境界線

内藤紗彩

私には好きな人がいる。
「好きです。俺と付き合って下さい」
「……ごめんなさい」
あぁ、私には好きな人がいた。

放課後一人帰る道。もう隣に彼はいない。私は本当に彼のことが好きだったのかな、と自分自身に問いかける。彼との何気ない毎日が楽しかった。休み時間や帰り道、特別なことなんてしなくても一緒にいるだけで嬉しかった。彼にとって私は友達。そう、それだけでよかった。それ以上なんて……望んでない。人から好意を向けられるのが、怖い。それはいずれ消えてしまうものだから。別に私だけをずっと見てほしいだなんていうつもりはない。気持ちが離れてしまうのも仕方のないことだって分かってるつもり。ただ、不安なの。二人でいることに慣れるのが。いつかやってくる別れの日を怯えて待つくらいなら、私は大勢の友達の中の一人でいい。ねぇ、好きでも友達のままじゃいけないの? 私の問いに答えてくれる人はいなくて。
「好きって何なのかな」
誰にも聞こえない声で小さく呟いた。急に泣きそうな気持ちになって、その涙の意味も分からなくって、何かを振り払うように
「あー悲しい」
と無理やり声を振り絞った。

 俺には好きな人がいる。
「好きです。俺と付き合って下さい」
「……ごめんなさい」
 あぁ、俺には好きな人がいた。

 俺は一人教室に取り残された。勇気を出して想いを伝えたけれど、やってしまったという後悔が拭い切れない。告白する前はあんなに好きだったのに、それが報われなかった今自分の気持ちが分からない。切ないし、つらい。でもどこか冷めた自分がいるような気がして、それが無性に悲しかった。俺は「彼女」という偶像が欲しかっただけなのかな。相手のことを考えた気になっていたのは実は自分の勝手な思い込みなのかもしれない。こんな俺に後悔する資格なんてあるのだろうか。ましてやお友達のままでいましょう、だなんて都合のいいこと望めるはずもない。友達という関係さえも壊したのは俺なんだから。無意識に握りしめていた手を振り上げ、そのまま、降ろした。今ならまだ走って追いかけたら間に合うかな、ちらとそんなことを考えたが相手にも迷惑だろうと、止めた。あの時俺が何も言わなければ、今頃一緒に帰っていたんだろうな、また明日ねって言ってくれたんだろうな。妄想が先走りかけた頃ふと我に返って女々しい一人芝居だと可笑しくなった。同時にやっぱりお前は勢いだけで行動したんだなと誰かに言われた気がしてそれは違うとも言えず、笑うしかなかった。

 こんな時だからか、いやいつもか。朝が来るのは残酷なほどに早い。休みたくて仕方がなかったけれど学校へは行かなきゃ負けな気がした。落ち着け、私。自然に、普通に。まだ、友達。
「あ……」
「あ、おはよう」
「うん」
「昨日はごめん。変なこと言って」
一瞬言葉に詰まる。
「あ、えっと、あんなこと言うつもりじゃなかったんだけど、つい勢いで口走って」
冷静を装いながらも慌てる様子が見て取れる。あーあ、そんなこと言っちゃうんだ。昨日は聞きたくないと思った言葉。それでもあなたが本気なんだと思うから私は嬉しくて辛くって苦しかったのに。やっぱり、ね?自分の中で何かが冷めていくのを感じた。
「もう、大丈夫」
自分に言い聞かせるように答える。
「本当にごめん。じゃ、また」
そそくさと足早に去る彼を見ながら自分の心の移ろいに驚いていた。友達でいたいと願った事実すら儚い。まだ友達でいられるのかな私達、いやむしろ問題なのは私の方か。結局好きっていったい何だったんだろう。残されたのは元には戻らない現実だけ。解決することなく消えてしまった悩みがどうしようもなく虚しかった。

 普段通りの自分でいられたとは思えない。息の仕方も忘れるほど動揺して余計なことを言ってしまった。昔からいつもそうだ。くよくよと悩むくせに衝動的に行動してしまう。自分から告白しておいて、反省もしていないのに「ごめん」だなんてよく言えたものだ。
「傷つかないための自己防衛、か……」
今なら少し悟った気がする。俺が考えていたのは俺のことだけだった。周りのことは全く考えていなかった。相手のことも、最善の選択も、そして好きってことも。友達のままじゃ嫌だったんだ。彼女が欲しかった訳じゃない。俺はあいつの彼氏になりたかったんだ。あぁでも、今更それに気づいたところで俺に何ができるというんだろう? 自分が悪者にはなりたくなくて、人は自分のことしか考えられない生き物なんだと思い込んだ。全てが分かった風な気になって、何をすべきなのかは一向に分からなかった。


