そらいろエンピツ(上) 巴巴巴 空を見上げると思い出す、『空色』の記憶。 『空の色』って何色だと思う? 挙げられた手と共に、色とりどりの声が答える。 「青い空だから、青色でしょ」 「日が暮れると、茜色って言います」 「雨や曇りの日は鼠色」 「星が見える夜は黒色だと思う」 朝の水色、昼下がりの白色、明け方の藍色、お日様の赤色、お月様の黄色、星々の金色、天の川の銀色。みんな嬉しそうに思い思いの色を挙げる。板書する先生は軽やかに白墨(チョーク)を走らせて、楽しげに黒板を彩っていく。教室は華やかに咲き誇る色とりどりの笑顔に包まれていた。 でも、あの子は手を挙げない。じっとみんなを、みんなの向こうに居並ぶ誰かを睨んで、口をつぐんでいる。どんな意地悪な先生の質問にも、どんな難しい問題でも、誰よりも先に手を挙げる、真面目なあの子が。 皆がひとしきり思いついた色の名前を言った後で、ようやくあの子はすっと手を挙げた。指名され、おもむろに開かれた口から紡がれるのは 。 これは、「 」の記憶の一ページ。何度読み返しても足りないぐらい、愛おしい思い出のカケラ。 あの日「 」の世界に差し込んだ、あの子の言葉の煌きは。あの日から「 」が受け取った、あの子の心の温かさは。白黒だった「 」の世界を、今もあの子色に彩っている。あの子からは、一生分の光をもらったから。 「待っててね、今行くから」 踏み出す、あの日より一歩前へ。 あの子を殺しに。 1 「何浸ってんの。起きなさいよ問題児」 爽やかな秋風と麗らかな木漏れ日を堪能しつつ、窓辺に居並ぶ調度に体を預け優雅に惰眠を貪ろうという粋で高尚なる試みは、無粋で低俗極まりない女傑の横槍で絶たれてしまった。悔恨の情に打たれながら瞑目を続ける。 「掃除当番サボタージュして昼寝(シエスタ)とはいいご身分よね? そんなに国際交流したいならスペインと言わず、駄馬(ロシナンテ)に乗せて風車にでも突っ込ませてあげましょうか」 嗚呼、何故世界は斯くも残酷なるや? 富裕富豪(ブルジョワジー)悉く死すべしと銃を取り槍を掲げた革命闘士の志はさぞや秋の天馬の嘶きより高く尊く響くであろう。地の底より轟く同胞の怨嗟を翼に乗せて羽搏く死神は、成程身分階級の厚い壁さえ貫き崩す鮮血の槍を携え、肥え太った私腹を易々切り裂く断罪の鎌を振るうのだろう。貧民(かれら)の恨みは泰山より高く積もり、飢人(かれら)の怒りは大海より深く根付いているならば南無三、その兇刃が喉元に閃くも亦已む形無しである。 「それと日直。全く美人で委員長であんたの幼馴染たるこの迅沢(じんさわ)海(うみ)が相方で良かったわねぇ。山積みだった仕事の代わりに半殺しで済むのだもの」 而して。だが而して。弱肉強食が此岸の理、下剋上は世界の習いと雖も。盛者必衰は浮世の定め、色即是空空即是色、万物流転諸行無常の響きあり と雖も、である。我等高尚なる文化人が紡ぎ築き高め繋いだ文化、その崇高さをも滅ぼしてよいのか ! 「肩がいい? それとも肘? 好きなところに関節増やしてあげる。あ、それとも今日は可動域広げてあげよっか。軟体男子って流行りらしいよ?」 あらん限りの贅を尽くし、もてる限りの粋を尽くし! 高尚の極致へと至らんとする、燦然たる文化の輝き! 嗚呼、認めよう文化とは浪費だ贅沢だ。選ばれし者のみが享受しうる、至高の甘露だ! 而して、それは無駄、無為乃至無益であるか? 断じて否! 「起きないならあんたの両腕ウルトラ怪獣(ジャ○ラ)みたいにしちゃうぞー。あたし極(き)めるの得意だけどはめ直すの苦手だからさぁ」 優雅に茶を啜り、整えられた調度を愛で、麗しい花園を育む。沁み入る音楽に酔い、芳しい小説を味わい、この上ない美食を嗜む。成程贅沢だ。何故ならこれは、荒んだ心、貧しい感性では理解し得ないからだ。他者にとって価値あるものを湯水の如く使う悦楽 。高揚、快楽は、人を満たし癒すものなのだ。満たされた事無く、癒された事すら無き低俗は、羨望と憤怒に身を焦がす己を見る鏡すら持たぬらしい全く浅ましい事である。 「……全然起きないな。セーラー服でやりたくないけど、とりあえず肩軽く極めたら痛みで起きるかな。んしょんしょっと」 嗚呼、何故世界は斯くも残酷なるや? 万人に最も平等に与えられた時間、それを移りゆく四季の享受に惜し気も無く充て、斯くも貧しき世界に疲れ果てた我が肢体に須臾の安寧を齎そうと惰眠を貪る俺の高尚華麗なる美学を、この腐れ縁の幼馴染は理解し得ない。嗚呼、涙しようとも。この烈女は世間一般に認められ愛されながらも我が美学を理解できぬ、感性も美意識もその胸板の如く薄く貧しい哀れ極まる愚昧であることを ! 「OK。ツインテール(海老反り開脚腕無し三転倒立)にしてやるわ。今すぐ」 狂乱の坩堝に呑まれたウルトラなウーマンは、三分とかからず無辜の市民を蹂躙する。 2 気絶中に夢を見た。ツインテールのツインテールが俺をツインテールにしている夢だった。 「悪夢っ!」 「うわっ、びっくりした!」 荒く息をつきながら跳ね起きると、傍らには海がいた。どうもずっと傍にいてくれたらしい。 「よかった、一時はどうなることかと……。あんたを現代アートみたくツインテールのオブジェにしたら泡吹いて、うわ言で『ツインテール』しか言わなくなっちゃったから、もうどうしようかって……」 心配そうな顔で、涙まで浮かべてうつむく海は、幼馴染としてもほとんど見た覚えがない。こんなに不安にさせてしまったことに、一抹の罪悪感がのしかかる。 「その、悪い。心配かけた」 つい口をついて出た謝罪の言葉。それに、彼女は鼻を鳴らして一息つくと、 「いいのよ別に。結果的に殺人犯にならなくて済んだし、あーよかった」 つい口をついて出たと言わんばかりに本音の言葉で返した。本当に性格の悪いやつだよ、こいつは。 迅沢海。俺と同い年の十七歳で高校二年生。成績優秀で委員長や風紀委員を歴任する傍ら、小学生の頃から続けている空手の有段者という文武両道。教師からの信頼篤く、学校や地域でも顔が広い。三つの欠点を除けば眉目秀麗才色兼備と非の打ちどころのない才媛である。 三つの欠点とは何か? 一つ目は見ればわかる通り。 「胸がち 」 「なんだか急にツインテールにしたくなってきたわ」 「いやいや海さん、いやさ海陛下。閣下の御髪はポニーテールこそ至上、平生結び奉られたるままがよろしゅうございますです候。一時の気の迷いで殿下のお美しさを損なうことはなかろうことと存知奉り候えば」 「大丈夫よ、私ポニテ好きだし」 言うが早いか、躊躇いなく俺の肘を極めてくる海。何を隠そう、このケンカっ速さが二つ目である。有るのか無いのか分からない胸を頭に押し付けられながら、俺と俺の肘が絶叫する。痛い、俺と俺の肘と俺の尊厳と俺の頭が痛い。 「……何か失礼なこと考えてない?」 「脳内検閲断固反対! 少なくとも頭が痛いのは精神的なモンだよ!」 彼女は正義感の塊だ。風紀委員や委員長もやるべくしてやっている。もっとも、彼女の正義に反するなら教師だろうと不良だろうと先輩だろうと食ってかかるそれは確かに正義漢≠ナあろうが。それでもつつがなく周囲と馴染み信頼を集める辺りはその正義が正しく、かつ適度な範疇に収まっていることの証左でもある。 「ぐぎぎ折れる折れるぐがが」 「だらしないわね、さっきは、もうちょっと、イケたわ、よ!」 願わくば、その正義の適度な範疇が俺にも適応してほしいところではあるが。 楽しそうに俺の腕を極める彼女は、飼い主にじゃれつく子犬のように爛漫で無垢な笑顔を浮かべている。クラスメイトや教師の前で毅然と頼りになる空気を崩さないこいつが、俺の前だけで見せる表情。これが、欠点の三つ目。 