そらいろエンピツ(下)
巴巴巴

【そらいろエンピツ(上) あらすじ】

絵画の非凡な才能を有しながらも満足な結果の出ないやるせない日々に、植木(うえき)陸(りく)の情熱はほぼ燃え尽きていた。
過去数多の絵画コンクール・美術賞などで好成績をおさめながら、一度として頂点には立てていない現実。審査員が口を揃えて曰く、『形容できない「何か」の欠落』が原因であると。
描き手本人さえも存在を理解できるのに、誰もが存在を認識できない瑕疵。
『正しようのない間違い』が、責め苛む。

品行方正文武両道と称えられる優等生迅沢(じんさわ)海(うみ)は、自分の幼馴染みたる陸の苦悩に寄り添い公私とも懸命にサポートする。しかしその優しさは、より一層陸を追い詰める結果となった。
海の証した審査の公正が、陸の実力不足という邪推を。
海の呈する類稀な献身が、陸の自尊心の深刻な失墜を。
長い付き合いの幼馴染に当たり散らし、夜の美術室で一人罪悪感に苛まれる陸は、今度こそ筆を置こうとする。
 その時、突然現れたソラと名乗る儚げな雰囲気の少女に出会い、不思議な鉛筆を貰う。気付けば幽霊のように居なくなっていたソラに奇妙な既視感を覚えながら、手の中の不思議な鉛筆に誘われるように陸はもう一度だけ絵を描いてみたいという思いを抱く。
 次の日の朝出来上がった絵は、長く陸の傍で絵を見てきた海をして驚かせるほど最高の出来栄えであった。

 『正しようのない間違い』を克服した陸は、今までが嘘のように評価される現実に充足と戸惑いを覚えていた。
 不思議な鉛筆がなければ描けない。そう思ってしまうほどに依存していく陸は、奇妙な事実に気付いていく。
 削ることなく尖るものの、次第に短くちびていく鉛筆。鏡に映らなくなった自らの姿。ソラという少女に抱く既視感と、相反するように記憶に点在する空白。
 なぜ、陸は絵が好きなのか?
 なぜ、海は陸に尽くすのか?
 なぜ、ソラは  ?

「  『空の色』って何色だと思う?」

これは、魔法の鉛筆が織り成す、透明だった物語  。

 10

「  俺は……」
 校舎離れの男子トイレで、俺は海と向かい合っている。秋風が吹き抜けるほどぼろぼろの建物は生き物の気配に乏しく、海の落ち着いた吐息がやけに大きく響いている。
 握り締めた手に汗がにじむ。心臓が喉から飛び出すほど鳴り響く。言わなきゃ。海に感づかれた時点で、すべきことは大体決まってる。あとは、切り出す覚悟があるか、だけど。
「……」
ちらりと海の様子を窺う。不機嫌そうな仏頂面に変わりはない。小言を言われるいつもの雰囲気だ。一応聞くだけは聞いてくれる言い訳も、その後の怖―いお説教も、八割方飛んでくる鉄拳制裁も、その癖、尻拭いに奔走してくれた後のはにかむような笑顔も。腐れ縁らしい、幼馴染みとの日常。
だけど、今日ばかりは口が重い。俺の才能は、魔法の鉛筆ありきだということ、その魔法の鉛筆は、俺を鏡に映らなくさせるような代物だったこと、それを寄越したソラという少女に、言いようのない既視感があるということ  。言うべきことは、山ほどあるのに。
ごくり、と喉を鳴らす。
緊張感は乗り越えられる。罪悪感は胸に仕舞える。どうせ恥知らずは慣れっこだ。嘘や隠し事を誤るのが何だ。心配かけ通しの幼馴染にまださらに背負わせるのがどうした。一つ二つ恥が増えようと、今更俺には関係ない。
でも、俺に口をつぐませるこの感覚は、緊張とも罪悪感とも違う。あの鉛筆を手にしてから今まで、違えたことのない直観が、耳障りな警報を鳴らす感覚。言いようもなく、形容も出来ない悪寒。口に出してしまえば最後、ここから先は、戻れない  !
「  うん、やっぱいいわ」
 震える肩にそっとおかれた手。柔らかく温かい感触に目を見開くと、目の前にはいつもの海がいた。いつも通りの笑顔で。
「そんなになるまで無理して言わなくてもいいって。年頃だしさ、言えない事ってあるじゃん? 今更エロいので軽蔑する事も無いけど……」
 言われてやっと気づく。目をつぶって、顔を伏せて、肩を震わせて、歯を鳴らして、怯え切った自分のざまに。
「う、み」
「気にしないで」
 ああ、違う。
「陸の方から言えるようになるまで、あたし待ってるから。……んじゃ、授業遅刻しないように、ね」
 そう言って、踵を返す海。咄嗟にその背に伸ばした手は、ただ空を切って。
「……違うんだよ」
 ようやく口からこぼれた台詞は、閉ざされた扉一枚すら越えられないほどか細かった。
 そういう台詞が聞きたかったわけじゃない。
 そんな顔をさせたかったわけじゃない。
 気を遣わせまいとして気を遣わせる自分の不甲斐なさに歯噛みする。絵すら満足に描けない俺は、一体何ならできるんだ。何もかも海がいなきゃできないのか。
「……っ」
 自分への怒りに震える中で、でも、と浮かぶ疑問。当然と言えば当然で、何で気付かなかったのか不思議になるような違和感。そこに思い至って、震えは怒りから悪寒に切り替わる。
(なんで海は俺に尽くす? いや、なんで俺に都合よく立ち回っている?)
 そもそも、きっかけは何だ。馴れ初め、出会い、幼馴染みになる瞬間。一〇年来の思い出の海から、最初の一滴に思いを馳せて。
「っ」
 気が付くと、走り出していた。背中にまとわりつく悪寒から逃げるように。そして  。
「……悪いな、今日もサボタージュだわ」
 何も思い出せないという唯一無二の糸口を掴んで、離さないように。

(11)

 からだがよわいのは、うまれつきでした。
 おとうさんもおかあさんも、はやくになくなってしまって、わたしはしんせきにひきとられました。
 しらないまちの、しらないがっこう。うんどうもべんきょうもできないわたしは、いつもえばかりかいていました。
「ゆうれいおんな」
ともだちもつくれず、ずっとだまっているわたしは、いつからかゆうれいあつかいされるようになりました。せんせいははじめこそきをくばってくれましたが、ついにはあいそをつかすようになりました。
だれもわたしをみてくれない、しろくろのせかい。
でも、それはわたしのせいじゃありませんでした。
でも、それはわたしのせいでもありました。
いつからかわたしのいえにころがっていた、ふしぎなエンピツ  。それが、はじまらないせかいのはじまりでした。
12

 電車を乗り換えバスを乗り継ぎ、午後の授業丸々ばっくれてそこに辿り着いたのは、夕暮れになってからだった。硬い座席に乗り通しで凝り固まった関節をバキバキと鳴らしながら、古びた時刻表を指でなぞる。
「……帰り道どーしよ。日に二本しかなかったっけ、ここの路線……。最悪タクシーか、それとも野宿か……」
 昔は六本ぐらいあったような気もするなぁなどと考えながら、記憶から地図を引っ張り出す。案内板なども撤去されていたので不安だったが、幸い六年分の経験は割とすんなり体を動かした。
「右、右、まっすぐ。ちょっと左でまっすぐ……。覚えてるもんだ。通学路だったもんな」
 変わらない記憶にはにかみを浮かべながら、変わってしまった景色には一抹の寂しさを覚えた。旧き良き酒屋、八百屋に文房具屋が揃った商店街は軒並みシャッターを下ろし、冷たい鉄面皮を並べている。夏には緑に、秋には黄金色に染まった田畑には、冬枯れした雑草が所狭しと繁茂している。「小学校この先350m」と書かれたカラフルな看板は色あせてただのベニヤ板に戻りつつあり、幾人もの子供が歩いたはずの通学路の山道はかつての無人の山野に還りつつある。
そんな風景にノスタルジックな気分に浸りながらも、俺は足を止めない。目的地はまだ先だ。多少の運動不足は否めないが、日暮れまでには着いておきたい。
「  私立青空小学校、ね」
 五年ぶりに訪れる母校に、思いを馳せて胸に手を当てる。懐の鉛筆は、火照る体温と裏腹にひどく冷たい。
「廃校になった後訪れる育ての母校……。親不孝かなあ」
 廃校になるとは、薄々感じていた。バスに揺られながら手持無沙汰にスマホで調べたHPは三年ほど前に更新を止めており、俺の卒業以降新入生が入らなかったのも慎ましい行事写真から見透かせる。『自然の中で伸び伸びと』という校風はなるほどそれなりの魅力もあったろうが、いかんせん少子化過疎化の時流に合わなさすぎる。交通の便も悪く、生徒数は少ない。そして  。
「……行くか」
 ぶるりと体を震わせて、山道に一歩踏み出す。武者震いという性格でもないが、慣れ親しんだはずの通学路を踏みしめる一歩一歩が俺の確信を深めていくように感じた。

(13)

