金の亡者アール 昭宏 薄暗い路地を、二人の男が息せき切って走り回っていた。 「ア、アールの奴がこの町に来てるなんて聞いてねえよ!」 「俺だってそうだよ! いいからもっと速く走れ!」 その時、二人の視界の上から何か小さな物体が突き抜け、石畳の隙間に突き刺さった。 二人が小さく悲鳴を上げながら地面に直立した物体を見ると、果たしてそれは一本のナイフだった。 「止まれ。次は足に当てるぞ」 二人の頭上から、今度は冷たい男の声が降ってきた。 二人がその声の主を探して上を見上げると、建物の屋根の上に男はいた。 男は、夏だというのに黒一色の暑苦しそうなコートに身を包み、コートと同じ濡れ羽色の髪と、水色の瞳が特徴的だった。年は十代後半ほどだろうか。 「アール…!」 逃げ惑っていた男のうちの一人が、忌々しそうに屋根の上の男をにらみ、うなるようにそう口にした。 アールと呼ばれた男は、突如屋根上から飛び降りたかと思うと、建物の壁にある出っ張りを器用に足場に使い、綺麗に二人の横に着地した。 「さて、それじゃあ宝石商のじいさんから盗んだ品を返してもらおうか」 アールは、地面に刺さったままのナイフを引き抜きながら言った。 「か、返せと言われて素直に返すわけねえだろうが!」 「そ、そうだ! こっちだって生活がかかってるんだよ!」 とても和解出来そうにない二人の返答に、 「俺は、お前らの事情なんか一切興味ない。俺が興味があるのは、依頼主に約束された高額な依頼料、銀貨十枚だけだ」 だから、と言いながら、アールはナイフについた汚れを拭きとり、懐にしまった。 「あんたたちが大人しく盗品を渡してくれないなら、力ずくで奪わせてもらう」 「上等だ!」 「おい待て!」 先手は盗人がとった。 盗人の一人が、もう一人の呼び止める声を無視して腰に掛けてあった短刀を引き抜き、アールに斬りかかった。 だが、アールは慌てるそぶりも見せず、静かに腰を落とし、構えの姿勢をとった。 まず、男のナイフを持った右腕の手首に鋭い手刀を決め、得物を手から滑り落とさせた。 次に、掌で男の胸を強く打ち、動きを止めさせると、拳や足で、男の顎、鳩尾(みぞおち)、ももなどの急所に流れるように数発打撃を繰り出した。 ふらふらになってたたらを踏む男に、止めに頬に思い切り拳を見舞うと、脳を揺らされた男は勢いよく転倒し、そのまま気絶した。 「ち、畜生!」 一人残された男は、半分やけになりながらアールに飛びかかった。 しかし、敢え無く先の男と同じ道をたどることになった。 アールは敵の懐に飛び込み、男の襟と腕をつかんでバランスを崩すと、担ぐようにして背中越しに投げた。 男の体は空中で回転して、路地に積まれていた空の木箱に叩き付けられた。 小太り気味の男がもたらした激しい衝撃に、木箱は盛大な音を立てながら壊れ、男は粉々になった木片とともに地面に転がった。 衝撃で気を失ったらしく、そのまま男は起き上がっては来なかった。 アールは、盗人二人の服と荷物を手際よく探り、目当ての宝石のついた指輪や腕輪、首飾りなどを見つけ出すと、にっと頬を緩ませた。 「今回も無事依頼完了」 盗品を取り返してから約二時間後の昼食時、アールは町の酒場にいた。 酒場といっても、酒飲み達がたむろするようになるのは日が沈む頃なので、昼間は普通の大衆食堂として町民達で賑わっている。 「リック、いつもので頼む」 アールは、酒場の主人――図体が大きく、気のよさそうな男だ――にそう言った。 「あいよ! アール、今日も仕事上がりか?」 アールは首肯しながら、 「今日は宝石商のレイモンドさんからの仕事でな、盗人に盗まれた宝石付きの装飾品を取り返したんだ。何でも死んだ奥さんの形見の品もその中に混じってたらしくって、報酬額に銀貨十枚も提示してくれたんだ」 このイルマーク王国では、通貨には銅貨、銀貨、金貨が用いられる。それぞれの価値は、銅貨十枚で銀貨一枚、銀貨二十枚で金貨一枚、そして、街にいる衛兵などの一般兵士一ヶ月分の給与が約銀貨十枚ほどだ。 つまり、アールが半日で終わらせた仕事の報酬は、一般的な職業の一ヶ月分に相当するというわけで、相当に割のいい仕事と言っていいだろう。 「しかも、捕まえた二人の荷物から換金できそうなめぼしい物を失敬したから、追加で銀貨五枚。更にそいつらを衛士の詰め所に引っ張ってやったから、また衛士の奴らにも貸しを作れたしな。一石三鳥ってやつだ」 「そりゃあまた…えげつねぇな…」 実に楽しそうにくつくつと笑うアールを尻目に、リックは苦笑いをした。 アールはいわゆる便利屋のような仕事を生業としている。基本的には業種を選ばず、頼まれた仕事をこなし、依頼主からの報酬金をもらう。 「おおそうだ、仕事と言えば! アール、お前に依頼をしたいっていう嬢ちゃんが来たんだった」 「何だって?」 アールは思わず身を乗り出して聞いた。 アールに依頼を持ちかけてくるのは、主に商人や衛士だ。衛士からは主に、特定の人物の拘束や尾行などの仕事を頼まれるが、彼らは立場上、あまり表立って外部の人間に依頼はできないため、あくまで非公式で依頼をしてくるのでそんなに数は多くない。だから商人からの仕事がほとんどなのだが、当然依頼主の性別は男性がほとんどで、女性は滅多にいないのだ。しかも、老齢の婦人などではなく、若い女性とは… 「朝方この店に来て、『どなたか、護衛の仕事を引き受けてくださる方を知りませんか?』と聞かれたんで、それならアールが良い。あいつなら腕は確かだって言ってやったんだよ」 そしたらほら、とリックはアールに一枚の折りたたまれた便せんを手渡した。 「その場でそれを書きだして、『その方が来たら、これを渡してください』って頼まれたんだよ」 「その子、どんな感じだったんだ?」 リックは、うーん、とうなりながら、顎髭をさすった。 「なんか、顔はフードに隠れてたんでよく見えなかったんだが、背格好から見るにお前と同じ、十代後半くらいだったなぁ」 ますます妙だな、と内心アールは思いながら、閉じてあった便せんを開き、内容に目を走らせていった。 酒場で食事を済ませた後、アールはその足で町の広場に向かった。 少女がアールに残した手紙には簡潔に、あなたに護衛の依頼を頼みたいこと、詳しいことは直接会って話したいので、これを読んだら町の広場まで来てほしい、とだけ書かれていた。 リックには、「なんて書いてあった?」と聞かれたが、わざわざこれだけの内容を手紙に書いたということは、人に知られたくないことなのだろうと思い、「たいしたことじゃない」とアールは適当にごまかした。 正直、アールはなんとなく今回の依頼は怪しいと思っていた。 やはり、依頼主が年若い少女というのが気になるし、さらに顔をフードで覆っていたということは、恐らく他人にあまり顔を見られたくないのだろう。 しかも、彼女が字を書けたというのも、彼女がそこらの町娘ではないことを示している。 ここ、イルマーク王国だけに限らず、どこの国でも識字率というのはきわめて低いのが現状だ。 商人や写本師などの字を使う職業につく者であれば、字の読み書きが出来るように訓練させられるが、そうでない人々は、そもそも文字を見かけること自体稀だ。 そうなると必然的に、字の読み書きができる人は少なくなり、識字率は低迷する。 にもかかわらず、彼女は文字を書けたと言うことは、文字を学習するだけの一定以上の裕福な家の生まれか、字を扱う職業の家の生まれだということが推測できる。 はぁ、とアールは一つため息をついた。 アールは、割に合わない仕事がこの上なく嫌いだ。 さっきの宝石商からの仕事のように、短時間で高額な報酬が得られるならば喜んで受けるが、やっかいな仕事にもかかわらず低額の報酬ならば基本的には受けない。 これはアールだけでなく、他の便利屋にも共通することである。 ローリスクハイリターン。実際にはこんな仕事はほぼ無いと言って良いが、それが彼らの目指すところだ。 だが今回の依頼からは、なにやらきな臭いものをアールは経験からかぎ取っていた。 頼むから、面倒くさいことにだけはならないでくれ。 アールは何度目か分からない言葉を心中で繰り返した。 ここ、リィエルはイルマーク王国の経済の要衝、ライムと近く、街道で繋がれているため、商人達で栄える町だ。 そんな町の中心に広場はあった。王国の国教であるソフィア教が奉じる巨大な女神像が見下ろすそこには、町の人間はもちろん、旅の商人や旅芸人まで様々な人が足を休めたり、友人との話に花を咲かせたりしていた。 そんな中に、浮かない顔をしたアールが立ち尽くしていた。 甘い考えで、行ってみれば依頼人が誰かはなんとなく分かるだろう、と高をくくっていたのだが、予想以上に人が多すぎて全く見つけられないのだ。 見当違いにまた一つ深くため息をついたアールの元に、一人の少女がゆっくりと歩み寄ってきた。 アールがちらりと横目で彼女を見てみると、リックが言っていたように、頭をフードで覆い、顔を伏せがちにした少女がそこにいた。 「もしかして、俺に依頼をしたいって言ってきたのはあんたか?」 少女は、驚いたように体を硬直させながらも、 「あ、あなたがアールさん、で間違いないですか?」 澄み切った通りの良い声で、少女は言った。アールの想像以上に、その声はほっそりとしていた。 「そうだ。俺がアール。盗みや殺しの依頼以外なら大抵のことは引き受ける、便利屋をやっている」 少女はそれを聞くと、なぜかホッとしたように安堵の息をついた。 「よかった…。申し遅れました、私、シェリーと言います。あなたに護衛の仕事をお願いしたくて、ここにお呼びしました」 何だか、いろいろと想像とは違っていた。依頼人がこんな花も恥じらう美少女だとは思わなかったのだ。 「ところで、なんで最初に近づいてきたとき、俺がアールだって分かったんだ?」 ああ、それなら、とシェリーが、 「酒場の方々が、アールさんの外見の特徴ついて教えてくださったんです。黒色の髪に水色の瞳、それにこんな暑い中でもお構いなしに羽織った黒色のコート。珍しいからすぐに見つかるだろうって」 クスクス、と笑いながらそう答えた。 アールは若干顔を引きつらせながら、内心まあ、そうだよなと呟いた。 「それじゃあ手っ取り早く、仕事の話と行こうか」 依頼の内容は、次のようなものだった。 目的地点は、この国の経済の要衝として栄えるライムの街。なんでも、そこにある修道院に入れてもらうためにそこに行きたいらしい。 ライムの街に行くには、まずこのリィエルの町を出て西に向かい、途中にあるリントの町を経由して、そこからさらに西に向かう必要がある。 アールの見立てでは、馬車に乗ったとして、早くてもライムの街に着くには四日はかかる道程だ。 そこまでの道のりをアールに護衛してほしい、ということらしい。 アールはそこまで聞いて、内心面倒くさいな、と思った。拘束期間は約五日。当然その間他の依頼を平行して受けることはできないだろう。ライムの街につけばそこでまた仕事を探せば良いから、帰りのことは考えなくてもいいにしても、だ。 アールは正直、これで低額の報酬を提示されたら、誰か他の便利屋でも紹介して自分はこの依頼を降りようと思っていた。しかし、 「お礼は、金貨五枚…くらいでどうでしょうか?」 アールは一瞬、自分の耳を疑った。 五枚? 今、金貨五枚って言わなかったか? 「あ、もちろん途中の諸費用はこちらで負担する予定です。ですから――」 「受けるぞ」 え、と驚くシェリーをよそに、アールは満面の笑みで繰り返した。 「その依頼、俺が金貨五枚で受けるって言ったんだ」 「えっと、私が言うのも変だと思いますけど、もう少し色々と聞かなくてもいいんですか…?」 「急ぐぞ、食料に飲み水、それに麻の布…。準備するものはいくらでもある」 「どうして修道院に入るのか、とか――」 「それを聞いたら、金になるのか?」 アールはもはや、報酬金以外のことは頭には無かった。 結論から言うと、リントの町へは、商人の馬車に同乗させてもらうことになった。リントの町からなら乗り合い馬車が出ているため、そこまでで十分なのだ。 あれから、旅に必要な準備品などを話し合って、アールが今からそれを準備して明日の早朝に出発ということになった。 その後、アールは同乗させてもらう商人を探すため、シェリーとはいったん別れた。 案外すんなりと都合に合う商人は見つかり、その上無償での同乗の許可ももらった。ただし、その商人の護衛を兼ねて、という条件付きであった。 アールは商人たちの間でも、腕のいい用心棒だと評判になっているため、こんな風に乗り合わせてもらう代わりにその護衛を任されるというのはよくあることなのだ。 アールとしても何も不利益はないので、二つ返事で承諾した。 出発は明日の早朝に決まった。 そのことをシェリーに伝えに戻り、明日またこの広場で待ち合わせすることに決めた。 シェリーはすでに宿をとっているらしいので、その場は別れることになった。 そして今、アールはその準備品を揃えに市場に来ていた。ある程度はアールが元々持っている分で足りるだろうが、シェリーの分の食料諸々は買うしかなかったのだ。 パンや調理された瓶詰めの野菜などの食料、旅人の必需品である麻布などを買い集め終わると、アールが持つ荷物の量は二人分にしてはいささか以上に多くなっていた。そこで、アールは突然町の貧民街に足を向けた。 しばらく歩き、黒ずんで汚れた建物や道に散乱するゴミが目立ち始めたころ、一人の少年がアールのもとに駆け寄ってきた。 「兄ちゃんだ! みんな、兄ちゃんが来たぞ!」 