ハーブティーはいかが 街田灯子 春の風が吹いた。その風は広場を流れ、二人の小学五年生、涼(りょう)介(すけ)と祐(ゆう)都(と)の髪を揺らしている。 涼介が蹴ったサッカーボールは、祐都の右足に当たって軌道を変えた。そのまま、近くの家の庭に転がっていった。 「おい、なにやってんだよ」 「ごめんごめん」 祐都は笑いながらその庭に近づいた。しかし、門の向こうを見て血相を変えた。 「……」 涼介も祐都のそばに行くと、そこには、涼介たちがさっきまで使っていたサッカーボールと、割れた植木鉢が転がっていた。赤茶色のレンガの破片と、こぼれ出た黒い土。 「どうしよう、涼介くん」 祐都が心配そうにいう。 そういえば、この家には怖いおじいさんが住んでいると涼介たちのクラスで噂になっている。野球をしていて、ボールで窓を割った男子がひどく怒られたらしい。 こういうとき、どうすればいいのかはわかっていた。涼介は意を決して、 「謝ろう」 「えっ」 「おまえは着いてくるだけでいいよ。オレがなんとかする」 返事を聞かないで、涼介はずんずん歩いて行った。祐都もあとから着いてくる。門を超えると、花の鉢植えだけでなく背の高い木までがいくつも植えられている。涼介は小学五年生の中でも背は高くないから、この木々は涼介を遥か高いところから見下ろしている。圧迫感がある。色とりどりの花々が庭を不気味に染めている。 祐都を元気づけるために何でもないふりをしていたけれど、本当は涼介も怖かった。 門から玄関の扉までは十メートルほど。その道のりがとてつもなく長く感じられる。やっと、その白い扉にたどり着いた。後ろを振り返ると、不安そうな祐都がこちらを見ている。涼介は一度うなずいて、玄関のチャイムを押した。 一度押してしばらく待ったが、中からは人が来る様子はない。もう一度押す。するとようやく、パタパタとスリッパの足音が家の中から聞こえてきた。涼介はぐっと覚悟を決める。 白いドアが開いた。 「はい」 ドアから顔をのぞかせたのは、鬼の形相をした老人ではなく、白い肌の女の人だった。長い髪をポニーテールにしていて、黒いエプロンをつけている。涼介と祐都は拍子抜けする。 「えっと……」 「こんにちは。なにか用かな?」 女の人は微笑んだ。涼介よりも頭二つ分くらい背が高い。涼介は気を取り直して、 「ごめんなさい。サッカーしてたら、ボールが当たっちゃって……」 庭に転がるボールと鉢を指さすと、女の人もわかったようだ。 「ごめんなさい!」 「ごめんなさい!」 涼介と祐都はもう一度謝った。女の人は黙っていたが、やがて「ふふっ」と声を上げて笑った。 「謝ることないよ。あれは、私がやったの」 「え?」 少年二人は顔を見合わせる。 「あの植木鉢ね、私がわざと壊したの」 「え、どうして?」 「秘密」 女の人はいたずらっぽく笑って言う。 涼介と祐都は同時に首をかしげる。すると女の人は再び笑い出した。 「だから、二人とも、全然悪くないのよ」 涼介たちにも、自分たちには非はないということがわかってきた。安心する。 「そうかぁ……」 「よかった」 涼介たちを交互に見て、女の人は嬉しそうに言った。 「ねえ、君たち、よかったらお茶でもどう?」 「え?」 「私、しばらく一人でここに住んでるの。たまには誰かとお話したい。だめかな?」 涼介と祐都は再び顔を見合わせた。知らない人についていくのはよくないことだと知っている。でも、ここは近所だし、しかもこの人は良い人そうに見えた。それに、「一人で住んでいる」ということは、例の怖いおじいさんはもういないのだろう。 なにより、涼介はこの女の人に興味が湧いていた。鉢植えをわざわざ壊すとは、よほど変わっている人のようだ。 涼介は祐都に聞いてみた。