 私達は取り返しのつかない事をしてしまった。
 私は絵を愛していた。妻もまた絵を好んだ。風景画、人物画、抽象画、静物画  。競うように、まぐわうように、二人で様々な絵を思うままに描き散らした。いつか絵画で生計を立て、芸術に満ちた生涯を送るのが私達の夢だった。
 しかし、私達夫婦には画才がなかった。決して下手ではなかったと今更に自弁もしよう、だが下手の横好きであったことは疑いない。ゴッホ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ピカソ、ルメール、マグリット。名だたる先達にはあって私達にはないもの  魅力、というべき何かが、私達の作品には欠如していた。
 私は苦悩した。愛する妻は私という理解者に慰めを得ていた。しかし、愚かな私には妻という理解者だけでは不足だったのだ。煮え立つ自己顕示欲は私を荒ませていった。妻が子を宿し一児の母となっても、娘が拙くも可愛らしい絵をくれても、私は変わることが出来なかった。
 嗚呼、主よ。何故この悍ましき罪人に手を伸べ給うた?
幾千幾億の祈りから、何故私に斯様な施しを与え給うたのか?
 あの日、酒瓶を手に踏み込んだアトリエに、何気なく転がっていた悪魔の鉛筆。嗚呼、それが何か知っていたならば、たとえ筆を折り腕を引き千切っても使わなかっただろうに  !
 ああ認めよう悪は私だ。気まぐれに描いた絵がこれまでにない輝きを放って見えたことも、喜びを分かち合いたいからと消沈する妻に悪魔を貸し与えたのも、愚かな私達を見て育つ子供が同じく悪魔に魅入られないはずがなかったのも、私が目先の栄光に囚われた故の不幸だ。
 だが、信じられるだろうか。出口の見えない暗闇を四半世紀彷徨っていた私に、ようやく伸べられた光明。やっと到達したと思えた『私の芸術』という理想、それが遂に認められるという福音。しかしてそれは、私の求道の境地ではなく、条理を逸脱して作品に存在感を与えせしめる  、否。
『存在感を削りとって作品に塗りたくる悪魔の絵筆』であったなどと、誰が信じ、あまつさえ手にした栄光を棄て得るだろうか?
 愛する妻よ。すべては私の罪、どうか恨むなら私を恨め。アトリエに篭り切りで、君が存在全てを使い切って消え失せるその時まで、気付かなかった愚かな男を。
 愛する娘よ。すべては私の責、どうか呪うなら私を呪え。文化だ藝術だと我欲に溺れ、無駄、無為、無益な贅に狂い、かの悪魔の鉛筆に呑まれた愚かな父の最後の願いだ。どうか  よ 使     な  
とあるアトリエの床板にて
作者不詳
14

 旧い木造校舎を歩く。母校とはいえ、逢魔が時の探検はさながら肝試しだ。お誂え向きに床板は軋み、割れた窓から吹き荒ぶ風と共におどろおどろしく反響する。
「……海なら平気でずんずん進みそう、かな」
 正直怖い。夜の校舎なら何度となく歩いたが、灯りと人気がないだけで学校という建物は大きく様変わりする。子供がいて、先生がいて、壁は落書きや張り紙だらけで、足音や話し声が絶えず、賑やかな喧噪に溢れている  。そんな当たり前の日常が容易に頭に浮かぶ分、そういう象徴を喪った空間は異質で満ちているように感じるのだろう。
 ぱりん。背後で響く些細な音に、おっかなびっくり振り向いてスマホの照明を向ける。見ると、長い廊下の端で硝子の破片が数枚砕けたらしい。
(……失敗だったかな)
 曲がりなりにも私有地である。素人知識で目に付く監視カメラや警報機がないか探してみたが、こうして易々と侵入できているあたり問題はないと思っていた。子供の頃の学校とは存在そのものが秘密基地だ、大人の知らない抜け穴  植え込みの陰にある枝葉の少ない部分や、シャベルの一つでもあれば足場にして窓枠によじ登れる端教室の天窓など  は、案の定記憶のままに見つけられた。流石に教室の引き戸は施錠されていたので、手ごろな割れ窓をさらに割り広げて廊下に潜入したのだが、いちいち破片の落ちる物音程度に驚くあたり自分は小心者なのだなぁと嫌でも思わされる。
「まあ、海でもないし。文明人だってことにしておこう。文化バンザイ」
 気を取り直して、目的の場所を探す。小規模な平屋の学校だ。1-1、2-1、3-1……。教室に掲げられたプレートは、ほとんどが一学年一クラス。なら  。
「……見っけ」
 『5-2』。半ば外れかかっているが、見間違えるはずもない。俺が元居た、六年前に転校してきたクラス。
 引き戸に手をかけると、あっさりと開く。施錠していなかったのだろうか。踏み込んだ教室は、埃臭く咽そうになるが、ぐっと呑み込んで足を動かす。
(前から五番目、窓際が俺の席)
 机の上に厚く積もった埃を手で払う。過ぎた時間の長さを実感する傍ら、指先が触れる傷跡  コンパスで彫り込んで、こっぴどく叱られた落書きだ  は、昨日のことのように思い出せる。
「……」
 ふと思い立って、童心に浮かぶ情景を再現してみる。手近な椅子は小さく机は窮屈だったが、机上に顔を伏せてみると、子供の頃の思い出が走馬灯のように蘇ってくる。
 体育の後寝たふりをして、横目で窺ったあいつの着替え。プールで塩素臭くなった髪を結いあげて、正面で給食を頬張るあいつの笑顔。テストの度にしつこく点数を聞いてきて、一点でも負けてるとからかってくるあいつの声。遅刻ギリギリで教室に飛び込んでくるのに、いつも変わらないあいつの石鹸の残り香。女子の癖に腕っぷしが強くて、女子の癖に俺を庇っていじめっ子たちと大喧嘩して、女子の癖に痛くても叱られても俺の前では涙を見せない、あいつの横顔  。
「……こんだけ思い出せて、こんだけ尽くされて、何で馴れ初めは思い出せないんだろうな……」
 机の下でそっと胸ポケットを握り締める。その中に入ってるものは血潮で熱く、夜風より冷たい。
「……なあ海、それにソラ。お前らに聞いてんだよ……。いるんだろ、どうせ」
 ちらりと横を向く。伏せった顔で見えるのは、隣の席の横に貼られた名札と。開けっ放しだった教室のドアに佇む、影二つ。
「……どうして……」
『じんさわ そら』が、そこにいた。

(15)

  『空の色』って何色だと思う?
 挙げられた手と共に、色とりどりの声が答える。
「青い空だから、青色でしょ」
「日が暮れると、茜色って言います」
「雨や曇りの日は鼠色」
「星が見える夜は黒色だと思う」
 朝の水色、昼下がりの白色、明け方の藍色、お日様の赤色、お月様の黄色、星々の金色、天の川の銀色。みんな嬉しそうに思い思いの色を挙げる。板書する先生は軽やかに白墨(チョーク)を走らせて、楽しげに黒板を彩っていく。教室は華やかに咲き誇る色とりどりの笑顔に包まれていた。
それは、いつも通りの光景。私のいない、白黒の世界。
「じゃあ、先生と答え合わせの時間だよ。先生はね……」
 分かってる。何度も繰り返した日々は無色透明こそ鮮明にまぶたに映る。
「  透明だと思います。透明って何か、分かる人?」
「はい先生、見えないことだと思います」
「はーい先生、いないことだと思いまーす」
「何にもないってことだと思います、先生」
 それぞれの答え、それぞれの笑顔。みんな白黒で。
「いなくなる、じゃない?」
「影薄いやつ。それと、チョーシ乗ってる」
「違うよそれじゃ、お前も半分そうじゃん」
「アイツほどじゃねーよ。勝手にいなくなって、勝手にぶっ倒れてる奴なんてアイツだけだし」
「はーい、意見は挙手して言ってねー」
 止まらない極彩色の奔流は、悪意に満ちていて。
「何にもしない、何にもできない、何にもない」
「氷みたいな? 冷血人間」
「違うよ、中身がないんだ。何度言っても聞かないなら、脳みそもないんじゃね」
 白黒しかない世界を、尽く凌辱する。
逆らっても意味なんてない。天変地異に人一人では成す術もないように、押し潰されて終わりだ。蟻の巣に水を注ぐような子供の純真極まる悪意に、蟻一匹で何が出来ようか。子供の手のひらに収まるような狭い世界に生まれたのが悪いのだと、戯れで蹂躙されるような弱い存在であったのが悪いのだと、そう信じ自分に言い聞かせるほかに。
『しんじるものはすくわれる』お父さんが教えてくれた、大事な祈りの言葉。それは、幼い私が心のよすがにできるほどには真実だった。
何故ならそれは  、
「はいはい、みんなそのぐらいにしましょう。迅沢さんも悪気はないのよ。体が弱いのは生まれつきなんだから、そこは尊重してみんなで支えてあげましょう」
 はーい、と教室に響く聞こえのいい返事。皆が先生の言葉に耳を傾け、中傷の嵐は鳴りを潜める。
「でも、何度注意されても改めないのは良くないわ。透明のまま甘んじるのは良くない。子供はみんな色を持ってるの、互いの色と触れ合って、時には混ざって、時にはぶつかって。より良い色を目指していかなくちゃ」
『しんじるものはすくわれる、あしもとを』という、痛切な実感を伴った真実だったからだ。
「迅沢さんはもっとみんなを頼りましょう。誰にも言わないでどこかに行ってしまったり、誰ともおしゃべりしないのは改めて、みんなと同じようにしましょう、ね?」
「はい、先生。がんばります」
『ふとその存在を認識できなくなる子供のどこが皆と同じなのか』とか、『存在が記憶から抜け落ちやすくて言っても触れても覚えてもらえないのにどうすればいいんだ』とか。喉元までせり上がった言葉をぐっと呑み込んで、幼い私は答えた。
 それでも。白黒の夢は、いつもと同じ筋書きをなぞるばかりで。私を置き去りに空転する。
「……全く、返事すらロクにできないの? 迅沢さん! 分かりましたか!?」
 どっと笑いだす同級生の中で幼い私はうつむいた。
  返事はしてるよ。先生が、皆が気付いてないだけ。
 次第に遠ざかる怒声や嘲笑が、背中越しに吹き荒れる。白黒の世界が小さく狭く遠くなり、私だけ取り残されていく。
  そしてまた、覚めない夢を繰り返していた。

