夜王物語(X)

秋野 優

 差し込む西日の眩しさにふっと意識が浮上する。のろのろと周囲を見渡すと、周囲に乱雑に置かれた家具や荷物、どこか埃っぽい空気にここが物置か何かだと悟る。
 神楽さんとの会話から逃げた僕だったが、無意識のうちにも人がいない方に足が向いたようだった。
 確か、あの会話は昼過ぎだったはず。と言うことは、少なくとも数時間はここで座り込んでいたらしい。
「・・・・・・戻るか」
 小さく呟き、立ち上がる。熱を持ったようにじくじくと痛む左腕をかばいながら部屋を出る。会話をしていた時よりは治まっているものの、もはやその痛みを無視することは出来ないでいた。
 実の所、左腕の呪いは半年前、それこそヴァレットと出会ってすぐの頃から、時折じくりと痛んでいたのだった。
 それが、ヴァレットに心を許し始めていた証左だというのなら、随分と僕の心は単純に出来ているらしい。
 僕は、疑ってはならなかったのだ。ヴァレットの心にあるのは決して親愛の情や善意などではなく、契約という打算に満ちた冷たい論理のみだったということを。
 僕は、忘れてはいけなかったのだ。僕に許されているのは、彼に抱いて良いのは情ではなく、殺意であるということを。
 この左腕の痛みはその罪に対する罰だ。罰以外であってはならない。そう、思いこまなければ、僕はもう死んでしまいいそうだった。

**********************

「あれ、お客様。どこにいらっしゃったんですか?」
 適当にたどり着いた部屋にいたのは、使用人らしき少女だった。年の頃は、十四、五歳と言ったところ。頭の上には赤毛に紛れるように小さく猫耳が覗いている。と言っても、年に関して見た目はあてにならないと言うことを僕はこの半年で学んでいた。
「ああ、ちょっと屋敷の中を探検してまして。そしたら迷子になっちゃったんですよね」
 表情を取り繕い、苦笑を浮かべる。嘘は言ってない。嘘は。
「このお屋敷は広いですからね。では、そろそろお夕飯のお時間ですし、食堂にご案内いたしますね」
 そう言って、部屋を出た彼女の後ろをついて行く。そこで始めて気づいたが、彼女が身に纏っている着物の裾から二股の尻尾が揺れている。猫又、と言うやつだろうか。
「えっと、使用人さん、でいいのかな?」
「あぁ、申し遅れました。私、茜と申します」
「じゃあ、茜さん。ちょっとお聞きしたいんですが、茜さんはあの鬼の女の子のことはどれくらいご存じなんですか?」
 彼女に問いかけたのは特に意味があったわけではなかった。あえて言うなら、食堂にたどり着くまでの暇を持て余しただけだ。本当に情報が得られるなんて思っていなかった。
 しかし、返ってきた答えは、そんな僕の思惑を遙かに越えるものだった。
「あぁ、白ちゃんのことですね」
「白ちゃん?」
「ええ、あの子の名前です。と言っても、私たちが勝手につけただけなんですが」
「随分気安い呼び方をするんですね」
 思わず語調に棘が混じる。子鬼――白ちゃんに恨みがあるわけではなかったが、それでもまるで友達のように接することには抵抗がある。
「ええ、私は直接被害を受けていませんからね。あの子はただ結界の中にいるだけですし」
 そのことに気付かなかったのか、それとも気付いた上でなのか、茜さんはこともなさげに告げた。
「でも――」
「お客様。良いこと教えてあげましょうか?」
 茜さんの言葉で遮られる。僕の先を歩いていた彼女が立ち止まり僕のほうへと振り向く。その顔にはどこか悪戯好きそうな笑みが浮かんでいた。
「神楽さんは貴方に酒呑童子の復活を防ぐためと言っていたと思います」
「ええ、そうです」
 実際は復活させる可能性が低いという話はされていた。しかし、今回の大義名分としてはそれで間違いない。
 神楽さんがヴァレットの屋敷に来たときのことを思い出す。あれから一日程しか経っていないはずなのに随分と昔のことのように感じた。
「ですが、実際は彼女が酒呑童子を復活させることは出来ません。神楽様は嘘をついているんです。本当の目的は違うところにあります。多分、神楽さんは教えませんけどね」
「本当の目的って――」
「さぁ、着きましたよ」
 彼女に話の続きを聞こうとしたが、目的地に着いてしまったようだった。彼女の顔を見ると、ただ微笑むばかり。これ以上話す気はないようだった。
「・・・・・・ありがとうございます」
「いえ、ご健闘をお祈りしております」
 茜さんは来た道を遡るように廊下を歩き出す。
「あ、そうだ」
 しかし、途中で立ち止まりこちらを振り返る。
「最期にもう一つだけ。顔、洗った方がいいですよ? 顔色酷いですから」
 顔を擦るような仕草をし、もう一度だけ微笑むと今度こそ廊下の奥へと消えていった。
 食堂の扉の前で自分の顔に触れる。そうして初めて、気付いた。
「はは、僕泣いてたのか」
 頬に残る涙の跡に。

*********************

「あれ、朋希くんどこにいたの?」
 ふすまを開き、食堂へと足を踏み入れると、そこには僕以外の全員がそろっていた。中央の机の上にはすでにいくつかの料理が並べられており、そろそろ食事が始まりそうな様子だ。
「屋敷の中を探検していたら、迷子になってしまいまして」
 問いかけてきた神楽さんに答えながら、陽菜の隣の席へと腰を下ろす。陽菜を挟んで反対側がヴァレット、その正面が神楽さんである。
 ほどなく残りの料理も運ばれてきて、食事が始まった。食事を進めながらの話題はもちろん、結界の中の子鬼――茜さんたちの言う白ちゃんのことである。
「朋希君、あの子の事結界の外に連れ出せそうかな?」
「……情けないですけど、今日と同じやり方をしていては難しいと思います。今日は油断していたとはいえ、あれほどの速度で斬りかかられると」
 そこで言葉を切り、ちらっとヴァレットの方へと目を向ける。彼は、僕の話には興味がないとでもいうように、黙々と食事を口に運んでいた。
「一番良いのは彼女が動けなくなるくらいまで放置することだと思うんですが」
 あの子鬼は最期の最期まで抵抗するだろう。口には出さなかったが、そう思った。
 そして、それは一緒にいた神楽さんも同じなのか、僕の言葉に険しい表情を浮かべる。
「まさか、こんなに苦戦するとは思わなかった。鬼よりも吸血鬼の方が格上だから、結界内に入れさえすれば連れ出せると思ったんだけど」
 それは、僕らに聞かせるつもりのなかった言葉だったのだろう。もしかしたら、本人は口に出ていることすら気付いていないのかもしれない。
 しかし、口に出してしまった以上は僕らの耳に入る。ただでさえ、人間だったころよりも五感が鋭くなっているのだ。
 遠回しに攻められているような気がして、チクリと痛む。
「神楽さん、そんな言い方、朋希君が悪いみたいじゃないですか。訂正してください」
 そう思ったのは僕だけではなかったようで、僕の隣、陽菜が神楽さんを小さく睨む。
 それを聞いた神楽さんは慌てて、僕の方を見た。
「ごめんね! そんなつもりじゃなかったんだよ! ついね、ぽろっとね、出ちゃっただけなんだよ!」
 その慌てように、少し笑ってしまった。
「分かってますよ。気にしないでください」
 昨日初めて会った神楽さんだが、独り言にかこつけた恨み言をわざときかせるような性格ではないことは分かる。先ほどの言葉は本当に思わず口に出してしまっただけなのだろう。よくよく見てみれば、少し顔色も悪い。神楽さんも神楽さんであの子鬼のことについて悩んでいるのかもしれない。
「うちのガキが子鬼を引っ張り出し損ねたのは、事実だしな。もっと言ってやってもいいぞ。俺が許可する」
 ようやっと、ヴァレットが喋ったかと思えば、こちらは正真正銘、僕を責めている。しかし、軽口めいたそれに神楽さんの表情がふっと和らいだ。
「いいや、本当に朋希君はよくやってくれたと思うよ。今まで私たちは彼女と会話することすら出来なかったんだ。会話してくれるなら、説得できるかもしれないしね」
「あれは、会話って言っていいんですかね。放っておいてって言われて斬りかかられただけなんですけど」
 昼間のことを思い出しながら苦笑する。右腕はすでに完全につながっているが、傷口に沿って赤い線が走ってしまっている。結界のせいで直りが遅かったからかもしれない。
「ともかく、明日もお願いね。今日の様子だと、あと一週間は持つと思うから」
「分かりました」
 頷く。ここで諦めろと言われても、諦めきれないところだった。
「それじゃあ、食事を再開しようか」
 その言葉にもはや完全に止まってしまっていた食事の手を再び動かし始めた。