祐都は初対面の人と話すのは緊張する質だと知っているからだ。 「祐都、時間は? 塾あるんだろ」 祐都は腕時計を確認して、 「ああ、ほんとだ。ぼく、もうそろそろ行かなきゃ……」 涼介は少しがっかりしたが、しかたなく、 「ごめんなさい、また来ます」 「そう、残念。また今度ね」 女の人は本当に残念そうな顔をした。涼介は少し罪悪感に駆られた。 少年二人が門を出るまで、女の人は扉の前でこちらを見守っていた。涼介が手を振ると、彼女も笑顔で手を振り返してくれた。 次の日の放課後。火曜日なので祐都と夕方まで遊べると思ったら、どうやら祐都は用事があるという。学校からの帰り道、いつもの十字路で涼介と祐都は別れた。 涼介はひとり、家に帰った。母親は夕方まで仕事だから、家には涼介だけだ。 喉が渇いていたので冷蔵庫から冷たいお茶を出して飲んだ。壁の時計を見ると、まだ四時前。暇なので早めに宿題を片付けることにした。今日の宿題は得意の算数なので、二十分ほどで終わった。 この家には漫画もゲームもないから、祐都と遊べないときはいつも暇だ。 外に出てみれば、誰かほかのクラスメートに会えるかもしれない。遠いけれど、学校まで行ってみよう。涼介はそう思って、ランドセルではなく手軽な肩掛け鞄を持って家を出た。 玄関に置いてあるサッカーボールを目にしたとき、涼介は昨日の出来事を思い出した。あの女の人は、今日もあの家にいるのだろうか。 涼介はもう一度あの家に行ってみることにした。あの女の人も涼介と同じで、家の中に一人でいるのは寂しいだろうと思ったのだ。 七分ほどで、昨日祐都と遊んだ場所に着いた。昨日はたまたま、いつも遊んでいた小さな公園は大人が芝刈りをしていたので使えなかった。それで、ちょうどいい場所を探してここに来たのだった。例の女の人の家の前には広場のような砂地があるから、遊ぶのにはちょうどよかったのだ。 昨日も通り抜けた門に近づく。もう怖くはなかった。昨日とまったく同じように、植木鉢は倒れて割れたままになっている。 白いドアの前に立つ。チャイムを押したけれど、昨日と同じで家の中の反応はない。もう一度押すと、やはり昨日と同じように人が来る気配がした。 「はーい」 ドアが開き、中から昨日の女の人が顔を出した。涼介は少し安心した……今度は怖い爺さんが出てくるのでは、と少しだけ不安に思っていたのだ。 女の人は昨日と同じような恰好をしている。昨日は涼介は気づかなかったが、なんだか彼女のエプロンから石油のような臭いがする。 「あ、昨日の……」 彼女は涼介の顔を見ると、嬉しそうに微笑んだ。涼介はぶっきらぼうに言う。 「今日はあいつは用事があって。暇だったから」 女の人はそうなんだ、とにこやかに言い、ドアを大きく開けて、 「来てくれてありがとう。お菓子もあるから、ぜひ上がって」 涼介は仕方ないという顔で家の中に入った。心の中では、お菓子と聞いて跳び上がりたいほど喜んでいたのだけれど。 女の人に案内され、家に上がる。廊下の床は黒く、壁は白い。なんだか高級な感じがした。 「きみ、名前は?」 「柴田涼介」 「涼介くんね。私、森内翠(みどり)。よろしくね。小学生?」 「うん。小五」 彼女、翠に連れられて、涼介はある部屋に入った。そこは一段と、石油のようなねっとりとした臭いが強くなっている。 光に溢れた部屋だった。白い壁に、額に飾られた花の写真がいくつも掛けてある。部屋の中央には、涼介の身長ほどの高さのキャンバスがあり、ちょうど絵を描きかけていたようだ。緑色が塗りたくってある。その緑色というのも、よく見ると様々な緑がある。濃い緑、薄い緑、青が混じったような緑、黄色がかった緑……。 「翠さん、絵、描いてる……んですか」 「そう。といっても、まだ勉強中なんだけどね。