16

「  それで? 俺はどこに連れていかれるわけ?」
 ソラの昔話を聞きながら、俺と海、そしてソラで山道を歩く。通学路とはまた別で、こっちは舗装すらされてない。蛇とか熊とかでないだろうな。
「ちょっとそこまで。まあ、熊は知らね。蛇ならさっき捕まえた」
「見せんな野生児。ガキ大将だか青大将だか知らんが、リアクションに困るんだよ。こちとらインドア一筋一七年だぞ」
 あっそ、と呟いて枝ごと近くの茂みに放る海。仮にも女子を矢面に立たせて山野探検の構図に罪悪感を抱いていたが、女蛮族だったようなので気にしないことにした。
「……わたしも、いんどあひとすじ。へびなんていたんだ、こわーい」
「通学路じゃあるまいし、こんなジャングルみたいなとこで女子アピールされてもこっちが困るわ。何なのお前ら、二人してリアクション芸の採点でもしてんのか?」
 ソラはソラで俺の背後にぴったりついてきている。……いや、憑いてきている。心なしか俺の腰ベルトに掴まれているような感触があるのだが、気配のなさと相まって結構ホラーだ。
「……一八点。女蛮族に遭遇した時のリアクションから勉強しなおそっか」
「……じゅうろくてん。つかれたなら、きゅうけいする?ほらーえいぞう、みせたげる」
「採点は求めてねえ! 追試も受け付けねえ! 罰とかそれこそとんでもねえ! そんなことよりどこまで連れてかれんだ! もう夜になっちまっただろうが!」
 迫りくる暴力の矛先を逸らすように、改めて二人に問いただす。かれこれ半時間ほど歩き通しだ。もともと野宿も辞さない覚悟だったが、人気すらない山の中でビバークしたかったわけじゃない。ガキの頃から絵しか描いてない生粋のインドア派だ、体力的にも結構辛いものがある。
 それに。
「……何で思い出せないのか、って疑問にはまだ答えてもらってねーぞ。こんな田舎の古巣まで足伸ばしたんだ、収穫の一つでもないとそれこそやってらんねぇ」
 ソラの話を聞いて、不思議な鉛筆の正体には何となく合点がいった。『存在感を削り取って画布に塗りたくる絵筆』……普段なら「オカルトだな」と一笑に付せる与太話が、俺には粘つくような実感を以て理解できてしまう。
 どうして俺は鏡に映らなくなったのか?
  鏡に映らないぐらい俺は自分の存在感を削ってしまったからだ。
 どうして俺の絵は認められるようになったのか?
  些細な瑕疵が気にならない程俺の絵は存在感を放つようになったからだ。
 俺の絵はそこまでしないと認められない程下手糞なのかとか、存在感って鏡像から消えていくものなのかとか、聞きたいことは山ほどあるが。それでも、そんなつまらないことは本筋じゃない。
 改めて、二人を見やる。
 迅沢海。喧嘩っ早くて腕っぷしが強くて、絵の才能はてんで無くて、どんな時も俺を支えてくれた大恩人。
 迅沢ソラ。幽霊みたいな影の薄さで、突然現れては俺に珍妙な鉛筆を寄越した張本人、のはず。
 二人の間に接点はない。面識もない。
 なのに、二人そろって誰にも言ってないはずの小学校跡に現れて、昔話を語るだけ語って、訳知り顔で「ついてこい」という、違和感。俺だけが取り残されているような、じりじりと焼け付く疎外感。俺にとっては、そっちの方がよっぽど重大だ。
「海、ソラ。……お前らは何が目的なんだ?」
 海とは、ソラとは。一体どういう奴で、俺とどういう関係なのか。お前らは何がしたいのか。得体のしれない悪寒を乗り越えてきたんだ、どうせ引き返せないなら、とことんまで知りたい。
 長い沈黙を経て、海が口を開いた。
「……答える前に、聞かせてよ。陸、アンタはどうしてここに来たの」
 いつになく真剣な  昼前のそれより若干険の取れた口調だが  雰囲気を纏った問いに、俺は素直に白状する。
「別に。ソラに感じてた既視感と、お前との思い出に感じた空白……それと、あれだけ付き合い長い俺とお前の馴れ初めが思い出せないってのと、俺が絵を描き始めたきっかけが思い出せないってのが、どうにも引っかかった。似てる、似すぎてるって」
 要は勘だよ、と嘯いてみせるが、その実内心では悪寒が止まらなかった。ソラの話を総合すると、ソラはどうも魔法の鉛筆を使い過ぎたせいか、存在感が限りなく希薄になってしまった人間ということになるからだ。『存在感を削って塗りたくる鉛筆』  聞いただけなら「オカルトだろう」と鼻で笑う話は、それこそ粘つくような実感を伴って立ち現れる。元に俺の絵はこれまでになく注目されているし、俺自身鏡に映らなくなってしまったし、ソラの幽霊染みた所業や雰囲気はそれでほとんど説明がつく。
「それで、海との思い出を思い出せるとこまで思い出してみたら……まあ、青空小への転校直後あたりで途切れてた。それで、取り合えず来てみたんだが……」
「……そっちじゃないわ」
 いつの間にか言い訳染みてきた推理を、バッサリと切り捨てられる。やるせなくもなるが、確かに本筋は推理小説じゃない。
「どうしてってのは、ここに来た理由じゃない。ここに来て何がしたいかってのが聞きたいのよ」
「……それこそ別に、何がしたいって程じゃないな」
 二人の正体、鉛筆の正体、途切れた記憶の真相。知りたくないわけじゃない。だがそれ以上に  。
「スランプ解消、かな。俺は何で絵が好きで、俺は何で上手く描けないのか。自分探しの旅の一環だよ、自分のルーツってなんだっけ、みたいなやつ。多分な」
それと、さ。いつか吐いた罵詈雑言と同じくらい流暢に、伝えたい言葉が湧き出てくる。でも、それはきっと本心とは真逆の嘘だからじゃないような気がした。
「覚えはないし、どつかれるし、散々だけど……。お前らといる時間は、海とでも、ソラとでも、すげー楽しい。絵描くしかとりえのない俺でも、これぐらいは楽しいと思える、そんな現実の再確認がしたかった  。それだけだよ」
 だからまあ、知りたいのは事実じゃなくて、隠し事されてるから気になる、ってあたりさ。友達に隠し事されたら  いや、隠し事をされてるような変わった素振りを見せられたら、気になるだろう?
 前を歩く海は何も言わず、後ろを歩くソラは顔を曇らせる。だからこそ。
「心配もする、力になりたくなる。……それすらできるか怪しいけど、だったら傍にいてやる。何かしてやりたい。ま、それも嫌なら、それこそキツイなあ……」
「知ってしまったら後戻りできない……とは、思わなかったわけ?」
 クソ真面目な雰囲気で足止めて言うことかよ、そんなもん? 二時間ドラマじゃあるまいし。
 だから俺は、見た事も無いほど寂しげな海の背中に、こともなげに言う。
「冗談。俺たち友達だろ?」
「……」
 海はいつもの軽口すら返してこない。止めていた足を動かし、正面の暗闇をかき分けていく。代わりに、傍らの空が嗚咽交じりに答える。
「……ごめん……なさい……」
「何で謝られるのか分からんが……」
 とりあえず、その背を擦ってやる。小さな背、俺もそれなりに小柄だが、それより更に小さな背中。謝罪を繰り返すソラにしてやれることなんて、それぐらいだ。
「……」
 いつもなら饒舌な海は、押し黙って語ろうとしない。ただ黙々と前を歩き続けるだけだ。邪魔な枝を払い、虫や石などを蹴り分け、道を作ることに執心している。
 代わりに口火を切ったのは、ソラだった。
「……りくくんは、え、すき?」
 突拍子もない質問に怯んで思案する俺に、ソラはただ淡々と続ける。
「わたしは、きらい」

(17)