「もう終わり? 問題児画伯の植木(うえき)陸(りく)先生はもうギブですかー?」 この俺、植木陸と幼馴染であること。そして、今も仲良く関係を保っていること。およそ人間として、これ以上の欠点もないだろう。 「……あれ、怒った?」 「別に。画伯じゃねぇって思っただけ」 「またまたぁ。第二美術室で半ば生活してる美術部の主が謙遜すること無いじゃない」 「……どうかな」 ため息とともに周囲を見やる。先ほどのドタバタ劇の割に散らかってはないそこは、紛れもない学校の美術室である。油絵の具の鼻に残る臭いと、洗い場の上で風にたなびく厚手のカーテン。あちこちに置かれた石膏像やキャンバスの影は複雑に絡み合い、背もたれのない丸椅子を絵の具の飛沫と入り混じって斑に染め上げている。海が言うほどではないが、どこに何があるのか、どう使うのかいつからあるのか。美術教師よりすぐに浮かんでしまうほど見慣れた光景は。 「半月後には美術部もなくなってるだろ。最後の一人が辞めるんだから」 自分でも驚くほど冷え切った声によって、瞼の裏の闇に溶けていく。 部員三人以上在籍すること。美術部がこの学校での部活存続の最低条件を特例で認めてもらっているのは、ひとえに海による口聞きと俺のこれまでの評価によるものだ。その俺が辞めれば、部として存続する理由さえない。 「……やっぱり、描けない?」 「優等生さん、日本語は正しく使おうぜ。それじゃまるで俺が元天才画伯で現在絶賛スランプ中みたいじゃん?」 一転、声のトーンが落ちる海。対して俺は、ずっと喉奥に溜め込んでいた本音が堰を切ったように溢れ出す。 「そうだよ、まさにギブアップだな。我が校一の問題児であらせられる植木何某(なにがし)の一身上の都合により、美術部は廃部でーす。先生の次回作は未定ですので、大先生の心身に負担をかけあそばされないよう期待はご遠慮ください、ってな」 すらすらと口をつく言葉が、顧みずとも背後の海を貫いていくのが分かる。それに気づく事が、気付いても止められない事が、翻って俺に突き刺さる。 「悪いな海、色々迷惑かけたのに倍の迷惑積んじまった。親にも教師にも話通して頭下げて、得られたもんはヒモ男一人とか。それこそお前の慎ましいお胸よか小さいだろうよ。何なら骨折り損ついでに腕の一本でもへし折っていくか? 正直そっちの方が気が楽だわ。期待かけた分周りに睨まれるのも嫌だし、学校も辞めるか。な、餞別だと思ってさ」 腕を突き出しておどけて見せる。長い付き合いだ。海がどうすれば怒るかなんて理解している。どんな言葉に傷ついて、どんな態度に憤って、どんな奴が嫌いなのか。一片の狂いなく振る舞うそれは、半ば俺の本音なのは事実である。どちらにせよ俺の腐った根性と海の献身的な尽力、どちらが欠けても成り立たないのが今の生活だ。 空手道場での稽古も学校での学業も疎かにすることなく、名義上の美術部部員として定期的に美術室に顔を出し、絵心の欠片もないのに美術書や技法書を読み漁ってはそれとなく絵の評価が出来るようになり、それを直接言うでもなく自分は教師に頼み込んで部員二名での存続という特例を勝ち取りながら部費の調達や書類雑務などをこなす。成程俺にはもったいない傑物である。海のサポートなしでは学校にも馴染めず絵も描けず、落第の末退学していただろう。掛け値なしの大恩人だ。 でも、もういい。 「 やっぱり、描きたくないんだわ。もう」 もういいんだ。今までは一絵描きとしてなけなしのプライドがあったが、描かない絵描きなど最早笑い話以外の何物でもない。これ以上、大恩人の人生までどぶに捨てることはない。 沈みゆく夕日が一際輝く。一陣の風が、肌寒さを伴って火照った顔を撫でていく。釣瓶落としの夕暮れが、心の影と重なって溶け合っていく。 「……そっか」 けれど、さ。 「しょうがないよね。じゃあ陸。戸締りだけ、よろしく。また明日ね」 海は笑って、いつも通りの別れで返す。 引き戸が閉まり、廊下に響く海の足音が聞こえなくなってから、俺は戸を乱暴に施錠して改めて調度 もといキャンバスの脚に背を預け、美術室の床に寝転がった。 「……くそったれが」 震える肩。涙混じりの声。長い付き合いだ。海がどうすれば怒るかなんて理解している。どんな言葉に傷ついて、どんな態度に憤って、どんな奴が嫌いなのか。 そして、海はそんな振る舞いをする俺を、決して見捨てないことも、その想いも。全部知っている。その上。 「……くそったれ、が」 そこまでしてくれる幼馴染みが、なぜそこまでしてくれるのかが分からない。思い出せない。海との出会い、馴れ初め、口に出すべきではないあいつの想い。霞のように触れられない記憶が俺を苛み、何一つ海のためにしてやれない自分の下種さに反吐が出る。 (締め切りは、明日) 夜を迎えた校舎が暗く冷たくのしかかってくる。睡魔に呑まれる意識が最後に捉えたのは、下書きさえない真っ白なキャンバスだった。 3 最初は嬉しかった。銀賞、つまりシルバー、二等賞。 子供の頃から絵を描くのが好きで、いろんな人に褒められてきた。最初に賞に応募したのが小学校低学年の時で、初めての結果は銀賞だった。幼稚園の手作りのとは比較にならないほど立派な賞状と、粗品のボールペン。もちろん全校生徒の目の前で校長先生から受け取るのは少し恥ずかしかったし、ボールペンなんて安っぽいただの記念品だったけど。 実際に展示会で掛けられていた自分の絵と、その角にそっとつけられた銀色の証。そして何人もの大人が自分の絵を見ているという『現実』を目の当たりにして、俺は初めて絵を褒められるのが嬉しいと思った。ふわふわした幸せが、目の前に形となって現れたような。先生にも、クラスメイトにも、親にも、知らない大人にも褒められる、初めて知った喜び 。 それからは止まらなかった。公民館や市役所に出向いては、絵のコンクールのチラシをかき集めた。学校の先生も色々な賞について調べてくれて、描いた絵を次々に応募するようになった。風景画、自画像、抽象画。ポスター、水墨画、水彩画。油絵の具も使ったし、クレヨンやデザインソフトも使った。気づけば、大なり小なり含めると年に百を超える賞に挑戦していた。何かしら受賞するたび絵が描きたくなって、四六時中絵のことばかり考えていた。頭の中のアイデアが二本の手では足りないほど溢れてくるとやきもきした時もあった。 そう、あったのだ。 キミの絵は、存在感がないな。 きっかけは、とある展覧会で告げられたとある評論家、斉藤何某とやらの一言だった、と思う。 キミの絵は、主張がない。人を惹きつける力に欠けているよ。これでは万年銀賞止まりなのも頷ける。 その評論家は、画家としても有名で、俺自身機会があれば是非会いたいと思っていた人物だった。広く芸術界に通じ、お墨付き一つで一生食い繋ぐ程度はできるともっぱらの噂だった。 勿論、敵に回せば木っ端芸術家一人容易に潰せるほどの大御所でもあった。まだ中学生になりたての俺は、並べられた手厳しい御託をただ茫然と聞いていた、と思う。思う、なんてあやふやなのは正直記憶が曖昧で、今でも思い出すと吐き気がこみ上げ、手が震えるからだ。ただ、これだけははっきり思い出せる。 つまらんな。何故かは知らんが。 展示された絵の角の、鈍色の証と、色を失う世界。 銀賞、つまりシルバー、二等賞。 宝物にしていた賞状をひっくり返して、やっと気づいた。俺は、銀賞以上の賞をとっていない。占めて一一三八の賞に応募し、奨励賞やがんばったで賞、市長賞や銅賞などが四〇七。銀賞が優秀賞など、一歩手前や二位の賞が二九六。無受賞や選考落ちが四三五。それで終わり。 俺は悔しかった。 勿論ただ泣き寝入りしたわけではない。むしろ躍起になって様々な賞に応募した。