大学は普通のとこなんだけど、やっぱり絵が好きで、やめられなくて」 涼介は絵の具の臭いも気にせず、目の前の緑色に心を奪われた。 「きれい……」 「ありがとう。そう言ってくれるとやる気出るわ」 翠は嬉しそうに言った。涼介には絵のことなんてさっぱりわからないが、この絵は、見てるだけで癒されるような、自分がまるで光の中にいるような気持ちになれると思った。まだ未完成らしいけれど、いつまでも見ていたくなるような絵だ。 翠はもう一つ奥の部屋に涼介を案内した。そこはリビングになっている。 「ジュース飲む? オレンジとぶどうのジュース、どっちがいい?」 「オレンジ」 翠はジュースとクッキーで涼介をもてなしてくれた。彼女はジュースではなく、なにか湯気の立ったカップをを持ってきて飲もうとしている。 「なにそれ?」 「これ? これはね……」 翠は説明しようとして、やめた。そして、いいことを思いついたような顔で、 「ちょっと飲んでみる?」 「え?」 涼介は驚いたが、大人が飲むもの、というので興味が湧いた。彼女が差し出すカップを受け取り、飲もうとしたが、つんとした香りに顔をしかめた。あまり飲む気が起きない。 「やっぱりやめた」 「子供にはまだ早いかな。ハーブティーだよ」 翠はそれを涼介から受け取り、おいしそうに飲んでいる。子供、と言われて涼介は少しむっとしたが、彼女の言う通り、まだ自分にはハーブティーよりもジュースのほうがよさそうだ。 二人はお菓子を食べながら、いろいろなことを話した。涼介の学校のこと、友達のこと。翠が描いている絵のこと。大人と話す機会なんて学校の先生くらいしかなかったので、彼女と話すのは新鮮だった。 「翠さんさ。一人暮らしって言ってたよね?」 「うん」 「じゃあ、家族は遠くに住んでるの?」 「そうだよ。ここよりもずーっと田舎に住んでるの」 「え、ここもけっこう田舎じゃん」 「もっと田舎なの」 「ふーん」 そういえば、と涼介はさらに聞いてみる。ここからが、涼介たち少年にとっては大事なところだ。 「この家、前はおじいさんが住んでたと思うんだけど。引っ越しちゃったのかな」 翠はその言葉を聞くと、しばらく言葉に詰まっていたが、やがてこう言った。 「……そうだね。引っ越しちゃったのよ。……あ、クッキーのおかわり持ってくるね」 キッチンに向かう翠の背中を見て、涼介は首をかしげた。 夕方五時になると、町内には時間を告げるチャイムが流れる。学校の先生には、そのチャイムは家で聞きなさいと言われている。親にもそう注意されている児童も多い。だけど、涼介の母親が帰ってくるのは六時だ。涼介は母親になにも言われないように生きているけれど、それは真面目だからではない。ただ母親が鬱陶しいからだ。だから、必要最低限の六時前に家にいればそれでいい。 翠と話すのは楽しくて、いつのまにか壁にかかった時計は五時四十分を指していた。 「ごちそうさまでした。オレ、もう帰らないと」 「ずいぶん長いこと引き留めちゃったね。大丈夫?」 翠は心配そうに言う。窓の外はそんなに暗くないし、涼介の家はそう遠くない。 「大丈夫です。また来ていい?」 「もちろん。今度は違うお菓子を用意するね」 翠は微笑んだ。涼介は嬉しくなり、必ずまたここに来ようと思った。 涼介が家に帰ってから十分後に、母親が帰ってきた。そのときには涼介は自分の部屋で学習机に向かって本を読んでいた。まるで今日は一日中そこにいました、とでもいうように。 「ただいま」 「おかえり」 母親は涼介の部屋をちらりと覗くと、すぐにドアを閉めてキッチンへ向かった。 涼介は本を持ったままベッドに横になった。目が悪くなるからやめなさいと母親に言われているけれど。 母親には本を読めとよく言われている。