 それは、六年前の夏、前触れもなく訪れました。
「なあ、何描いてるんだ?」
「っ」
 突然かけられた声に身が竦みます。今はもういない両親の影響で描き続けていた絵は、お世辞にも上手いとは言えませんでした。それでも描き続けていたのはただ、無心にノートに打ち込んでいると存在感がより希薄になるから  誰にも気付かれず、関わり合いにならずに済むからという、とても現実逃避的な意図あってのことでした。
 そうこうしている間にも、声をかけてきた闖入者はぬけぬけと私の横に腰を下ろし、手元のノートを覗き込んできます。年恰好は私と同い年ぐらいでしょうか。
「や、やめ……。わたし、上手くないし、大したものじゃ、ないし」
「いいじゃん減るもんじゃなし。お、これあっちの土手?」
 橋の下はあまり人が来ないから油断していました。背の高い草が覆ってくれるので、クラスメイトとも顔を合わせにくい。水場の割に虫が少なく、虫取りや川遊びはつまらなくても長居できる。適度なせせらぎの中、一人で過ごすのが好きだったのですが、今日この時は失敗だったと思いましたとも。そう、こんな場所では私の疎ましい体質に因らずとも、声を上げたところで誰も気づいてくれない  !
「そんな暴れんなって……ちょっと見せてくれるだけで、いい、って……」
「……?」
ノートを取り合って揉み合う最中、ふと相手の動きが止まります。怪訝に思いながら強引にノートを取り返した私は、相手の顔に差した朱の色に気付いていませんでした。
「……おい。いいから、閉じろよそれ」
 はじめは手にしたノートのことかと思ったのですが、既に見られないようにきっちり閉じています。あとこの状況  狭い場所で揉み合いになって、ノートを取り合って息を切らして、男女二人きりかつ人前である  で、閉じるものと言えば……?
「っ!」
 人を蹴ったのは、母さんのお腹ぶりだったでしょうか。
 でも、今から思えば、人に自分から触れたのだって母さんの腕の中ぶりだったような気さえします。

(18)

「……ごめん」
「…………」
「……ごめんって」
「………………」
 沈黙を貫いても、食い下がってくる闖入者  もとい、変質者。どこまでも謝り倒す勢いで、ずっとこの調子です。流石にこのままでは埒が明かないので、強硬手段に出ることにしました。
「あっ、おい。どこいくんだよ、君」
 おもむろに立ち上がり、橋の下から這い出ます。逃げるのにわざわざ走る必要もありません、ただ土手の上を目指して適当に歩くだけです。
「待って、おいってば! ……あれ?」
 案の定追いかけてきた変質者は、まだすぐ近くにいる私に気付きません。当然でしょう、視界から消えた瞬間に、私の姿から私を追いかけてくる理由まで、あいつの記憶からは抜け落ちてしまったのですから。
 決して好きになれない体質だけど、案外使い勝手は悪くない。視線を逸らせば、人の輪から外れれば、私はもうそこにいなかったことになる。希薄すぎる存在感の数少ない使い道を、私は齢十一でおよそ物にしていました。
「……幽霊」
 自分の現状を端的に表すなら、これ以上ない形容だと自分でも感心してしまいます。もはや口に出しても痛みさえ感じないのは、言われ慣れた心根が麻痺している証拠でしょう。透明で、希薄で、薄ぺらで空っぽ  。父さんも母さんもいない、友達もいない、生きる理由も特にないまま、さりとて死にたいわけでもなくふらふらと彷徨う私は、幽霊以外の何になれるというのでしょう。
「…………」
生きる理由で頭をよぎるのは、あの鉛筆です。かつて家族団欒をもたらした福音は、誰もいない家にはもうありません。文字通りの幽霊屋敷  幽霊しか住んでいない、幽霊のように存在感を喪ったアトリエは、もはやあのわたしから何もかもを奪った鉛筆を封じるための棺でしかないのです。あんな悍ましいものを、世に出すわけにはいけない。漠然とした使命感と罪悪感だけが、わたしを白黒の世界に繋ぐ楔であり枷なのだろうと、子供ながらに考えていたのです。
 ため息をついて、川土手を登ります。この時、お気に入りの隠れ家を荒らされてご機嫌斜めの私は、次はどこに行こうか思案しながら歩いていたからか、目の前に迫るものに最後まで気付きませんでした。
「  危ねえっ!」
 気が付くと、私は土手沿いを走る細い道路脇にへたり込んでいました。耳障りなクラクションはすでに遠く、アスファルトに立ち昇る陽炎が視界の端で手招きしています。そっと触れた右手には思い切りぶたれたような鈍痛があるようですが、それ以外は特に仔細ありません。
 じゃあ、何があったの? その答えは、目の前にありました。
「痛っつ……。お前危ねえだろバカじゃねーの、車の前に飛び出す奴があるかよ。暑さで頭湧いてんのか?」
 車に轢かれそうになった私を、寸前で突き飛ばしてくれた、さっきの不審者  いや、男の子。全身擦り傷まみれでいかにも痛々しいものの、その口から出る罵詈雑言には、いつも浴びせられるような冷たい悪意ではなく、もっと温かいものを帯びているような気がしました。
 何より。
「  あなた、わたしが見えるの……?」
「は? 見えるだろ普通。幽霊だの透明人間だのじゃあるまいし」
 さっき蹴られたから足もあるしな。そう嘯く彼の顔には、嘘をついているような色はありませんでした。
「つーか。そんなことより、そのノートだ! 見せてくれよ、チラッとしか見れてないんだ。気になってしょうがねえ」
「え、と」
 茫然とする私をよそにノートをひったくると、彼はすごい勢いでページをめくります。その眼はひどく真剣で、でもとても子供らしい笑顔で。
「……上手いじゃん」
「え、え?」
「絵だよ。お前、絵描くの上手いな。特にこの花、めっちゃ細かいじゃん!」
 怒濤の勢いで告げられる聞いた事も無い言葉の数々は、まだ轢かれかけた衝撃を脱し切れていない思考を上滑りしていきます。死にかけた、何で私が見えて、覚えてるの、絵が、上手い? ぐるぐると混乱する私を知ってか知らずか。
「まあ、俺も上手いけどな!」
 そう言って短パンの尻ポケットから取り出した皺くちゃの小さなノート。ご丁寧にちびり切った鉛筆まで括りつけたそれを誇らしげに見せつけてくる様は、何だかとても可笑しくて。
「な、笑ったなー! いいぜ、見せてやる。俺のとっておき、秘蔵スケッチコレクションだぞ!」
 土手の半ばに腰かけて、夕暮れまでノート片手に語り合ったのです。
 ノートの表紙に大きく描かれた、『うえ木りく』の字。
 はじめて交わした、「上手いね」という褒め言葉。
 絵を通じて繋がった、絆。
 何もかも初めてのこの夏の日が、馴れ初めでした。

(19)

 夏休みの間は、毎日のように陸くんと会っておしゃべりしました。ほとんどが絵と、他愛もない話をするばかり。どこの花をスケッチした、あの雲はどんな形だ、鉛筆とクレヨンで描いてみよう  。それでも、わたしにとっては夢のような時間でした。
話をする内に、陸くんがわたしを忘れない理由も何となく見当がついてきました。きっかけは、夕立が降りそうな日に、濡らすのが嫌でノートを持ってこなかった時。
「……あれ? 何であいついないんだ?」
  約束したいつもの土手で、傘を片手に私を探し回る陸くんの姿が、そこにありました。目の前にいつものように座っているのに、わたしを見つけられない。慌てて駆け寄っても、声をかけても気付かれない。半ば泣きながら家に帰って、一晩中眠れなかったのを覚えています。
 もしかしたら、彼も他の人と同じように  ? 不安に押し潰されそうになりながら眠れないままに描き散らしたスケッチブックを丸々持っていくと、彼は既に待ち構えていて言うのです。
「何で昨日来ないんだよー! 絵見せてくれるって約束したじゃん!」
 最初は嬉しさに舞い上がりそうになり、次にあんまりな言い分に呆れて、そして気付きました。
(陸くんは、わたしの絵に興味があるから忘れない?)
 気になって、色々と試してみたら案の定でした。絵と関係のない話題  寝る時間とか、宿題とか  を振ると、はじめは興味なさげな風ですが、次第に反応すら覚束なくなっていき、最終的には「いつからいたの!?」と驚かれてしまいました。
 ノート一つとっても、お花を摘みに行ってくると言い残してノートを持って中座し、ノートだけ置きっぱなしにして戻ってくると、同様に驚かれるのです。
その後ノートを持ってもう一度声をかけると、すんなりと反応してくれるのです。「うんこか?」などと聞いてくるので、思い切り蹴り飛ばしましたけど。
類稀なる絵描きバカ。これだけで自由研究になるほど色々実験して、得られた結果は果てしなくおバカなものでしたが、これは父さん風に言うならきっと『福音』というべきものだったのでしょう。
はじめて出会った私を認識できる人。元から絵描きの子供でしたし、彼との会話はこれまでにないほど楽しいものでした。晴れの日も雨の日も、朝から夕暮れまで語り明かしました。彼の前だと、等身大の子供でいられる。幽霊と自嘲し、空っぽの透明な子供であり続けようとしなくていい。そう思えたのです。このひと夏は、生まれてこの方経験したことがないほど、幸せな時間でした。
だから、でしょうか。
「明日から新学期か……めんどくさいなー、年中夏休みだったらいいのに」
「あ、あはは……」
 愛しい時間は過ぎてしまうということに。
「夏休み前に転校したから、知らない学校なんだよなー。青空小学校、だったような気がする」
「……え、本当?」
 愛しい居場所は、無くなってしまうということに。
「え、お前も青空小なの? なら楽しみだなー、な?」
「……そう、ね」
 気付かなかったのは。
 誰よりも純粋で何よりも私を見てくれる愛しい人は、私のせいで壊れてしまうのだ、ということに。

(20)

