阿吽の廻廊
孑孑�ｦ子孑子

　嗚呼。今際の刹那に声が漏れる。泡沫の生涯を憂い、剃髪の末山野に篭りて幾星霜。絵心の拙さに任せ取留めなく描き散らして来た景色が、眼前に映る白昼夢を前にして吹き絶える。凡そ私の希求した美が、此処に在ったとは。
　かの光景を、如何に形容しようか。綺綺麗麗と煌く白金の礫の霧時雨。昏く夜空映ゆる明鏡止水の汐。乾坤天地悉く混沌たる開闢の宴。事此処に至って、自らの詩文の非才を嘆く事に為ろうとは。去り往く此岸に後ろ髪を引かれ乍ら、私は地を蹴る。
　死とは何ぞや。須らく衆生が至る問いに、平生の凡愚なる私は短絡を来たす。『生者遍く死を迎える。其の義を問うて如何にする』と。只の逃避に言葉を飾り、真理究めたる体に耽溺した。知識は知恵に非ず。尽くして猶究めるに足らず。呈した疑義に詭弁を返す私は、斯くも自明なる光明を見落としていた。
　兎にも角にも突き動かされるように闇を直走ると、所謂走馬燈なる類が幽玄に踊る。何重とも知れぬ五色の閃きは、頬を掠める様に爆ぜて追憶を強いる。二度程?まえようと幾等かに手を伸べてみるも、過ぎ去った遠い過去は蛍雪の様に腕を潜り抜けては耳元でけらけらと嗤うのだ。
　塗り込めた様な闇は、光と戯れる内に薄く淡く崩れ始める。猫撫で声の記憶の欠片も、次第に数を減らして往く。残された私は誰にとも無く問うた。果ては何処にあるのか、と。左手を突然取られる感覚に面食らう。ふと目を向けると、それは嘗て想いを寄せた女性だった。
『変な人』
ほとほと呆れた様な声は、別離の際に焼き付いた物と同じ響きを孕んでいた。待ってくれ。乱れた歩調を整えることも出来ず引き摺られ乍ら、私は前を往く背に声を掛ける。無意味な事と内心理解して居ても。目を合わせる事も無く直走る背が、少しずつ大きくなる。最早自らの身体を顧みる事も出来ぬまま、開く歩幅の差を必死に詰める。
　闇の果てに光が見えた。悠久を匂わせた夢は覚醒の時が迫り、曙光に溶ける夜の様に闇が退いて往く。
『佳い夢を』
　乱暴に手を振り解かれる。理解が追いつくのを待たずして、本能が身体を突き動かす。瑠璃色を帯びた光に向かって。連綿と続いた夜闇の彼方が泡沫の夢の果てであると。老人の枯れた身体は瑞々しく、縮む手足は臍を中心に丸く、眠るような佳い夢を　　。
「　　わあ、おめでとうございます、元気な男の子ですよ！」
　　　を経て、私美しき泡沫の夢から美しき泡沫の現実へと覚醒めるのだ、再び。
「ん、ああ、あああああああああああああああああっ」

　赤子が生れ落ちて泣くのは、感激か、慟哭か。
　阿から吽まで、輪廻の廻廊が一回りした。

〈了〉

　









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