                       

 ひんやりとした風が頬を撫でる。春とはいえ、夜は少し冷え込む。浴衣の上にもう一枚羽織ってくればよかったかもしれない。空に瞬く星を見ながらそんなことを思う。
「堕陽郷の星空も反転しているのかな」
 ふとそんなことを思った。と言っても、星に詳しくない僕では判断がつかないのだが。
 食事が終わった後、自然と解散ということになった。この神社は客間にそれぞれ内風呂がついていたので、軽く入浴を済まし、さぁ寝よう、としたところで全く眠気がないということに気づいた。
 そもそも、半分とは言えヴァンパイアな僕は睡眠をとる必要がない。いや、正確に言えばヴァレットに修行で限界まで扱かれた時には、眠らないといけないのだが。
何はともあれ、腕の一本や二本斬り飛ばされたくらいでは睡眠をとる必要がないということだ。
でも、今日眠れなかったのはそれだけではあるまい。正直に言うと、白ちゃんを結界から連れ出すのは、義務感でしかなかった。
頼まれたから、頑張る。ヴァレットもやれといってるから、やる。
そんな風に誰かのためにやっているだけであって、僕自身は白ちゃんに見せつけられた覚悟に迷いが生じてしまっていた。
彼女の好きにさせてあげるべきではないか。そう思ってしまっていたのだ。半日悩んでもその答えは出ていない。
そんな訳で、村の中を散歩しているのだった。
 夜は妖怪の時間だと思っていたが、村の中はしんとしており、僕と同じように出歩いている者は見当たらなかった。幻獣族は普通の生き物と同じように眠らないといけないのかもしれない。明日、朝食の話の種代わりに神楽さんに尋ねてみよう。そんなことを思っていた時だった。
「こんばんは」
 背後から消え入るような声。しかし、その声は確かに僕の耳に届いた。夕食のときは少し疎ましく思った五感の鋭さも、こういう時には役に立つ。
 反射的にそこを飛び退き、懐からナイフを取り出す。視線は声の出どころへ。
 狙われる様な覚えはないが、何があるかわからない。何より気配がしなかった。
「そ、そんなに警戒しないでください。敵なんかじゃないです。気配がしなかったのは思考の隙を通ってきたからで」
 慌てたような声。それは徐々に近づいてくる。そうして、星明りの中現れたのは、
「女の子?」
 十歳ほどの少女だった。
 その見た目に少し警戒を解く。目の前の彼女を改めて見てみると、背中ほどまで黒髪を伸ばし、前髪を目の下で切りそろえている。まるで、自らの瞳を隠しているかのように。
 びくびくと震えながらこちらに近づいてくるその姿はとても僕を襲おうとしているようには見えない
「そうです。私はお兄さんを襲おうなんて思ってないです。だからそのナイフを下ろしてください」
 掠れた声。顔の半分が髪で隠されていてもその表情に怯えが浮かんでいるのは見て取れた。
「君は誰なんだ? どうして僕に話しかけてきた?」
 しかしながら、その言葉を素直に信じ切る気分にはならなかった。見た目はいとも簡単に裏切ってくる。そのことを僕はすでに知っていた。わずかにナイフを動かす。
「心です! 私は心という名前です。お兄さんに話があるんです!」
 いっそまくしたてるように並べられた答えに少し考える。嘘をついているようには見えなかった。
「そう、嘘じゃないです。答えたのですから、ナイフを下ろしてください。とっても怖いです」
 声に涙の色が混じってきた。その事実に急に悪いことをしているような気分になる。それを振り払うように頭を振ると、ナイフを懐にしまう。
「うぅ、怖かった。お兄さんは意地悪な人なのですか?」
「ごめんね。今日に心ちゃんが現れたもんだから、びっくりしちゃって」
 しゃがみ込み彼女に目線を合わせるようにして謝る。しかし、まだ僕のことが怖いのかついっと視線を逸らされてしまう。
「分かっています。でも、急にナイフを突きつけられたら怖いです」
「本当にごめんね」
 再び謝罪を口にする。そこまでして、彼女は落ち着いたらしい。大きく深呼吸をすると、僕の方へと顔を向ける。
「お兄さんに話があります」
 先ほど告げた声を掛けてきた理由をもう一度口にする。今度は小さく頷いて返す。
「白ちゃん――結界の子鬼の話です」
 告げられて言葉は先ほどとはまた違った衝撃を僕にもたらした。いや、不意を突かれたという意味では同じかもしれない。
「それは……」
 何と言っていいのか、分からなくなる。思わぬところから降って湧いた情報だ。そもそも、僕一人だけで聞いていいことなのだろうか。神楽さんを呼んでくるべきでは?
 しかし、彼女は僕がそれを移す前に畳みかけるように告げる。
「白ちゃんを助けて欲しいんです」
 助ける。という表現に違和感を覚える。彼女は自分の意志であそこにいるのではなかっただろうか。
その疑問を口に出すよりも前に、彼女は僕の顔に手を当て、目と目が合うように固定する。
「ごめんなさい。時間が惜しいんです。本当にごめんなさい」
 そう言うと、自らの髪を払う。その下から現れた瞳は揺らめくような紫色で、その瞳に吸い込まれるように僕は意識を飛ばした。

                      