「『空の色』って何色だと思う?」
 挙げられた手と共に、色とりどりの声が答える。
みんな嬉しそうに思い思いの色を挙げる。板書する先生は軽やかに白墨(チョーク)を走らせて、楽しげに黒板を彩っていく。教室は華やかに咲き誇る色とりどりの笑顔に包まれていた。
 夏休み明けの教室は、久しく見ていなかった白黒の世界だった。そう、これが私の日常。この後の展開も、すべて織り込み済みの、予定調和。幽霊の私が悪いのだから、ただ私は口をつぐんでいればいい。
迷惑をかけているのは私。歩み寄らないのは私。透明なのは  まあ、ほぼ私のせい。父さんに褒められたくて、母さんに撫でてほしくて、あの鉛筆を貸してほしいとねだった。結果、父さんも母さんも消え、わたしも消えかけた。何せ、あの鉛筆は  。
いつものように私を叱り、みんなが笑う。それで終わり、色のない風景。
でも、今までと違うことが一つ。HRで紹介された、転校生の植木陸君。今私の隣に座る、あの子。
「植木君は、どう思う?」
先生は普段と変わらない調子で、何気なく尋ねる。
私しかいなかったはずの異物。クラスメイトはいつもの筋書きを演じながら、横目でこちらを、陸君を窺っている。これは、通過儀礼。合わせろ、乱すな、察しろ。言葉にせずともひしひしと伝わる意思は、間にいる私の肌さえ泡立たせる。
構わない。私を初めて認識してくれた大切な人が傷つくのを見たくはないし、私は平気、慣れてるから。押し寄せる悪意に負けないように、必死で念じる。
でも、陸君は手を挙げない。じっとみんなを、みんなの向こうに居並ぶ誰かを睨んで、口をつぐんでいる。
次第にざわめきを隠せなくなる教室。怪訝そうな先生の顔。そして陸君は、ようやく手を挙げて。
「  違う、空の色は透明じゃない。空色だ」
 言った。

(21)

「空の色? 空色だよ。赤でも青でも黄でも、水色でもましてや透明でもねえ。空の色だから空色だ。一色でなんて言えない、でも言えってんなら空色でいい」
「透明? 色がない? 空っぽ? 嘘つけ、こいつのどこが幽霊だ」
「足があって、壁も抜けられなくて、いつもつまらなそうな顔してて、絵が好きで、約束は絶対破らないぐらい真面目で……お前らにぼろくそ言われて、泣きそうになってるこいつの、どこが幽霊で、どこが透明なんだよ」
「見えない? お前らが見てないだけだろ。何もない? お前らが何もしてないんだろ。チョーシ乗ってて脳足りんで冷血人間で空っぽ? お前らの方だろ!」
「寄って集って弱い者いじめとか、それこそ恥ずかしくないのか?」
「何より! 何で止めないんだよ先生っ!」
「透明だとか色だとか……、じゃあ、この教室の色は何だよ。全部全色混ざったドブみたいな黒一色じゃねーか!」
「返事もしたろ聞こえなかったのか!? それで分かり合おうとか何様だ! お前らの血こそ何色だ!?」
「見えないとか聞こえないとか……理屈こねてソラを透明扱いしてるのは、お前らだろうがっ! ……何度だって言ってやる」
「ソラは俺の友達だっ。透明人間でも幽霊でもない、俺のバカに付き合ってくれる、大事な大事な友達だ! 透明なんて色じゃねえ、ソラにしかねえ空色なんだ!!」
 しんと静まり返った教室。唖然とする先生やクラスメイト。蝉の声だけが響き、暑さを帯びた風が吹き抜ける。
 陸君の主張は、贔屓目に見ても暴論です。見えないのも覚えられないのも、私のせい。実際に迷惑をかけた回数も両手で数えきれないほど。その前提の上では、部外者目線だからこそ言える、拙く幼稚で浅ましい非論理的なものとして切り捨てられても仕方ない主張です。
 でも。真夏の輝きを放つ太陽が雲間から顔を出し、熱い光が私の頬と教室に立ち込める影を撫でます。
「っりく、くん」
 友達と呼んでくれたこと。透明じゃないと、幽霊なんかじゃないと言ってくれたこと。その事実が、喉をゆっくりと降りながら私の身体を、世界を満たしていきます。白黒だった全てが色づき、何もかもが変わって見えます。
 そして。
「………………………………………………………………」
 私は、最後まで気付きませんでした。
 これが、最後のチャンスだったのだと思います。世界が変わる瞬間に、わたしも変われていれば。
 殺さなくて済んだのですから。

(22)

 わたしは、幽霊と呼ばれることはなくなりました。目に見えた嫌がらせも減り、いつでも私を見つけてくれる陸君のおかげで、周囲に迷惑をかけることも減りました。
「……」
 新学期が始まってからも、陸君はちょくちょく声をかけてくれて、そのたびに楽しくおしゃべりしました。
「……」
 絵が描けない、怪我しちゃった、ノートを失くした。他愛無い会話が、楽しくて。
「……」
 相変わらず陸君は絵の話題以外はさっぱり興味を示さなくて。他のことにはちっとも興味ない感じで、でもそこがどこか可愛くて、かっこいいなあって。
「……」
 絵のためなら危ないところでも平気で踏み込んでいく癖に、妙に出不精なところがあって。地元のお祭りやお店に誘っても、あまり気乗りしないようでしたけど。
「……」
 普段は寡黙でクールだけど、私と二人きりだと驚くほど饒舌で、一緒に夕方まで語り合ったり。
「……」
 鎮守の森の大銀杏の洞とか、雨の公園の遊具の中とか、休耕田の背の高い雑草の間とか、海浜公園のテトラポッドの奥深くとか。二人きりになれる場所をあちこち探したり。
「……」
 陸君と一緒に、笑いあって。
「……」
 陸君と一緒に、スケッチして。
「……」
 陸君と一緒に、出会った河川敷で過ごして。
「……」
 陸君と一緒に、楽しい日々を……。
「……」
 ……。
 送らせてしまっていました。
「  のい、てろ。ソラ……」
「……っ」
 私は、甘えていました。世界を変えてくれた陸君に。変わったはずの世界に。甘えて、浸って、依存して。
 私は、変わりませんでした。陸君と一緒に過ごしたい、幼心に結婚したい、なんて甘えた考えで。何一つ自分を改めませんでした。
 これは、報いでしょうか。神様。
「はやぐ、いげよ。約束は、っまもる、がら」
 鼻血を抑えながら語る陸君の顔は、必死の形相で。
 私は、振り向かずに走ることしかできませんでした。
   考えてみれば当然のことでした。
 私を吊し上げるあの習慣は、クラスの悪意の安全弁でした。当時、既に生徒数が激減し、廃校が囁かれていたのは私でも小耳にはさんでいました。生徒数が減ったから風紀が荒廃するのか、風紀が荒廃したから生徒数が減ったのかは、今となっては分かりません。でも、教師すら連帯して一人の生徒を攻撃するという図式は、既に末期状態のそれを通り越していたのです。
「……ごめ、んねっ。わたしっ、が……」
 そういう意味で、私は稀有な人材、人的資源だったでしょう。『迷惑をかける』という誰もが悪意を向けうる明確な罪を犯しつつ、その存在感のなさから『何をしでかしたのか』『何が悪かったのか』といった具体的な考察、正当性の有無など自らを省みる要素を排された上で『黙して語らない』都合の良い案山子であり、何より『どんなひどい罰を与えたか』という記憶すら残らない以上半永久的に槍玉に挙げられる  。それが正しいか否かに関わらず、私は生贄、人柱、人身御供といった類の対象として、あの教室で緻密なバランスを維持する必要悪だったのです。
 そして、私の世界を変えたヒーロー  陸君は、そこまで思い至っていなかった、その結果がこの惨状でした。
 私という安全弁を失ったクラスは、その矛先をヒーローに向けました。歯止めの利かなくなった悪感情は、私の時にはなかった暴力さえ伴って彼に襲い掛かったのです。良心の呵責や教師という抑止力さえも私という特異な存在によって失っていた以上、その連鎖を止めるものはありませんでした。
「わたしっが、かわ、変われなかっ、たから」
 嗚呼、私はどうすればよかったのでしょう。彼のように、身を挺して庇えば良かったのでしょうか。それとも、彼に庇われなければ良かったのでしょうか。
「ごめんな、さい……っ。ごめ、んなさ、い……っ」
 嗚咽混じりで口の端から零れる謝罪は、遥か彼方の彼には届かないでしょう。それでも、私にはそうする他に出来ることが思いつきませんでした。
「はあっ、はっ、はぁっ……」
 息を切らせて辿り着いたのは、約束の場所。一度来てもらった、山奥の棺  いや、アトリエ。父さんや母さんと過ごし、陸君とも過ごした、大切な場所。
 肩を震わせて、落ち葉の上にへたり込みました。あふれ出る涙が止められなくて、どれだけ謝っても謝り切れなくて。別れ際の陸君の姿、青黒く変色した脛の傷や、引っ張られて千切れた上着の袖、指の隙間から零れる赤い血や、引き裂かれて散らばった宝物のノート。そんな光景ばかりが頭の中で炸裂して、花火のように消えていきます。
「…………っ」
 何とかしなきゃ。千々に千切れた思考が現実感を前により合わさって、でもその現実感によってほつれていきます。親も、友達も、陸君も。頼れる人のいない私には、何とかする当てもないのですから。私が元の白黒の世界に戻っても、もう遅いでしょう。取り返しのつかない所に至るまで、この悪夢は終わらないのです。それこそ。
 魔法でもない限り  。
「……………………………………………………そっか」
 そこまで考えが至って、私は理解しました。私は、救いを求めるべきものではなかったのだと。生きもせず死にもしない幽霊には、何より先にすべきことがあったのだと。
 心に決めてからは、そう時間はかかりませんでした。落ち葉を軽く払いながら立ち上がり、アトリエ  いや、棺の扉に手をかけます。
「……」
「……」
 秋めく風が、落ち葉を巻き上げます。茜色がさす空に、紅葉の錦が煌いて。遠く緑の残る山際へと、季節が温もりを浚いながら駆け抜けて。赤、青、黄、緑、藍、白、黒  。あらゆる色を孕みながら、目まぐるしく踊る空を、一瞬だけ顧みて。
「  っ」
 そらいろのエンピツに、手を伸ばしました。