少年がそう叫ぶと、たちまちそこかしこから少年と同じ年頃の男女が姿を見せた。 「アールさん、久しぶり!」 「アール兄ちゃん、今日はここに泊まってくの?」 少年少女たちは、貧しい身なりをしていて、服から露出している肌は煤や土埃などで汚れきっていた。一目で孤児や貧しい家庭の子供であることが分かる。 しかし、アールへとむけるその目は、どれもキラキラと輝いていた。 「ああ、今日はここに泊まるつもりだ。でもすまん、実は明日にはこの街を出るつもりなんだ」 ええっ、と子供たちは不満の声をあげたが、最初に出てきた少年がアールの袖を引っ張り、 「じゃあさ、兄ちゃん早く行こうよ! 今日は俺の寝床に泊まらせてやるからさ」 「ああ、それじゃあ今日はコリーのところに邪魔しようかな」 今度は喜びの声と自分も行く、といった明るい声が貧民街に広がった。 彼方の山の頂には夕日がさしかかり、街を歩く人の足もまばらになってきていた。 アールは、薄汚れた道を子供達と一緒になって談笑しながら歩いて行った。 その顔には卑屈な笑みはなく、年相応の笑顔だけがあった。 翌日、アールとシェリーはリントの町へ向かう馬車に揺られていた。 馬車の御者台には商人が寝ぼけ眼(まなこ)をこすりながら座っている。 このあたりの街道は一帯が森に囲まれていて、石の敷かれた道のすぐ外は樹海が広がっている。 馬車の吹き抜けの窓からは夏の眩しい日差しが差し込み、青々と茂った木の葉が朝日を受けて鮮やかに輝いていた。 時折、柔らかな風が蒸し蒸しとした馬車の中にそよいできては、深い緑の香を運んでくる。 連日の猛暑に違わず、本日も雲一つ無い晴天だった。 アールとシェリーは、だらだらと流れる汗を布で拭きとりながら、首元を仰いでこの暑さをしのいでいた。 特に、何故かこんな暑さの中でも頑なにコートを脱ごうとしないアールは輪を掛けて大粒の汗を流し続けていた。 そんなアールを見かねたシェリーは、 「あの、アールさん、そのコート本当に脱いだ方が良いと思いますよ?汗も尋常じゃ無いくらいかいてますし…」 「…うるさい。このコートは内側に大量にナイフが仕込めるようになってる特別製なんだ。仕事中である以上、そう簡単には脱げないんだよ…」 今にも死にそうな顔と口調でそう答えるアールに若干引きながらシェリーは、 「それにしても、こんなに暑くなるのは珍しいですよね…。私が生まれてから一番かもしれない、と父も言っていました」 「ああ、確かにこの地方じゃこんなに長いこと雨が降らないってのはなかなか無いな。もう一ヶ月近く降ってない…まるで乾期みたいだ。農民も大変だろうな」 そう言いながら、アールはザックから水筒を取り出して口をつける。ちなみに、今の時期は井戸の水も取る量を制限されているので、アールが飲んでいる水はそこら辺の川の水をろ過して煮沸させたものだ。 「そういえば、アールさんってどこに住んでいるんですか?」 「俺に家なんて贅沢なものはねえよ」 え、と驚いた顔をするシェリーに、アールは続けて、 「なに、俺みたいな仕事をやってる奴らには珍しくないことだ。ついでに言っとくと、俺には家族もいない、天涯孤独の身だ」 何でも無いことを話すような口ぶりでそう言った。 しかしシェリーはそうでは無かったようで、悪いことを聞いてしまった、という風な顔をした。 アールは、自分の家を持たない根無し草だ。今回のように依頼の都合で別の町に行くことはよくある。 中でもここ、王国の東から西の地方を中心にアールは渡り歩いて活動している。 ちなみに、アールのように街から街へと渡っていくような同業者は稀だ。 普通、他の街へと行くには路銀がかかるし、行った先の街で仕事を受けられるかどうかも分からないからだ。 それを考えると、商人などの間で広いコネを持っていて、信頼を得ているアールがどれだけ凄いのかが分かる。もちろんシェリーには知るよしも無いことだが。 あまりにも頻繁に街に出入りを繰り返すため、よく依頼をもってきてくれる商人などの一部の人間には逐一出入りを報告しなければならないほどだ。 昨日もアールは、シェリーと会った後でリィエルの町に住むある程度付き合いがある人たちに挨拶を済ませてきた。 つい先日この町に来たと報告したばかりだったので、もっとゆっくりしていけば良いのに、と言われたかと思えば、早いとこ出て行け、とからかい半分に言われるなど反応は様々だった。 「そういえばシェリー、お前の家ってやっぱり金持ちなのか? 商人の娘とか」 「えっ? そ、それはその…」 シェリーは、先ほどまでの気まずそうな表情から一変して、目に見えて狼狽し始めた。 そんなシェリーを見て、アールは小さく吹き出して、 「まぁ、言いたくないなら無理に聞いたりしねぇよ。女ひとりで旅をしてる時点で何かわけありなんだろうし。金になる話なら別だけど、な」 意地の悪い顔でそう言った。そうするとシェリーは「そ、そうですか…」と安心したような、しかしどこか不安そうな苦笑いを見せた。 それからというもの、何故か馬車の中はぎくしゃくした雰囲気に包まれた。アールもそんな空気を払拭しようと何度も話題を振ったのだが、返事をするシェリーの声はやはりぎこちないもので、すぐに会話は途切れてしまった。 まいったな、と思いながらアールは髪をくしゃくしゃと掻いた。 (俺、何かまずいことでも言ったか?こんな空気でこの先やっていくのなんてごめんだぞ…) アールは依頼人との信頼関係を築くことを大切にしているのだ。 約三日間という短い旅程ではあるが、依頼人と信頼関係を築くというのは、もしもの事態が起こった時に重要なこととなる。その上、仲が良くなればその仕事が完了した後も何かの縁で、アールに仕事を寄越してくれる可能性もある。 シェリーの場合、好印象を得られたとしても、リピーターになってくれるかどうかは怪しかったが、それを抜きにしても、気分良く仕事をするために彼女とこのまま気まずい空気のままいるのは嫌だった。 そして再び、アールが話題を持ちかけようとしたとき、 「うわっ!」 馬車の前に座っている商人の悲鳴が上がって、馬車は急に減速、停止した。 アールとシェリーは突然のことに体を前につんのめらせたが、アールはすぐに体勢を整えて商人に声をかけた。 「おい、どうしたんだ?」 「そ、それが、馬車の前に急に子供が歩いてきて、道の真ん中に倒れたんだ…」 それを聞いたアールは、すぐに御者席に飛び出て道を確認した。 そこには確かに、一人の少年が地べたに倒れ伏せていた。少年の身なりは粗末で、一見して浮浪児にも見える。 しかし、それを見たアールは途端に顔をこわばらせて、 「おい、今すぐに馬車を出せ!」 「えっ、し、しかしあの子供は」 「いいから、とにかく今すぐ馬車を出してくれ!」 アールの怒声におののいた商人は、指示されたままに鞭を振るい、馬車を急発進させた。 そして、瞬く間に少年との距離は詰められ、馬の蹄がそのか弱い体を踏み抜かんとするその直前、 「ええっ?」 商人が驚きの声をあげた。今までピクリとも動かなかった少年は、焦った様子でその場から跳ね起き、道の脇に避難したのだ。 「やっぱりそうか…!」 アールは憎々しげにそう呟き、急いで馬車の屋根によじ登った。 「アールさん、これは一体…?」 シェリーも御者席の後ろの窓から顔を覗かせていた。 「あれは、とある盗賊団が道行く馬車を奇襲する時によく使う手だ。盗賊団の年若い男女を馬車の前方にわざと倒れさせ、道をふさぎ、心配して馬車から降りてきた商人を襲って荷物を奪う。ここら辺じゃあ出くわすのは珍しいんだけどな」 そこまで言うと、道の脇の林からうじゃうじゃと馬に乗った男達が現れ、アール達の乗る馬車を追い始めた。その中には、先ほどの少年の姿もある。見えているだけで十人はいる。 アールはその少年を指さし、 「お前、さっき地面に倒れてる時服の裾から刃物がのぞいてたぞ! おかげでお前が盗賊だってことが分かった、感謝してるよありがとな!」 わざと挑発するような口調で、大声でそう叫んだ。 指摘された少年は、怒りに顔を赤らめ、忌々しそうに下唇をかんでアールをにらんだ。 しかし、アール達の馬車は盗賊たちにその距離を縮められていた。馬車を引く馬は二頭だったが、大量の商品を積んでその上三人が乗る大型馬車の馬車だと、人一人を乗せるだけの盗賊たちの馬にはスピードでは勝てないのだ。 そこでアールは、懐に手を入れ、一振りのナイフを抜き取った。 それは異様な見た目のナイフだった。柄の部分が異常に短いかと思えば、刃渡りは極端に長い。しかし刃は細く、およそナイフや剣同士と打ち合うことを想定していない、投擲に特化した形状をしていた。 「シェリー! 危ないから馬車の中に引っ込んでろ!」 そう叫び、シェリーが荷台に戻るのを確認した後、アールはナイフの柄を右腕の親指と中指の間に挟み、腰を低く落として腕を振りかぶった。 盗賊たちはアールのナイフに備え、剣やナイフを抜きはなった。どれも品質の低い粗悪品であったが、アールのナイフを打ち落とすのには十分だろう。 しかしアールは動きを止めること無く、そのままナイフを投げ放った。それは、相当に揺れるであろう馬車の上から投げたとは思えないほど研ぎ澄まされたものだった。弓から放たれた矢のように鋭く投げられたナイフは、風を逆巻いて盗賊の一人に飛来していった。 男は、ナイフをはじき落とそうと剣を振るったが、馬上という足場の不安定さと、ナイフのスピードに合わせられず、ナイフは男の左胸に突き刺さった。 たまらず男は体勢を崩し、落馬した。 しかし男が落馬する直前、アールはナイフを振り抜いた右腕をくいっと引き戻した。 すると、男の胸に刺さっていたナイフが、そこから勢いよく抜け、朱の色彩を散らしながら宙を舞った。 よく見ると、アールの指には金属のリングがはめられていた。その指輪から細い糸のようなものが伸びていて、それがナイフの柄に繋がっていたのだ。 その一連の出来事に唖然とした盗賊たちに、再びアールは腕を振るって先ほどの男の右隣を走っていた男の首元にナイフを向かわせた。 その不規則な動きに対応出来ずに、男はもろに首に一撃を食らう。アールはそのまま腕を引き戻し、男の首の皮を切り裂いた。ぱっと空に紅い花が咲いた。 それはまるで、何かの曲を指揮しているような光景だった。 アールは紐を腕に、指に絡ませ、時には左腕も使いナイフの距離を調整。腕を振るってしばらくナイフを宙に漂わせたかと思うと、突然軌道を変えて男達の急所に刃が殺到するのだ。 一歩間違えれば、ナイフが自分の体めがけて飛んで来てもおかしくないというのに、アールは少しも臆するような表情を見せずにただただ冷静に腕を振るった。 先ほどシェリーを馬車の中に引っ込ませたのは、危ないからという理由も勿論あったが、この凄惨な光景を見せたくないという思いからだった。 アールの奮戦で、当初十人ほどいた盗賊達はその数を三人ほどに減らしていた。アールが再び刃を向かわせようと構えると、突然男達は馬を止め、引き返していった。 アールはナイフを手元にたぐり寄せた後、用心深く彼らの姿が見えなくなってもしばらく見張っていた。 しかし盗賊達がもう追って来ていないことを確認すると、ナイフにべっとりと付着した血糊を払い、コートの内側に仕舞った。 屋根の上から降り、商人に「もう馬車の速度を緩めても大丈夫だ」と声を掛けてから馬車の中に戻った。 そこには、背を丸めて座席の下に座り込むシェリーの姿があった。その背中は小刻みに震えている。 「終わったぞ。多分もう追ってこないだろうな」 「は、はい…。ありがとうございました、アールさん…。」 震えの混じった声に、アールは苦笑いを見せながらも、 「もうあいつらはいない、もう大丈夫だ。だから、な?」 そう言うと、シェリーはどこか躊躇いがちに、 「はい……。あの、アールさん、さっきの盗賊たちのこと、何か知っているみたいでしたけど、一体彼らは――」 「ロイド盗賊団」 アールは、目を細めてぼそっと呟くようにして言った。 「追ってきた時の列の組み方、やり口を見ても間違いない。この季節にこの辺りを襲うのは稀なんだが、あれはロイド盗賊団だ」 ロイド盗賊団は、主にイルマーク王国の東部から西部――ちょうどキャンベル伯爵領の辺りだ――を中心に活動している。 その規模は大きく、そして中々しっぽをつかませないことで有名だ。特にここ数年は、活動範囲も規模も拡大していて、商人や衛兵たちの頭を悩ませている。 唯一、街から街への交易が困難になるほど、彼らとの遭遇頻度が高くないことだけが救いだと言われている。 そして、アールが言ったとおり季節によって活動場所が変化しているとも言われている。勿論絶対というわけではないが、夏は東部で、冬は西部で遭遇する可能性が高いという噂がまことしやかにささやかれているのだ。 しかし、だからといってその間その地域に交易をしに行かないという訳にもいかないし、もしそうした場合、盗賊団の行動パターンが変わる可能性が大いにあるので、あくまで参考にして心構えをしておく程度にとどめられている。 「すみません、実は私、商いを始めてから日が浅いもので…。あれが盗賊だなんて全然分かりませんでした」 「いや、奴らも毎回あの手を使ってくるわけじゃないし、俺もあの子供が刃物を隠しているのが見えなかったら確信は出来なかった。無理もない」 そんな会話を商人と窓越しにしている間も、シェリーは押し黙ったままだった。その日はその後は何事も無く、ごくごく平和にリントへの道のりを走って行った。 