漫画ではなく本を読めと。涼介は本を読むのが好きだが、それが母親の影響だとは思いたくなかった。あくまで自分の意志で読んでいるのだと思いたいのだ。 しばらく小説の中の世界に没頭していると、母親の夕食を告げる声が聞こえた。涼介は起き上がったが、そういえば翠の家でジュースやお菓子をごちそうになったせいであまり腹が減っていないということに気づいた。夕食を残した時のための言い訳を考えながら、母親が呼ぶ部屋へ向かった。 次の日の放課後は、祐都も連れて翠の家へ行った。 祐都は始めは少し緊張していたが、すぐに翠が優しい人だということがわかったらしい。笑顔で会話に参加するようになった。 翠は、涼介や祐都の学校での話を聞きたがった。 「図工の時間ってあるでしょう? 私、小学校のときに一番得意だったの。図工が」 「絵、上手だもんね」 涼介は部屋に置かれているキャンバスを見ながら言った。涼介はあまり図工が得意ではない。「自由に作品を作りなさい」と言われるからその通りにしても、なぜか評価はあまり良くならないのだ。 「オレは苦手だけど、祐都は得意だよ」 「そうかな」 祐都は照れたように言う。翠は興味深そうに、 「ほんとう? じゃあ、こんど見せてよ、祐都くんの作品」 「えっ、ぼくのやつを……?」 「祐都のさ、この前のあれ。グラウンドの木を描いたやつあったじゃん。あれがいいよ」 涼介が言うと、祐都は降参したように、 「じゃあ、こんど持ってきます」 「やった! 絵を見るのは、描くのと同じくらい好きなんだ」 翠は嬉しそうだった。祐都は涼介を見ながら、 「でも、涼介くんはぼくよりもずっと、なんでもできるからいいじゃん」 「えっ?」 実際に、涼介はクラスの中でも、なんでもできるタイプなのだ。自分ではそうは思わないけれど。 「へえーっ、涼介くんはなんでもできるんだ」 「そうですよ。勉強も、体育もできるし。すごくしっかりしてるんですよ」 祐都は、まるで自分のことのように誇らしそうに言った。 「じゃあ、涼介くんのお父さんやお母さんも、きっとしっかりした人なんだね」 翠は感心するように言った。しかし、その言葉は、涼介の顔を強張らせるのに充分だった。 「……」 涼介の沈黙を感じ取ったのか、祐都は慌てて、 「あ、翠さん、ジュースのおかわりください」 「わかった。冷蔵庫から取ってくるね」 翠は涼介の様子には気づかなかったのか、変わらぬ調子で冷蔵庫へ向かった。 彼女がオレンジジュースを持って戻ってくると、涼介は椅子から立ち上がって、 「オレ、トイレ行ってくる」 なるべく平静を装って部屋を出る。別にトイレに行きたいわけではなかった。木のドアの横に突っ立ってぼんやりしていると、さっきまでいた部屋の中から祐都の声が聞こえてきた。 「あの。涼介くんの家、お母さんしかいないんです。涼介くんが小さいときに離婚したから……」 翠が息を呑む気配がした。 涼介はうつむいて、しばらく立ち尽くしていた。 涼介が部屋に戻ってからも、翠は変わらず二人に会話を促した。やたら明るい笑顔で相槌を打っていて、無理をしているようだったけれど。祐都は涼介を気遣いながらも、さっきとは変わらないようにしているようだった。 五時前になり、祐都は家に帰らなければならなかった。涼介はまだ帰りたくなかったので、翠と一緒に祐都を見送った。 祐都が出て行って玄関のドアが閉まると、二人きりになった。涼介は翠をちらりと見て言った。 「オレの家、オレと母さんしかいないんだ」 「え?」 翠は一瞬驚いたようだったが、すぐにさっきの話のことだと気づいたようだ。 「……ごめんね。私、知らなくて。お父さんいなかったんだね、涼介くん」 「いいよ。