実際にいい線までいったものも多い。 しかし。 面白みがない。 アートに欠けるな。 独創性をもっと出すべきじゃないか? 表現に頼りすぎ。 世界観が分かりづらい気がします。 何か違うんですよねぇ。 綺麗なだけで美しくない。 直す所無しとも言えるし、有り過ぎるとも言える。 センスが合わないのか琴線に響かないのか。 良い絵だよ? でもなぁ……。 ことごとく、玉砕した。 何より腹立たしかったのは、講評にこぞって並ぶ『なんとなく』である。明確に直すべきもの センス、姿勢、技法、テーマなど は、ほとんど挙げられず、結局は審査員の指運、ないし直観によるものとしか思えないような評価ばかりが下される。『正しようのない間違い』なるものが、絶え間なく俺を苛んだ。 俺は怒り狂った。 あの日、あるいはもっと前から、あの評論家が手を回して俺の評価を貶めているのではないか。芸術家が結託して、俺に嫌がらせをしているのではないか。何度枕に顔を埋め、感情的に当たり散らしたかはもはや覚えてすらいない。講評の行間に下卑た笑みが浮かび、他人からの褒め言葉におぞましい裏の意図が透けて見える。俺は、程なく追い詰められていった。 そんな俺を見かねて、海はいろいろと調べてくれた。少なくともかの評論家の大家斉藤何某は高齢で、あの日から数か月たたずに逝去していたこと。俺の作品の講評は多くの受賞歴があるという色眼鏡を踏まえても、選考には苦心させられている、という証言。曰く、『魔法にかけられたように』としか言いようがないが、作品として何かが不足しているのは明らかなのにそれを指摘できない、と。海の気遣いはありがたかった。ともすれば容易く人としての道を踏み外しかねないほど荒み切った俺の心は、ひとまずの鎮静を見た。 そして、俺は 。 「……じゃあ、どうすればいいんだよ?」 俺は、絵に対しての情熱が凪いでしまった。 海を責めるわけじゃない。海は俺のことを心配して方々手を尽くしてくれた。そこに感謝こそすれ恨みに思う筋合いはない。現に、今まで自分なりに多くの芸術に触れ、自分の作品と比較する度に、『魔法』というものが理解できてしまう。まるでそこにあるはずの何かが失われてしまったような、あるべき何かが足りないような、説明のつかない不完全性。これを迎合という逃げと断ずるのは簡単だ。 でも。それでも、思ってしまう。 (もし海がいなかったら、俺には怒りを向けるべき敵がいたんだろうか) つまり銀賞以上に行けないのは全てお前のせいだ、と婉曲に突き付けられて。それが俺の幸せを願ってのものだった、という現実に。 周囲も、友人も、自分自身も責められないなら、どうすればいいのだろう、と。 4 ……嫌な夢を見てしまった。無理な体勢でうたた寝したからか、腰や膝から小気味よい音が鳴る。痛む頭に辟易としながら身体を起こすと、窓の外では夜の帳が下りていた。どうやら、あれから小一時間以上寝てしまったらしい。 夜の校舎は水を打ったような静けさに包まれている。人の気配もなく、人の声もない校舎は存外居心地が悪いものだ。人の息吹を失った建物は、いつの間にか冬のような冷たさを帯びているようだ。まるで世界に自分一人しかいないような感覚に、思わず肩を震わせる。 「……帰るか」 一瞬絵筆やパレットの後片付けが習慣として頭をよぎるが、かぶりを振って思考の外に追い出す。当然だ、一週間以上前に釘打ちしたキャンバスには絵の具はおろか、下書きの線一本すら書かれていない。白いキャンバスには寂寥感が滲むが、もはや絵は描かないと決めた以上慣れるほかないだろう。 もう、絵は描かない。 もう一度決意を口の中で呟いて、気だるい体に鞭打って立ち上がろうとした。 その時だった。 「 いいの?」 突然背後からかけられた、細い女性の声。驚きのあまり立ち上がる勢いのまま床につんのめってしまう。踵の潰れた学校指定の上履きが、視界の端で宙を舞った。 誰だ。頭に浮かぶ問いはうめき声に先を越され、口から出ることもできない。痛みに悶絶し床に突っ伏した俺の顔の横に、ぽとりと吹き飛んだ上履きが置かれる。 誰だ。千々に千切れる思考を強引に走らせる。とうに下校時刻は過ぎており、万年部員募集中の美術部に新入部員など来るはずもない。宿直のイエティこと体育教師の家松はその人知を超えた怪力と毛深さとロン毛に見合わず文武両道な模範生たる海に一目置いており、最近はお目付け役(うみ)の顔に免じて見回りにも来ない。夜の校舎に窓ガラスを求める不良も、ホテル代を渋って二人きりの一夜を過ごすカップルも見た覚えはない。では、誰だ? 見上げると、黒い闇。いや、黒い夜闇。緞帳の降りた舞台のように、薄暗くもかすかに見え、静かながら息づかいの聞こえる、生きた暗闇 。 「……かわらないね」 かけられた声さえ耳に入らないような、静謐と神聖が満ちた空間。闇の彼方に薄く霞む桜色は、宵闇に溶けて消えゆく花火のように、懐かしさと寂しさを孕みながら瞼へと焼き付いていく。 ふと、夜闇が揺れる。風に煽られた緞帳のように、視界の端で暗闇がはためく。天を衝くほどに伸びた白い天の川が目に入り、息を呑む。 ……はて、今俺は、何故息を呑んだのだろう? 答えは闇の遥か向こうから天啓の如くもたらされる。 「…………えっち」 呆れたようなため息と共に、ゆっくりと鎌首をもたげた天の川が俺の顔面を襲った。 5 「 で、誰?」 俺は努めて紳士的に問いかける。何せ目の前でむくれているのはオンナノコであらせられる。夜の校舎に男女二人きり、そんな状況での彼女の一言は万の証拠や億の弁解をも問答無用に蹂躙する。「あいつがやった」の一言で男の人生とは半壊するものだ。戦場にて戦車に歩兵が敵わないなら、自分の命を守るのは自分 理論武装に他ならない。個人携行火器(ざぱにーずごめんなさい)DOGEZA、汎用対軍支援要請(たすけてウルトラウーマン)UMI-NI-DENWA、最終決戦用戦略自爆兵装(もしもしポリスメン)TU-HO。使ったことのない 二つ目は特に避けたい 武装を脳内で展開する。 「……」 例えそれが、誰の目にも変人に映るであろう女子だったとしてもだ。 既に秋口に入って久しいというのに、身を包むセーラー服は半袖だ。白く細い脚はストッキングどころか靴下も履いておらず、かじかむのか白く細い指に白い息を吐きかけている。肩を超える黒髪は特に纏めることもなく、無造作に伸ばしているようで、白磁のように整った顔立ちと相まって不思議と不潔さのない美しさを纏っている。背丈が低いからか、それとも今もむくれているように表情が豊かだからか、ともすれば人形めいた不気味さをたたえるであろう無機質で作り物のような雰囲気はなく、それでいて怪しさとは無縁の無邪気さ、大人びるどころかあどけなささえ残す目鼻立ちには、周りの風景に溶け込み得ないものが映り込んでいるような、どこかちぐはぐな妖しさが感じられる。 学生のようなのに夜の校舎や夕暮れの通学路に居れば即座に世を儚んでいるようだと通報されるような、不思議な感覚。まるで世界の全てから拒絶されたような、寂しげな感覚。 ……なんだろう、彼女を見ていると、何かが思い出せそうで、しかし思い出すことが出来ない。遠く霞んだ記憶は、決して忘れてはいけないもので 。 ふと、視線を感じる。ついさっきまで俺の顔面を何度も踏みつけておきながら、今は俺の真正面で器用にも開いた窓の桟に腰かけむくれていた謎のセーラー服女は、いつの間にか屠殺場の豚を見るような目でこちらをまじまじと見つめている。 心なしか、彼女の手はその胸をかばうように回されているようにも見えるが ? 「……………………へんたい」 「誤解だっ!?」 「……おんなのこのおっぱいしかみないのは、けだもの。