日が沈みそうになり、今日はここいらで野宿をしようという話になったあたりで、アールはシェリーに呼び出された。 真剣な表情を見せるシェリーに、アールは何も言わずにシェリーについて行った。商人から十分距離が離れると、シェリーは口を開いた。 「アールさん、実は、あなたに黙っていたことがあるんです」 シェリーが何か訳ありであること自体は、アールにはなんとなく察しがついていた。しかしこの様子では、その想像以上のなにかがありそうである。 「それを話してくれる気になったのか? もしそうなら、俺は怒ったりしないから全てを話してみてくれ」 シェリーはこくん、とうなずき、ぽつぽつと話し始めた。 「まず、私の名前。シェリーというのは嘘の名前なんです。私の本名は、フィリス=アーノルド。アーウェン=アーノルド辺境伯の三女です」 「…は?」 アールは思わず気の抜けた返事を漏らしてしまった。無理もないだろう、アーノルド辺境伯といえば、王国の東部に国内屈指の広大な領土を保有する大貴族だ。 アールの記憶では、確かに辺境伯の次女はそんな名前だったような気がするが、いきなりそれは自分なんですなんて言われて、あっそうだったんですかとなるほうがおかしい。 「それともう一つ、実は私、あのロイド盗賊団に追われているんです…」 「あいつらに? いったい何があったんだ?」 「実は――」 聞いた話では、シェリー改めフィリスは、幼いころから屋敷の外、つまり領民たちが暮らしている場所へ行ったことがあまり無かったらしい。辺境伯は、フィリスのことを心配して少々過保護だったらしいのだ。 しかしフィリスは、そんな生活に不満を覚えていた。 殊勝にも、「領民により良い生活を送ってもらうためには、治める側である自分たちが普段の領民の暮らしぶりを知らなければならない」と考えていたらしい。 辺境伯にはその思いを伝え、自分が実際に見に行きたいとも言ったらしいのだが、にべもなく断られたそうで、意地になったフィリスは専属のメイドに相談して、やっとの思いで少しの間だけならば外出しても良いと許されたのだった。 勿論、家族には言えないのでなるべく極秘に、一部の使用人だけに伝えられ、伝手を使って身分証を偽造し、シェリーという偽名を使って一日だけ街を見回ることになったのだという。 「お前、どんだけ行動力高いんだよ…。普通、親に断られたら諦めるだろ。両親に秘密で外出するのを認めるその使用人も使用人だ…」 アールは心底呆れたようにため息を漏らした。 「しょ、しょうが無いじゃないですか…。たとえそれが小さなことで、自己満足だとしても、何か自分に出来ることがあるかもしれない、そう思ったらいても立ってもいられなかったんです」 しかし、大貴族の娘でこんな考え方が出来るというのは珍しいな、ともアールは思った。豊かな金にまみれた生活を送ってきたせいで、性格がねじ曲がった方向に成長してしまうことも多いからだ。 アーノルド辺境伯は、領民に善政を敷いていて、人格の面でも評判が良いと聞いたことがあるので、父親の教育の賜物なのかもしれない。 「それで? それがどうして盗賊に追われることになったんだ?」 「…その外出の日、家族が出払った日に街へ馬車で向かったんですけど、その途中の林道で怪しい集団を見つけたんです。何だろうと思い、付き添いの使用人と一緒に馬車を降りて、こっそりと後をつけたんです」 「それが、盗賊だったっていうことか」 フィリスは首肯した。 「なんでお前も見に行ったんだ? その使用人には止められなかったのか?」 「止められたんですけど、どうしても気になりましたし、馬車の御者さんと二人というのも不安でしたので…、無理を言ってついて行ったんです」 いよいよ呆れるのにも疲れたアールは、黙って続きを促した。 「後を追っていくと、林を抜けて、開けた場所が見えたんです。そこには、たくさんの袋に包まれた荷物や馬、そして追ってきた集団と同じような身なりの男達がいました。会話を聞いていると、男達は盗賊であることと、そしてそこは盗んだ品を誰かに売り渡す場所だということが分かりました。そのまましばらく様子をうかがっていると、もう一人、盗賊達とは違う格好をした男がやってきて、盗賊と取引を始めたんです。私は、その男の顔に見覚えがあったんです。その男の名は――」 言い出すのが恐ろしいらしく、一旦フィリスは口をつぐんでから、また口を開いた。 「ヘンリー=キャンベル。現キャンベル家当主、イアン=キャンベル伯爵の長男、その人です」 「――それは確かなのかっ?」 「はい、貴族が集まる舞踏会で、何度もお会いしたことがあるので間違いありません」 なんてことだ、とアールは頭を抱えた。それが本当ならば、とんでもない大スキャンダルだ。貴族の息子が盗賊と取引をしていたなんて、伯爵がその件に関わっているのかは定かではないが、世間に知られればその家の権威が危うい。いや、少なくとも貴族の爵位が下げられるのは避けられないだろう。 しかし、ロイド盗賊団が伯爵家と繋がっているとすると、一応のつじつまは合う。 数年前から急に勢力を拡大したのも、伯爵家の人間が盗賊の活動を援助したのなら納得できるし、交易に支障が出ない程度に被害が抑えられていたのも、つながっている人間がそう指示をしていたとするならば説明がつく。 「そこでその…私の肩に、毛虫が落ちてきてしまって―」 「思わず大声を出して盗賊たちにばれて、何とか逃げ延びて今に至る。そんなところか」 恥ずかしそうに顔を赤らめ、フィリスはこくんと首を縦に振った。 「パニックになって、脇目も振らずに逃げてきたんです。ですので、私の使用人達がどうしたかも分からないんです…」 「はぁ……、よくあの街まで逃げてこられたな。あそこだともう辺境伯領からは結構離れてるぞ?」 「実は私、小さいころから馬術を習っているんです。それで、近くにいた馬に飛び乗って必死に逃げてきたんです」 「つくづく運が良かったな…。つまり、お前が盗賊に追われているのは、お前がキャンベル家の子息と盗賊が取引をしているところを目撃されたから、その口止めをするため。そういうことか…」 やはり、想像以上にやっかいな事態に巻き込まれてしまったらしい。アールはもう一度肺の中身を全部はき出すくらい深いため息をついた。 「あの場に私と一緒にいたのは優秀な方々だったので、彼らも無事だと信じたいのですが…」 「というか、なんでそのことをもっと早く俺に言わなかったんだ? もう少し早く言われてれば、何とか引き返すなり何なり出来たのに」 「それはその…、アールさんが、お金にならないことなら聞かないっていったものですから、私が貴族の令嬢だっていうことを話したら盗賊に売り渡されるかもしれないと思ったんです…。アールさんを紹介してくださった方々も、アールさんの金への執着心には気をつけるように仰っていたので」 「――お前は馬鹿か? そんな言葉を真に受けるなんて…。そんなの言葉の綾に決まってるだろ! いくらなんでも盗賊に引き渡すわけないだろ――多分」 「多分っ? 今多分って言いましたよねっ?」 かみついてくるフィリスに「冗談だよ冗談」と言っていなしながら、アールは、 「とりあえず、今後どうするかについて話そう。目的地がライムにある修道院っていうのは、盗賊から匿ってもらうつもりだったのか?」 「はい。修道院の中に入れば、盗賊達も手を出せないと思ったので…」 「その考え自体は悪くない。だが、実はこの近くには奴らが拠点にしている場所の一つがある…。さっきの奇襲は人数が少なかったから助かったが、もしその拠点から応援が来てもっと大人数で攻められたら、流石に厳しい。だから、とりあえずはリントに駐屯している衛兵に話しを通して、書状でも書いてもらった方がいいだろう。迎えがくるのに時間はかかるかも知れないが、下手に移動するよりはそっちの方が安全だ」 ロイド盗賊団は、季節によって拠点を変更するので、夏の今この辺りの拠点にいるかどうかは微妙なのだが、安全策をとっておいて損はないだろう。 少なくとも、町の中にいれば奇襲を受けることはない。そう考え、アールはそう提案した。 「そういうことなら…、分かりました。アールさんの言うとおりにします」 「よし、それじゃあ今日は俺が見張っているから、お前は早く眠っておけ。もう逃げ通しでろくに休めてないだろ?」 「…はい、ありがとうございます、アールさん…本当に」 フィリスの顔に、色濃い疲労の色が浮かび上がった。 恐らく、アールに自分の状況を打ち明け、その上で守ってくれると言われたことで一気に疲れが出たのだろう。 二人は元の場所に戻り、夕食を取ってそうそうに眠りについた。 フィリスは、横に伏せるとすぐにすぅすぅと寝息を立て始めた。 ただしアールは盗賊の奇襲がないか見張っておかなければならないため、器用にも半分眠りについて、半分意識を保っておくという半覚醒状態であった。 何事も起こらず夜は明けて、一行はリントの町へと再出発した。 結論から言うと、拍子抜けだが町に着くまでの間にアール達が襲撃に遭うことはなかった。 リントには日が傾きかける頃に到着して、アールとフィリスは町の門の前で馬車から降りて商人へ礼を言った。 商人から「こちらこそ、盗賊を撃退してもらって本当に助かったよ! また機会があればよろしく頼むよ」と言われた時には、フィリスは罪悪感にさいなまれたが、アールは営業スマイルで応対した。 それから二人は、門に並んで衛兵の検問を受けた。その際、アールはフィリスには顔を伏せ気味にするように指示した。 「よぉ! アール久しぶりだなぁ!」 二人の検問を担当する巨体の兵士は、どうやらアールと知り合いらしく、その体と同じく豪快な声量で気さくにアールに話しかけてきた。 「ああ、そうだな…」 対するアールは、その男を見た瞬間にげんなりとして見せた。どうやら面倒くさい相手に当たったと思っているようだ。 「うん? お前、隣に連れてるのは――おいおい、えらいべっぴんさんじゃねぇか! まったく、お前いつの間に女なんか作ったんだ?」 女連れのアールに案の定騒ぎ出した男に、アールは指でサインを送った。 「ん? ああ、分かった、そういうことか…」 すると、男は人が変わったように大人しくなり、すんなり二人を通してくれた。どうやら、先ほどの短いサインで今のアールの状況を何となく察したらしい。 実は、リントにはロイド盗賊団の盗賊が、住民に紛れ込んでいる可能性があると言われているのだ。 リィエルの町と同程度かそれ以上の規模を誇るリントは、大都市ライムへの中継地点として使われているため、リィエル以上に商人の行き来が多い。そのため、その商人が扱う商品や稼いでいる金の量を知るために町の中に「目」と「耳」を置いているのだ。 よって、リントの町中も安全とは言えない。だから、二人は町の中に入ったらすぐに宿を見つけ、出来るだけその中から出ないようにすることに決めたのだ。ちなみに、今日はもう衛士の詰め所は閉まりそうな時間なので、そこに行くのは明日の早朝ということになった。 二人は事前の打ち合わせの通り、アールの行きつけの宿に向かった。アールはもうリントへは何度も来たことがあるので、ある程度土地勘があるのだ。因(ちな)みに、フィリスには念のため、リントに入った時からフードを被らせている。 表通りに面していないその宿は、お世辞にも綺麗とは言えないが、目立たないという点では今回の目的にはうってつけとも言えるところだった。 宿に着く頃には、もう夕日はその身を半分ほど山に沈めていた。 あちこちから、木製の酒瓶を叩き付け合う乾いた音や、豪快な笑い声、飲んだくれの戯言が聞こえ始めた。 「おい、そろそろ入るぞ」 「あっ、はい」 アールは、辺りをキョロキョロと見回したり、ウロウロと歩き回ったりしていたフィリスを呼び寄せた。 アールが木製の扉を開くと、ギィと木のしなる音がした。 「いらっしゃいませ! おやおや、これはアール様ではありませんか!」 宿の中に入るとすぐに、宿屋の主人らしき小太りの男性がアールの元へ歩み寄ってきた。 「申し遅れました。私、この宿の主人をやっております、ショーンと申します。よろしくお願いします」 ぺこりと腰を折った主人に、フィリスもお辞儀を返した。 「ああ。それで、俺とこの子で一部屋を借りたいんだが、まだ空いてるか?」 仮にも男と女が同じ部屋で寝るのは――と流石にアールも迷ったが、こればかりは我慢してもらうしかないと判断した。 フィリスも、事情が事情なので文句一つ言わず了承してくれた。 「ええ、空いておりますよ。ちなみに、今回は何日ほど宿泊されるご予定ですか?」 「そうだな…、実はまだ決めてないんだ。ただ、ある程度長く泊まることになると思う」 「そうですか! それでは取り敢えず一日分の料金を支払っていただいて、後は一日毎のお支払いにいたしましょうか?」 「ああ、それで頼む」 「それでは、ここにお二人の名前のご記名をよろしくお願いします」 アールは、出された用紙に自分の名前とシェリーと書き込んだ。そして懐から金銭袋を取り出すと、宿泊料の銅貨六枚を取り出した。随分と安いが、この宿はボロい上に、食事が出ないため、料金は安く設定されているのだった。 「それでは、お部屋は二階になります。鍵も渡しておきますので、ごゆっくりお過ごしください」 へこへこと頭を下げながら、にこにことした笑顔を決して崩さずに主人はアールに鍵を渡した。 アールは主人に何の関心も持つことなく、そのまま二階に続く階段へ向かったが、フィリスはその笑顔に言いようのない不気味さを感じた。 「ほら、何してるんだ。