  如何した、物か」
 既に帰り途は闇に溶け、行き路も又夜に鎖されている。手頃な幹は近くに無く、背を預ける小岩は硬く冷たい。紫煙を二三吐き切れば此の煙草も切れ、持ち合わせは縄と身体ばかり。ならば、口の端から漏れた声は最早怨嗟であって歎願ですら無い。
  若しも、生まれ変わりが在るのなら。
嘗ての自分に向けて、吐ける限りの怨嗟を込めて。疲れ果てた身体の最後の一滴を、只一言に。
「  誰かの為に、何かの為に。燃える様な想いを尽くせたら……佳いな」
 煙草が消えると共に、意識も手放す。その心算でいた。
「…………?」
 灯りがある。煙草の微かな火の他には月明りはおろか星明りさえ無かった宵闇に、幽かな灯りが揺れている。息が掛かる程傍近くに在る様で、手を伸ばせども遥か彼方の如く遠くに映る。凪いで静まり返った木立の裾を、ゆらりゆらりと踊っている。
(人魂か、狐火か)
 小さく、大きく。細く、太く。明るく、仄暗く。決して止まぬ朧気な舞踏の裡に、化生の手招きの様な妖艶さを抱かせる焔。其れは、私の眼を奪って放さない。
(  美しい。否、羨ましい……?)
 幾分其れを見詰めて居ただろうか。焔は一頻り踊り飽くと、ふらふらと漂いながら木立の奥へ進んでいく。生唾を呑み乍ら立ち上がり、覚束ない足取りで追って見る。最早、疲れに困憊し軋みを上げる身体など気にも留めない。只私は私を魅了し羨望せしめる焔の往く途しか眼中に無かった。
 程無くして、私は遠くに同じ様な灯りを見出した。一つ二つ、五つ六つ。共にゆらりゆらりと揺れながら進んでいく。その道行きに迷いは無く、先の私とは雲泥の差に感じられる。紫煙に爛れた喉で咳を呑み込み、蠅より遅い程の歩みで進んだ。
「……おおい、何処に向かって居る?」
 呟く様に掛けた言葉に、返す声は無い。ただゆらりゆらりと急く様に、煙に巻く様に焔は踊る。何時の間にか私の周りには、百を超える焔が在った。
 ふと気付けば、木立が疎らに為って居る。柔らかな土塊は冷たい岩肌に成り替わり、遠い虫草の音色は風のさざめきに溶けている。山頂、と言うよりかは尾根が近いのだろうか。汗を噴き悲鳴を上げる手足に力を籠め直し、先往く焔を追い続ける。
 一際大きな岩肌を登り切ると、視界が開けた。見渡す限り闇、闇、闇。息を切らす横で何処と無く嬉し気な焔が火花を散らす。
 雲の切れ間から月明かりが差し込み、あっと声が出た。焔が、河の様に整然と並んで居る。遥か遠く尾根の果て迄、数珠の様に、龍の様に。万を超す焔は一様にゆらりゆらりと身を捩り乍ら、麓から連綿と続いていた。
「  何処まで往くんだい?」
 誰にとも無く尋ねた答えは、目の前に広がっていた。月の陰る星の無い夜と思って居たが、然も在りなん。闇の中遥かに続く焔の群は、天に向って延びている。一条の焔が順に空を満たし、やがて星空に成るのだろうと思わせた。
 ぶるり、と身体を震わせる。傍らの焔がゆらりゆらりと身を燻らせて、目の前で茶化すように踊る。
  戻るなら、今だけれど。
「  佳いなぁ、其れ」
 美しいより羨ましく想った理由が腑に落ちて、私はそっと天を仰いだ。


 山は人を惑わせる。木立が覆い、蟲葉が隠し、夜闇が奪い、高斜が装い  人を迷い道に引き摺り込む。
「……ママ……何処……?」
 又一人、此方側に来た人の子に私はそっと手を振り声をかける。其れは、案内ではなく誘いとして。
「……ひとだ、ま?」
 おいで。おいで。星の灯は此方、帰り路は彼方。迷うなら導こう。空が巡るにはまだ少しあるのだから。
〈了〉

 





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