りくくんがへんたいだったなんて、かなしい」 「冤罪だっ弁護士を呼んでくれ! 俺はちゃんと脚も見たし腰つきも見たし手も見たし肩も見たし髪も見てる! 胸だけじゃなく全身隈なくちゃんと見てるから、胸しか見ない変態では断じてないぞっ!」 「………………………………………………………………」 もはや収拾のつかないレベルで女の子の目が濁っていく。屠殺場の豚など一睨みで追い散らすような、深海を思わせる昏い澱に包まれた瞳は、嫌悪感をひしひしと突き付けてくる。正直、怖い。 「すみませんでした申し訳ございません許してくださいごめんなさい悪気はなかったんですただ未曽有の事態と結構なお手前に思考が混乱してしまいまして」 「……かおは?」 はい? 素で固まる俺に女の子は語り掛ける。先程の一瞬でDOGEZAを決めて絶対零度の視線から逃れた俺には女の子の表情が見えないのでよく分からないが、とりあえず思ったままに答える。 「……かわいいと思いますです」 「…………そう」 心なしか険の取れた声が聞こえて、ひとまず命が繋がったことに安堵する。そろりと顔を挙げると、薄れゆく殺気と入れ替わるように、同じ疑問が頭をよぎった。 「……で、誰?」 その顔に見覚えはない。制服自体はウチの高校のものだが、人間トリモチの海ならともかく、人見知りの俺では全校生徒の顔と名前など一致している方が少ないのだから。ただ見た目変人なのを差し引いても、目の前に佇む少女はこれまで何度となく見たような気もする。 「…………よ」 「はい?」 「…………いいの。わたしのなまえなんて」 どこか舌足らずな言葉は、俺の耳に届くこともなく霧散する。誰かと話す経験が足りないのか、それとも単に性格なのか。鈴のように澄んでよく通る声は不思議とかき消されてしまっている。 なぜこんな儚げな美少女がこんなところにいるのか。なぜ顔も知らないこの子に懐かしさを感じるのか。そんなありきたりな疑問は、彼女の続く一言で瞬時に氷解する。 「…………かかなくて、いいの?」 ただし。沸騰する、という形で。 「……ああ、そういうこと」 これは夢だ。さもなければ妄想だ。ここまで的確に俺の怒りを買える奴なんて、俺以外にあるものか。奇人変人扱いは慣れっこだが、初めて見た幻覚が変人女とは。 呆れて。疲れて。どうでもよくなって。 何気なく吐いたため息と共に、決壊する。 「描かねえよ。描けねえんだよくそったれが! 出しても出しても出しても出しても銀賞止まりで! 毎晩毎晩自分で自分を責めて、何度も何度も書き直して! 一度だって一番になれねえ! 調べても学んでも考えても結果はいつも同じとか! どこの誰がこんなくそったれな世界にしてんだっつの!」 海の時とは違うのに。海にするのとは違うのに。 「それでも頑張れってか? 負けないでもう少しってか!? 頑張ってるだろうが! 応援してあげるから、期待してるから? ああ俺が下手糞なのは俺のせいだよ認めるよ。でも俺が血反吐吐いても喰らいついてんのはお前らが無駄な希望持たせるせいなんだよっ!!」 鉄の味がする。目尻が熱くなる。それでも止まらない。 「きっと今度はうまくいくよ! 楽しみにしてるよ待ってるから! 君ならできる信じてる!! もうここまで来たら才能ないって言えよ、はっきりとさぁ! 期待してるからこそ厳しく見てるとか、才能あるからこそ批判もできるとか! はっきり言えよ好みじゃないって! 勝手に古参扱いしてんじゃねーよ、子供扱いすんなよ!」 本当の自分が喉から出ていく。罵詈雑言を伴って。 「応援も! 期待も! 才能も! 審査も! あいつもこいつもどれもそれも! お前も海も俺自身も大っ嫌いだ!! ……芸術なんて、くそったれだ!!」 吐き出した本音は夜の静けさに溶け、返ってくることはない。血の昇った頭が冷えて痛みを訴え、余韻のような耳鳴りがいつまでも響いている。顔も挙げられないまま鳴らした喉からは血錆のような重さが、震える肩からは刺すような冷たさが。静寂と夜闇が心を責め苛む。 「……」 無言が心に刺さる。全て吐き出した俺は空っぽで、もう何も残っていない。思いつく限りの呪詛を見ず知らずの女の子に吐いたのだから、今度はどんな罵詈雑言が浴びせられようと文句はない。だからこそ、ついさっき拒絶したはずの否定も非難も慰めもないこの刹那が、狂おしいほど長く感じる。 文句を言う。部屋を出ていく。さっきと同じく踏み潰す。俺ならすぐにでも浮かぶ選択肢を、何故こいつは取らない? やり場のない思いが不条理な怒りとなって、再度ふつふつと湧き上がってくる。 上等だ。押しが足りないなら、もっと言ってやる。こいつが俺の世界から出ていくまで、何度だって罵ってやる。そう思って口を開く。 その時、伏せた目に妙なものが飛び込んできた。からころと床を転がるそれは、俺の上履きにぶつかって止まる。 不思議な鉛筆だった。六角形で消しゴム付きの、見た目こそありきたりな鉛筆。しかし、六角形のどこにもまともな刻印がない。メーカーも芯の太さも意匠も書かれていないそれは、何年も使い込まれているようでおろしたての新品のように輝いている。何よりその色がおかしい。茶色や緑色、水色といった既存の色ではくくれない、断定できない色。明かりもない部屋で赤色にも青色にも見えるのに、影がかかると白にも黄色にも見える。それでいて虹色でも透明でもなく、芯だけが黒く見えるのさえ疑わしくなるほど不思議な、魔法のような色合い 。 それは、とてもきれいで。きれいで、いつかどこかでみたような 。 「 もういちど、だけでいい……」 降って湧いた不思議な鉛筆に魅せられていた俺は、架けられた声にハッと顔を挙げる。この教室には二人きり、見覚えのない鉛筆なら、持ち主は疑いなく目の前の女の子である。 しかし。 「 かいて、りくくん……。あなたの、すてきなえ……。みせて…… 」 冬めく夜風が、頬を優しく撫でる。窓の向こうには、揺らめくカーテンと見慣れた風景、それだけ。慌てて窓から下を覗くが、そこには誰ひとり、何ひとついなかった。 白昼夢、それとも単に悪夢の続きか。改めて床にへたり込んだ俺の手が、からころと転がる何かに触れる。 「っ」 それは、さっきまで見惚れていた不思議な鉛筆だった。恐る恐る手に取ると驚くほど手に馴染む。まるで俺の身体の一部だったように、魔法の色が愉し気に揺らめく。 熱暴走していた頭が急激に冷え、ギアが変わる感覚がある。今だって絵は嫌いだ。認められない絵も、認めてくれない周囲も、認めない俺自身も、大嫌いだ。夕暮れに海に語った台詞も、さっき名前も知らない女の子に吐いた台詞も、取り消す気はない。けれど。 「……」 キャンバスに目をやる。下書きさえされず無言で苛んできた白色が、誘うように艶めかしく映る。 掛け時計に目をやる。刻む秒針の音さえ疎ましかった意匠が、待ち侘びたように輝いて見える。 自分の腕に目をやる。描きたいものが描けなくて悔しさや歯痒さに悶えた震えが、止まるどころか大きくなる。手の中の鉛筆に励まされ、内側で燃え盛る感情に悶えている。「描きたいんだろ?」って 。 視界の色が滲むのは、この鉛筆のせいだ。袖で瞼を擦るのは眠気覚ましだし、頬を叩くのは寝ぼけた頭を叩き起こすためだ。絵を描きたいとは思わない。何せ俺は、もう絵を描くのは大嫌いなのだから。けれど、だ。 描いてみたい。これで俺が描いた絵が見てみたい。 手近な椅子を引きずってきて、キャンバスの前に据える。近くの絵の具を根こそぎ引っ掴んで、傍にあったパレットに絞り出していく。手にした鉛筆を立てて見た世界は、今までとは違う色に見えて。 「……悪いな海。嘘ついちまった」 とり憑かれたように猛然と手を動かし始めたのは、午後八時。