 初めて見た景色は溺れるほどの赤だった。始めて聞いた音は震えるような唸り声だった。初めて嗅いだ匂いはむせ返るほどの鉄の匂いだった。初めて味わった味は吐き気を催すような肉の味だった。
 私は地獄の中で生まれた。
 これは、相当後――僅かなりとも自身を取り巻く事情を理解した後に知ったことだが、私は親の死骸から生まれた子らしい。
 半分とはいえ、その血に宿る強靭な生命力。それがなければ、もし私がただの人間だったのなら、生まれることもなく死んでしまっていたことだろう。
 しかし、幸か不幸か私は養い親に発見されるまで生きていた。生きてしまっていたのだった。
 真っ赤な視界の中、私を覗き込む泣きそうな顔。それが私の最初の記憶だった。
 そこから数年の記憶はすっかりと抜け落ちてしまっている。幼少期の記憶なんてそんなものだろう。次の記憶はこれまた赤い色をしていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
 狂ったようにその言葉を繰り返す。その時はそれ以外に償いをする方法を知らなかったのだ。
「大丈夫。大丈夫だから。私は白ちゃんがわざとやったんじゃないって知ってるから」
 お母さんの優しい声。でも、その中にほんの少しだけ恐れが含まれているのに気づいてしまって、自分はこんなに優しい人を傷つけてしまうんだと知った。
 それでもぎゅっと抱きしめてくれた。暖かかった。でも、両の手に残る赤の温度も同じくらい暖かいのだ。あの子が痛みに耐えかねて地面を転げまわる音と涙の混じった悲鳴。それが私を責め立てる。
私は少し強く押しただけだったんだ。なのに壊れてしまった。いとも簡単に。私は他の人とは違う生き物なんだ。そう思った。
 時は流れゆく。幸いなことに私が付けてしまった傷もそれに合わせて癒えていった。
 それ以降、私が十五歳になるまでの十年間はとても平和なものだった。
あの事件以来私自身、細心の注意を払って生活していたのもあるが、それ以上に周囲が私を暖かく受け入れてくれたことが大きかったのだと思う。
当時の私は自分は力が強いだけのただの孤児だと思っていたし、周りもそういう風に私を扱ってくれていた。
でも、私に流れているこの血が許された訳ではなかった。そのことを私は忘れてしまっていたんだ。
始まりは私が言いつけを破って村を出たことだった。村の外に出てはいけない。それはお母さんから唯一言われていたルールだった。
でも、当時の私は私の世界の外に何があるのかを知りたくて仕方なかった。物語に出てくるような不思議な体験。それを体験してみたくて我慢できなかった。
果たして村の外は私の知らなかったものであふれていた。そこで私は初めて悪意を知った。
「出ていけ!!」」
 何かが投げつけられる。頭に走る鋭い痛み。どろりとしたものが流れ落ちてくる。痛い。傷がではない。傷なんてすでに塞がっている。
 向けられた瞳が、言葉が、憎悪が痛かった。
 ただ歩いてていただけだったんだ。村の外と言ってもその周囲の森まで行ったわけじゃない。村のシンボルである鳥居が見える範囲までしか行っていなかった。
 たぶんそこは隣村とでも言うべきところだったのだろう。私が住んでいた稲荷村のすぐ近く。歩いて数分もかからないところにそれはあった。
 村の入り口を通った瞬間、近くにいた男に手に持っていた何かを投げつけられたのだった。
 私に当たり地面に落ちたそれを拾い上げるとそれは、農業用の鎌だった。
ゾッとする。私に向けられたのは、憎悪なんて生易しいものではなかった。それは殺意だ。目の前の男は私を殺すつもりでこれを投げたのだ。
この時ばかりは自分に流れる血に感謝した。そうでなければ、先ほどの一撃で脳髄を垂れ流すことになっていたかもしれない。
「な、何をするんですか!?」
 当然、声を荒げた。思い返せばこれも初めての経験だったかもしれない。怒りに任せてふるまえば誰かを傷つけかねない。そう思っていたから。
「うるせぇ! 何でお前がここにいるんだよ。神楽様は何をしてんだ。お前を稲荷村で一生飼殺す。それがお前を生かしておく条件だったはずだろう!?」
 意味が分からなかった。なんで神楽様の話が出てくるんだろう。私を生かす条件? 何を言ってるんだ。この人は。
「……村から出てきたってことは、殺されても文句言えねぇってことだよなぁ。そういう事だろ?」
 ずるり。そんな音が鳴った。目の前の男の体が崩れていく。それは大きく、歪に変わっていく。人から獣へと変わっていく。狼男。それが人への擬態を解いた彼の本来の姿だった。
 吠える。村いっぱいに響き渡るように、その声に応えるように村の中から何人もの村人が出てくる。
 私を取り囲んだ彼らの顔に浮かぶのは、怒り、憎悪、決意、そして嗜虐だった。
「やっとだ。十年前のあの時は神楽さんに止められて、出来なかったが、やっとお前を殺すことが出来る」
 狼男はそう言った。周囲の村人がじりじりと迫ってくる。
怖かった。だから、逃げた。腕を引き絞り前方に打ち抜く。あの事故以来意識して封印してきた暴力。それを解き放った。正面にいた誰かに当たる。想像していたよりも軽い反動。それだけで、目の前が開けた。
改めて私の力が異常であることを理解した。でも、そんなことを気にしている暇はなかった。
 走る。自分がどこに向かっているかも分からなかったが、とにかく走った。気付いた時には、住宅地のようなところに迷い込んでいた。
「……ここは、どこだろう。早く稲荷村に戻らないと」
 息を整えながら、周囲を見渡す。私を探しているような気配はなかった。それでも安心はできない。
 取り敢えず、まっすぐ進めば村の端にはたどり着くはずだ。そう思って、家屋の陰に隠れながら奥へ奥へと進んだ。
 頭の中は疑問でいっぱいだった。言語が違ってしまってしまったかのように村人たちが言っていた言葉は何一つ理解することが出来なかった。でも、彼らが本気で私のことを殺そうとしていることだけは分かった。
 思考に浸りきっていたのが悪かったのだろう、私は背後から近づいてくる村人に気づくことが出来なかった。
「見ぃつけた」
 背後から声が聞こえるとともに肩に手が置かれる。それは男の声だった。
「逃げちゃダメじゃないか。探すのが手間だったよ」
 恐怖。その時、私はその日一番の恐怖を感じたのだった。
先ほど取り囲まれた村人と違って、彼からは殺意や害意その類の感情が読み取れなかったのだ。しょうがないなぁとでもいうような表情を浮かべ親しげに接してきている。
 それが逆に怖かった。今まで以上に意味が分からない。
「な、何で私を殺――」
「殺さないよ。それはあまりに短絡的だ。もちろん、僕が君の肩に置いている手を首へとスライドさせる。それだけで、君を殺すということだけなら達成できる」
 流石に君も首を落とせば死ぬだろう?
 そう言いながら、微笑んでくる。いつの間に肩にかけられた手は鈍く輝く鎌へと変わっていた。
「でも、それはつまらないだろう? 安心しなさい。このまま、いい子にしていたら村の外まで連れて行ってあげよう。傷一つつけないことを約束するよ」
 男の言葉を拒否するという選択肢はなかった。男に背を押されるまま、村の端へと歩いていく。
 不思議なことに私を探しているであろう村人には一人も会うことがなかった。
 そうしてたどり着いたのは一軒の家だった。今まで視界の端に写っていた民家よりも大きい。恐らく、稲荷村で一番大きいであろう神楽様の住む社よりも大きいかもしれない。
 その外観を見た時、私は何か小さな違和感のようなものを感じた。
「ここは人の世界で言う養護施設に近い。中にいるのは幼い子供だけという訳ではないがね。まぁ、誰もさして変わらない」
 私が違和感の原因を探る前に、男は再び私の背を押し、その家屋の中へと誘っていく。
 そこで違和感の答えの一つを見つけた。
 滑らかすぎるのだ。玄関に上がるための小さな段差、屋内へと入るための框、部屋と廊下を隔てる襖の敷居でさえもそこに存在するすべての段差が取り払われていた。