早く行くぞ」 「あ、待ってください!」 階段を上ると、痛んだ階段がギシギシと悲鳴をあげた。 その後、二人は自分たちの部屋へ入った。部屋の中は、ベッドが二つ置いてある他には、端が所々削れたテーブルと椅子が一脚、奥行きの狭い物置が一つあるだけだった。 埃っぽいのも二人は気になったが、最悪自分たちで簡単に掃除をしようということになった。 とにかく、二人はようやく腰を落ち着けて休めるようになったわけだ。 二人は、それぞれのベッドに横になった。 緊張や疲労で凝り固まった体が、熱を発しているかのようにじんじんと痛んだ。 「今日はお疲れ様。まぁ、色々と不安はまだ残ってるが、今はゆっくり休め」 「はい…、すみません、アールさん」 「ん、何がだ?」 「だって、アールさん昨夜もまともに寝られてないんですよね? 大変な事態に巻き込まれたのに、泣き言一つ言わずにこんなに――」 「俺は一度受けた依頼は必ずこなす、こなしてみせる。そう決めてるんだ。別にお前が気に病む必要なんてこれっぽっちも無い。依頼料さえもらえれば、な」 アールはそう言って微笑んだが、フィリスの目にはその笑顔はやはりどこか疲れがにじんでいるように見えた。 そして同時に、彼の笑顔は作られたもののようにも見えた。 「だから、心配しなくてもお前は俺が最後まで守ってやるよ。約束だ」 「…はい、よろしくお願いします、アールさん…」 恥ずかしげもなく、純粋な瞳を向けてそんなことを言い切るアールに、思わずフィリスは気恥ずかしくなって頬を赤く染めた。 しばらく二人の間で奇妙な沈黙が流れたあと、フィリスは、前から気になっていたことをアールに尋ねた。 「アールさん、アールさんのことを紹介してくれた人たちが、アールさんのことをどんな風に呼んでいたか知っていますか?」 「さぁな、人が自分のことをどう呼んでるかなんて興味ないな。大方、『最凶の短剣士』とか『凄腕の傭兵アール』みたいな感じじゃないのか?」 再び冗談めかしてそう笑うアールに、フィリスは体を起こし、彼に対して正面に向き直った。 「『金の亡者アール』、そう呼ばれていたんです、アールさんは」 「金の亡者…か、俺にぴったりのあだ名じゃないか」 「そんな風に聞いていたから、私、アールさんと初めて会うとき内心とても不安だったんですよ? でも、実際にはアールさんはそんな人じゃありませんでした」 「俺がお前に対して優しいのは、お前が報酬交渉をする前から高額の依頼料を提示してくれたからだ。普通の奴からは、俺は出来るだけ金を搾り取ろうとするし、優しくもない。金に汚いのは事実だし、それを否定する気も無い」 アールはそう言うが、フィリスにはどうしてもアールがそんな強欲な人間には思えなかった。 「それなら、アールさんは何故そんなにお金を欲しがるんですか? アールさんほどの人なら、もっと低い報酬でも数をこなして十分お金を稼げるはずですよね?」 「俺が金を欲しがる理由…それは――」 そこで、部屋の扉がコンコンと叩かれた。 『アール様、少しよろしいでしょうか?』 ドア越しに、宿の主人の声が聞こえた。 「どうした?」 『少し用事がございますので、下の階まで私と来ていただけないでしょうか?』 アールは露骨に面倒くさそうな顔をしながら、ドアを開いて顔を覗かせた。 「今じゃないと駄目なのか、それは?」 「はい…、申し訳ありません」 ショーンは心底申し訳なさそうな顔をしながらへこへこと頭を下げた。 アールは深いため息をつき、 「シェリー、ちょっと行ってくる。話はまた後でな」 主人の前なので、アールは本名ではなく偽名の方で彼女を呼んだ。 「分かりました…」 フィリスは少し不満げにそう返事を返した。 閉じられたドアを見つめながら、フィリスも深いため息をついた。 「アールさんがお金を稼ぐ理由…」 フィリスは、短い付き合いではあるが、アールの言動からその答えを考えようとする。 しかし、慣れない長旅の疲れのせいで、考えはまとまらない。 使用人たちは無事に逃げられただろうか。家族は私がいなくなって、どうしているのだろうか。 そんな考えが頭をよぎるだけで、フィリスは恐ろしくなって身を縮こまらせた。 フィリスは再び横になって、ベッドに体重を預けた。 その途端、フィリスは睡魔に襲われてうつらうつらとし始めた。 そのため、フィリスは突然部屋の窓が開けられた時、すぐには反応することが出来なかった。 三人のフードを被った男達が部屋に飛び込んできた時には、もうすでに時遅し。慌てて飛び起きたフィリスのほっそりとした首元に、鋭利な刃物が突きつけられた。 「喋るな。声を出した瞬間にお前の命は無いと思え」 男の一人にそうささやかれ、フィリスは頭の中が真っ白になった。 しかし、開きかけた口をつぐみ、フィリスはパニックを起こしそうになるのを必死に抑えた。 (この人たち、盗賊…? 何でこんなところに?) ようやく状況が飲み込み始めた時、フィリスは口をふさがれ、目隠しをされ、手足を縛られた。二人の男は彼女を抱えたまま二階の窓から飛び降りる。 そして、近くに止めてあった三匹の馬に各々飛び乗ると、そのまま鞭を打って走り出した。 フィリスは不安と恐怖で押しつぶされそうになるのをこらえ、ただひたすらに心の中で叫び続けた。 ――アール、助けて――と アールは、ショーンに苛立ちを募らせていた。 わざわざ呼び出すほどの用事だというから、一体何事だと思って来てみれば、単にアールの近況を知りたい、アールの旅先で起こったことを知りたい、というだけだったのだから、それも当然だろう。 お前はホモか、と心の中で突っ込みながらも、アールは主人にいくつか思い出話を聞かせてやっていた。 すると、突然アールの耳が二階で微かな物音がしたのをとらえた。 「…今、上で何か変な音がしなかったか?」 「え、き、気のせいではないですか?」 確かにそんな気もしたが、この時何故かアールには胸騒ぎがした。 幾度も死線をくぐってきた、アールの勘とも言えるものが警鐘を鳴らしているような気がしたのだ。 「…そろそろ部屋に戻る。また明日な」 「あ、アールさん? そんなこと言わずにもう少しお願いしますよ!」 不自然に食い下がる主人を振り払い、アールは階段を駆け上がった。 部屋に戻ったアールが見たのは、開け放たれた窓。そして、部屋のどこにもフィリスの姿はなかった。 それを見た瞬間、アールの行動は早かった。 自分の荷物の大きなザックを引っ掴み、階段を全力で駆け下りた。 そして、降りた先にいたショーンの胸元を、アールは掴みあげた。 「お前っ! やりやがったな!」 「ひっ、ち、違うんです! 私はただ、あいつらに脅されたから――」 「―――やっぱりお前かっ!」 「か、鎌を掛けたんですかっ?」 黙れっ、とアールは叫び、ショーンを壁に叩き付けた。痛みに呻く主人にアールは、 「見損なったぞ…。前まではあんたはそんなことをする奴じゃなかったっ! 臆病で、ずる賢くても、性根はだけは曲がってなかったはずだっ!」 「――わ、私だってっ! 私だって盗賊の手助けなんてしたくなかったっ! でも、私の家族が奴らに攫われたんだ…仕方が無かったんだ…」 ショーンの言葉は、最後の方になっていくにつれて細く、弱々しくなっていった。目元にも涙がにじんでいる。 アールは、最後にもう一度主人を壁に叩き付けた。 いつの間にか二人の言い合いを聞きつけて、他の宿泊者たちが集まり、何事かという顔を二人に向けていた。 アールはショーンの胸ぐらから手を離した。 「…行ってくる」 「ま、待ってくださいっ! いくらアールさんでも無茶です! あいつらの拠点に突っ込むなんて――」 「出来るかどうかじゃない、俺はあいつを守るって約束したんだ。一度引き受けた仕事は何が何でもやり通す。それが俺の義務だ」 言い終わると、アールは宿屋を飛び出した。そのまま宿屋の脇にある馬小屋に入り、一匹の馬を選んで出発の準備を始めた。 「ショーン、馬を一匹借りていくぞ! 必ず返すから持ち主にはお前が代わりに謝っておいてくれ!」 アールは、慌てて自分を追いかけてきたショーンに向かって叫んだ。 「アールさん、やめてくださいっ!」 ショーンの悲痛な叫びを無視して、アールは馬に飛び乗り、力強く鞭を振るった。 馬のいななきが闇夜に響き渡り、アールは馬と共に夜道を駆けて、闇に溶けていった。 フィリスが連れてこられたのは、古い屋敷だった。 ここがあの宿からどれくらい離れた場所にあるのか、目隠しをされていたフィリスには分からない。 だが、馬の足が止まり、目隠しを解かれたフィリスが周りを見回してみると、そこは紛れもない大きな屋敷の玄関だったのだ。 床に敷かれたカーペットは砂で汚れ、天井からつり下げられたシャンデリアは埃を被っていて、今は屋敷を管理する者のいなくなった廃屋であることは明らかだったが、かつては荘厳な造りの建物であったことをうかがわせる不思議な威容を放っていた。 その後、フィリスは手を縛られたまま屋敷の奥へ連れて行かれ、部屋の中に入れられた。 そこには、十人近くの男達がいた。 その中に一人だけ、フィリスに見覚えのある男がいた。 「やぁ、こんばんはフィリス。逢いたかったよ、本当に」 ヘンリー=キャンベル。紛れもなく本人だった。 軽薄そうな口調に、高価な装飾品をジャラジャラと身につけている。浪費家という噂は本当のようだった。 「おやおや、返事もしてくれないなんてつれないじゃないか。君は、今の自分の状況が分かっているのかい?」 フィリスが答えずにじっとヘンリーをにらみつけていると、やれやれと肩をすくめて、 「いいかい、君はこれから僕と一緒に暮らすんだ。誰にも気づかれない場所でね」 「誰がっ、あなたなんかと!」 「元はといえば君が悪いんだよ。僕と盗賊の商談を覗き見なんてするから…。本当は君を口止めのために殺さなくちゃいけないんだけど、誰にもばれないようにするなら、という条件で特別に彼らに許してもらったんだ。君ほど美しい女性を殺すなんてこと、人類の損失だからね。君を舞踏会の席で見かけた時から、君の美しさに僕は心奪われていたんだっ」 だから、そう言ってヘンリーはフィリスに歩み寄り、彼女の左肩に手を乗せた。 「少しぐらい僕に感謝してもらいたいものだね」 「いい加減にしてっ!」 フィリスは肩をよじってヘンリーの手を振り落とした。 「おいおい、伯爵令息様よぉ。そこら辺にしてくれませんかね?」 そこで、部屋の一番奥で椅子に腰を下ろしていた男が突然声をあげた。筋肉質な体に野太い声をした、年は中年くらいの厳つい男だった。 「こちとら、そこのお嬢さん以外の奴らの捜索に行かなきゃ行けないんですよ。そういうのは後にしてもらえませんかね?」 (私以外の捜索?つまり、使用人たちはあの場では捕まっていないっていうこと?) フィリスは男の言葉に、少なからずほっとした。 「あの、あなたは?」 フィリスは男に尋ねた。 「ん、俺か? 俺の名はロイド。この盗賊団の首領をやってる」 それを聞いて、フィリスは思わず顔を強ばらせた。 この人が―― 「ははっ、その顔を見るに、クリスの奴から俺たちのことは聞いてたみたいだな」 「…クリスって、誰のこと?」 「ん? ああ、悪い悪い。今はアールとか名乗ってる奴の昔の名前だよ。あいつがまだ俺たちと一緒に『盗賊』をやってた頃の、な」 「…え?」 今、この男はなんと言ったのだろうか。アールが元盗賊と言ったのだろうか。 フィリスは困惑した表情を見せた。 「あいつは昔、俺たちがとある村を襲った時に攫ってきた子供だった」 ロイドは急に、昔話を語り出した。しかしその視線は宙を彷徨っていて、まるで一人ごとを言っているようにも見えた。 「俺たちは、攫ってきた子供が一人前の盗賊になるように、教育を施す。クリスはその中でも群を抜いた才能を見せた。刃物の扱い方、武器を持った相手との戦い方、体の弱点の狙い方、人の騙し方、馬の駆り方、全部、全部だ!」 ロイドは大仰に両腕を広げて見せた。その顔には自嘲気味の笑みが浮かんでいる。 「あいつは、俺たちから教えられることを全て身につけ、そして容易く俺たちを超えていきやがった。まだガキだっていうのに、生意気に育ちやがって…俺たちは立場がなかったぜ。あいつみたいな奴のことを『天才』っていうんだろうなって、俺たちは思い知らされたさ」 そこまで話して、突然ロイドの声のトーンが下がった。 「ある街を襲った時のことだ。その頃にはクリスはもう盗賊としては一流以上の腕前だったんで、俺たちの仕事にもよく加わってたんだが…。運の悪いことに、その街には手練れの傭兵たちが偶然居合わせてな、そいつらともやり合うことになっちまったんだ。最初は俺たちの優勢だったんだが、あいつらが体勢を立て直してからは一転、劣勢になっちまった」 ロイドは苦々しく口元をゆがめた。 「そんで、俺たちは撤退することにしたんだが…、隠れ家に帰ってから、クリスがどこにもいないことに気がついた。あいつを失うのは俺たちにとっても痛手だったから、しばらくしてから探しにいったんだが…結局あいつは見つからなかった。てっきり、その時は傭兵の奴らに殺されて、死体を持ち去られたのかと思った。だが、それは違った」 ひと呼吸置いて、また語り始める。 「しばらくして、この辺りに『アール』とかいう凄腕の傭兵がいるという噂が立ち始めた。その見た目の特徴が、話に聞いた限りではクリスとよく似ていた。その時は、誰もまさかそいつがクリスだとは思わなかった。ある時、荷馬車を襲いに行ったうちの連中が壊滅して帰ってきた時までは。