 *

 公園の隅で盛大に転がされる、傷だらけの男の子。周りには五、六人の男子が、にやにやと笑いながら殴る蹴るを繰り返す。
「……っ」
 話には聞いていたけれど、何を言われても、何度傷つけられても、歯を食いしばって耐えているその姿を、あたしは見た。
 全く、バカじゃないの。絵が好きだから、絵を褒めてくれる友達が好きだから、体張って庇う? 貧相な体つきも、勝ち目のなさも、まるで理解の外にあるような立ち回り。絵なんてあたし全然知らないし、それこそこんなの接点なんて作りようないじゃない!
 がしがしと髪をかきむしって、それでもなけなしの知恵を絞って考える。割り込んで説教する。……ダメ、抑止力にならない。大人を呼んでくる。……ダメ、今はまだ当てがない。浮かんでは消えていくアイデアの泡に、堪忍袋の緒が切れた。
 そして  。
「あ?……え、ちょ、待  」
「おい、てめえ! 何しやがんっ……」
 当初の願い通りいじめっ子の馬鹿どもを端から叩きのめして、適当に追い散らしてから地面に突っ伏してるバカに手を差し伸べた。この後世紀末英雄伝並みに喧嘩に明け暮れる事になりそうな、運命を呪いながら。
「……立てる?」
「……あ……? だれ、おばえ……」
 鼻血でまともに喋れそうもないので、手短に自己紹介する。……末永い付き合いになりそうだしね。
「あたし、迅沢海。バカみたいにやられちゃって、あんたバカなの?」
「……ばかっていうほうが、ばかだろ」
 何もかも予定調和のこの秋の日が、馴れ初めだった。

 23

「……なんだ、それ」
「着いたわ。ここがあたしたちの実家、かな?」
 話が終わる頃に到着した山中に建つその建物は、話に上ったソラの実家  アトリエだろう。何で墓と呼ぶのか疑問に思っていたが、一目見れば何となくわかった。
 認識し辛いのだ。それなりの威容がある大きな屋敷にもかかわらず、目の前にきて指し示されるまで気付かなかった。透けて見えるわけでも、そこに存在しないわけでもない。それはまるで、話の中で何度となく挙げられた『透明』という言葉が似つかわしいもので。
「まあ、気兼ねなく上がってよ。寒いし」
 驚きも冷めやらぬ間に、吸い込まれるように扉の中に招き入れられた。
「……なんか飲む? 珈琲ならあるけど」
 さっきまで黙りこくっていた海が、普段と変わらない饒舌さを取り戻す。茫然とする間にも、湯気の燻るコーヒーカップが目の前の簡素な机に置かれた。
「飲まないの? 冷めるよ」
「ちょっと待て……。説明してくれ……」
「うん。あたしは、あれ」
 そう言って自分の分の珈琲を淹れながら、海が何気なしに顎でしゃくった先をのろのろと振り向く。そこには。
「……っ」
 迅沢海が、いた。寸分違わず等身大で、無造作に立てかけられた無数のキャンバスの一つの中に。画布にはびっしりと細かな文字が並び、異様な雰囲気と同時に奇妙な存在感を放っていた。
「あたしは『迅沢海』。副題はそう、『植木陸にお似合いな、迅沢空の理想の女の子』、かな」
 紡がれる言葉が、ひどく遠く聞こえる。
「初めて自分を認識してくれた大切な人を、自分のつまらない失敗で傷つけちゃった女の子が、何も出来ない無力感に打ちひしがれて……自分の代わりに何かが出来る女の子を用意しようって一時間ちょいで書き上げた無冠の大作。まあ、動いて喋って飲み食いできる絵ってのは、魔法のエンピツならではよね」
 けらけらと笑う海は、どうしようもなくいつも通りで。
「文武両道眉目秀麗、弱きを助け強きを挫く。絵は嫌いじゃないけど上手くもない。誰かさんたちと違ってコミュ強で、さりとて一途に陸に付き添う大和撫子。……その実は陸のため創られて、陸のために尽くす理想の(二次元)女の子ってわけ」
 どうして。喉まで出かかった言葉が、出てこない。
「まあ、魔法の鉛筆で迅沢空個人が持ちうる存在感のほぼ全てつぎ込んでるわけで、生きた人間とほとんど変わり映え無いわ。飛び出す絵本じゃないけど、いまにも動き出しそうな生命力あふれる絵なんてごまんとあるじゃん。ほら、空と入れ替わりであんたに出会ったから、違和感もほとんどなかったでしょう?」
 どうして。胃の底から湧き上がる衝動が、出てこない。
「魔法の鉛筆……描かれた側として言わせてもらえるなら、とんでもない悪魔染みた代物よね。存在感を削るって言っても本人だけじゃない。本人にとって大切な順に、気付かれないよう削っていくの。私という作品なら、このアトリエと、あんたの記憶、あと空の存在感。……ギリギリだったけどね」
 どうして。肺腑に刺さるような悪寒が、出てこない。
「私はあんたと空にとって、最も都合のいいキャラクター。あんたがあたしの正体に気付かなかったのも、あんたの創作活動に邪魔になるものがほとんどなかったのも。……まあ、メタ的に言っていいなら説明台詞で長々と講釈垂れてるのも、都合がいいからよね。あんたたちの役に立つために生まれたんだもの」
「  どうして……?」
「……どうして動いてるのか。どうして魔法の鉛筆で描けるのか。どうしてそんなことまで知ってるのか。……大体答えたつもりなんだけど、あと何が聞きたいの?」
 あくまで普段通りの、俺をからかって茶化すような雰囲気を崩さない海に、俺は。
「…………っ」
 何も、言えなかった。
 騙したのか、と問い詰めたい。ふざけてんのか、と怒鳴り散らしたい。でも、それに何の意味があるのか。
 要は、受け止めきれない現実に当たり散らしたいだけだ。大恩人も、本当の幼馴染も、人間じゃない。突き付けられた現実が、予想の遥か斜め上だっただけ。
 そんな俺を見て、海は呆れた様に頬杖を突く。
「……あんたも相当よね。文句の一つも言えば空も少しは楽になるのに」
 ねえ? そう言って小首をかしげた先には、誰もいない何もない空間。質の悪い冗談だと思った。
「うん。ここに居るよ、空。見たいと思えばまだ見えるんじゃない?」
『…………』
 何度目を凝らしても、そこには何もいない、様に見える。でも、そっと手を伸ばすと、手を掴まれる感覚と、冷たくも柔らかい感触が確かにあった。
 珈琲を啜りながら、海は続ける。
「この子は今まで、ずっとこんな感じで陸の傍に居続けてた。あたしがずっとアンタにくっついてた間、同じように、ね。……透明人間のストーカーって、ある意味最強よね。気付かれなければ誰にも迷惑かけない分普通よりマシだけど、気付いてしまえばそれより怖―い……」
「じゃあ、何で。何で今になって現れた。俺にこんな代物寄越して、俺をここまで誘導して……お前ら一体、何がしたいんだよっ!」
 胸元の鉛筆を引き毟って、机に叩きつける。跳ねた珈琲の雫が古ぼけたテーブルクロスに染み込んで、醜い痣のように映る。衝動に任せて睨み付ける  怒りというより、困惑と恐怖によって  俺を、海も空も黙って眺めていた。
『…………ごめんなさ、い』
 何度となく繰り返された謝罪の言葉。しかし、謝られてばかりでは埒が明かない。問い質そうとした俺を遮るように、海は不思議な色の鉛筆を拾うと、手の中でくるくると回す。
「あたしは、アンタ達に都合のいい存在。……饒舌なのは、半分趣味で半分仕事。契約主がだんまりなんだもん、あたしが代わりにペラペラ喋らなきゃ、場が持たないっしょ。  まあ、話引き延ばしてたのは、認めるよ。こうでもしないと言いにくいし」
 もったいなかったし。そう呟いて。
 そして、寂しそうに話し始めた。
 彼女たちの目的を。
「  あたし達を殺してほしい。これは、アンタのためでもあるの」