 それだけではない。いたる所、それこそ玄関に入った瞬間から複数の高さの手すりがついている。
「奇妙だろう? 我々からしたら煩わしささえ感じる。まさにいたせりつくせりだ。でも、ここの住人たちはこうでもしないと生きていけないのさ。さぁ、奥へと進もう」
 靴を脱ぎ、奥へと進んでいく。
 正直に言うと、私はもうここから先に進みたくなかった。気が進まないどころの話ではない。違和感はすでに悪寒にまで達していた。男に促され、一歩また一歩と歩みを進めるたびに吐き気がする。
「しっかりしたまえよ。ほら目的地に着いた。ここだ」
 しばらく進んだ一室で足を止める。
 襖の前に立つそれだけでひとりでに襖があいた。
「入って」
 男に促され、その部屋にたどり着いた私は言葉を失った。
 そこは、再び私の初めてみるもので溢れていた。
 両足を失った狼男。盲いたバジリスク。喉をつぶされたセイレーン。傷いた同胞たちがそこにはいた。
 中には生きているのか定かでないものさえいる。それらは、ベッドに横たわり患部からとうとうと血を流し、大小様々なうなり声をあげているのだった。
「彼らはね、傷を癒しているのだよ。本来、僕らは養生すれば大概の傷は治る。先ほど、君が頭に受けた裂傷を一瞬で直したようにね。なのに彼らはゆっくりと本当にゆっくりとしか直すことが出来ない。塞いでしまった傷は治らないから、治りかけるたびに傷口を抉る。前回よりも少し浅くね。そうやって、いつか完治する日を願って過ごしているんだよ。ほら」
 肩越しに男が指した先にはちょうど半分ほどしかない足に向けて、刃を振り上げるケンタウロスの姿があった。
 悲鳴を上げないようになのかきつく布を噛み、荒く呼吸していた。そして、一度大きく息を吸い、振り下ろした。その刃の行く末を私は直視することが出来なくて――
「目を逸らすな」
 顔ごと逸らそうとした視線を固定される。がっちりと顔を両の手で挟まれて、まぶたすらも無理やりに開かれて、見ることを強要される。
 舞う鮮血。布によって押し殺された悲鳴がそれでもなお入り口に立つ私まで聞こえた。
「痛そうだねぇ。彼らはここでああいった自傷行為を一週間に一度は行っている。そして、それ以外の日は自室でただ痛みに耐え、傷が治るのを待つのさ。その傷を抉るためにね」
 吐きそうだった。こみあげてくるものを飲み込むさなかにも部屋のどこかで悲鳴が上がる。
「可哀そうだ。本当に可哀そうだと思わないかい? どうして彼らはこんな目に合っているのだと思う? なぜ彼らの傷は治らないのだろう?」
 知らない。そんなことは知らない。私には関係ない。そう思いたかった。でも、心のどこかで分かっていたので。これは、私の問題だ。私を中心にした問題なんだ。
「ところで、君は自身の種族がなんなのか知っているかね? そう、鬼だ。鬼。それ自体はなんてことないありふれた生き物だ。私の友にも二、三人いたよ。でもね――」
 肩に置かれた手に力がこもる。それは、男が私に与えた唯一の肉体的な痛みだった。
「白髪の鬼なんて私は一人しか知らない。その鬼は今から十五年ほど前、暴虐の限りを尽くし何百人もの同胞を傷つけた。彼につけられた傷は呪われる。決して癒えず、絶えず激痛をもたらす。さぁて、歴史の問題だ。先代幻獣族の長、鬼たちを暴力によって従えた白髪の鬼――そして君の父親の名は何でしょう?」
 酒呑童子。その名を聞いたことはあった。白髪の鬼。自分との共通点にも気づいていた。でも、周りのみんなは何も言わなかったから、ただの偶然だと思っていた。思っていたかった。
 掠れた声で答えた私に言葉を聞き、満足げにうなずく。
「そうだね。いや、勘違いしないでほしいんだがね。君が酒呑童子の子であること自体はどうでもいいんだ。そこのところは覚えておいて欲しい。じゃあ、次の問題だ。十五年前に打倒されたはずの酒呑童子。それでは、なぜ彼らの傷は未だに癒えることを拒んでいるのだろうか?」
 そんなことわからない。その言葉を私が告げる間もなく。男が答えを告げた。
「正解は、酒呑童子がまだ死んでないからだよ。じゃあ、どうしているのか? 稲荷村から少し行ったところにある結界の中に封じられている。夜の生き物の力を奪い、出入りを禁ずる結界。本当はこれで酒呑童子は力を奪われ、完全に死滅するはずだったんだ。その期間おおよそ五年。短い。我々からすればあまりに短い時間だ。当時傷ついた人々も五年ならば、と自らの傷を癒せないことを受け入れた。しかし、今この時でさえ封印の下には酒呑童子が存在し続けている。何故だか分かるかい?」
 君がいるからだよ。
 耳元でささやかれる。そのまま、流し込まれるように告げられた事実。
 曰く、酒呑童子の力を削ぐ。それ自体は成功してる。しかし、細くつながった最期の糸。それが、切れていない。それが、彼の血を継ぐ唯一の存在である私だと。
「つまり、君が生きている限り、酒呑童子は死なない。不死を持たぬ身であっても一族の長ともなれば、それに準ずる術を見つけ出すということなのかもね。事実、過去の長に寿命で死んだ者はいない。君がいると分かった時は大騒ぎだったよ。君がまだ生きているのは、神楽様が我々に頭を下げた事と、この施設の運営に全力を注いでくださっているから。それだけのことだ。まぁ、つまり何が言いたいかというと」
 そう言って、すっと私の首筋に刃を当てる。再び男の手は鎌となっていた。
「ずっと君には死んでもらいたかったってことだ。でも、さっきみたいに正しんでもらうんじゃあ、面白くない。さっき、言ったよね。結界は夜の生き物は入ることが出来ない。でも、君は入れる。何故かって、それは君が酒呑童子と人間との間の子だからだよ。君は純粋な鬼ですらない。母親の死骸を喰い破って生まれた子だ。まったく、汚らわしい。どうだろう。いっそ、父親の隣で一緒に心中するというのは。僕たちはそれを見学に行って、留飲を下げるとする」
 まるで、食事にでも誘うかのような何気ないトーンでそんなことを言う。でも、その奥に除く憎しみを隠しきれてはいなかった。彼は本気で言っているそれが分かってしまった。
「い、嫌。さっき言ってた。親は親、子は子って」
 震える声で背後の男へと告げた。背後で頷く気配。
「そうそう。私の話をしっかりと聞いてくれていたようで、嬉しいよ。確かに言った。親は親。子は子だ。少なくとも私はそう考えているよ。だから、これは君の罪で君の罰だ。君は生まれてはいけなかったんだ。そう言っているんだ」
 冷たい。先ほどまでの様に取り繕うこともない、感情の滲まない声。首筋に充てられた刃以上の寒気が私の背筋を走った。
「と言っても、君は随分優しく育てられていたようだ。このままじゃ、結界に向かってくれそうもない。しばらく気には病むだろうが、ここを出れば一生この村には足を踏み入れず過ごすのだろう。もしかしたら、子すら成すかもしれない。それは困る。という訳で、説得材料としてこんなものを用意した。おいで」
 男の声が少し遠ざかる。自身の背後へと声を掛けたらしい。そうして、私達の横をすり抜けるように部屋へと入ってきたのは、十歳ほどの少女だった。
 瞳を隠すように切りそろえられた黒髪。おびえたように私の目の前に立つ。
「彼女は覚という種族でね。その瞳で見たものの心を読むという能力を持っているんだが、一般に知られていない能力があってね、目を合わせたものの記憶を体験し、反対に自身の中にある記憶を体験させることが出来る。そこで、君には我々――四六七人分の人生を体験してもらおうと思う。なぁに、時間はかからん。ほんの数秒で終わる。君の体感は知らんがね」
 言い終わると、男は私の肩を下に押す。その力のあまりの強さに膝をつき、目の前の少女と視線の高さが同じになる。
「それじゃあ、頼んだよ」
 男の言葉と共に少女が一歩私に近づいた。そうして、ポツリと告げる。
「ごめんなさい」
 私の中に何かが流れ込んできた。