『間違いない、あいつはクリスだ』生き残った連中がそう言ったのさ。それから、俺たちは何度もあいつに仕事の邪魔をされた。まさに、飼い犬に手を噛まれるってやつだ」 ロイドは、重い腰をあげて視線をフィリスの方に戻した。 「おっと、俺としたことがつい長話をしちまったようだな。ここから早いところ離れる準備をさせないと…まぁ、お前さんも、観念してくれや」 なだめるように言うロイドに、しかしフィリスは首を横に振り、毅然とした態度で言った。 「絶対に、アールが助けに来てくれます」 「はっ、そんな盗賊崩れの男が、こんなところに助けに来るわけがないだろう?」 今まで大人しくロイドの話を聞いていたヘンリーが、横から口を挟んだ。 「令息様の言う通りだ、お嬢さん。あいつはそんな殊勝な奴じゃない。狡猾で、常に自分の利益を計算してから動く。俺たちがそう教え込んだ。現に、聞いた話じゃああいつは依頼人から高額の報酬をせしめているらしいじゃねぇか。お前さんがいくらあいつに報酬を払う約束をしたかは知らねぇが、自分の命を賭けてまで助けにくる訳がねぇよ」 「約束したんです」 しかし、そんな二人の言葉など意に介さず、フィリスは言い切った。 「アールは私に約束したんです。必ず私を守り切るって。確かに依頼人と請負人というだけの関係で、出会ってから一緒にいた時間も短いのも確かです」 でも、フィリスはそう言って再び言葉を紡ぎ始めた。それは、彼女の祈りが込められた言葉でもあった。 「私はアールを信じます。アールのことを本当の意味で理解出来ているとは思えないけど、それでもあの約束をしてくれたアールのことを、あの瞳を信じます」 アールは、うっそうとした森の中を進んでいた。 日はとうに沈み、森には不気味な静寂が満ちていた。 ホゥホゥというフクロウの鳴き声だけが度々聞こえ、それが余計に黒い森の恐ろしさを増していた。 しかしアールは、微かに木々の隙間からこぼれ落ちる月明かりと、手に提げたランタンの小さな灯りだけを頼りにして、足を止めることなく道なき道を走っていた。 すでにアールの息は切れ、額や首元からは止めどなく汗がこぼれ落ちている。夏の夜の蒸し暑さと、森に漂うじめじめとした空気が彼を苦しめているのだ。 それでもアールは無我夢中で走り続け、ある時彼の視線の向こうに大きな建物が見え始めた。 「はぁ、はぁ…。やっと…着いたぞ…」 それは、紛れもなくフィリスが連れてこられた古屋敷だった。 ここは以前、キャンベル家の人間が別荘として建てたものだった。その頃は、屋敷の周りもしっかりと整えられていたのだが、ある時屋敷の管理を任されていた使用人達が次々と命を落とし始めた。それから、その屋敷は呪われているという噂が流れ、次第に建てた本人である伯爵家も近寄らなくなり、ついにそのまま放置されたのであった。 それからしばらくの間人が立ち入ることはなかったが、神をも恐れぬヘンリーの紹介で、密かに盗賊達の拠点となったのである。 しかし、森に囲まれた絶好の隠れ家は、ある日、盗賊達を尾行していたアールによって発見されていたのだ。 そのためフィリスが攫われた時、アールは盗賊たちがまずこの屋敷に立ち寄ると踏んでここに向かったのだ。 結果は当たりで、屋敷の外にはかなりの数の馬が停められていた。 アールはすぐに屋敷の周辺に目を走らせ、近くに誰もいないことを確認すると同時に、乱れきった息を整えた。 そして屋敷の正面を避け側面に回り込むと、二階の窓がいくつも不用心に開けられているのを見つけ、ほくそ笑んだ。 恐らく、盗賊たちがこの蒸し暑さにたまりかねて換気のために開けたのだろう。 彼らもまさかこの場所がばれて、その上二階にある窓を侵入に使われるなど想像もしなかっただろう。 アールは背に負っていたザックを降ろし、荷物を整理し始めた。あるものはコートの内ポケットに仕舞い、あるものは逆にザックの中へ戻した。ランタンは灯りを消して、適当な木の影に隠しておいた。 そして、フックにロープを固く結びつけたものを手に持つと、再びザックを背に戻した。 アールは、周りの木々にフックがぶつからないよう注意しながら、ロープを円を描くように回した。 二階の窓枠に狙いを定めると、握っていたロープを投げ離した。フックは勢いに乗って真っ直ぐ飛んでいき、アールの狙い通りガッと乾いた音を立てて窓枠に引っかかった。 アールはすぐにロープを引っ張り、フックの掛かり具合を確認して、安全を確認すると、ロープを張って壁に足をかけ、スイスイと上っていった。 窓枠に到着すると、念のため入る部屋に盗賊が待ち受けてはいないかとのぞき込んでみたが、無人であることを確認すると、スルリと部屋の中へ体を滑り込ませた。 アールは素早くフック付きロープを回収して背嚢に仕舞うと、息を潜めながら部屋の外の廊下と、一階の玄関広間を見回した――この屋敷は中央が吹き抜けになっている――。しかし、そこにはやはり誰もいなかった。 どうやら、自分が思っていたほどの人数は今ここにはいないようだな、とアールは少し安心した。 勿論、部屋の中にいる可能性は大いにあるが、廊下や広間、そして屋敷の周囲に見回りを置いていないということは、やはりそれほど大人数がこの屋敷に詰めているとは考えにくいのだ。 アールは、二階の天井に火の灯(とも)されていないシャンデリアが吊られているのを見つけた するとコートの内側に手を伸ばし、一振りのナイフ――先日、アールが盗賊を撃退する時に使った投擲ナイフだ――を取り出し、シャンデリアを吊っているロープに向かって投げた。 ナイフは見事にロープに命中するが、流石にその程度では切断できるわけはなく、表面に少し切り傷をつけるにとどまった。 しかしアールは落ち着いて腕を引き戻し、今度は横からロープを切りつけた。 それを何度も繰り返し、同じ箇所を執拗に狙い続けると、ついにロープはブチブチ、とイヤな音を立てて断裂し始めた。 そしてついにロープは完全にちぎれ、シャンデリアは自由落下を始め――― ――盛大な音を立てて、一階の大広間に激突した。 アールはシャンデリアが落下するのを確認すると、部屋の中に戻って壁に身を隠した。 すぐに、部屋の外は騒がしくなった。轟音を聞きつけた盗賊たちが、何事かと集まってきたのだろう。 「なんでいきなりシャンデリアが?」「おいおい、どうしたんだよこりゃあ」という声がアールの耳に届いてきた。 それと同時に、アールには大勢の人の沸き立つような足音が轟いてくるのも聞こえた。 そして、屋敷の玄関が荒々しく押し開けられた。 「総員、突撃しろ!」 屋敷に、軽鎧を着込んで武装した兵士たちが一気に雪崩れ込んできた。 たちまち益荒男(ますらお)たちの怒号が屋敷に響き、盗賊たちの狼狽える声を呑み込んだ。 アールは、この屋敷に向かうよりも前に、リントに常駐している衛士たちの兵舎に立ち寄っていた。そしてそこで、今の自分が置かれている状況を知らせ、今すぐに自分と一緒に屋敷に向かって欲しいと訴えたのだ。 実はアールとリントの衛士たちは、アールが盗賊達の隠れ家を発見してからというもの、密かに屋敷を襲撃する計画を立てていたのだ。 本当は、屋敷に盗賊たちが集まっている冬の夜中に襲撃する予定だったのだが、そうも言っていられない事態になったのだから仕方が無い。 急いで寝ている者はたたき起こしてもらって、兵舎にいる衛士たちをかき集めた。急な要請にもかかわらず、迅速に準備は整えられた。 全ては、アールが以前からこの街の衛士たちに恩を売り、信頼を勝ち取っていたことの賜物だ。 アールには宿屋で借りてきた馬の代わりに軍馬が与えられ、彼らは全速力で屋敷に向かった。 門に向かうと、案の定馬一匹が通り抜けられそうなくらい、門が小さく開かれていた。 森に入り、あまりの悪路に馬が上手く走れなくなったところで、アールだけが馬から降りて屋敷に先行することになった。衛士たちは、殺さずに捕まえた盗賊たちを連れて帰るために馬が必要だったのだ。 そこでアールは衛士たちに、屋敷に到着してもすぐには突入せず、自分が合図を送ったら突入するように言ったのだ。 その合図とは、「何かしらの大きな音」だった。 つまり、アールはシャンデリアを落とすことで衛士たちに合図を送ると同時に、部屋の中にいる盗賊たちをおびき寄せたのだ。 アールのもたれる壁の向こうは、すでに剣戟の音と肉を裂く音で満ちていた。 そろそろか、と独りごちてアールは立ち上がった。 腰を低く落として、人に見つからぬように部屋から抜け出した。 ムワッと血潮(ちしお)と肉のにおいがアールの鼻を包んだが、胃の辺りからこみ上げてくるものを抑え、アールは屋敷の奥へ進んだ。 今、自分の下ではたくさんの人間が殺し合っている。 衛士たちの優勢は揺るがないだろうが、彼らの中からは当然死人も出るだろう。 もし、もしこんな急な襲撃でなければ、その数をもっと減らせたのではないだろうか? ならば、本来死ななくてすんだ人間の死は、自分が殺させたようなものではないだろうか? また、なんの罪も無い人間を、俺は――― アールは頭を振り、巡りかけた思考を振り払う。 今は、フィリスだ。フィリスを助け出すことに集中しなければ。 そう自分に言い聞かせて、アールは屋敷の奥に消えた。 アールは、この屋敷が盗賊団の根城になっていることを知ったときから、この屋敷の設計図を手に入れ、その構造を頭にたたき込んでいた。 そして今、アールはフィリスが捕らえられていそうな部屋にある程度目星をつけ、片端から開けて回っていて、今は一階を探し回っている。 玄関広間を中心として派手な騒ぎが起こっているため、今のところどの部屋でも盗賊と鉢合わせることはなかった。 しかし、それは同時にフィリスとも出会えていないということだった。 中に盗賊がいた場合を想定して、十分気を構えてから扉を押し開けなければならないため、余計に時間を食っていた。 冷静にならければならないのは分かっているが、どうしても気が荒立ってしまっていた。 「まさか、もうここから連れ出した後なんてことは無いよな…」 想像しただけでアールは背筋が凍った。 もしそうだとすれば、もうフィリスを見つけ出すのは極めて困難だ。 アールは自分を叱咤して、嫌な想像をかき消した。 絶対に見つけなければいけない。今日ここで、あいつらを倒して、自分の過去を清算しなければならないのだ。 そう自分に言い聞かせて、再び部屋の扉を開ける。 しかし、そこにもやはりフィリスの姿はなかった。 「くそっ」 アールは吐き捨てるように言い、足で床を踏みつけた。 その時、アールは踏みつけた床に違和感を覚えた。 「今、床を踏んだとき変な音がしなかったか?」 僅かな違いだが、まるで下に空洞があるような―― 「まさか…地下室があるのか?」 自分が見た設計図には、そんなことは書いてはいなかった。しかし、伯爵家が極秘裏に地下室を造らせていた可能性は考えられる。 現に、愛人と逢瀬を重ねるために、貴族がそのためだけの空間を屋敷や別館に設けた、なんて話もよく聞く。 アールは一縷の可能性に賭け、部屋を飛び出し、今度は盗賊を探し始めた。 すると、運良く廊下の端にうずくまっている男を見つけた。年はアールと同じくらいだろうか、体のどこかを負傷しているらしく、蝋燭に照らされた彼の周りの絨毯は赤黒く染まっていた。 アールは足音を立てずに男に近づき、そっと首元にナイフを押しつけた。 「動くな」 アールの氷のように冷たい声に驚き、男はヒッと小さく悲鳴をあげながらおののいた。 「あ、あれ、お前…クリスじゃないのか?」 どうやら男はアールのことを知っているようで、アールの方も男の顔には見覚えがあったが、今そんなことはどうでも良かった。 「答えろ。この屋敷の地下室にはどうやったら行ける?」 実際には、地下室が本当に存在しているかどうかは定かではなかったが、ここで弱みを見せるのはまずいと思ったアールは、鎌を掛けるような形で尋ねた。 「ち、地下室? あ、あいにくだが俺には何のことだか――」 アールは無言で、ナイフの切っ先を男の喉に浅くめり込ませた。 男は声にならない悲鳴をあげた。 「わ、分かった分かった! 教える、教えるよ! だから助けてくれっ!」 アールはナイフを取り下げ、男に質問に答えるよう促した。 「ち、地下室へは、一階の調理場の床に隠されている地下通路から行ける! 嘘じゃない、本当だ!」 その答えに、アールは表情には出さなかったが心の中で胸をなで下ろした。 「そこに、フィリスが捕まっているのか?」 「フィ、フィリス…?」 「貴族の娘だ。さっきこの屋敷に連れてこられたはずだ」 「あ、ああ。確かにその子なら団長たちが地下に連れて行った」 「分かった。確か……名前はニックだったか?」 アールは古い記憶を探り、男に問いかけた。 すると、男は驚いた様子で、 「ああ、そうだ…。やっぱり、クリスなんだな…。俺の名前、覚えていてくれたのか」 アールの記憶では、確かニックはアールと同じ村から攫われてきて、盗賊として育てられた男だったはずだ。だからといって特別仲が良かったわけではないが、たまに話をしたことがあるのは覚えていた。 「奇妙な縁だな…。こんなところで会うなんて」 「同感だ」 ニックは苦痛に体をよじらせながらも、アールを見つめた。 「お前が傭兵に殺されたって聞いたとき、俺、結構ショックだったんだぜ? でも、盗賊団を裏切って、同胞を殺してるって聞いた時は、もっとショックだった」 ニックは苦笑いを浮かべて、アールに語り始めた。 すると、アールは背嚢(はいのう)から麻の布切れを取り出し、ニックの患部に押し当てた。 