お父さんはずっといなかったんだから、関係ないし」 翠は涼介の顔を困ったように見ていたが、ふと気づいたように、 「もしかして、涼介くん。お母さんとうまくいってないの……?」 涼介は答えに迷ったが、結局何も言わずにさっきまでいた部屋に戻った。 涼介と祐都はたびたび翠の家を訪れるようになった。まず学校から帰ったらサッカーをする。そして、休憩がてら翠の家に寄るのだ。 翠の家の庭には、いまだに植木鉢が割れたまま置かれている。翠はどうしてこの植木鉢を割ったのだろうか。涼介たちは、その秘密をまだ教えてもらっていなかった。 一週間ほどそうやって過ごした。今日もまた、涼介は翠の家で過ごした後、母親が帰る前に家に戻った。 自分の部屋でおとなしく宿題をしていると、母親が帰ってきた。母親はいつものように「ただいま」と言いながら涼介の様子を見に来たと思いきや、涼介にこう問いかけた。 「あんた最近、女の人のお家に行ってるらしいわね?」 涼介はどきりとした。ノートから顔を上げて母親の目を見つめる。 「……」 「黙ってたらわからないでしょ。どうなの?」 「……行った」 それを聞くと、母親は盛大にため息をついた。 「もうやめなさいよ。近所の人も見てるんだからね」 「……わかった」 本当はわかってなんかいなかった。なぜ、母親はこんなに神経質になっているんだろうか。 「本当にわかったの?」 母親は念を押すように聞いた。涼介は早く一人になりたかった。翠の家に遊びに行くのをやめるつもりはなかったが、半ば反射のように答える。 「わかったから」 母親はしばらくなにかを言おうとしていたが、ようやく渋い顔のまま出て行った。 翠の家に遊びに行くことが悪いことだとは思えない。翠はいい人なのに。 涼介には、母親の考えていることがわからないということが多かった。 空気がじめじめしている。梅雨が近づいてきたのだ。この日は祐都は塾があるから、涼介は一人で翠の家に行った。 最近では、チャイムを一度押すだけで翠は出てきてくれる。しかし、今日は一度、二度と押しても彼女は出てこなかった。出掛けているのかもしれない、と思いながら三度目を押すと、翠はやっと出てきた。 彼女は携帯電話を耳に当てていた。電話中だったらしい。涼介に目で挨拶すると、 「お友達が来たから切るよ。……え? ……だから、自分のことくらい、自分でできるから」 そう言うが早いかすぐに電話を切った。翠にしては乱暴な動作だった。 「ごめんね。なんでもないから」 翠はすぐに涼介をいつもの部屋に通してくれた。その表情はいつもより少し硬かった。 涼介は不思議に思ったが、すぐに部屋に置かれたキャンバスに目を奪われた。例の、緑色で塗られた絵だ。 涼介や祐都が来るたびに、その絵は少しずつ手が加えられていたが、今日ははっきりと絵の中に一つの輪郭が浮かび上がっているのがわかる。 植木鉢だった。翠が自分で割ったと言っていた、あの植木鉢である。 本物の色とは違って、背景の緑色に溶け込むように、やはり緑色になっているが、間違いない。それは、大きな画面の中央に存在感を示していた。 「だいぶ進んだでしょう? あと少しで完成するよ」 翠は得意そうに言った。 「うん」 翠は「なぜ壊したかは、秘密」と言っていた。その秘密とはこれだったのだ。 涼介はこの絵が好きだと思った。完成に近づくたびに、緑色の温かな光がキャンバスに宿っていくようだ。 翠はリビングで飲み物やお菓子の準備を終え、未だに絵を見つめる涼介を眺めていたが、やがて、思いつめたような声で「涼介くん」と呼びかけた。 「なに」 「聞いてほしいことがあるの」 涼介が翠のほうを向くと、彼女は真剣な顔をしていた。 「その植木鉢を割ったのはね。私じゃなくて、おじいちゃんなの。この家に住んでいた……」 「え?」 涼介が驚くと、彼女はうなずいた。