 意識が戻った時、最初に目に入ったのは泣きそうな覚の少女の顔だった。
「ごめんなさい」
 謝る彼女の頭を軽く撫でながら夜空を見上げる。先ほど見たばかりのはずの夜空。しかし、それを見るのが数年ぶりのような気さえした。
「私が白ちゃんに記憶を見せなければ、本当に結界にこもったりなんかしなかったかもしれない。私のせいで」
「ありがとう。教えてくれて」
 尚も顔を歪める少女に向けて礼を告げる。少なくとも僕は彼女に鬼の少女――白ちゃんの記憶を見せてもらったからこそ、心が決まったのだ。
「一緒に来るかい?」
 手を差し出す。僕に彼女の記憶を見せれたということは、心ちゃん自身も白ちゃんの記憶を体験したのだろう。それを抱えきれなかったから、僕の所に来たのだろう。
 ならば、彼女にも立ち会って、その目で確かめて欲しかった。
 彼女が救われる瞬間というものを。

―――――――――――――――――――――――――

 半日ぶりの結界。それは相変わらずそこに在った。その中には刀に寄り掛かる白ちゃんの姿。
 昼に僕に向けて斬りかかったのが負担だったのか、あの時よりもいっそうぐったりしているように見えた。
 彼女は僕を見て、そして心ちゃんを見るとすべてを察したのだろう。すこし、困ったように笑った。
 不安そうにしている心ちゃんの頭をもう一度だけ撫で、結界の中へと足を踏み入れる。
 途端に抜けていく力と流れ込んでくる怨嗟の声。それに構わずゆっくりと白ちゃんの前へと足を進める。
「数時間ぶりだね」
「また、来たんだ。心ちゃんも、一緒ってことは、全部知ったうえで来た、ってことなんだよね」
 掠れた声。もはや斬りかかる体力もないのか、それとも追い払うつもりがないのか、彼女はただ目の前に立つ僕を見上げるだけだった。
 僕は小さく頷く。
「そっか、じゃあ、分かったでしょう。これは私への罰、だから。私に流れるこの血への」
 そう言って笑う。笑うのだ。困ったように小さく。それは納得だった。残念だけど、それが事実だ。そう思っているのがまじまじと伝わってきた。
「ーーざけるな」
「何?」
「ふざけるな!!」
 どうしてもそれが、許せなかった。
「何が罰だ。何が罪だ。そんなの君のせいじゃ無いじゃないか。君はただそう生まれてきただけ。そのことに罪なんてあるはずがない。罰なんてあるはずがない」
 そうでなければならないのだ。親の都合に子供が巻き込まれて良いはずがない。それがどれだけ残酷なことか、僕はよく知っている。
「親ってのは、子供に罪を残す者なんかじゃない!!」
 叫ぶ。どろどろと沸き上がる何かを吐き出すように。
「もっと優しくて、もっと強くて、もっと格好良い存在なんだよ!」
 それはもう目の前の彼女にだけ向けられたものではなかった。
 あまりに青臭い理想。それを満たす親の方が少ない事なんて分かっている。でも、叫ばずには居られなかった。そんな青臭い理想すら抱けないまま、目の前の少女を死なせたくない。そう思ってしまった。
「待ってろ。絶対に助けてやる」
 少女が何か言っているようだった。しかし、もはやその言葉は耳に入らない。何を言っていたとしても構わない。自分の意志を押しつけると決めた。少女の遺志を踏みにじると決めた。
 だから、すがりつく彼女を押しのけ巨大な岩の前に立つ。結界の要。それに触れ、縄を握る。そして、引きちぎった。