「今は時間が無いから、手短に言う。もし盗賊から足を洗って、人生をやり直す気があるなら、今すぐ屋敷から出て外にいる兵士に投降しろ」 「クリス…、お前、何を?」 「投降すれば、殺されることはない。俺が無事に帰って来られれば、お前の処分に対してある程度口を利いて、お前の罪を軽くしてやれるかもしれない」 「どうして…そこまで?」 「俺も、きっかけが無ければお前と同じようなことになっていたからだ」 それだけを言って、アールはニックの肩を取って、担ぎ起こした。 「それで、どうする?」 「…分かった。お前を信じてみるよ」 ニックは力強くうなずき、おぼつかない足取りでふらふらと歩き始めた。 アールはそれを見送ると、彼に言われた調理場に向かった。 「あった…!」 ニックの言った通り、調理場の床を探ってみると、そこには地下へ続く階段が隠されていた。 部屋の入り口には盗賊が一人立っていたが、あらかじめ準備をしていたアールには敵わず、胸元にナイフの一突きをくらい、音も立てる間もなく絶命させられた。 アールはもう一度念入りに装備を確かめ、深呼吸をしてから階段を下り始めた。 階段の脇には燭台が置かれていて、薄暗いながらも 足下はしっかりと見えた。 足音が響かないよう、細心の注意を払ってアールは一段一段階段を降りていった。 まもなく、アールは扉に突き当たった。 扉に耳を当てて聞き耳を立ててみると、向こう側から話し声が聞こえた。その中には、確かに少女のものらしき声も混じっていた。 間違いない。この扉の向こうに、フィリスと奴らがいる。ニックの話では、その中には盗賊団の首領のロイドもいるらしい。 全ては、突入の瞬間に決するだろう。 アールは胸元から二本のナイフ――今度は投擲用ではなく、近接戦闘用のしっかりとした形状のものだ――を引き抜き、腰の鞘に仕舞った。 そして、アールは背嚢から細長い物を取り出した。 それは、鞘に収められた一本の直剣だった。 アールは背嚢を扉の前に降ろすと、代わりに鞘を背負った。 そして、ついにアールは左手を扉のノブに当て、右手で腰のナイフを片方抜いて構えた。鍵が掛けられていないことは、すでに確認済みである。 アールはもう一度だけ、息を深く吸って、吐いた。 ――次の瞬間、アールは扉を開け、部屋の中に飛び込んだ。 アールの目にまず飛び込んできたのは、部屋の奥に座らされている、フィリスの姿だった。 かなり消耗しているように見えたが、不幸中の幸いか、その周りに盗賊は立っていなかった。 アールは信じられない早さで部屋の中を見回し、盗賊達の配置を確認した。部屋の中にいる敵は、全部で八人。 一人、明らかに盗賊ではなさそうな青年がアールのすぐ右横に立っているのが見えたが、配置を確認し終わると同時に右足で全力の蹴りを腹にたたき込んだ。 蹴った勢いに乗って、アールはそのまま反対の左の方に向かった。 ここまでの一連の動きで、まだアールが部屋に突入してから一秒弱しか経過していない。 まだ状況を把握できていない盗賊たちは、アールの姿をとらえられてさえいなかった。 アールが足を止めずに右手のナイフを一人に投げつけると、凶刃(きょうじん)は盗賊の首の横から飛び込んで、関節の合間を縫ってその中に綺麗に収まった。 すぐにアールは背中に負った直剣の柄に手を掛けると、抜刀すると同時に盗賊の一人――アールの姿を目で捉え、口を開きかけていた――を肩口から袈裟斬りにした。 アールの直剣の軌跡を辿るように男の傷口から血が盛大に噴き出し、刃に張り付いた。 ここまでで、三秒。敵の数は残り五人。 アールの足はまだ止まらない。続いて一人を同じように斬り伏せると、もう一人の男――アールに気づき、すでにその手には短刀が握られている――と切り結んだ。 耳をつんざくような金属音が部屋に響き、アールと切り結んだ男の体勢が崩れた。 元々、重量的に不利な短刀と長刀とのぶつかり合いに加え、アールのスピードと体重が込められた一撃に耐えかねたのだ。 アールはその隙を見逃さず、刃を滑らせて左に切り抜けると、男の背中に回り込み、剣を背中に突き刺した。 アールが素早く剣を引き抜くと、男はたまらず膝を屈(くっ)して前に倒れ伏した。 ここまでで、五秒。敵は残り三人。 これでアールが部屋に侵入した時に、左にいた盗賊は全滅した。 次は――とアールが再度床を蹴ろうとした時、 「動くなクリスっ!」 ロイドがフィリスの横に移動していて、その白磁のように白い首元に刃を向けていた。 それは、アールの想像よりも僅かに速い動きだった。 アールの予定では、このままロイドに肉薄して、腰に吊ったもう一本のナイフを投擲して牽制。咄嗟に身を翻して避ける、もしくは剣ではじいて隙が出来たロイドの胸に、白刃をたたき込むつもりだった。 しかしアールの予想よりも、アールの奇襲に対する動揺が小さかったロイドは、すぐにフィリスを人質に取る行動に移ったのだった。 アールはついに足を止め、悔しげに口元をゆがませた。 「まさか本当に来るとは思わなかったが…久しぶりだな、クリス。逢いたかったぜ、ずうっとな」 ロイドは不敵にほくそ笑んだ。 「ロイド…。随分と良い部下を持ってるみたいだな。まさか大胆に街中で、しかも二階の窓から襲ってくるとは…。流石に予想出来なかった」 「そいつはどうも。お前こそ、随分と派手にやってくれたなぁ。俺の上にいる連中は、お前が連れてきたのか?」 アールは否定も肯定もしなかったが、ロイドは沈黙を肯定ととったのか、 「そうかぁ……昔は俺たちと一緒にあちこちで殺し回った連中と、今度はお仲間ごっこか…。うぬぼれてんじゃねえぞっ!」 ロイドは余裕そうな雰囲気から一転、急に激昂し始めた。 「お前にどんな心境の変化があったかは知らねぇが、俺たちを殺して罪滅ぼしでもしてるつもりか? そうすれば、昔の悪行を洗い流せるとでも? 堂々とあいつらに顔向け出来るとでも思ってんのか!? そんなわけねぇだろうがっ! お前が昔、自分達の同僚を殺しまくってたってことを知れば、あいつらはすぐにお前を殺しにかかるに決まってるだろうがっ! お前が何をしようと、お前が金を盗んで、人を殺したって事実は、消えねぇ、失せねぇ、無くならねぇっ!」 口角泡を飛ばす勢いで叫ぶロイドに対して、それを聞くアールの顔には一切の表情が浮かんでいなかった。 その様子を、フィリスは目元に涙を浮かべながら聞いていた。 今、アールは何を思っているのだろうか。 ロイドの言葉を聞いて、自分の行為を顧みているのだろうか。 もし、それでアールの心が折れてしまったら―― 「アールっ! こんな奴の言葉に惑わされないでっ! アールのやって来たことは、無駄なことなんかじゃ――」 「大丈夫だ、フィリス」 しかし、アールは動じることなく、なだめるような声をフィリスに返した。 「ロイド、お前が言ったことなんか、俺はもう何年も前に、今の仕事を始める前に考えつくした。その上で、俺は今ここにいるんだ」 アールは視線をフィリスからロイドに移し、ロイドの翠色の瞳を正面からとらえた。アールにとってそれは、自分の過去そのものと向き合うことを意味していた。 「お前の言う通り、俺が何をしようと、俺が償いきれない罪を犯したっていう事実は揺るがねぇ。だけどな」 アールは再び、視線をフィリスに移した。 「たとえ自分のやろうとすることが、結局無意味になることでも、やらないよりはずっとマシだ。小さなことだとしても、自己満足だとしても、何か自分に出来ることがあるかもしれない、そう思ったら、いても立ってもいられなかった。ただ、それだけなんだよ」 その言葉は、先日フィリスがアールに向かって言った言葉によく似ていた。 それに気がついたフィリスは、あっ、と驚きの声をあげた。 今度は、アールがロイドに不敵な笑みを見せる番だった。 それは、ロイドの怒りを更にかき立て、加速させた。 「もういい…! アール、今すぐ武器を捨てろっ!」 アールはフィリスの止める声も聞かず、素直に手に握った剣を手放し、腰に吊った短剣も床に落とした。 「それから、そのコートもだ」 勝ち誇ったように笑うロイドは、アールがコートの内側に武器を隠し持っているのを知っていたのだろう。 渋々といった表情をしてコートを脱ぐアールに、ロイドは更に気を良くした。 「最後だ。両手を上に挙げろ」 「アール、待って! 諦めないで、私に構わず、こいつらを倒してっ」 「安心しろよ、フィリス」 しかし、フィリスの訴えもむなしく、アールは両手を挙げ始めた。 「誰かを犠牲にして、自分が助かるなんてのは、もう止めだ。どうせなら――」 アールの腕が、完全に上に挙がる、その直前。 『何か』がアールの上着の内側を走り、微かな衣擦れ音がした。 「どっちも助かる方が、ずっと良い」 アールの上着の裾から、その『何か』がポトリと落ちた。 刹那、アールはすぐに体勢を戻し、それを靴の爪先で蹴り飛ばした。 それは空を裂き、激しく回転しながらロイドへ飛来し―― ――ロイドの脇腹に突き刺さった。 ロイドと他の盗賊たちはしばらく、何が起こったのか理解が出来ず、呆然としていた。 しかし、ロイドはゆるりと首を回し自分の腹を見つめた。 そこには、一本のナイフが突き刺さっていた。 じわり、じわりと服に不気味な色の染みが広がり、それと共に自分の中の大切な『何か』が抜け落ちていくのをロイドは感じた。 息が苦しい、心臓が破裂しそうなほどバクバクと脈打っている。 再びロイドが視線を前に戻すと、いつの間にかアールが目の前に立っていた。 その右手には、剣が握られていた。 「あらかじめ袖にナイフを仕込んでおいた。俺が手を挙げたら滑り落ちてくるようにな。これも、お前らから学んだ技の一つだ」 ああ、そんな技を教えたこともあったっけか。 ロイドはぼんやりとした頭でそう振り返った。 それを教えたのは、他の誰でもない、ロイドだった。 確かに教えたが、あれは袖に仕込んでおくと動きにくいことこの上ないので、半分嫌がらせのつもりで教えたものだった。 それを、この男は本番で、まるで意趣返しみたいに決めやがったわけだ。 思わず、自嘲気味の笑いがロイドの口からこぼれた。 「これだから、天才って奴は嫌いなんだ…」 「そうか、それは悪かったな…、天才で」 そう言いながら、アールは剣を引き、ロイドの体を貫く構えを取った。 「しかし、俺は直(そ)剣(れ)の扱い方なんて教えた覚えはないんだがな…。一体誰に教えてもらった?」 「それは秘密だ。あの世への土産だとしても、あんたに持っていかせる義理はない」 最後まで生意気な奴め、とロイドは不平そうに言った。 「『殺るときは』、覚えてるよな?」 「『声も出させず一突きに』だろ? 分かってるさ」 その返事を聞き、ロイドは満足げに笑った。 アールの剣が、肋骨をすり抜けて自分の胸の中心に滑り込んでくるのを感じた。 「あんたは俺にとって、最低の義親だ。だからこそ、俺は一生あんたのことを忘れない」 その言葉を最後まで聞き届けたかどうか。 ロイドは、アールを縛る『過去』そのものは、静かに息を引き取った。 『だ、団長っ!』 残された二人の盗賊たちが、揃って悲鳴をあげた。 アールは、ゆっくりとロイドの亡骸から剣を抜くと、彼らの方を振り返った。 「どうする? お前らのボスは死んだ。今すぐ降参するなら、命は取らないぞ?」 二人は顔を見合わせ、しばし悩んだ結果、武器を床に落として降参だ、と呟いた。 どうやら、リーダーを殺されて完全に戦意喪失したらしく、二人の顔に殺意は欠片も見られなかった。 「なら、俺と一緒に付いてこい。俺と一緒にいれば、外にいる兵士たちにも殺されることはない」 そう言って、アールは二人に背を向けて、フィリスの方へ歩み寄った。 「ごめんな、待たせちまって」 「ううん、大丈夫だよ。きっとアールは来てくれるって信じてたから…」 アールは短く、そうか、と言ってフィリスの手首を縛っているロープをナイフで切り裂いた。 「アールこそ大丈夫? なんだか元気がなさそうだけど…」 「何言ってんだ。俺はむしろ、調子がいいくらいだ。俺の過去とやっと決別できたんだからな…。元気がないのはきっと…、そう、寝不足だからだ! 何しろ昨日もろくに眠れなかったんだからな!」 そういうアールは、誰がどうみたって強がっているようにしか見えなかった。 フィリスはほとんど無意識に、アールを胸の中に抱いていた。 ロープを切るために中腰になっていたので、ちょうどアールの頭をフィリスの胸に押し当てる形になった。 「なっ、フィ、フィリス! お前何して―――」 「お疲れ様、アール…。本当に、お疲れ様」 フィリスは、アールの頭を優しく撫でた。 アールはもがくのを止め、その暖かさに身をゆだねた。 「……本当に、疲れたんだ」 「…うん」 「俺がどうにかしなくちゃって、色々と背負い続けて…」 「…うん」 「やっと終わって、疲れ切ったんだ」 「うん」 フィリスはただ、相づちを打っているだけなのに。それだけなのに、アールは何故か、随分と救われた気がした。 フィリスの胸の奥が、トクン、トクンと脈打つ度に、自分の中の何かが洗い流されていくような気がした。 フィリスに髪を撫でられる度に、自分の中の何かが払われていくような気がした。 心の奥底で凍っていた冷たい血が、春の温もりに溶かされていくようだった。 「だから、ありがとう。フィリス」 「こちらこそ、ありがとう。アール」 顔を上げたアールの顔には、フィリスが出会った時と同じ――いや、それ以上の笑顔が浮かんでいた。 「あのぉ、もうそろそろよろしいですかい?」 