24

 存在感を削る魔法の鉛筆。じゃあ、存在感を使い果たすとどうなるか、予想はつく?
 ……透明人間になる? もう空がなってるじゃない。そのもっと上。関係するものが根こそぎ消えるの。
 ふざけてる? そりゃ、世界がまとめて消え去るなんてことはないわ。消えちゃった空の父さん母さんについても、二人で作ったこのアトリエなんかは消えかかってるだけで消滅してはないし、そこは安心して。
 消えるのは、その人が関係したものだけ。作ったり、映ったり、存在したりするものだけ。
 写真なんかからは姿が消えるし、一人で作ったものは消えちゃうわ。このアトリエで言ったら、白紙のキャンバスのほとんどが消えた二人のものってわけ。
 ……あたし? うん、空が消えたらあたしも消える。ここに残るのはそれこそアンタの身一つだけなんじゃない? そこは知らないけど。
 そして、アンタの呪い。
 とぼけないでよ、アンタが認められないって散々言ってた、良く分かんない何かってやつよ。原因は、半分空にあるわ。
 アンタがこれまで書いてきた作品。その全てに、アンタは無意識のうちに迅沢空をモチーフに取り入れていた。それだけの事よ。
 風景画なら端々の人影に。人物画なら造形や印象で。静物画ならテーマや背景の片隅にひっそりと。画家が自分の作品に署名を入れるように、アンタは迅沢海個人を欠かさず作品に取り入れていた。それが、呪いの正体。
 ……原因が分からないのも当然よね。アンタですら認識できなくなった人を、誰が認識できるって言うの。何かは分からないが、何かが欠落している絵。その何かっていうのは、いわば妄執ね。
 陸がどう思っているかは知らないけど、陸の内心は空の事を忘れたくないと思っていた。だから無意識的に表現に取り入れていた……。口で言うのは簡単だけど、とんだ笑い話だと思わない?
 初めて自分を認識してくれた、初めて自分を庇ってくれた、初めて自分が好きになった子が、自分のせいで代わりにいじめられるようになって、身を引いてまで助けたと思ったらその子の一番大切なものをいつの間にか踏み躙っていて、その上その原因は我知らず両思いだったからです? 散々よね、笑うしかないわ。
 それで……ここからが本題。
 殺してとは言ったけど、何も刺し殺してとも縊り殺してとも言ってないわ。というか、多分無駄。死ぬのと消えるのは違うもの。あたしが空と心中しても、アンタの絵から空は消えない。
 陸には、あたしたちを消し殺してほしいの。
 アンタが適当に絵を描いてくれさえすれば、アンタが現時点で一番大切に思ってるもの  あたしか空が消える。それでアンタは晴れてスランプ脱出。あたしらは未練なく消えることが出来るって寸法。
分かった?
……え? バカ?
……バカっていう方が、バカなのよ。忘れたの?
……………………。

25

「……」
「……」
『……』
 重苦しい沈黙が、部屋を支配する。目の前の珈琲からは、既に湯気は出ない。揺れる事さえない鏡のような水面には、虚ろな顔の俺しか映っていなかった。
「……どうしようも、ないのか」
「……ないね。こればっかりは」
 事も無げに海は断じた。改めて注ごうとポットを傾けるも、殆ど残っていなかったのか軽く振って舌打ちした。
「……一応。待つのもありだよ。ただ、二十年か三十年もすれば、空が多分死ぬ。透明人間の治療なんてできるもんか、元から体が弱かったんだし、そうなったら消すに消せなくなる」
「……」
「……あと言い訳。最初の目論見だと、陸には徹底してばれないように事を進めるつもりだった。気付かれないうちに空とあたしが消えて。鉛筆の回収策も考えてはいた。……誰かさんが想定外のとこまで踏み込んでこなきゃ、もみ消す自信はあったのに。これも運命かな」
「……」
 何も言えない。海が喋らなくなると、また重い沈黙が落ちる。居たたまれない空気は、肺腑から押し潰すように心を闇に沈めていく。
「……」
 ずっと願っていたスランプからの脱出。何も分からないまま、手探りで闇の中を這いずってきた。他人も自分も責めようのない、覚めない悪夢に差した、一筋の光。
「……」
 ずっと世話になってきた、二人への想い。支えてくれたこと、見守ってくれたこと、傍にいてくれたこと。感謝してもし切れない、覚めない夢に訪れた、終焉。
 どちらか一つ選べという。ああ、あの時の『どうして』は、ここに関わっていたのか。
『スランプ解消、かな』
『冗談。俺たち、友達だろ?』
 ささやかだと思っていた願いは、途方もなく筋違いで恥知らずなものだった。踏み込んでくれるな、という無言の圧力は、二人の精一杯の願いだったのに。
 そっと溜息を吐く。神様は  いや、この場合悪魔様なのだろうか  、よっぽど俺のことが嫌いらしい。
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
 俺にできることは、何かないのか。
 絵が描ける。迷惑をかけれる。泣かせることが出来る。悩ませることが出来る。皮肉を撒き散らすことが出来る。
 何も出来ないことが出来て、出来ることは何もない。
「……………………………くそっ」
 神様なんて糞喰らえ、悪魔なんて糞ったれ、俺なんて……。そんな毒を吐くしかないのか。その時だった。

26

 だったら。
「……海は、どう思ってるんだ?」
「……何が?」
 むくれたように聞き返す海は、しかしすぐに俯いて。
「別に。私は都合よくあれればいい。アンタのために動いて、アンタに尽くす。空の願いに応えて、空とアンタを繋ぎ続ける。陸と一緒に、笑って泣いて喧嘩して。そんな日々は、正直悪くなかった」
でも。言葉を切った海は、ただ無表情に告げる。まるで、そうあれと描き上げられた絵画のように。
「わたしは、どこまで行っても『絵(理想の女の子)』でしかないから。せめて理想を叶える側でいたい。叶えられない理想は、誰も幸せにしないから」
 そう言い切った。
 そうだ、海ならそう言うだろう。それでいい、それでこそ海だ。俺を理解して、俺を支えてくれた、優しすぎるぐらい優しい海のバカなら。
「……空は、どうだ?」
『……』
 空がいるという、いや、空がいるであろうと直感した空間に、声をかける。椅子の軋む音だけが響き、何をどうしているのかは窺い知れない。
「……空、陸に答えてあげてよ。アンタのしたい事、正直に言うだけでいいから」
『……』
 だが。黙っていても、見えなくても、分かることはある。怯えと、申し訳なさ。肩を震わせて、涙を堪えて、縮こまって、竦んでいる。これも、思った通りだ。
「……っ空。いい加減に  」
「いいんだ、海」
『っ』
 立ち上がり、板張りのアトリエを歩く。初めて歩くはずなのに、妙な親近感さえ湧いてくる不思議な感覚。油絵の具の匂い、キャンバスの手触り、ランプシェードの曇った灯り、水屋の蛇口から滴る水の音。そして、海が淹れてくれた珈琲の苦み。知覚する全てを堪能する。絵を描く直前の、澄み切った精神へと研ぎ澄ますように。
 そっと、空の手に触れる。冷たく、細く、柔らかな指。嫋やかで滑らかな肌触り。驚きで震え、怖れに震え、喜びに震える、いつか見た手。
「……空。お前の本心からの答え、教えてくれ」
 絵は、好きか?
 怪訝そうな海を、ちらりと窺う感覚。気にしなくてもいい、伝えてくれ、答えてくれ。
『……っ』
「焦らなくていい。落ち着いて、ゆっくりとでいい。どんな答えでも、俺は受け止める」
『……きら、い』
「そうか」
振り絞るように、告げられた言葉。そうだ。
『……えは、きらい……。なにも、できない、かわれない、えは、わたしは……、きらい』
「そうか……」
 でも。
 そうだ。だってお前の本心は。
『でも、でもっ。……えは、きらい、でも……、わたしは、きらいで、も……』
 いつだって、どんな時だって、そこにある。
『……りくくんの、えは、すき……、なの……っ』
 分かるぜ、その気持ち。なにせ。
『……みたい、よ。りく、くんの、え……。ずっと、ずっと、いっしょに、みたいよ……!』
 俺も同じだから  !
「なっ……、ちょっと空! 何を今更……っ」
 空の言葉に慌てる海。当然だ。二者択一の状況、選べるのは俺だけで、天秤に乗ってるのは才能か友人か。切り捨てられる覚悟はできている以上、切り捨てる側が悩まないよう説得するのが最後の手段だった。空の願いは、神様だか悪魔様だかの最後の憐憫を無にして、俺を立ち止まらせる愚挙に他ならない。
 でもだからこそ。
「いいんだよ、海。それに空」
 世界一バカな絵描き様には、届いた。
「  サンキュ、な」
 勘違いしていた。俺に何ができるかって? 何も出来ないさ、絵を描く以外は何にも。
 神様が世界を創り。悪魔様が物語を創ったなら。
 クリエイター(絵描き)様は、それ以上を創らなきゃな。