 変化は一瞬だった。気付いた時には封印の要だった岩の前に彼はいた。
「んー、見覚えのない場所だ。幻獣族の森のどこかだとは思うのだけれど。まぁ、どうでもいいか」
 その男性は随分と特徴に乏しい顔立ちをしていた。長身で線が細く、美しくも醜くもない。街ですれ違っても気付かないかもしれない。目立つのは真っ白な髪と額の中心にある小さな角ぐらいのものだった。
しかしながら、彼が纏う空気を忘れることはないだろう。重い。いつの間にか消えていた怨嗟の声。それを極限まで煮詰めたような禍々しさだった。目の前に立っているだけで、ひざを折りそうになる。
これが酒呑童子。これが四高の本気なのか。そう思う。
「それで、君は誰だい? その瞳の色からするとヴァンパイアになりかけと言ったところかな。しかしながら、立ち方や気配に研鑽の跡がある。良い師に巡り合えたようだ。後でぜひ話を聞かせてくれ」
 彼は僕の肩を軽く叩き、僕の隣をすり抜けていく。僕の後ろには白ちゃんがいる。止めなければ。そう思う。しかし、体が動かなかった。
「……君は、そうか君が僕の子供か。僕は君が生まれるときに立ち会う時が出来なかったから。初めまして、だね。意外なものだね。必要に駆られて作ったはずなのに、実際に直面すると心が動かされる」
 背後から聞こえる声。その中にはどこか暖かさのようなものが滲んでいるように見えた。酒呑童子の中にも親の情のようなものがあるのかもしれない。
心の中に小さな希望のようなものが灯る。それによって安心したのか、体の自由が利くようになった。白ちゃんたちのいる背後へと振り返る。
僕から見えるのは酒呑童子の背後、そして怯え切った白ちゃんの表情だった。
「心が躍る。自分の子供を引き裂くというのはどういった気持ちになるんだろうね」
 酒呑童子の無造作に右手が上がる。何の力も入ってないような、その動作に僕は震えあがるほどの悪寒を覚えた。
 それからの数秒はほとんど無意識に近いものだった。
酒呑童子に向けて踏み込んだ瞬間に身体強化。後ろから酒呑童子の肩を引き、地面に押し倒す。勢いのまま、体を乗り越え反転。白ちゃんと酒呑童子の間に着地。
 掌を噛み千切る。傷を再生と同時に大ぶりのナイフを作成。起き上がろうとした酒呑童子に馬乗りになりもう一度押し倒す。
気付いた時には僕は白ちゃんを背に庇いながら、酒呑童子を押し倒し、その首筋に刃を添えていた。
「――おどろいた。君は僕の予想以上に戦いなれている。自身の能力を把握すること。それは戦闘するうえで非常に重要だ。何が出来て何が出来ないか。それが分かれば――」
「しゃべるな。黙ってろ」
 酒呑童子の言葉を途中で遮る。悠長に会話を楽しんでいる余裕なんてなかった。頭の中ではどうやってこの状況を切り抜けるか必死に考える。
 問題は酒呑童子が通常の方法では殺せないということだ。ヴァレットや神楽さんたちがどうやっても殺せなくて、最終的には封印なんて言う消極的な手段に頼らざるを得なかった。どうすれば良い? こいつを殺しきらなければ、根本的な解決にならない。
 なぜそのことを失念していたのか。酒呑童子に親の情があるかもしれにない? それがどうした。こいつが死んでくれなきゃ、呪われた傷は治らない。ならば、復活して酒呑童子が周囲の状況を把握する前に決めるべきだった。せめて、身動きが取れない程度には痛めつけるべきだった。失敗し――
「年上として君にいくつか教えておこう。一つ、戦闘中にあれこれ考えるな。考えるのは相手を殺してからで、十分だ」
 完全に極めていたはずの腕が動き出す。必死に抑えるが少しずつ形が崩れていく。
「第二に、時に圧倒的な力の前には技は無力だ」
 振りほどかれる。再び関節を極めようとするが、それを許すような相手ではなかった。自由になった腕を地面につき、跳ね上げるように僕の下から逃れる。
「第三に、年上には敬語を使えよ。クソガキが」
 その言葉を聞いた瞬間、僕の視界は真っ暗になった。意識が戻ったのは吹き飛ばされた空中で、綺麗に足の形に抜けた腹の傷が酒呑童子に蹴り飛ばされたことを教えてくれた。
 背中から数十本の木にぶつかり、やっと止まった。痛む傷を治しながら、結界のあった場所へと駆けだす。
 飛ばされたのは十数メートルほど。まだ酒呑童子と白ちゃんは見えていた。
 酒呑童子はすでに白ちゃんに興味を失っているのか、その視線は僕の方へと向いている。
好都合だ。正直、白ちゃんを庇いながら戦うなんて絶対無理だ。
加速。加速。もう一度、加速。僕が出しうる最大の速度で酒呑童子に突っ込んだ。
「おっ、なかなかやるね」
 酒呑童子の言葉に倣って、技も何もない力任せの突進。しかしながら、速さはそのままエネルギーだ。血を纏った右腕は彼の腹をぶち抜く。まずは、白ちゃんからこいつを放す。
突き入れた右腕の血液はそのまま形状を変化。中から串刺しにしていく。
「やはり不死族はずるいな。特に吸血鬼は最悪だ。致命傷でも数秒で全快にもってくる。戦闘方法が自身が傷ついていることが前提だから、痛みにも慣れていて動きを止めすらしない」
 口から血を流しながら、そんなことを言う。その言葉に逡巡せず、空いた左腕を中から突き破る。噴き出した血は形を変え、腕が振るわれる中で刃を作る。勢いそのまま、首を刎ねる。右腕の棘も刃に変形。上に切り抜ける。
 傷口に残した血が血管を駆け巡り、いたる所で血管を突き破る。まだ止めない。三度、変形。酒呑童子の血液が生命を得る。それは、蛇のような形をとり酒呑童子の体を喰らっていく。
 それらが消えた時には、酒呑童子はほとんど液体になっていた。
 死んだのか。思わずそう思う。流石に食い散らかした肉の塊から復活はしないだろう。現に目の前の肉塊は微動だにせず、そこにある。やっぱり、死んだんだ。
「その四、希望で行動を決めるな。確信を持つな。戦闘終了から三日間寝れないくらいでちょうどいい」
 その声は背後からした。胸が焼けるように熱い。視線を下ろすと、胸の中心から腕が生えていた。
 そこで初めて、腹の傷も塞がりきっていないことに気づいた。動き回ったせいで、当初よりも広がったようにさえ思える。
「その一で戦闘中に考えるなって言ったけど、あれは訂正しよう。事前に得ている情報くらいは頭の片隅に置いておくべきだった。そうすれば、ここまで大きな傷を負うことは避けただろうに。気付かず動き回るとは、痛みに慣れるのも考え物だね」
 酒呑童子に付けられた傷は呪われる。それは、白ちゃんの記憶を見て知っていたはずだった。
「完全なヴァンパイアではない君はどの程度まで死ねるのだろう。君は試したことがあるかい?」
 腕が一度抜かれる。その端から修復が始まるが、普段に比べてあまりに遅い。塞ぎきるには小一時間はかかるだろう。
「実験一、心臓は再生できるのか」
 もう一度、貫かれる。今度は先ほどよりも左寄り。心臓ごと腕が生える。
「ほう。再生が速い。心臓なんかの重要な臓器は優先的に直されるのか。それでは次は首」
 腕を引き抜かれ、首をえぐり取られる。意識の断絶。しかし、すぐに意識が戻った。
「頭は生えるんだ。いよいよ人間の見てるホラー映画じみてきたね」
 僕の足元には苦痛に歪んだ数秒前まで僕の頭だったもの。
「ふむ、この分だと腹の中を掻きまわしても、復活するだろう。後は潰すぐらいのものだけどそれは流石に無手ではなかなか」
「戦闘中に考え事したらいけないんじゃねぇのかよっ!?」
 振り向きざまに切り付ける。今度の狙いは両の瞳だ。殺せないのなら、戦闘力を奪う。
「僕は君よりずっと強いからいいんだよ」
 倒れ込むようなスウェーバック。バク転するように顎を蹴りぬかれる。顔面が削り取られる様な衝撃。体勢を立て直す間もなく、横からの衝撃。
 吹き飛んでいく視界の端に逆立ちしながら回し蹴りを繰り出す酒呑童子の姿が見えた。
 こいつ、普通に技も使えるじゃねぇか。
「その二の補足。圧倒的な力に技が加わればそりゃ強い」
 衝撃。衝撃。衝撃。状況も把握できないほどに、休みなく打撃を加えられる。体勢が崩れるたびに反対側に殴り飛ばされるので、倒れることすら出来ない。
 体中の骨が残らず粉になったんじゃないかと思うほどに痛めつけられてようやく打撃の嵐が止んだ。
 倒れ込む。体が言うことを聞かない。首から下の体がなくなったかのようだった。
「ふぅ、大分体が動くなるようになってきた。いい準備運動になったよ。ありがとう」
 擦れゆく視界。その中に酒呑童子以外の白い色が映ったような気がした。それは少しずつ大きくなってくる。
 こっちに来てはいけない。そう言おうとするが声が出ない。喉もつぶされていたらしい。道理でさっきから息が苦しいはずだ。
 ならば、せめて白ちゃんに意識が向かないように出来る限り、引き留めないと。
 僕を見下ろす酒呑童子の足を掴む。その足とそれを掴む僕の手を血で固める。出来うる限り硬く。さらに体から流れ出る血液をすべて杭に変え、地面に差し込む。
「これはまた面倒くさい。そんなことをしたって無駄なのに」
 足を蹴り上げる。それだけで、僕は宙を舞った。地面を転がり、止まる。
 今度こそ、本当に動けなかった。
 僕に背を向け、もう一つの白へと足を向ける酒呑童子を睨む。それくらいしか出来なかった。
 それすらも、もう億劫だ。瞼が思い。視界が欠け始める。意識が薄れていく。思考すらも溶け落ち――
「おいおい。情けねぇなぁ。あんだけ大見得切っといて、結果がそれか」
 朦朧とする意識の中に声が紛れ込む。それは聞き覚えがあるものでーー酷く安心する声だった。
「まぁ、取り敢えず及第点てことにしといてやろう。未熟者にしては頑張った方だろう」
 声が近づき、追い越した。霞む視界の中に影が映る。仄かに香るたばこの臭い。体から力が抜けていく。それとは裏腹に脳内には警鐘が鳴り響き続ける。
 怖い。目の前の人物が酷く怖い。彼が一言発するたびに、彼が一歩足を進めるたびに、その優しさが、その強さが、その格好良さが、僕を追いつめていくのだから。
「お前はそこで見てろ。不出来な弟子の後始末は師匠が何とかするもんだ」
 そう言って、皮肉げに笑う。だめだ。そんな目で見ないでくれ。いっそ僕のことを見捨ててくれ。そうすれば、ここで立ち止まれるから。そうすれば、このまま偽りの日常を過ごせるのだから。
 そう頭の片隅、冷静なところで思う。しかし、止まることはなかった。僕を背にかばうようにして酒呑童子の方へと歩みを進める彼の足取りも、そんな背中を見て嬉しいと思ってしまう自分も。
「ーーっ!」
 その歩みを止めようと。口を開くがその瞬間は見知った鋭い痛みに阻まれる。
 ボロボロになった体はもはやあらゆるところが痛みを訴えていた。しかし、それは痛みと言うよりも熱に近かった。右腕から徐々に徐々にその範囲を広げていく。まるで、僕を責め立てるように。その熱は腕から肩、肩から首へと登っていき、止まった。首を覆うように熱がとどまる。
 これは最後通告だ。そう思った。引き返すならここしかない。それが出来なければ、その先に待つのは、僕の死だけだ。
「もう、それでも良いかな」
 思わずつぶやく。もしかしたら、今すぐあの背中にナイフを投げれば、まだ猶予をのばすことは出来るのかもしれない。しかし、それは出来そうにもなかった。僕はもう彼に本気でナイフを投げられない。だって、
 ーー僕は、ヴァレットを殺せない。
 その事実を認めた瞬間、首の熱が一際熱くなる。それを感じながら、眼前の背中を見つめる。最期ならばせめて、その姿を焼き付けておきたかった。それが父の背中と言うものだと思うから。そうして、首の熱は弾け――
 ――させるわけにはいかんな。
 どこからか声が聞こえた。それは、おおよそ半年ぶりに聞く声で、
 ――どれ、少し体を借りるぞ
 その言葉を耳にすると共に意識は反転する。