空気を読んでいた盗賊が二人に話しかけ、存在を失念していたアールとフィリスは慌てて離れ、赤面した。 「さ、さて、それじゃあこんなところから早く抜け出すとするか…」 「う、うん、そうしよう!」 そんな時、部屋の前の階段を慌ただしくドタドタと降りてくる足音が聞こえてきた。 新手か、とアールは構えたが、すぐにそれは違うと分かった。 「おおっ、アール、ここにいたかっ!」 部屋に入ってきたのは、先刻アールとフィリスの検問を担当した兵士だった。 「どうしたテッド、そんなに慌てて? 心配しなくても、これから上に上がって――」 「屋敷に火がついちまったんだよっ!」 アールは目を細め、「どういうことだ」と聞いた。 「盗賊たちと戦ってる混乱で、誰かが火のついた燭台を床に落としちまったらしくって、絨毯に燃え移ったんだ! 今すぐここから逃げろっ!」 ここ最近、この辺りは雨が降ることがなかった上、夏の日差しでこれ以上無く乾燥していた。 炎は、木材の塊の屋敷中にすぐに燃え広がるだろう。 アールは分かった、とだけ言って、 「おい、お前ら、ロイドの亡骸を外まで運んでくれ」 盗賊団の首領の首は、その盗賊を討伐したという証明になる、非常に重要なものだ。 その部下に死体を運ばせるのは、アールもどうかとは思ったが、今は四の五の言っていられない状況だ。 「アール、部屋の隅に倒れてる人もお願い!」 フィリスの言葉にアールが隅に目をやると、例のアールがすぐに蹴り飛ばした、盗賊っぽくない見た目の青年が床に仰臥(ぎょうが)していた。 どうやら、先ほどの蹴りで意識を飛ばされたらしい。アールの手応えでは、内臓までダメージがいっているかもしれなかった。 「あいつは?」 「あいつが、盗賊と手を組んでたっていうヘンリー=キャンベルよ」 「あいつがっ?」 まさかここに来ていると思っていなかったアールは、思わぬ幸運に身を震わせた。 「おい、テッド。すまないがそこの男を担いでいってくれないか?」 アールも運ぼうと思えば運べたのだが、体格ががっしりとしているテッドの方が楽に運べると考えたのだ。 テッドは快く了承し、軽々とヘンリーを背に乗せた。 「よし、それじゃあ行くぞ!」 自分が脱いだコートとナイフを回収し、部屋の入り口に置いたままのザックをテッドに投げて寄越してもらったアールは、そう呼びかけた。 そして、フィリスの手を取った。 外は、確かに炎の熱気に包まれていた。 部屋の外の廊下は、炎に照らされて真っ赤に染め上げられている。 アールの見立てでは、今すぐ崩れることはないだろうが、なるべく早く避難するのが賢明だろう。 アールは調理場のガラス窓を開き、そこから逃げるように言った。 「テッド、そういえばよく俺たちの居場所が分かったな?」 「ああ、それは外にいた盗賊の一人が教えてくれたんだ。『あいつならきっと今地下室にいる』ってな」 アールは小さな声で「そうか」とだけ言って、自分も窓枠に飛び乗って、外の庭に着地した。 「ほら、フィリスも」 アールは手を伸ばし、窓を飛び越えるのに苦労しているフィリスの体を引っ張った。 フィリスはアールの助けもあり、無事に外に出られた。 「これで全員だな?」 アールは周りを見渡して、そう確認した。 そして、屋敷の正面に移動して、他の兵士たちと合流した。 「おい、アールだ! アールたちが帰って来たぞ!」 そんな声が向こうから響いてきて、アールは苦笑しながら手を振った。 アール達は、そのまま馬に乗って屋敷から離れることになった。 兵士たちは、アールの指示通りに屋敷に残されていた悪事の証拠と、ヘンリー=キャンベルが盗賊と繋がっていた証拠を回収していた。 彼らから聞いた話によると、どうやらこの男は薬物や人身売買にまで手を染めていたらしい。 ある程度屋敷から離れた頃、盛大な音を立てて、屋敷が崩壊を始めた。 「屋敷が……」 アールは屋敷の方を振り返り、誰に言うともなくそう呟いた。 紅蓮の炎に包まれた屋敷は、為す術もなく崩れていき悲鳴を上げている。巻き上がる、金砂のように煌めく火の粉はまるで涙のようだ。 アールの水色の瞳の中に、炎の影がゆらゆらと揺れている。 まばたきもせずにその光景を見つめるアールに、フィリスはなんと声を掛けていいか分からなかった。 ただ漠然とだが、アールはもう大丈夫だ、とも思った。 屋敷が完全に崩れ去り、その威容が灰に帰した頃、それを見つめる人々の体に、ぽつぽつと水滴が降り注ぎ始めた。 「雨…?」 それは瞬く間に激しくなり、ザァァァァと雨音が耳に聞こえるまでになった。 干天の慈雨。 瞬く間に乾ききった土の隙間に雨粒が入り込み、土を黒く染め上げていった。 土だけではない。乾ききった空気に、木々に、人々に、そしてアールに。分け隔て無く雨は降り注ぎ、火照ったアールの頬を、ひんやりとした雨粒が撫でおろしていく。 その雨は、偶然だったのだろうか? それとも――――――― ――それからしばらく経って アールとフィリスは、リントにそのまま滞在していた。 あの後、屋敷からこの街に凱旋した時には、もう夜は明けていた。 家から出てきた住人からすれば、大勢の衛士達が朝早くに門から入ってきたのだから、何事かと思っただろう。 しかし、衛士たちがロイド盗賊団の根城を落とし、首領のロイドを討ったという話を聞くと、たちまち大歓声が上がった。 それから、アールはフィリスと共に兵舎に泊めてもらうことになった。 ちなみに、アールはその後きちんと兵舎に預けていた馬を返しにショーンの宿屋を訪れた。 後でショーン本人からアールが聞いた話では、捕縛した盗賊の一人がショーンの家族の居場所を吐いたらしく、無事に家族と再会出来たらしい。ショーンは何度もアールとフィリスに謝り、そして感謝の言葉を述べた。 アールからすれば、自分がその宿の常連だったせいで家族が狙われたのだから、感謝されることはないのだが、無意味に空気を荒立てることはないので、素直に感謝の言葉を受け取っておいた。 更に、ニックを含めた一部の村から攫われてきて盗賊になった人たちの罪状について、アールは約束通り口利きをした。 その結果、罪は無くなることは勿論無かったが、他の連中と比べると、随分と罪が軽くなったようだ。 ニックからも後日、アールが面会しに行った際に感謝の言葉をもらった。 自分から進んで降伏した盗賊たちも、更生の余地ありと見なされて、死刑に処される者はいなかった。 残党たちも、じきに討伐されるだろう。 衛士たちの犠牲は、盗賊たちが油断していたのと、そこに居合わせた敵が少なかったことから、最小限に抑えられた。それでもやはり死亡者は出てしまい、アールは謝罪に行ったが、お前が気にする必要は無い、と言われて謝罪を断られてしまった。 また、ヘンリー=キャンベルの処遇についてだが、結論から言うとまだ決していない。 どうやら、証拠から見るにキャンベル家当主、イアンキャンベル他、彼の家族はこの件には関与していないようだった。 関係していたのはヘンリーと、彼専属の一部の使用人だけのようなのだ。 本当かどうか怪しいものだが、世間では『そういうこと』になっているのだ。 しかしそれでも、貴族の子息が盗賊と取引をしていたという事実は衝撃だったようで、上の方の連中も処分を決めあぐねているのだろう、とアールは予想した。 しかし、少なくともヘンリーは間違いなくキャンベル家から追放されるだろう。一般人ならば、盗賊に関与した時点でまず確実に死刑(現に、彼と一緒に盗賊と繋がっていた使用人は、すぐに終身刑に処せられた)だが、貴族を死刑にするというのは王国そのものの威信に関わるので、死刑にされることはほとんど無いのだ。 議論の焦点は、キャンベル家そのものの処分をどうするか、ということらしい。 それから、アーウェン=アーノルド辺境伯当てに書状を書いて送った。 書くときのフィリスの表情といったら、どんなに叱られるだろう、もしかしたら縁を切られるかも、とこれ以上なく憂鬱なものだったため、アールを吹き出させた。その後、フィリスにはたかれたが。 しかし、それからしばらく経ってみると、何のことはなかった。 「アール殿っ! この度は、私の娘を救っていただいて、本当になんと礼をすればいいやらっ!」 「い、いえいえ。私は彼女に頼まれたから彼女を守った。ただそれだけのことです」 「なんと謙虚なっ! 私は今、猛烈に感激していますっ!」 ただの娘依存症気味なおっさんだった。 リントに到着してすぐ、彼はフィリスを叱るかと思えば、出迎えたフィリスに向かって突っ走っていき、熱烈なハグをかました。 テッドと同じくらいしっかりとした体格のアーウェンに抱きしめられたフィリスは苦悶の声を漏らし、それを見たアールを含めた集団は、唖然としていたが、それに構うこと無くアーウェンは娘を抱きしめ続けた。 ようやく解放したかと思えば、今度はフィリスを心配する言葉を雨あられのごとく浴びせ、彼女を心底いやがらせた。 それから、フィリスがアールのことを紹介すると、貴方があのアール殿ですかっ、と叫んで今度はアールに突進してきたのだ。 むさ苦しさに辟易とした表情を浮かべるアールがおかしくて、フィリスは思わず吹き出した。 笑い事じゃないだろ、早くこのおっさんをどうにかしてくれ、とアールは目で訴えていた。 そして、三人と辺境伯の付き人は、立ち話もなんですから、ということで、近くの食堂に入ることになった。 まだ朝早くで客は入っていなかったが、店の店主が驚いた顔をしていたので、アールは心の中で謝っておいた。 ちなみに注文はしていない。ただ場を借りるだけだ。 「アール殿、重ねて礼を言いたい。愛する娘の命を助けていただき、本当に感謝をしている」 先ほどとは人が変わったように大人しく、凜々しい口調になったアーウェンに、アールは目を疑いながらも生返事を返した。 話を聞くと、どうやらフィリスと一緒に盗賊に追われていた使用人たちも、無事に保護されたらしい。 「もしよければ、できる限りの金を贈りたいのだが…」 そう言われると、アールは小さく笑みをこぼして、 「私も、辺境伯から直々に褒賞を賜れるというのなら恐悦(きょうえつ)至極(しごく)に存じます――と言いたいところなのですが」 アールは、フィリスの方に目をやった。 「実は、残念ながら今回の依頼料はもう彼女と話し合って決めているんです…」 「え…、あ、うん。そうだったね」 フィリスは荷物をゴソゴソと探り、金貨が詰まった袋をテーブルの上に置いた。 「私が今持ってるお金、全部アールにあげる。たくさん迷惑をかけちゃったからね…」 アールは苦笑しながらも、その袋を受け取った。ずしりとした重みがアールの腕に伝わる。 持ってみた感じ、金貨十五枚以上はありそうだ。 「分かった。これはありがたく受け取っておこう。ただし――」 アールは袋に手を入れ、金貨を五枚だけを取り出して、袋をフィリスに返した。 「これは、俺からの迷惑料だ。守るって約束したのに、盗賊に攫われて怖い思いをさせた、そのお詫びだ」 有無を言わせずそう言い切ると、アールは席を立って入り口の方に向かった。 「でも、この金貨五枚はありがたく頂戴しておくぜ。何しろ俺は、『金の亡者』だからな!」 そのまま食堂を後にしたアールに、フィリスは呆れたような笑みを浮かべた。 アーウェンはアールの背中を微笑ましいものを見る目で見送り、 「どうやら、いい人に巡り会えたようだな」 「…うん」 「そうか…。平民の子か…。難しいなぁ…。でも、父さん寂しいけど、死ぬほど寂しいけど、可愛いフィリスのためなら――」 「お、お父さん、何言ってるのっ? べ、別にアールとはそういう関係じゃ――」 元の調子に戻ったアーウェンとフィリスたちも、アールに続いて食堂を後にした。 フィリスが外に出ると、そこには小さな子供達にまとわりつかれてるアールがいた。 子供達は皆、汚れた衣服を身にまとっていて、貧しい家庭の子供であることは容易に想像できる。だが、彼らはみな、満面の笑みを浮かべていた。 彼らにもまれているアールの顔にも、曇りのない笑顔が広がっている。 それを見ていたフィリスの元に、二人の男がやってきた。フィリスは、片方の男は見たことは無かったが、もう一人の方はよく知っていた。 「あ、テッドさん」 「よう、嬢ちゃん! あ、いや、辺境伯令嬢様って呼んだほうが良いんだっけ?」 「ふふ、普通に呼んでくださって構いませんよ。それより、あれはどうしたんですか? アールが子供達に囲まれていますけど…」 「あいつ、子供たちに食べ物とか日用品とかを無償で譲ってやってんだよ」 もう一人の方の兵士が答えた。けだるげそうな顔をした、若干やせ気味の男だ。 「ああ、初めまして。俺はアレックスって言います。アールの知り合いやってます。どうぞよろしく」 「こちらこそ、アレックスさん。ところで、先ほどの話は――」 「たくさん報酬を稼いでも、そのほとんどをああいう子供とかのために使ってるんだ。しかも、ここだけじゃ無くって、行く街行く街そうしてるらしいぜ? 金を巻き上げる相手も、金に余裕のある奴だけ。金が無い奴からはあれこれ屁理屈つけて、結局報酬もらわないことすらあるらしいし…。 全く、お人好しにもほどがあるよな」 そう言うアレックスの顔は、呆れているようだったが、どこか微笑ましいものを見ているようだった。 「そう、だったんですか…」 アールがお金を稼ぐのに必死になる理由。その理由をフィリスは垣間見たような気がした。 「ねぇ、アール」 フィリスはアールに歩み寄った。 アールは彼女に気づき、子供達に別れを告げてフィリスの方を向いた。 