そして、涼介を促してリビングの椅子に座らせると、自分も席に着き、話を続ける。 「涼介くんも知ってたよね。この家に住んでたおじいちゃん。その人は、私のおじいちゃんなの。だから、私はそのおじいちゃんの孫なの」 「そっか」 「うん。でもね、おじいちゃんは、今年の春に……亡くなったの」 翠は低い声で言った。涼介はまたも驚き、なんと言っていいかわからなかった。 「今年の五月だった。ちょうど、涼介くんと祐都くんが来る一週間くらい前。おじいちゃんは心臓の病気で亡くなったの。この家で庭仕事をしてる最中に、発作が起こって。あの植木鉢に土を入れてるときに、倒れたのね。それで植木鉢は割れちゃった。おじいちゃんは亡くなった。私、それを聞いて、大学はそっちのけでこの家に来た……」 翠は自分が描いた絵の中の植木鉢を見ながら言った。 「おじいちゃんは、私の、画家になりたいって夢を応援してくれてた。……でも、私の両親は、違った。画家になるためには美大や芸大に行くのが一番なんだけど、両親は反対してた。そりゃあ、お金はかかるし、私に才能があるかどうかなんてわからなかったから、しょうがないけどね。だから普通の大学に行ってる。でも、やっぱり画家になりたくて……おじいちゃんは、私だけにこっそりと、独学でも必死に勉強すれば画家になれるって教えてくれた。だから今でも、両親に内緒で絵を描いてる。親に指図されるんじゃなくて、自分がやりたいことをやろうって思った」 涼介は黙って聞いている。 「でも、おじいちゃんが死んじゃったら、やっぱりどうしていいかわからなくなって……さっきの電話でも、お母さんにはちゃんと大学に行けって言われた。そんなこと、私だってわかってるよ……」 翠は目を伏せた。泣いているわけではなかったが、声は沈んでいた。 涼介は、自分の母親のことを思い出した。あの人も、翠の母親と同じで、本当に自分のことを理解してくれているとは思えなかった。 涼介は翠の家を出て、自分の家へ向かった。翠はもう元気を取り戻していたが、これからどうするつもりなのだろう。 今は五時半過ぎだが、空は少しだけ暗い。涼介は翠のことを考えながら歩いていた。彼女を助けるために、自分にできることがあるだろうか? 自然と歩みがゆっくりになっていた。いつもより時間をかけて家に向かった。 家に近づくにつれ、涼介は自分がうっかりしていたことに気が付いた。庭には母の車が置いてある……つまり、もう母親は帰ってきているということだ。 五時までには家にいないといけない。この約束を守っていなかったことが母親にばれてしまう。 涼介は恐る恐る玄関の扉を開けた。鍵は開いていた。家に入ると、母親が料理をしているのだろう、キッチンのほうから水が流れる音が聞こえる。 「ただいま……」 涼介はキッチンに向かって呼びかけたが、弱々しい声になってしまった。 水道の蛇口をひねる音が聞こえ、水音が止んだ。玄関に向かって足音が近づいてくる。 「……おかえり」 母親だった。いつもより低い声だ。 「こんな時間まで、なにしてたの」 「……」 そういえば、母親には、もう翠の家には行くなと言われていた。涼介は返事に困る。嘘をついて、祐都と遊んでいたと言おうと思えばできるが、彼を巻き込みたくはない。 涼介が黙ったままでいると、母親は腰に手を当てて、 「例のお家に行ってたの?」 と、涼介にとっては耳に痛いことを訊いた。やはり涼介はなにも答えないので、母親は厳しい声で、 「もう行かないでって言ったでしょ? なんでお母さんの言うことを聞かないの?」 「……なんで、行っちゃだめなの?」 もう我慢の限界だった。 「あの人、良い人なんだよ。