十二時間後の締め切りは時計の針に背中を追われるようで、それでも鉛筆を走らせるうちに俺は、子供の頃に戻ったような爽やかな熱を滾らせていた。 6 朝の六時。朝夕冷え込む秋の空に白い息を溶かしながら、あたしは校門に走り込んだ。 一行半要件だけのメールはいつも通りでも、朝すぐ来いと強引なのは流石に初めてだ。それも着信したのは朝の四時。あのバカ家に帰ってなかったのかとか、そもそも何してるんだあのアホとか。そんな怒りや呆れ以上に、あたしは陸が心配だった。 好きなことには一直線で、他には何も目に入らないあいつが眩しかった。皆には何でも出来るなんて言われてるけど、私には『何でも出来る』ことしか出来ない。長く続けようとなんでも挑戦しようと、なんとなく達成感が湧かない。褒めそやす人たちはあたしの成果を見ても、あたしの気持ちを汲み取ってはくれない。すごいね、かっこいいねの台詞には、いつだって『自分とは違う天才』って溝がある。 陸はあたしを人間トリモチなんて言うけど、それは才能のせいで孤独にはなれなくて、才能のせいで孤独を感じてるあたしのある意味で的確な表現と思う。具体的に好きなことが見つけられなかったあたしには、出来ないことにも好きだからって挑戦できる陸の姿が何よりも尊く映った。 でも、そんな陸の眩しささえあたしが踏みにじった。頑張ってる陸を応援したくて色々と世話も焼いた。落ち込んで荒れて燃え尽きていく陸を何度も励ました。でもそれが、陸の重荷となって逃げ道を奪ってしまった。 励ましが追い詰めて、手伝いが責め苛んで、期待が蝕んで、憧れが嬲って。乾き切った陸の笑顔を見て、あたしは申し訳なさで一杯だった。 これからはさり気なく陸を支えていこう。せめてもの罪滅ぼしをと思いながら眠れない夜にこれからのことを考えていた矢先、突然のメール。 焦って上履きを取り落としてしまう。舌打ち一つ踵を履き潰して走り始めたあたしの心には、昏い想像が浮かんでいた。 嫌われるぐらいならまだいい。昨日以上の暴言も甘んじて受ける覚悟がある。でも万が一、あのバカがいなくなってしまったら? あの優しく眩しい笑顔、いつからの付き合いかもはっきりしない程の腐れ縁の幼馴染が、思い詰めて首でも括っていたら? それは、全部あたしのせいだ。 階段を駆け上がり、渡り廊下をひた走る。北校舎の四階一番奥。足?く通った第二美術室が、こんなにも遠く感じる。息を切らせて美術室の前に来ると、電灯は点きっぱなしになっていた。 恐る恐る手をかけると、引き戸は簡単に開く。生唾を?み込み、第二美術室に一歩踏み込む。果たしてその向こうには。 「……えっと?」 散らかった教室。あちこちに散らばった絵の具は、普段の陸なら目ざとく注意するはず。久しく感じなかった絵の具の生乾いた臭いが鼻を突き、水屋の蛇口から透き通った雫が落ちる。 昨日の記憶を辿りながら、一歩ずつ踏み込む。すると、机の陰からかすかな音が耳に入る。 「っ!」 慌てて覗き込むと、陸だった。キャンバス立てに背を預け、すやすやと寝息を立てている。 生きている。ほっと一息ついて、呆れと安堵に徒労感を感じながら文句の一つも言おうと口を開きかけた。 その時、違和感に気付いた。キャンバスはどこだ。昨日の夕方には白紙だったキャンバスは、いったいどこに行った? 視線を巡らすと、その答えはすぐに見つかった。傍の机に伏せてある木組は、間違いなく陸のキャンバスだ。近くには走り書きが一つ。「悪い。提出しといてくれ」という見慣れた文字に顔を綻ばせながら、使い走りの駄賃代わりにと何気なくキャンバスを裏返した。 あたしはその時のことを、一生忘れない。 まず、目を疑った。目を擦ってからもう一度見て、今度は正気を疑った。もう一度キャンバスを伏せ、深呼吸。気を取り直して三度見て、疑いは確信に変わる。 キャンバスに描かれていたのは、学校の美術室。少し粗目のタッチながら、ここ第二美術室の写生であることはすぐ分かる。 いや、違う。分からなかった。机も椅子も黒板も、トルソーも掛け時計も水屋も鏡も、第二美術室であるのは明白なのに、それが第二美術室だと思えなかった。構図が歌い、色彩が躍る。陰影が香り、光源が甘く誘う。どんな巨匠の傑作も過去の駄作とするそれは、あたしなんかじゃ見たこともないような底知れない魅力に満ち溢れていた。 理解したことが二つある。この絵は、陸にとっての最高傑作であることが一つ。誰にも文句は言わせない、ずっと彼の絵を見てきた色眼鏡でさえ魅了するこれは、陸が苦しみ続けた『正しようのない間違い』を打破し、新たなステージに辿り着いた証左であると。 そして、もう一つ。 キャンバスを丁寧に梱包して、提出の準備を進める。端々で絵に見惚れてしまって少し時間がかかったが、何とか締め切りの八時に間に合いそうでほっとする。 梱包が終わって、机に腰かける。一息つくと、まだ寝こけている陸が目に入った。その顔は幸せに満ち足りたような、子供の頃の優しい顔をしていて。 「……バーカ」 陸の頭を足で小突きながら、キャンバスを抱きしめる。 この絵は、久方ぶりに陸が描きたくて描いた絵なのだ。「もう描けねぇ」とまで口走るほどに追い詰められていた彼が、憑き物が落ちたように安らかな寝顔を見せる。それを理解できるのはきっと自分だけなのだろう。そう思うと、胸の奥に熱いものが溢れる。 さあ、あと十五分で始業ベルが鳴る。一人で行くのも何なので、腐れ縁の幼馴染を叩き起こすことにしよう。勢いをつけて机から飛び降りると同時に、ポニーテールがふわりと揺れた。 7 金賞。飛び上がって喜んでいた海や家族、教師達には悪いが、初めての受賞の喜び自体はさして大きくなかった。審査員の講評には絶賛が並び、「遅咲きのニューフェイス」「苦節十二年」などと無責任なタイトルが新聞の地方欄で跋扈する。海のツテだとは思うが、道端で通りすがりのパンチパーマのおっさんに涙ぐまれながら「良かったねぇ……!」と握手をせがまれたときは世話焼きな幼馴染の顔の広さに半ば辟易したのも事実だが。 秋の深まる通学路。銀杏並木をすり抜けながら掌を見つめ、ぎゅっと握る。俺が今までずっと求め続けてきたのは、金賞じゃない。俺の、俺自身の絵を見つけること。そしてそれが認められること。 「……っ」 自分の絵に何が足りないのか、ずっと暗闇を歩く日々。ただ認められないのではなく、判を押したように不足を指摘され、終わりのない探求どころか始まり得ない探求に苛まれた夜。それに比べれば、これから何度だって挑戦できる金賞なんて、さしたる意味もない。 言いようのない不安の代わりに体にみなぎった充足感。今の俺なら、どんな絵だろうといくらでも挑戦できる気がする。 「……それもこれも、全部コイツのおかげだな」 制服の胸ポケットに差し込んだ件の鉛筆に視線を落とす。胸の中で踊る色彩は、今日も今日とて幻想的だ。昨日も夜通し使っていたのに、一度として同じ色に見えたことはない。 この不可思議な鉛筆を使っていて分かったことが二つ。 一つ、絵を描くうえで驚くほど自由度が高い。手に馴染んで疲れないのは言うまでもなく、線の強弱や色の陰影もこれ一本でほぼすべて表現できる。流石に絵の具はつけられないが、筆記にデッサン、下書きや作図など、他の鉛筆で出来ることでこの鉛筆にできないことはほとんどない。まさしく如意棒ならぬ如意鉛筆である。 また付属した消しゴムも不可思議な代物で、ほとんど力を入れずとも撫でるだけでさっぱり消える。ぼかしはどうしようと途方に暮れたこともあったがそこはそれ、ぼかそうと思って使うと思い通りに仕上がるのが憎いところである。そのくせこの一週間ほどで大小百作品弱の絵を仕上げたが、消しゴムは一向に減る兆しを見せていない。