 最近良くも悪くも私は大人になったんだなぁと思う。不安なことはなるべく考えないようにする。必要以上に求めない。そして、友達であるふりをする。どれも昔はできなかった芸当だ。
「なぁ、今日一緒に帰らない?」
前ほどとまではいかないが関係は戻ったかのように見えるだろう。私の心を除いては。
「うん、いいよ」
「じゃあ放課後、待ってる」
嬉しそうに去る後姿がいつか見た記憶と重なった。不思議と心は痛まなかった。
「友達、ですら分からなくなったよ。私は、彼の、友達なのかな」
口を突いて出た言葉が何となく重くて、私は考えるのをやめた。

 俺は努力した。失った信用を取り戻そうと、平然を装って話しかけた。それが正解なのかは分からなかったけれど、とにかく普通に。意識しないことを心掛けた。その甲斐あってか少しは以前の関係に回復した。
「なぁ、今日一緒に帰らない?」
普通に。
「うん、いいよ」
はやる気持ちを抑えて。
「じゃあ放課後、待ってる」
崩れてしまった日常をもう一度やり直せることが嬉しかった。でもその一方でこの不安定な関係に満足していない自分がいた。

 他愛もない話をしながら帰る道。形だけの笑顔を浮かべながら、つまるところ私は友達でいることを選択したんだとそんなことを考えていた。なんだかんだで嫌いにはなり切れていないんだと思うと少し笑えた。
「ねぇ」
「なに?」
ありえないと初めから分かっていたのに。この関係なら続くんじゃないかと思ってしまった。
「言いたいことがあるんだけど」
「どうしたの急に」
「俺、やっぱりお前が好きなんだけど」
男は馬鹿だと思った。

 ずっと前から俺は決めていた。もう一度想いを伝えようと。嫌われているかもしれない。友達でいてくれたのも演技かもしれない。自分勝手なのは百も承知だ。でも隠すには大きすぎるこの思いをもう抑えきれなかった。
「お前が、好きだ」

 あぁ、どうして。どうしてそういうこと言うの? どうしてあなたは私と友達でいることを拒むの?
「無理よ!」
思わず強い口調で答えてしまう。
「今度は『ごめん』じゃないんだね」
言われて、気づいた。動揺している自分に。不安な、自分に。
「あなたのことは嫌いじゃないわ。でも、あなたと付き合うことはできない」
「うん。そう言われるのも覚悟してた。それでも俺はお前のことが好きなんだ。」
「あなたの彼女にはなれない!」
「俺がお前を好きなことに変わりはない」
「もうやめて!」
「……でも、」
「不安なの!」
「……」
「あなたが告白してくれた時、私嬉しかった。本当に、嬉しかった。でも幸せだと感じれば感じるほど、同じくらい不安になる。失うのが怖くて、傷つくのが怖くて、どうしたらいいのか分からなくなる。だから、あなたが私を好きだと言う度に、きっと私は、あなたを疑ってしまう!」
「構わない」
「え……」
「それでもいい。お前が不安に思うなら、俺はこの先何回でも言い続ける」
「……そんなことできっこないわ」
「やってみせるさ」
そう言って彼は手を差し出した。言い返す言葉は見つからなかった。


「あの時あなた、手震えてましたよねぇ」
妻がからかってくる。
「お前が『友達のままでいましょう』とか言い出すんじゃないかって思ってたからな」
「あら。心配しなくても私、男友達あなたくらいしかいなかったわよ?」
「それでも友達じゃ嫌だったんだよ」
「そういえばどうして?」
つい口が滑った。悪い癖は大人になってもなかなか治らないものだ。
「まぁあれだ、俺も彼女が欲しかったからな」
「えーひどーい」
笑いながら妻がふてくされたようにそっぽを向く。友達のままだといつかお前が他のやつと付き合うんじゃないかって怖くて不安で仕方なかったから、なんて死んでも言えるか。
「好きだよ」
「私もです」
いつからこの恋はこんなにも当たり前のことになっていたんだろう。ほらね、二人でいることに慣れると一人になるのが怖いでしょ、と誰かの声が聞こえた気がした。
 





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