母さんは知ろうともしないけど」 「涼介、勝手に近所のお家に押しかけるのは……」 「この家に帰るのがいやだから、あの家に行くんだよ、オレは」 「なに言ってるの……?」 「母さんはオレのことなんか興味ないんだ。オレがなんであの家に行ってるかなんてどうでもいいんでしょ? もう、こんな家……」 涼介はそこまで言うと、玄関の扉を再び開けて、外へ飛び出した。母親が「待ちなさい! 涼介!」と叫ぶのが聞こえたが、立ち止まらなかった。 立ち止まると、涙が出そうだったから。 そこから再び翠の家へどのようにして行ったのか、あまり覚えていない。日が落ちようとしていることはわかった。 ドアを開けた翠はひどく驚いていた。涼介が事情を説明すると、複雑な顔をした。 「でも、このまま家出したままじゃだめでしょう……?」 と、ひどく常識的なことを言った。翠ならわかってくれそうな気がしていたので涼介は少しショックを受けたが、「ちょっとの間でいいから」と頼み込むと、翠はやっと頷いた。「ちょっと」とはどれくらいの時間を指すのか、涼介にもわからなかったが。 涼介はいつもの部屋に案内され、椅子に座った。翠は涼介にジュースを持ってきて、自分はハーブティーをすすりながら、 「きっと、お母さん、心配してるよ」 「どうかな」 涼介は投げやりに言った。母親は心配するだろうか。涼介を探しに来るだろうか。 「絶対そうだって。今頃、近所を探し回ってると思うよ。……もしお母さんがここまで迎えに来たら、ちゃんと仲直りしてね」 涼介は何も言わなかった。はたしてその通りになるだろうか。母親は自分には全く興味がないはずなのに。 もし母親が来たとして、どうやって仲直りすればいいのだろう。さっきみたいに母親に食ってかかったのは、始めてだった。いつも涼介は母親に逆らわないようにしてきた。母親が見ていないところでだけは自由だった。 涼介が物思いに沈んでいると、翠が声をかけた。 「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。……それとね、涼介くん」 「うん」 「ありがとう。……私のこと、かばってくれて」 涼介が母親に「翠は良い人」だと反論したことについてだろう。涼介は照れながら、「どういたしまして」と呟いた。 翠はうなずいた。そして、部屋のドアに目をやった。向こうの部屋には、例の描きかけの絵が置いてある。 「ねえ、約束して。涼介くん」 「なにを」 「私、お母さんと仲直りするから。涼介くんも、お母さんと仲直りすること」 「……」 涼介は考えた。自分が翠のためにしてあげられることは少ない。自分が母親と仲直りすることがそのうちの一つなら、やるしかないと思った。 「わかった」 「ありがとう。約束ね」 翠は微笑んだ。テーブルの向こう側から右手を出して、小指を差し出してきた。涼介も右手を伸ばして、指切りをした。 すると、玄関のチャイムの音が聞こえた。涼介は一気に緊張する。 翠に背中を押されながら、玄関に向かう。体がうまく動かなかった。 翠が前に立ってドアを開けると、外にいたのは涼介の母親だった。 「あの! うちの子を知りませんか……」 母親は焦ったように言った。いつも几帳面で冷静な声とは似ても似つかない。翠は微笑んで、涼介の腕を引っ張って母親の前に立たせた。母親は「ああ!」と声を上げると、膝からくずおれるようにして涼介を抱きしめた。 「涼介! 心配したのよ、突然飛び出して……」 涼介は驚いて何と言っていいかわからなかった。でも、すぐに自分が悪かったのだと心から思った。母親がこんなに取り乱しているのを見るのは初めてだったのだ。 「ごめんなさい……」 「ううん、お母さんも謝らないと。涼介の話を聞こうとしなくて、ごめんね」 涼介は友達のためになにかをすることは得意だったが、自分の気持ちを言葉にするのが苦手だった。