 ヴァレットが酒呑童子と相対する。地面に倒れる朋希の気配を背後に感じながら、視線は目の間の鬼へと固定されたままだった。
「鬼のお嬢ちゃん。悪いんだけどな、そこに転がってる不出来な弟子を抱えて村に帰っててくれないか? 庇いながらはちょいときつい」
 近づいてきているだろう子鬼へと頼む。背後でごそごそと動く気配。そして、それは遠ざかっていく。
 目を逸らせない。逸らしたらその瞬間やられる。それは酒呑童子を封印した張本人であるヴァレットが一番知っていることだった。
「ひさしぶり、でいいのかな。僕が封印されてからどれほどの時が経ったのか正確には分からないけどね。元気そうで何よりだよ。お父様も喜んでおられるだろう」
「相変わらず、口の減らない奴だな。そっちも随分と元気そうだ」
 会話だけ見ればとても和やかなもの。しかし実態は違った。三七回。ヴァレットが繰り出して、酒呑童子が防いだ攻撃の数である。
 音速を超えたその攻防はたとえ朋希が起きていたとしても、そのすべてを理解することはできなかっただろう。
「ヴァンパイアというから、もしかしてと思ったけど、まさか君があの少年の師だとはね。君に師としての際があったとは驚きだ」
「残念ながら俺は何でもできるんだよ。天才だからな」
 ナイフによる斬撃、殴打、血液操作による攻撃。ヴァレットが繰りだす攻撃は休む暇なく酒呑童子に襲い掛かる。酒呑童子はそれをすべて防ぎ、しかしながら反撃を行うことが出来ない。
 互いに最高速の攻防。その上で戦いは千日手となっていた。
「埒が明かないね。獲物がないのが残念だ」
 話しかける酒呑童子に対して、ヴァレットはそれに返事をする余裕もなかった。原因は背後に庇う朋希だ。白の体の小ささからか、退避は遅々として進まない。時折、彼らに向かって繰り出される攻撃も捌かなければならないのだ。
「健気だね。ヴァンパイアのくせに。まったく、反吐が出る。前言撤回だ。お父様はあまりのふがいなさにお怒りだろうよ」
「いや、そうでもない」
 そこに割り込む声があった。若い。戦っていた二人よりもさらに若い男の声だ。
そして、その声を二人とも聞き覚えがあった。でも、するはずのない声。だから、二人の手は止まってしまった。
「おいおい。戦いの途中じゃろう? ほれ、続けんか」
 灰色の髪。右目しかない暗褐色の瞳。その体は血に染まっていて、骨が折れているのか立ち姿はどこか歪だ。でも、一番歪なのはその顔に浮かぶ邪悪な笑みだろう。
その右腕には気を失っているのであろう白を抱えていた。それを地面に寝かせる。その動作は存外優しいものであった。
「朋希?」
 おもわずと言った風にヴァレットが呟く。先ほどまで自身の背に庇っていたはずの少年。それが、立ってこちらを見ていた。
「ヴァレット。分かっているのに都合の良い方に考えを寄せるのはやめろと言ったことはなかったか?」
 その口調も表情もヴァレットが朋希から感じたことがないものだった。
 しかし、酷く見覚えがある。それらはすべて何もよりも憎んだ人のものなのだから。そして、自らの手で殺した人のものなのだから。
「ほら、父との感動の再会だ。ハグでもするか?」
 朋希が迎え入れるように手を広げる。その懐に踏み込み、思い切り殴り飛ばそうとして、止まった。
「おいおい。そこで止めるのか? 心配するな。この体の持ち主――朋希と言ったかな? 彼の再生力なら腹を飛ばされても死にはせん」
 言いながら蹴り飛ばされる。その動きは朋希の物よりも格段に鋭く、洗練されたものでヴァレットは腕でガードするのがやっとだった。
「ほう、この体なかなかに使い勝手が良い。身体強化も平均以上。なにより、干渉能力が桁違いだ」
 着地し、朋希の方へと向き直ったヴァレットの視界に広がったのは宙に浮く何千本もの杭だった。この瞬間にも地面から血液が滲みだし、杭に変わっていっている。
「いい子を見つけたものだ。流石は我が息子。引き入れ方も中々に儂好みだった。最愛の妹の命と引き換えに、人間をやめる。中々に泣かせる話ではないか」
「無視されるのは気分がいいものではないのだけどね」
 酒呑童子が朋希の背後をとる。ヴァレットと違って彼は何の躊躇いもなく朋希の頭を消し飛ばしにかかる。
「酒呑、お前も久しぶりじゃな。あえて嬉しいよ」
 その攻撃を見ることもなく、掌で受け止める。
「死人が出しゃばってくるなよ。みっともないよ」
「その言葉そっくりそのまま返してやろう。ほら、ヴァレットもボーっとするな」
 指をヴァレットに向ける。それだけで空中の杭達はヴァレットに飛んでいく。
 そのすべてをナイフで砕いていく。どうしてもかわせないものは手足を犠牲に逸らしてすぐに傷を治す。
「ほほう。中々にやる。ならばこれはどうかな?」
「だから無視するなと言ってるじゃないか」
 もう一度空中に杭を生成する中、酒呑童子が朋希に組み付く。関節を極め、さらに破壊しにかかる。
 その細腕からは想像出来ないほどの異常なまでの力。それによって、朋希の関節は悲鳴を上げる。
「――いい加減、鬱陶しい。親子水入らずを邪魔するんじゃない」
 自分から腕の関節を圧し折る。それどころか、腕ごと引きちぎり、酒呑童子の束縛から逃れた。
「ヴァンパイア相手に関節技なんて、やっぱりお前にはセンスがないな」
 背後の酒呑童子を振り向きながら、呟く。その時にはもう両の腕は再生し終わっていた。
「酒呑、曲がりなりにも不死を得たらしいが、下らん。獣風情が驕るんじゃない」
 酒呑童子の頭を掴む。それでお終いだった。酒呑童子の体から力が抜ける。目は虚ろに、口元はだらしなく開く。
「体中の血液が一切動かない。血液が循環しないから体中の細胞は酸素と二酸化炭素を交換できない。酸素がないからエネルギーは生まれない。エネルギーは生まれないから、体は動かない。なぁ、酒呑。それは、死んでいるのか生きているのか、どちらだと思う?」
 手を放す。その体は重力に逆らわず崩れ落ちる。それを見下ろしながら、小さく笑う。
「思考も止まってるから聞こえてないか。さて、待たせたな。そちらの準備は出来たか?」
 酒呑童子からヴァレットへと視線を向ける。そこには、左腕から血を流し朋希へと向けるヴァレットの姿があった。
「上々だよ。くそ親父」
 光る。左腕の紋様が輝いている。それは朋希とヴァレットを結ぶ契約だった。
 その光に合わせて朋希の首筋にまで広がった紋様も光る。それはどんどん輝きが増していき、熱に変わっていく。
「あぁ、忘れていた。これがあったな」
 首筋を撫ぜる。首を覆うその熱は徐々に首を絞めつけてくる。
「ふむ、これも邪魔だな」
 掴む。本来、掴めるはずのない契約の紋章。それを引きちぎる。
「クソが。ちょっとは止まれよ」
 ヴァレットの左腕からも紋様が消える。
「まぁ、少しは落ち着け。別に喧嘩するために出てきたわけじゃないんだから」
 敵意はないとでもいうように両手を上げる。その姿を見て、ヴァレットも構えていたナイフを下ろす。
「そうそう。会話は大事だぞ。親子は仲良くせんとな」
「……酒呑童子の言葉じゃないけど、死人が何を死に出てきたんだよ」
「何、大切な後継者が死んでしまいそうだったからな。ちょっと手助けに来た」
 言いながら先ほどまで紋様が覆っていた首筋を指さす。
「お前が紋様を暴走させるまでもなく首筋まで紋様が広がっていた理由、分からない訳じゃないだろう?」
 その言葉にヴァレットが言葉を失う。朋希の紋様が時折痛んでいたことは契約の片割れであるヴァレットにも分かっていた。
 その上で、問題ないと判断していたのだった。どれだけ情に流されようとも朋希は最期には自分を殺してくれると。
「甘いな。お前は親子の情というものを軽く見すぎている。親を殺すにはこの子は如何せん優しすぎるよ」
 ヴァレットの表情から何を考えていたのか読み取ったのだろう。呆れたような表情を向ける。
「人を殺すのは憎しみだ。頭が解け落ちるような憎しみでこそ人を殺そうなんて言うふざけた考えが浮かぶ。この子に足りなかったのはそれだよ。お前も身をもって知っているだろう?」
「それでも、自分の命が天秤に乗っているのなら……」
 そこで言葉に詰まる。現に朋希は自分の命を失ってまでヴァレットを殺さないことを選択したのだった。
「だから、甘いというんだ。お前はこの子の親になるべきではなかった。いや、理想の親になるべきではなかった。お前がこの子の理想を体現してしまったがために、この子も理想の子供に準じてしまった」
 自分の命を投げ出すほどに。その言葉は口には出さなかったが、ヴァレットには正しく伝わった。
「それじゃあ、どうすれば良かったって言うんだよ」
「それを教えるために儂が出てきたんじゃないか」
 朋希の顔が笑みの形を作る。
「妹――陽菜といったかな? あの子、もう一度殺そう。この子は妹のことを随分と大切にしている様子。そこまですれば、この子はお前を憎んでくれるはずだ」
「それ、は――」
 今までとは違う意味で絶句する。その思考の邪悪さに頭がくらくらする。
 自分もそれなりに悪に染まってきているつもりだった。綺麗ごとだけではどうにもならないものがあると学んだから。
だから、ケルベロスに殺される陽菜をこれ幸いと見殺しにし、傷ついた朋希に手を差し伸べた。
 だから、契約を結び、朋希の命を、未来を縛った。
 自分がそうだったから。先代のヴァンパイア。彼に命を握られ、運命を捻じ曲げられ、未来を歪められた。それを憎み続けていたから。
 でも、それでもまだ足りないと師は、朋希の中に血液の記憶のとなって残ってた先代は言うのだ。
「納得いかないか? ならば、儂がやるしかないのだろうな。何、うまいこと記憶は書き換えておく。儂だって息子に意に沿わないことをさせるのは心苦しいからな」
 まるで、本当の親のようなことを口にする。しかし、その顔には酷く嗜虐的な笑みが浮かんでいた。
「てめぇは久しぶりに殺したいだけだろ」
「まぁ、そうとも言うな」
 ヴァレットは再びナイフを構える。
 甘いと言われたが、本当に自分は甘いのかもしれない。半年ほど一緒に過ごしただけの相手に情が移ってしまっているのだから。そう思った。
「勝てるとでも? さっきも言っただろう。この子の干渉能力は桁違いだ。お前でも触れられれば酒呑の二の舞になるぞ」
 足元に転がる酒呑童子を指さして言う。
 ピクリとも動かない。完全に停止してしまった彼の時は今もまだ頭に手を触れられた時点で止まっているだろう。
「一度負けた奴がよく言う。何、百回も殺せば中に引っ込むだろ」
 その言葉に朋希の浮かべる笑みが深くなる。
「やってみろよ。若造。この子に殺させるまでもなく、儂が殺して血を吸いつくしてくれるわ」
「やってやるよ。老害が。俺は朋希に殺されるって決めてんだよ。誰がてめぇに殺されてやるか」