…………                    
?
 27

『何浸ってんの。起きなさいよバカ陸』
 麗らかな春風と雅な桜並木を堪能しつつ、柔らかに緑萌える土手に体を預け優雅に惰眠を貪ろうという粋で高尚なる試みは、無粋で低俗極まりない女傑の横槍で絶たれてしまった。悔恨の情に打たれながらも瞑目を続ける。
『仕事サボタージュして昼寝とはいいご身分よね? 暁と言わず来世まで記憶飛ばしてあげましょうか』
 嗚呼、何故世界は斯くも残酷なるや? 優雅に茶を啜り、整えられた調度を愛で、麗しい花園を育む。沁み入る音楽に酔い、芳しい小説を味わい、この上ない美食を嗜む。成程贅沢だ。何故ならこれは、荒んだ心、貧しい感性では理解し得ないからだ。他者にとって価値あるものを湯水の如く使う悦楽  。高揚、快楽は、人を満たし癒すものなのだ。満たされた事無く、癒された事すら無き低俗は、羨望と憤怒に身を焦がす己を見る鏡すら持たぬらしい全く浅ましい事である。
『肘がいい? 膝がいい? それともせ・ぼ・ね? 選ばせてあげるわ感謝なさい』
 嗚呼、何故世界は斯くも残酷なるや? 万人に最も平等に与えられた時間、それを移りゆく四季の享受に惜し気も無く充て、斯くも貧しき世界に疲れ果てた我が肢体に須臾の安寧を齎そうと惰眠を貪る俺の高尚華麗なる美学を、この腐れ縁の幼馴染は理解し得ない。嗚呼、涙しようとも。この烈女は世間一般に認められ愛されながらも我が美学を理解できぬ、感性も美意識もその胸板の如く薄く貧しい哀れ極まる愚昧であることを  !
『OK。全身一時間コースね。病みつきにしてあげるわ』
「……お前変わらんなぁ」
 ぎしぎしと悲鳴を上げる身体は、しかし最早慣れたものだ。特にこの間こっそり教わった通信講座の軟体体操は、幼馴染みの超変則関節技にはうってつけである。持つべきものは優しい幼馴染み、此れこそ世界の真理也。
『………………そっか、空に教わったわけだ。ふーん』
「フフフ、フフハハ、フハーッハッハッハハ! もはや貴様の稚拙な攻撃など効かぬ! 驕れる者も久しからずという訳だ、春の夜の夢の如しとはその貧相な胸だけでない、このことだったのだゃっ」
 見事な三段高笑いからの悪の大魔王らしい口上は、それこそ風の前の塵の如く儚いものだった。変な語尾は更なる脅威、最強究極邪神超越超々ド級ウルトラ大魔王の降臨の兆しであった。
『外す、極める、拉ぐ、伸ばす、捻る……。』
「ごめんなさいレパートリー羅列しないでチョーシ乗りました助けて許してアッ    !」
 かつて感じたことのない領域の感覚が、俺に新しい扉を開かせる寸前。救いの女神が、舞い降りた。
『……予定だと、あと一時間。蹴山田社長との会食と、画商の赤松元さんとの商談が午後から。……遊んでる暇ないし、ソッチに目覚められるとこっちが困る』
 痛みから解放され、荒い息を吐く。その間にも敏腕秘書二人は、ガールズトークに花咲かせる。
『はーい。つーか空、どうやってあたしの知らないうちに仕込んだのよ』
『……企業秘密。社外秘』
『吐かないとトイレで洗い浚い吐いてもらうことになるけど』
『……っ!? 音楽プレーヤーの【relax】フォルダ、あれ合成ボイスで私の原稿読み上げてるっ。寝てる間は腕動かせるから、ホテル泊まりの時少しずつ打ち込んでっ、それでネットで調べた柔軟体操を……っ!』
「ちょっと待って空、聞き捨てならない不穏な単語がっ。俺の貴重な睡眠時間がっ」
 敏腕秘書の敏腕っぷりに涙が出る。画家として名が売れはじめてから五年になるが、こいつら俺以上に俺のこと知ってるよな。
「……まあ、いいや。絵はとっくに描けてんだよ。だから昼寝したって罰は当たらんだろ」
『当たるっつの。つーか当てるっつの』
『……移動は早めに、十分前集合五分前整列で』
「いや、真面目かよ」
 まあ、画家としての成功はこいつらによるところが大きい。目覚ましスケジューラー手帳アドバイザーメモ帳名刺入れ  スマホもびっくりのハイスペック秘書は、しかし気付いていないのかな。
 と、その時。
「……何あいつ、気持ち悪い」
「……うん、なんか不気味……」
 怪訝そうな目を向ける視線に気づき、振り返る。見れば、近くの女子高校生らしい。
「どうかしたかー? 俺に何か用―?」
「……っ」
 声をかけると逃げるようにどこかに行ってしまったが、まあこのご時世仕方ないだろう。
「……なんであいつ、一人で喋ってんの……?」
 それに、見知らぬ男が、大声で独り言を喋っていれば、より不審者極まりない。去り際に聞こえた現役女子高生の声は、受け止めるまでもなく街の声そのものだと思う。
『……』
『……』
「気にすんなって、慣れた慣れた」
 しゅんと黙り込むうちの敏腕秘書たち。何年たっても変わらない、こいつらの癖みたいなもの。慰めようと、ワイシャツの右袖を捲る。
「気にすんな、全部俺のわがままだ。お前らには苦労かけるな、空、海」
 右腕を大きく染め上げる、入れ墨。人の姿をした精緻なそれは、そうあるのが当然のように動いていた。

 *

 あの日。海と空を前に、俺は大見得を切った。
「海。俺がお前らを消すために描く絵は、何描いてもいいんだろ?」
「そ、そりゃね。ただ書きなぐってるだけでも、別に」
 それは、神様でも悪魔でも出来ないことで。
「空。お前は、お前らは、俺と一緒に居たい、俺の絵を見たい。そうだろ?」
『……みたい、けど……。でも……』
 俺にしかできないことだ。
「じゃあ、話は簡単だ。……海と空を、描く。俺の身体をキャンバスにして」
 紙に描いても使い切ったら消えてしまう。描くなら消えない、存在感を持ったモノに直接描く。
『それ、は』
「……バッカじゃないの! 出来るわけないでしょそんなの!」
 海は声を荒らげる。当然だ、こんなの机上の暴論だ。現実を知らない脳足りんが、幼稚な妄想を爆発させた夢みたいな話だ。
「お前は絵として成立してるだろ、動いて喋って。ならいけるだろ」
「違う! 人二人分なんて、アンタの存在感じゃ描けっこないし、背負えっこない! 第一、どこにそんなの描くスペースが……」
「ちっさく描くからイケるって。何とかなるだろ」
「ならない! 下手すればアンタも存在感を使い切って消えちゃうのよ! 何でアンタがそこまで背負わなきゃいけないの! ……空も何とか言ってよ、このバカ……」
 半ば懇願するように言い募る海。でも、空は。
『………………………すて、き』
 見えなくてもわかるほど、全身が喜びで満ちていた。
「……っ。何なのよ、ばかぁ……」
「……海、お前色々文句つけるけどさ」
「何よ、当然でしょ!? 何だってのよ!」
「……俺と一緒に居たくないって、言わないのな」
「………………っ」
 駄々っ子が食い下がるように、顔をそむける。その頭をなでながら、俺は問いかける。
「なあ海、お前が嫌なら俺もいいんだ。俺、バカだからさ。こんなつまんない考えしか浮かばないんだけどさ。……一緒に居てくれないか、後生だと思ってさ」
「…………ぐすっ、なんで、陸が、そこまで、ひっ、するのよぉ……」
 泣いてる海は初めて見たなあ、なんてつい含み笑いしながら、俺は精一杯かっこつける。
「絵描きの端くれだからな。頼まれた絵は、描きたいと思った絵は、描かずにはいられないんだ……」
 気付くと、背中に温かい感触が。空のものだろう、震えながらも、しっかりと掴む手を感じながら。
「描かせてくれ。お前らを、絶対離さないから」
 そらいろのエンピツを、手に取った。

 *

 後悔はしてない。もう絶対離さない。俺の身体を自由に走り回る、二人の姿。ちょっと歪だけど、この絆は誰にも侵させない。
『……そう思うのなら、トイレの時は気を配りなさい』
『……お風呂は、個室で。銭湯は、ダメ絶対』
「……へーい」
 訂正。私生活をことごとく監視されるのは、流石に勘弁してほしい。トイレはともかく、銭湯は本当に配慮が足りなかったとは思うが。
「……あのう」
 どこか薄ら寒い春風を感じていると、突然背後から声をかけられた。慌てて振り返ると、そこには先程とは別の女子高生が。
「おおう、ゴメン何?」
 とりあえず捲った袖を戻し、闖入者の様子を窺う。そうとは見えないが風紀委員とかだろうか、不審者に間違われてはいないだろうな? 冷や汗が背中を走る。
 すると、女の子の視線は俺の背後を向いていることに気付く。横目で見てみると、描き上げたばかりのスケッチブックが、風に煽られて開いていた。
「……もしかして、ホライゾンさんですか?」
 まさかと思っていると、案の定ペンネームを言い当てられる。聞けば、俺の作品のファンらしい。
「まだ若いのに……俺みたいな突飛な奴、美術の先生とか嫌いじゃね?」
「いえ! ホライゾン先生の幅広い作風は、私みたいに器用貧乏で何が向いてるか分からない絵描きの端くれには、本当に憧れの的なんですよ!」
 そう言って、頼み込まれて見せてあげたスケッチブックを食い入るように見つめる女子高生。……否定しなかったってことは、美術の先生俺のこときらいなのかな。
『しょうがないわよ、アンタ性格ひん曲がってるもん』
(やかましいな)
『……性格以前に性癖が歪んでる。じょしこーせーに、興味津々』
(……やかましいわ)
 頭の中で容赦なく浴びせられる誹謗中傷に涙をこぼしながら、俺はふとスケッチブックに見入っている女の子に気付く。
「……これって、ここの?」
「そうそう、前描きたいと思ったんだけど、その時は色々あって描けなくて。……で、改めて描きに来たんだ、変わんないなあ」
 そう言って、土手に身を預ける。頬を撫でる春風は心地よく、遠く薫る汐と桜が鼻をくすぐる。暖かな日差し、暖かな大地、暖かな人たちに包まれて、欠伸を一つ。せせらぎは甘く桜色に染まりながら、近くの潮騒と、白くそびえる校舎と、雲一つない青空と踊る。
「……すっごく、上手いと思います」
『……いいじゃん』
『……綺麗』
 三者三様の賛辞を、心から噛み締めて。
「サンキュ」
 空と海が交わる自分色の絵に、満足した。

 そらいろのエンピツは、もういらない。


〈了〉


 






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