『無限に使える消しゴム』……文具業界は商売あがったりだろうが。 二つ目が、この鉛筆は描くこと以外で変化しない、というものだ。いつもの癖で小刀を使って削ろうとしたが、この鉛筆はまるで削れなかった。硬くて刃が通らないというより小刀が表面を滑るようで、何度やっても駄目だった。包丁やノコギリでも結果は同じ、まるで鉛筆自体が変化を拒むように、のらりくらりと刃を受け流しているようだった。 ライターで炙ろうと金槌で叩こうと、煤一つつかないしヒビ一つ入らない。勿論描いても描いても芯は尖ったままで、欠けることも潰れることもない。やり甲斐のない実験に愛想を尽かして、とりあえず作品制作に支障のある問題でもないからと机に戻ろうとした時、ペン立てに放り込んだ鉛筆が他のペンやコピックより短くなっているのに気付いた。適当な紙に鉛筆を走らせてから定規で測ってみると、確かにほんの少しちびている。削らなくても描けば勝手にちびていく鉛筆 クレヨンかよと思わなくもないが は、他の特徴を鑑みてもやはり魔法の鉛筆なのだろう。不思議と、そこに違和感や恐怖は感じなかった。 辿り着けなかった境地、得られなかった何か。俺が求めて止まなかったものを、この鉛筆は全部与えてくれた。出口のない暗闇に迷っていた俺を、この鉛筆は導いてくれた。それに比べれば、高々『削ることもなくずっと便利に使える鉛筆』の不可思議さが何だというのか。 (我ながらちょろいなぁ……) 魔法の鉛筆頼りでは、削るのが下手になりそうだなぁなどと、鼻歌混じりに並木道を抜ける。河川敷に出て開けた視界が、秋めく母校の校舎を切り取った。川向こうの紅葉に燃え上がる山を背に、白い校舎が良く映える。遠く空は青く澄み渡り、近く川が赤と黄の錦を織り成して。水面に光る陽光が滲み、写し取ったような空の色が揺らめいて 。 「……おし」 クロッキー用のスケッチブックを広げ、魔法の鉛筆を掲げる。何度も繰り返した所作が、今となっては焦れったくすら感じる。この目に映った美しさを残したい 。高尚な美学というより子供染みた好奇心に突き動かされつつ河川敷の芝生に腰を下ろして、鉛筆を走らせ始める。 だがしかし。 「……何やってんのよ画伯バカ」 げしっ。音にすれば愉快な擬音は、受ける身としてはたまったものではない。突然背中に入った蹴りは、優雅な写生に勤しむ俺を川べりまで突き落とし、あまつさえ聞きたくなかった水音を響かせた。 えっと、どっちが落ちた? 「おお、世にも珍しい鉛筆の川流れ」 「嘘だろおい!?」 慌てて目の前の水面に目を走らせる。あの不思議な色彩は川のどこにも見当たらない。なら 。 「ちょちょちょい!? ノータイムで飛び込もうとすんな金槌人間! このくそ寒い中あんたの石頭引き上げるなんてごめんだから……、ウソウソ冗談あんたのお気に入りは死守しといたから!」 蹴り落した張本人(うみ)に半ば本気で羽交い絞めされ、頭に上った血が酸素を求めて身体に回る。器用にも人を羽交い絞めにしながら目の前でちらつかされたのは件の鉛筆である。色々と言いたいことはあるが、とりあえず一安心である言いたいことは沢山あるが! 「……わがっだがらどりあえずはなずぇ……ぐるじいいぎでぎない」 「あ、ゴメン」 死の抱擁から解放されけほけほと咳き込みながら、海から鉛筆を受け取る。こいつのスキンシップはやはり激しすぎると思う、主に破壊力の面で。いつからこの幼馴染は熊みたいなハグをするようになったのやら。 「良かった……これがここにあるってことは、落ちたのは石ころかなんかか……」 「うんにゃ。スケッチブックが絶賛どんぶらこってるね」 ぎゃあ! という声が自分の口から出たことに驚いた。錦のようと形容した紅葉が、水を吸う紙束に絡みつき水底に引きずり込む様は、クリオネの食事シーンを見せられた時のような何とも言えない虚脱感を覚えさせた。 「なんなら拾ってきましょうかおじいさんや」 そんな気持ちを知ってか知らずか、そこらの木の枝を手におばあさんはけらけらと笑いながら、川面でどんぶらこる桃をハントすると言い出します。 「いやいやもういいよばあさんや……もうお腹一杯じゃ」 何が『この目に映った美しさを残したい』なのやら。 耽美の時間は足蹴にされ、鉛筆探せば締め上げられ、綺麗な川面は化け物の棲み処、幼馴染みは新語創造系蛮族……。華やかな料理の横でグロテスクな仕込みや下ごしらえを見せられたような気分で、これ以上あのスケッチブックに何が描けようか。今こそ別れめいざさらば、スケッチブックよ我が黒歴史と嫌な記憶を抱いて冷たい水底で溺死しろ。おじいさんがバカなことを念じるうちにどんぶらこった桃は落ち葉の海に消えていきました。めでたしめでたし。 「……あんたがいいなら別にいいけど。まあ風紀委員長のあたしとしては遅刻寸前だしとっとと全力ダッシュして欲しいかなー」 「今から全力ダッシュして間に合うのはお前だけだ。つーかお前遅刻の監督する側だからあんまり関係ないじゃん? というわけでここは任せて先に行けい」 「見捨てていけるか戦友、抱えてでも連れてくさ」 フラグは回収されました。ファンファーレと共に鮮明に浮かんだ光景は、一キロ弱を一分半で走破してみせるという異性の幼馴染に、山賊のように横抱きにされて、予鈴寸前の学生たちで混み合う通学路を、眉目秀麗な風紀委員長と爆走するという斜め上な死亡フラグのアマゾン。「ほれほれ痛くしないから」などとほざく幼馴染改め女蛮族(アマゾネス)の手を適当に振りほどきつつ、ついさっき描く気が萎えてしまった風景を改めて見やる。 そして。 「ん? どしたの怖い顔して。……嫌だった?」 「 何でもねぇ! そら、全力ダッシュすりゃいいんだろ。間に合わなくても努力賞ぐらいくれよな蛮族風紀委員長!」 「っちょ、言わせておけばこんのバカ陸は……! いいわよ一歩でも立ち止まったらそのケツ蹴っ飛ばしてやるから!」 口では怒りながらも笑っている海。あいつには苦労をかけっぱなしだ、これ以上俺のせいであいつの笑顔を奪いたくはない。いつもの調子を装って、背後の海を茶化しながら河川敷をひた走る。 見られなかっただろうか。気付かれなかっただろうか。あと一瞬遅れていたら、俺の顔を覗き込もうとする海の目にも映っただろう。 紅葉の錦の額縁の中、鏡のような川面の向こうに俺がいなかったことに。 8 慌ててトイレに走り込む。鏡の前で矯めつ眇めつするものの、鏡の向こうにいるはずの俺はいない。スマホのカメラを起動するが、何枚撮ろうとそこにいるはずの俺が映らない。 「……くそったれが、どうなってんだ」 SF映画なんかでよくある現象が、実際に目の前で起きている。カメラや編集の技術でそこにいるはずの人間を影も形もなく消すのは可能だろう。透明人間、カメラに映らないだけでも脳裏に浮かぶ言葉は、ある意味人類の夢ではなかったか。『もしも透明人間になったら』などと不埒な妄想を垂れ流す健全な男子高校生の頭脳も、実際に当事者になってみると不安と恐怖に押しつぶされそうになる。 当面どうするか。目下の問題にして分かりやすい恐慌の逃げ道はそこだ。カメラは写真が嫌いだと断ればいい。あとは鏡に映らないよう 鏡になるもの、水面や大理石の床など 意識して避けるほかない。トイレなんかは仕方ないが、極力人気のない場所を探して 。 その時、背後から水音が聞こえた。ありえない、ここは旧校舎脇の弓道場備え付けの木造トイレだ。歴史ある母校で代々続く強豪の弓道部でさえ、厳かさの代わりにおどろおどろしさが立ち込めるこのあばら家なんて使わず本校舎まで走るほどのいわくつきだ。そんな場所に授業を仮病で抜け出してくる輩など、俺以外にいるものか。 