 朝日が顔を照らす。その明るさで目が覚めた。頭がぼぉっとする。自分がどこにいるのかが分からなくて、周囲を見渡そうとするが、
「痛っ!?」
 全身に激痛が走る。わずかに動かしただけでも痛みに目の前が真っ白になった。
「大丈夫?」
 まだぼんやりとしている視界の中で誰かが僕の顔を覗き込む。それは白が目立つ誰かで、ピントを合わせるようにじっと見つめると、その中心に小さな角が見えた。
 そこでやっとそれが誰かが分かった。同時に記憶が蘇ってくる。
「酒呑童子は!?」
 痛みを無視して起き上がる。周囲を見渡して驚愕した。
 地形が変わっている。地面は抉れ、気は薙ぎ倒され、爆弾でも爆発したような様子だった。
「ダメ、まだ傷治りきってないんだから」
 下から声がして何かに座らされる。正直、掴まれた腕もよっぽど痛かったが、そんなことは後回しだ。
「白ちゃん。どうしてこんな」
「覚えてないとは、随分と都合の良い脳みそしてんな。これ半分はお前のせいだからな。神楽に怒られる時はお前も一緒だから、覚悟しとけよ」
 背後から声が聞こえる。そして、覚えのある煙草の匂い。そちらへと振り向いてもう一度驚愕する。
「その傷。何で治ってない」
 ヴァレットの右腕がなかった。それだけじゃない。体のいたるところに傷があるし、まだ血を流しているものさえある。しかも、どの傷もゆっくりとしか治る気配がなかった。
「まさか、酒呑童子が」
 最初に思い当たったのは酒呑童子。彼の付ける傷は呪われて治ることはない。そのせいでヴァレットの傷は治っていないのだろうか。
「は? 酒呑童子? 酒呑童子なら今お前の隣で転がってるけど」
 言われて慌てて立ち上がるとヴァレットの言葉の通り、虚ろな瞳をした酒呑童子がそこにはいた。
「この傷は酒呑童子とは関係ねぇよ。説明が面倒だから、そこの覚の嬢ちゃんに教えてもらえ」
 そこでやっと白ちゃんの隣に心ちゃんもいることに気づいた。彼女は涙目で何か言いたそうにしながらも、きゅっと口元を引き締めている。
「えっと、お願いしてもいい?」
 恐る恐る頼むと小さく頷いて、僕と目を合わせてくる。こうやって心ちゃんに記憶を見せてもらうのは二回目だ。
 しかしながら、意識は相も変わらず唐突に落ちていった。

「――はぁ」
 戻ってきたとともにため息ともつかない何かが口から漏れ出る。
 それほどまでに濃密な記憶だった。
「おかえり、馬鹿弟子」
 ヴァレットから声を掛けられる。彼は片方しかない手で器用にタバコを吸っていた。
 その姿に少しだけ安心するが思わず彼から目を背けてしまう。
 ヴァレットを傷つけたのは自分だった。正確には僕の中にいた先代ヴァンパイアの記憶が僕の体を動かしていたということらしいけど、それでも体は僕のものだ。
 自分がヴァレットをここまで追い詰めることが出来るのだという驚きと供に、どうしようもない申し訳なさが押し寄せてくる。
 彼の腕はもう再生することはない。僕がすべて吸いつくしてしまったから。
 ヴァンパイアの殺し方なんて、酷く簡単なものだった。
先代ヴァンパイアの影響なのか僕の中にあったはずの血の知識そのすべてがすべて僕のものとなっていた。
 今となって考えればヴァレットを殺すことを本気で考えれば、この知識を僕は得ることが出来たのだろう。
 伝承と違い、僕らヴァンパイアは血を吸わない。食事は普通のパンや肉だし、仲間の増やし方だって吸うのではなく血液を注入することだ。
 でも、唯一ヴァンパイアが血を吸うとき、それが血を伝承する時だ。他の生き物の血をすべて吸いつくす。そうすることによって、僕らはその血に刻まれた記憶や体験のすべてを得ることが出来る。
 そうしてヴァンパイアの血筋は受け継がれてきたし、これからもそうやって受け継がれていく。
 そうすることによって、血をすべて吸われたヴァンパイアはその命を終え、以降のヴァンパイアの中に刻まれることとなる。
「その、ヴァレットごめ――」
「謝らなくていい。吸われるのが遅いか早いかの違いだ」
 僕の言葉が途中で遮られる。
「でも、また先代やその前の人に乗っ取られたりしたら……」
 今回は何百回と殺されることで先代を僕の中に引き込ませることには成功したが、次いつ乗っ取られるかも分からない。
「その時はその時だ。ほら、意識が戻ったなら神楽の所に帰るぞ。血が足りん。久しぶりに寝ないといけないかもしれん」
 立ち上がり歩き出す。僕もその後ろに続くが、足元が覚束ない。チラリとヴァレットが振り向くが、小さく頷いて先に行ってもらう。それに心ちゃんも続く。
 白ちゃんが隣に並んだ。
「休む?」
「大丈夫。歩けるよ」
 小さく微笑みかけて、少し先を行くヴァレット達を追いかける。やらなければいけないことが山ほどある。休んでいる暇はなかった。

―――――――――――――――――――――――――

 そして、その夜、僕と白ちゃんは幻獣族の森を出た。
 





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