「宿屋での質問の続き、教えてもらってもいい?」 「ああ、そういやまだ答えてなかったっけか…。ちょっとこっちに来てくれ」 アールはフィリスに手招きをし、人気の無い場所まで連れてきた。 「なるべく、詳しく教えて欲しいな…」 「そうだな…、どこから話そうか……。それじゃあ、俺が盗賊をやめたきっかけから話そう」 その日、少年は傷だらけの体を引きずって、地べたを這いずり回っていた。 襲撃した村に、たまたま傭兵が泊まっていたのが運の尽き。少年も善戦したが、後ろからばっさりと斬られてこのざまだ。 何とか命からがら逃げ出してきたが、このままではどの道同じ結末になるだろう。 背中からドクドクと命がこぼれだしていくのを感じて、少年は漠然と『死』を感じていた。 ああ、自分は死ぬのだ、と達観した面持ちをして、少年は地に顔を埋めた。 もう動く気力もない。別に良いじゃないか、死んだって。 今まで自分は、たくさんの人間の死を見てきた。今度は、自分がその中の一人に仲間入りをするだけだ。 そう思って、少年はついに完全に動くのを止めた。 しかし、そんな時少年の近くで微かに足音が聞こえた。そして、それは段々と彼に近づいてきた。 「これはっ! 可哀想に…きっと盗賊たちに襲われでもしたんだろう…」 声の主は年老いた男だった。 老人は、少年にまだかすかに息があるのを確認すると、彼を背負って家に連れ帰った。 「婆さん、大変だ! 森の中で傷だらけの子供が倒れていたので、連れて帰ってきた」 「まぁ、大変! 急いでお医者様のところに連れて行かなくちゃ!」 「いや、その前にまずは血を止めなければ――」 そこで、少年の意識は途絶えた。 次に少年が目を覚ましたのは、二日後の朝だった。 体中が激しく痛み、まともに起き上がることも出来なかったが、なんとか生き残ったのだ。 自分が寝かされていたベッドの脇には、自分を助けた老翁と老婆がうたた寝をしていた。 どうやら、自分のことを必死に看病してくれたらしい。 少年はそれに気づいたが、何故老人たちが見ず知らずの自分にそんなに親切に接してくれるのかが分からなかった。 しかし同時に、幸運だとも思った。 この様子では、二人は自分が盗賊だということには気づいていないらしい。このまま善良な子供の振りをして、怪我が治りしだい盗賊団のもとに帰れば良い。 そう思い、少年は一人邪悪な笑みを浮かべた。 それからの生活は、少年にとっては経験もしたことがないものだった。 物心つく前に盗賊に攫われた少年は、普通の暮らしというものを知らなかったのだ。 朝起きると、お爺さんとお婆さんが笑顔で待っていてくれて、一緒にとりとめのない話をしながら笑い合った。 街に出ると、まだ体の自由が利かない少年を気遣って、街の住民がいたるところで手を貸してくれた。 街の子供達が、少年のいる家にやってきて、色々な話をしてくれることもあった。 夜になると、お爺さんとお婆さんが少年が眠りにつくまで一緒にいて、手をつないでくれた。 少年が二人に、家族は殺された、と話したから、彼を安心させようとしてそうしたのだろう。 少年は最初は嫌だったが、何故かしばらく経つとその手が無性に温かく感じて、もっと握っていたくなった。 ある日、お爺さんがこんなことを少年に言った。 「私たちには、昔一人義理の息子がいたんだけどね…ある時、盗賊に殺されてしまったんだ…。クリスは、その子によく似ているんだよ。だから、つい実の息子みたいにクリスを見てしまうんだ…」 少年は二人に、盗賊たちに付けられた名を名乗っていた。 どうせ、すぐにこの街からは離れることになるのだから、名乗っても問題はないと思ったのだ。 だが、この時少年は何故かそのことを激しく後悔した。 「その人、名前はなんていうの?」 「名前かい? あの子の名前はねぇ、アールっていうんだ」 そう言うお爺さんの目は、懐かしさと悲しさに満ちていた。 『盗賊』が、この家族の幸せを奪ったのだ。 何の罪もない、この人達から。 少年にとって、殺人と強奪は正義だった。 それは、自分達が生きていくために必要な行為だ。 そう仲間の盗賊たちには教えられ、少年もそれを疑うことなどなかった。 しかし、果たしてそれは本当に正しいことだったのだろうか。 『自分』が生き残るために、『誰か』を犠牲にする。 少年は、初めて自分の生き方に疑問を持った。 そして少年は―― 少年は、怪我が治っても街から離れなかった。 またある日のこと、少年は街の近くにある森の中にいた。 「よしっ!」 少年が投げたナイフが、見事一匹のウサギの体をとらえ、仕留めることに成功した。 少年はすぐに地面に横たわったウサギに駆け寄り、ナイフを抜いてからウサギの首元を切った。そしてウサギの体を傷口を下にぶらさげて、血抜きを行った。 「これで、お爺さんとお婆さんも喜んでくれるかな?」 怪我が完治した少年は、こうして森に獣を狩りに出かけるようになった。 普通は弓矢を使うのだろうが、少年にとってはナイフの方が慣れている上、狩りやすかったのだ。 血抜きが終わると、空が段々と赤く染まってきていて、夕暮れ時を告げていることに気がついた。 「そろそろ帰ろうか」 少年はウサギをカゴ――他にも何匹も獣が入っている――の中に入れ、それを背負って街へと帰りだした。 違和感を覚えたのは、それからしばらく歩き、小高い丘から街を見下ろせるようになったころだった。 街から、黒煙が上がっていた。 少年は駆け出し、無我夢中で街へと向かった。 しかし、街に着いた少年が見たのは、屍体、屍体、屍体の山だった。 呆然とする少年は、ふらついた足取りでお爺さんとお婆さんがいる家に向かった。 当然、そこに待っていたのは二人などではなく、ただの肉の塊だった。 家中が荒らされていて、もうめぼしい物は残っていなかった。 「どうして……こんなことに……」 誰がこんな地獄をもたらしたのか、少年の頭にはとっくに答えは出ていた。 盗賊だ。 盗賊が、この街の住人を殺し尽くしたのだ。 悪夢なら、今すぐに覚めてくれ。 この人たちが、一体何をしたっていうんだ。 ただ毎日、誰にも迷惑をかけることもなく『生きてきた』だけじゃないか。 時には痛みを分かち合い、時には支え合い、時には笑い合っていた。ただそれだけじゃないか。 少年は、誰もいなくなった家で泣き叫び続けた。 泣いて、泣きわめいて、泣き続けた。 しかしそんな少年の慟哭は、静まりかえった街にむなしく轟くだけだった。 その日から、名前の無い少年はアールと名乗るようになった。 「それから俺は、あちこちを巡っては色んな仕事を受けて、金を稼ぐようになりました…と。で、肝心の金を稼ぐ理由は――」 「自分みたいな人を少しでも減らすために、子供達を養うため。そうだよね、アール?」 知ってたのかよ、と苦笑しながらアールはこぼした。 「そうだ。俺は何か罪滅ぼしがしたくって、子供達が盗みをはたらかなくてもいいように、少しだが援助してる。自分が盗賊だって告白して牢に入るよりは、そっちの方が世のため人のためになると思ったからだ。その代わり、俺は一度受けた仕事は必ずやり遂げる。それが俺の義務だ。」 アールはそこで、急に自信なげな顔に変わった。 「まぁ、前にも言った通りただの自己満足で、罪滅ぼしが出来てるのかどうかも分からないけどな。俺は、俺が犯した罪を自分の育った環境のせいにはしたくない。どう言い訳したって、俺が人を殺したことには変わりは無いからな…」 そこまで聞いて、フィリスは静かに語りかけ始めた。 「私は、アールが犯した罪がどれだけの物なのか、誰のせいなのかは分からない。ううん、私なんかが決めていいことじゃないと思う。だけどこれだけは言える。アールのやってることは、確かに誰かを救ってる。だって、私もその救われた一人だから」 「―――そっか」 アールの表情が、心なしか軽くなった。 「だから、私はそんなアールが好きだよ。偉そうで、お金に汚くて、ずる賢いけど、私を助けてくれた。そんな格好いいアールのことが好き」 「俺も、フィリスが好きだ。嘘つきで、お転婆で、無謀だけど、こんな俺を信じてくれた。そんな真っ直ぐなフィリスのことが好きだ」 二人は揃って小さく吹き出し、にこやかに笑い合った。 一体いつからだっただろうか。二人はお互いに昔からの友人のように話し、呼び合い、笑い合えるようになっていた。 ひとしきり笑い終わったあと、 「さて、それじゃあ俺もまた次の街に行こうかな」 「え? もう行くの?」 「ああ、あんまりこの幸せに慣れたら、もう離したくなくなりそうだからな」 幸せだから、そこから離れていく。 それはあまりにも寂しいが、それがアールという男の性なのかもしれない。 「そんなに寂しそうな顔するなよ。お前も、たくさんの人が幸せに暮らせるように頑張れよ。今回は失敗しちまったけど、応援してるぞ」 アールはフィリスの亜麻色の髪を、くしゃくしゃと撫でつけた。 「うん! アールも頑張ってねっ!」 フィリスはアールに、満面の笑顔を見せつけた。 アールは、リントの門の近くでたくさんの人々に見送られていた。 アールがこの街で助けた人たち。商人、兵士、子供達、そしてアーウェンにフィリス。 みんながみんな、アールとの別れを惜しんでいた。 そんな中、二人の兵士がアールの元へ歩いてきた。 先ほどフィリスに話しかけてきた、テッドとアレックスだ。 「おい、アール」 「うん? …テッド、それにアレックス。どうかしたか?」 「どうかしたか、じゃねぇよ…。またいきなり出発するなんて言い出してよぉ」 テッドはため息をつきながらそうぼやいた。 「大方、今度も『俺は幸せになっちゃいけないんだ』みたいなクサいこと考えてるんだろ? まったく…」 「…は? おい、アレックス、それはどういう」 「なんだよ、まさかお前まだ気づかれてないと思ってんのか?」 「お前が元盗賊だっていうこと、もう俺たちのほとんどは知ってるんだぜ?」 アールは茫然とした顔で、二人を交互に見つめた。 「な、何でそんなこと」 「いや、もう結構前からそういう噂が流れてたんだよな…。確か、お前があの屋敷がロイドたちの拠点だとか言い出した頃だったかな。で、この間の襲撃の日に投降してきた奴の中に、お前が昔はクリスとかいう名前で盗賊をやってたって言うやつがいたんだよ」 ニックの野郎、とアールは内心嘆息しながら、 「じゃ、じゃあ何でお前らは俺を――」 「何で俺を捕まえないのか、だろ?」 アレックスがアールの言葉を先読みしてそう言った。 「それはな、アール。お前が今日までやってきたことのおかげだよ。お前が何を願って、何を成し遂げてきたのか。それを知ってるから、誰もお前を捕まえようなんて言い出さないんだよ。あの夜だって、お前が必死になって俺たちに呼びかけたから、俺たちはクソ眠くても文句一つ言わずにお前について行ったんだ。」 「まぁつまり、俺たちはお前を信じてる。それだけのことだ。深く考えずに、人の好意は素直に受け取っときゃいいんだよ!」 「…そうか」 「そもそも、お前が盗賊をやってたって具体的な証拠はどこにもないしな。あの盗賊の言ったことだって、お前を陥れるために言った妄言かもしんねぇし。まぁ、お前がよっぽど自分からお縄につきたいっていうんなら話は別だけど」 「そういうことだからよ、アール。もうお前が幸せになっても、お前を責める奴はいねぇと思うぜ? もう十分、お前は頑張った」 テッドは、バシバシとアールの背中を叩いた。 アールは何と言っていいのか分からないようで、困った顔でしばし言葉を探っていたが、 「ありがとな」 照れくさそうに、それだけを二人に言い残した。 去り際の二人の微笑が、アールには印象的だった。 「じゃあな、みんな元気にしてろよっ!」 アールとしてもこんな清々しい出発は初めてなので、何だか恥ずかしくて嬉しくて、それをごまかすように大声を張り上げた。 「また来いよ! 待ってるからなー!」「さようならー!」 大勢の返事が返ってきて、アールは苦笑しながら彼らに背を向け、街の外に止まっている馬車に向かった。 その時、ひときわ大きな声が聞こえた。 「アールっ!」 フィリスの声だ。アールはもう一度振り返り、彼女の姿を探した。 そして見つけた。彼女は右腕をぶんぶんとアールに向かって振っていた。 「約束っ!」 フィリスは胸一杯に息を吸い込んで、別れゆく彼に向かって精一杯声を張り上げた。 「絶対っ! 絶対にまた会いにきてねっ! 私もっ、待ってるからっ!」 それを聞き、アールはついにこらえきれずに目元から涙を零した。 そして、叫ぶ。 「ああっ、約束だっ! 必ずお前に会いに行くっ!」 アールは再び彼女に背を向け、歩き出した。 右の掌を、左右に揺らして見せながら。 アールが歩み行く先の空は、どこまでも蒼く、蒼く澄み渡っていた。 彼はこの先、どんな人々と出会い、どんな景色を目に焼き付けるのだろうか。 待ち受けるものの中には、彼を苦しめるようなものもあるだろう。 しかし、彼の瞳には迷いも恐れも無い。 なぜなら、今の彼には『帰り着く場所』があるから。 どんなに心と体が傷ついても、暖かく迎えてくれる『場所』があるから。 どんなに遠く離れた場所にいても、世界は繋がっていて、そのどこかには必ず自分を待ってくれている大切な人がいる。 それはなんて、なんて暖かいことなのだろうか。 旅立つアールを祝福するように温かい風が吹き、彼の鼻腔に花の香りを運んできた。 「さてと、次はどの街で稼いでやろうかな」
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