背中から嫌な汗が噴き出す。怪奇現象の直後にポルターガイストならとんだホラー映画である。もしも生徒の誰かなら化け物扱いされてSF映画に、教師ならこっぴどく叱られて非行少年のドキュメンタリー映画か? どちらにせよ、カメラがあるなら蹴り壊したい。作り物のフィクションなら、どれだけいいか。思考が空転する中、背中に感じる不快感だけがやけに現実味を帯びていた。 水音が止み、一瞬の静寂。肌寒いほどの冷気が、纏わりつくように全身を這い回る。逃げろ。思考が絶叫するも足は凍り付いたように動かない。生唾を呑む俺の目の前で、錆付いて軋む扉がゆっくりと開く。するとそこには。 「 やっほー」 いつかの幽霊少女が、便器に腰かけていた。 「……ここ男子トイレなんだが」 「……つかってないからだいじょうぶ」 誰も使ってないから見られないということなのか、女子としてトイレを使っていないからここにいても問題ないということなのか。判断どころか対応に困る返答に、半ば頭を抱える。 「……つかって、ないよ?」 同じ台詞を繰り返すこいつの頬に朱が差しているのは、気のせいじゃないと思う。 「 で? 変態幽霊少女は俺に何の御用だよ。恨みなら管轄違いだから生活指導のイエティによろしく」 「…………きのうみたくせに」 「その係争は審理済みだ。法の不遡及の原則に則り、原告側が示談に応じ被告人が従った以上そのことで変態と責められる謂われはないな」 「………………みたじじつはきえてない」 「言い訳がましく言い募っても無駄さ。昨日俺は誠心誠意の謝罪をし! 裸足で顔面を踏まれるという報復に耐えた! その上でお前は俺を許した! ハイこの話はこれで終わり! 俺は無実、自由である!」 「ゆるしたとはいちどもいってない」 並べ立てた詭弁が一瞬で崩れ落ちる。瓦礫の山を見て、人は自らの小ささと自然の力の大きさを知る。嗚呼、人も亦自然の一部。矮小なる一は至大なる全にただ頭を垂れよ。心なしか怒気を孕み、自らのか細い声を忘れるような憤怒の再点火に、俺はただ自然の摂理に従いひたすら土下座を繰り返す。 「……それで、皇女殿下は斯様に辺鄙な地に何用であらせられるので?」 「…………もういい。うっとうしいから、ソラってよんで。わたしのなまえ」 かぶりを振ってため息を吐く自称ソラは、この前と服装が変わっている。いかにも寒そうだった半袖セーラー服はカーディガンを羽織った合服になり、スカートの生地もどこか冬物めいた厚みになっている。しかしマフラーや耳あて、黒タイツまで着込んで完全防備する今朝の女子生徒たちを見た身としては、数日で冬めいた街を歩くには少し心もとない気もする。 「…………へんたい」 「誤解だから! 絵描きの癖なんだよ勘弁してくれよ! ええとじゃあソラ、俺に何の用だよ!」 堂々巡りを繰り返すのはまっぴらだ。突然美術室に現れる、あんな消え方ができる、魔法の鉛筆を寄越す。そんなのは人間じゃない、魔法使いとかその辺の存在だ。細かいことを気にしていても始まらない。このタイミングでの再会は、間違いなく何かある。そうでなくては、最初確かに誰もいないことを確認した辺鄙な男子トイレで俺に気付かれずに背後の個室に入れるはずもない。待ち伏せか瞬間移動かは知らないが、魔法の鉛筆に見合うだけの超人であるのは疑いようもないのだから。 それに、ソラには奇妙な既視感があった。この間は気が動転していてはっきりしなかったが、二度相見えた程度で人見知りの俺が見知らぬ女子とこんな丁々発止のやり取りができるはずもない。そう、こいつの纏う雰囲気が距離や時間を超越した隔たりを生み出しているだけで、どちらかというなら幼馴染の、それこそ俺と海のような間柄にさえ感じる。まるで同じ人とは思えない奇妙な立ち居振る舞いのソラに抱く、旧い友人のような親近感 。ちぐはぐな感覚に身震いする。 そんな俺の推測を知ってか知らずか、やや不満そうに唇を尖らせながらソラは口を開く。 「……あのえんぴつ、いまももってる?」 予期していた問いだった。咄嗟に懐をかばう。胸ポケットに感触はあるが、それがなんだというのか。 そもそも、こいつのさっきの言を借りるなら「あげたとはいちどもいってない」だ。ソラが消えた後落ちていた鉛筆を拾っただけで、貰ったわけでも借りたわけでもない。ソラのものだという確たる証拠がないだけで、彼女の所有物を勝手に使っていた俺に非がないとは言えないだろう。 それでも。 「……悪いな。取りに来るのが遅いんで使っちまったよ。盛った男子高生の前で年頃の女の子が自分の持ち物忘れていくもんじゃねえぜ。ナニに使ったかはとてもオンナノコには言えねえが、こんなキモイ男のお手付きでいいなら返してやるけど?」 口汚い煽りがすらすらと出てくる。スランプにもなってみるものだ。自分に対してなら罵倒も中傷もどぶのように湧いてくる。元から卑屈な人間だとは思っていたが、俺には絵の他にもちゃんと才能があったことに心の中で涙があふれる。 銀杏並木で頭をよぎった不安は、まさに的中した。返せと言われれば返さざるを得ないのは頭では分かっている。しかし、現代の便利な生活に浸かった人々は果たして原始時代の生活に耐えられるだろうか? 現に、あの鉛筆の便利さは数日使っただけでも身に染みて理解した。海はあの日俺の作品をどんな巨匠の作品も過去の駄作にするなどとのたまったらしいが、それは事実であって事実ではない。 すごいのは、あくまで魔法の鉛筆だ。俺じゃない。便利なのも勿論だが、あの鉛筆を使った絵には言い知れない力を感じる。極論を言えば、俺の絵と真逆。何かあると思わせるが、それが何かは断定できない、そんな魔法のような魅力 。 「それと、なんか使ってるうちにちびちまってよ、今朝でもう半分ぐらいになっちまった。いいやつ使ってんな、どこに売ってるか紹介してほしいもんだ。弁償ってんならそいつを教えてくれればデートにだって付き合うぜ?」 そうでなければ、誰が描く時間さえ惜しんで矯めつ眇めつ鉛筆の実験なんてやるものか。そうであれば、誰が自分の才能に自惚れて他の画材で書いてみようと思う者か。結局は俺の予想通り、一切合切魔法の鉛筆のおかげ。ただの鉛筆で描いた風景画は今まで通り何かが足りず、魔法の鉛筆でそれを模写すると見違えるように足りなかった何かが溢れ出す。 もう、あの暗い微睡みに戻るのは嫌だ。 返したくない。返すにしても代わりが欲しい。それが偽らざる俺の本音だ。そのためならなんだってする。顔見知り程度の女の子を下卑た台詞で煽ろう。怒りで冷静さを、嫌悪で判断力を奪い、その上で手元にこれが残るようない頭で誘導しよう。一端の絵描きなら欲しがるのは当然。俺のいる所にもう一度来るってことは、回収に来るぐらいにはこいつ自身この鉛筆の価値を知っているのも必然。仮にソラとやらが幽霊、ないしは魔女だったとして。仮に怒りに任せて殺されたとして。それならそれで俺は満足だ。なにせ、俺は鉛筆を失ったその先の未来を見ずに済むのだから。 ソラの目をじっと見つめる。吸い込まれるような黒い眼に呑まれるような錯覚に襲われて、喉を鳴らす。ここが正念場、目を逸らしたら負けだ。腹に力を入れて、精一杯こしらえた嘲りの表情を保つ。 しばらくして、無言を貫いていたソラがすっと動いた。 「な、んだよ。これ」 目の前に突き出されたのは、懐にしまったそれと同じ鉛筆。この間拾った時と変わらない長さで、まるで新品のよう。丈の長い袖で直接触れないように差し出された鉛筆を、俺はどうすることも出来ず狼狽えていた。 「……ほしいんでしょ?」 「……そりゃ欲しいさ。けどなんで 」 俺に、という続きを聞くこともなく、ソラは強引に俺の手を取ると、二本目の魔法の鉛筆を押し付ける。 