母親もまた、涼介を心配する気持ちを素直に表現するのが苦手だった。それだけだ。 涼介は涙が流れるのを止められなかった。だが、母親も泣いていたので、気にする必要はなかった。 親子はひとしきり泣くと、二人ともなんだか晴れ晴れとした気持ちになったようだった。そして母親が翠に「息子がいつもお世話になっています」と改めて挨拶したのは、涼介にとっては気恥ずかしかった。 母親と仲直りした日から、涼介は夕食のときにはよく喋るようになった。母親もうなずきながら聞いている。今まではめったに学校の話はしなかったけれど、母親というものは、意外と息子のクラスメートの名前をよく覚えているものだ。これは新しい発見だ。 息子のために、母親は相変わらず毎日仕事に精を出している。だから母親の帰りはやはり六時だけれど、涼介が翠の家に行っていて帰りが遅くなっても、厳しく注意することはなくなった。しかし、行先だけはしっかり確認する。過保護だ。 一週間ほどが経ち、翠が描いていた植木鉢の絵は完成した。涼介が一人で彼女の家に来ているとき、それを披露してくれた。 そして、庭に長い間置かれていた植木鉢も撤去された。 「割れた植木鉢を放置してたら危ないからね。でも、ほら。絵なら、ぜんぜん危なくないでしょう?」 その絵は、割れた植木鉢と、それを拾おうとする老人の手が描かれている。まるで絵の中で老人が生きているようだ。 やはり涼介にはこの絵が素晴らしく思えた。翠はそのことに気づいたのか、涼介に声をかけた。 「この絵、涼介くんにあげるよ」 「え、でも」 「いいから。祐都くんには内緒ね」 と、翠はいたずらっぽく笑った。 涼介は、ありがたく絵を受け取った。家に持って帰ると、母親も「素敵な絵ね」と感心していた。この絵は自分の部屋に飾ることにした。絵からは、かすかにあの独特の絵の具のにおいがした。 六月になろうとしていた。梅雨前だというが、この日はよく晴れている。 涼介と祐都は二人で翠の家へ行った。翠はいつものようにリビングに通してくれたが、やがて真面目な顔で、こう言った。 「私、明日、下宿に戻ります」 少年二人は驚いた。今まで、彼女はそんな素振りは見せていなかったからだ。 話を聞くと、翠は涼介と母親が仲直りをした次の日に電話をかけ、自身の母親と仲直りをしたようだ。そのときに、まだ画家の夢を諦めていないことも告げて、母親にはひどく驚かれたらしい。翠は夢を諦めてはいないが、親の望み通り大学に戻り、学業と絵の両立をするという。 翠は涼介との約束を守ったのだ。自分の母親と仲直りするという約束を。 涼介も祐都も押し黙ってしまった。突然、会えなくなるなんて想像もしていなかったのだ。 涼介はうつむき、祐都は泣きそうな顔をしている。そんな二人を見て、翠も少し寂しそうに笑った。 「ごめんね、突然で。……夏休みには、また帰ってくるから」 その日は、豪華なティータイムだった。翠がケーキを用意してくれたのだ。甘いショートケーキだった。 涼介はなんだか熱いものが飲みたい気分だった。それで、翠にハーブティーを淹れてくれるように頼んだ。祐都も「じゃあ、ぼくも飲みたい」と言ったので、翠は驚きながらも二人にハーブティーを淹れてくれた。 涼介が前に試した時よりも、不思議なことに香りは気にならなかった。むしろ心地よいと思った。飲んでみると、すっきりとしていて飲みやすい。ケーキの甘いクリームとの対比で、おいしかった。 「おいしい」 涼介が呟くと、翠は満足そうにうなずいた。 静かな午後だった。窓の外では、かつて翠の祖父が植えた木々が光を浴びて揺れていた。
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