「いやちょっと待てよ! なんなんだお前? 突然現れて変な鉛筆落としていくわ、挙句それを寄越すわ……。お前一体何がしたいんだよ!?」 わからない。こいつの考えていることが全く分からない。不安と懐疑が自然と俺を叫ばせる。魔法の鉛筆を押し付けるだけ押し付けて出入り口へと踵を返すソラの背中に、俺は疑問を投げつける。 その瞬間、脳裏に何かが浮かぶ。ノイズにまみれた光景、雑音に紛れて何も聞こえない。それでも鮮明に閃くもの。去りゆく少女の背中に、かけるべき言葉は 。 「 それじゃ、だめ」 痛みに明滅する視界の中で、鈴のような声だけがはっきりと聞こえる。どこかやるせない響きを含んだ声は、聞き分けのない子供を言い含めるように聞こえた。 「それじゃ、ころせない」 目を開けると、ソラはいなくなっていた。 彼女は何者なのか。何が目的なのか。俺と何のつながりがあるのか。何かが起こっているのに何が起こっているのかはわからないのは、かつての自分を思い出すようで最悪な気分だった。嫌な汗が噴き出る。制服の第一ボタンを開け、洗面台に突っ伏すように身を預ける。蛇口をひねって冷たい水を頭から浴びると、少しだけ冷静になれた気がする。 「 ソラ、ね……」 手には、握らされたままの二本目の鉛筆。何色とも形容できない色彩は、何者かに決まってしまうのを拒むように妖しく揺れている。 一本目はすでに半分使ってしまった。勿論二本目があるのに越したことはないが、このままあいつに踊らされるように描き続けてしまうことに抵抗もあった。 筆を置いてしまおうか。描きたいものは描けた、自分でも早すぎると思うが引退する。考えてはみたものの、そう言っている自分が全く想像できないことに苦笑する。 そうやって黄昏ていたからか、近づいてきた珍客に全く気付かなかった。 「りいいいいいいくうううううううううう?」 「うおわぁッ」 凄まじい剣幕で轟く怒声に、竦み上がって咄嗟に立てない。そうしている間にも、どすどすと淑やかさの欠片もない怪獣の足音が迫ってくる。 「今すぐ返事して出て来なさい……。今なら首一つで許してあげる」 (行けるか何だよ首一つって死ぬじゃんDIEじゃん探されてるのに返事なんてするわけねーし流石にアホだろ海のやつ頭まで胸みたく慎ましくなってんじゃねーぞソラの方が若干あるんじゃねマジで) 息を殺してとりあえずトイレの隅のドアの陰に隠れる。湧き出るツッコミを必死で押し殺しながら耳を澄ますと、それだけで人を殺せそうな殺気が鳴りを潜めている。 「……?」 気になったので壁に張り付いて聞き耳を立ててみる。さっきの感覚だと割合近くにいたようだが……。 「 ソラって誰」 「脳内検閲断固反対だって言ってんだろしまいにゃクーデター起こすぞ! 何で胸の話題に関してだけはエスパーなんだよ俺声に出してないよな!? ……ああ、窓に! 窓に!」 クトゥルフ神話のラブクラフトだって手刀で壁くり抜いた窓から迫る女子高生は想像できないと思う。SAN値が尽きる前に俺が見たのは、深きものどもも裸足で逃げ出す紛うこと無き邪神だった。 てけり・り、てけり・り。 9 二本目の鉛筆も、今まで通りに使うことが出来た。数枚簡単な習作を走り書きしても使い心地が変わらないことに、今日だけで二度目となった生きている喜びを?み締める機会を得た。 「で? ソラって誰よ」 「ああ半殺しの目に遭いながら思い出したら確かに言ってたよごめんな脳内検閲されてなかったわ! それ以上にあんな掘立小屋で一言呟いただけの名前を聞き取ってやがったことに震えが止まらねえよ! ありがとよ通販の振動ベルトに頼らなくても今日だけですっげえ痩せれた気がするわ!」 心からの礼拝に水を差す異教徒に噛み付く。皮肉交じりで恐縮だが俺から言わせりゃすべて事実だ。詳細は伏せるが、『ビオトープ』『アイアン』『水切り』『ジャイアントスイング』で連想してみてほしい。 「……つーかお前も知らないのな。幼稚園からの付き合いなんだから、てっきりお前なら知ってるもんだと」 「………………どんな奴よ」 大暴れした後でも何だかんだで面倒見のいい幼馴染である。ただ、ソラの特徴や印象を話すと、どんどん顔が険しくなっていく。 「……女子かよ。くそったれ、全くどこの泥棒猫なんだか」 「いや、その台詞はおかしい」 好意は素直に嬉しいが、海さんそんなキャラだっけ? 「……覚えがないわね。私の知らないあんたの友達なんていたっけ」 「いや、その台詞もおかしい」 それではまるで俺に友達があまり居ないみたいじゃないか。少しは居るというべきだ。 「……つーかあんたの話聞いてるとやけに服とか髪とか細かいとこまで見ててなんか気色悪い」 「いや! その台詞にだけは断固抗議するぞ!」 何度も言うが俺は変態じゃない。紳士でもなく、俺は一人の絵描きだ。道行く人の肢体を観察するのはライフワークと言ってもいい! 「あとなんか隠し事されてるような気がする」 「……っ」 見抜かれていた。よりにもよって絶対に隠し通すべき大切な恩人に。がっくりと肩を落とし、うなだれる。 「……図星ってわけ。正直に言いなさい」 海は窘めるように俺の頭を叩くと、向かいの席にどっかと座る。言い淀む俺を優しく待ちながらも、話すまで決して離さないという決意が目の奥に光っている。 こうなっては仕方ない。海は簡単に折れるような柔な性格じゃないし、言いくるめる術も俺には持ち合わせがない。覚悟を決めて、口を開く。 「……海、実は俺な……」 「……うん」 いつになく真剣な海が、喉を鳴らす。 乾いた唇を湿らせて、次の言葉を紡ぐ。頭を回せ、思考を巡らせろ。一瞬一秒だって気を抜くな。これは俺にとって一世一代の大勝負。たった一歩だろうと、ここで引くわけにはいかない。 「……俺は 」 秋風そよぐ校舎を歩くのは、裸足のソラ。上履きに慣れていないのか片手に持ったまま、校舎屋上のフェンスの上を平均台のように渡っていく。時折危なげに揺れるその足取りは誰もが冷や汗をかくほどの危険な行為だが、あくまで彼女は道路の路石を遊び半分で渡る子供のように真下で口を開ける死に見向きもしない。 「 りくくん……」 歌うような呟きは、誰の耳にも届かず消えていく。昼休みの喧騒とは、それほどの隔たりがある。 否、自殺志願者のようなその振る舞いさえ誰の目にも映らないそれは、本当に隔たりなのか? 突然に風が勢いを増す。校舎中の窓ガラスを軋ませるそれは、ソラのか細い足を容易く払った。 「っ」 一瞬息を呑むものの、すぐに元の目に戻る。陸と会わない時の、昏く暗い目。 「 たすけて 」 吹き荒ぶ風に巻き上げられた木の葉と共に、重力に戒められた幽霊らしき少女は地に堕ちていく。誰も気づく事のない、空にさえ還れない少女は。 「 ころして、よ」 微睡みに落ちゆく意識で、ただ祈った。 音もなく、冬が近づく。 〈続〉 【次回予告】 「 ふざけないでよっ!」 「……これが君の絵かい……。本当に?」 「おい! 出て来いよ幽霊女ァ!」 「……ぶらはつけてない。……まだ」 「いんでぃいいいいいいいじょおおおおおおおんずっ!」 「追え! 逃がすなよ、あの変態ヤロー! 五体八つ裂いてキ●タマ吊るしたらぁっ!!」 「 頼まれてやるわよ問題児画伯様。あとでマクド奢ってよね」 「 殺せ、って、か?」 「ちがう、えらぶだけ。あなたか、わたし。どっちかひとつ」 「『空の色』って、何色だと思う?」 「俺は……」 「あたしは!」 「わたし、は 」 これは、魔法の鉛筆が織り成す、透明だった物語。 冬頃刊行予定乞うご期待。
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