夜王物語(V)
秋野 優

 明日香さんの手に抱えられた陽菜は記憶とは違い随分ときれいな姿をしていた。
 そうまるで、生きているような。
「ガワなんてもんは、どうとでもなるのさ。中身は空っぽだがな」
 中身というのはケルベロスに食い散らかされたであろう臓器のことなのか、それとも、魂を指しているのか。そんなことを考えるが、すぐにどうでもいいことだと切り捨てる。大事なのは彼女が本当に生き返るのか、それだけだ。
「さぁて、明日香。それ、テーブルの上にでも置いてくれ」
 まるで物を扱うかのような物言いに、少しムッとしたが心の中で留める。余計なことを言って、ヴァレットの機嫌を損ねても困るからね。
 そう思っていることをヴァレットも察していたのか、こちらに向いてニヤリと笑った。……つくづく性格が悪いな、こいつは。
 ヴァレットの口ぶりとは真逆に明日香さんは陽菜の体を優しく机の上へと降ろした。その後、彼女はヴァレットの後ろへと控える。
 横たわる陽菜の頬へと恐る恐る手を伸ばす。ただ、冷たい。
 その当たり前の冷たさが、彼女は死んでいるのだ、という事実を改めて突き付けてきた。その冷たさが心まで凍りつかせそうな気がした。
 自分でとどめを刺しといて、白々しい。頭の中で誰かが嗤った。
 そんな声を無視しながら、あふれそうになる感情に蓋をした。
「朋希よ、人、動物でもいい。命あるものは死んだらどうなると思う?」
 ヴァレットが立ち上がりながら、僕へと問いかける。そちらへと注意を移し、陽菜から手を放す。
「天国へ召されるとか地獄に堕ちるとか、そういう事?」
 少し考えた末、そう答える。
 死後の世界のことなんて真剣に考えたことなんかない。なかったのだが、臨死体験とでもいうべきものを経験してしまうと他人事でもない様に思えてしまう。
「まぁ、そんな感じだ。所詮、世間話だから適当に答えろ」
「そうだね。魂になってこの世を彷徨う、とかどうかな」
 大切な人が死んでも、その残り香がどこかに存在していると思ってたいから。例え、二度と触れ合うことができないとしても。
 僕のそんな答えに満足したのか、ヴァレットは頷きながら机を挟んだこちら側へとゆっくり歩いてくる。思わずその姿を目で追った。
「なかなかいい答えだ。当たらずとも遠からずというとこだな。確かに魂は存在している。もっとも、普通は見ることすら出来ないが」
 椅子に座る僕の後ろで足音が止まった。ヴァレットは続ける。
「でも、その魂はお前らが生きているところを彷徨っている、なんてことはない。魂は体から抜け出た瞬間、どこかへと消えてしまうんだよ、まるで初めっから存在なんてしてなかったかのような顔をしてな」
 頭上から声が降ってくる。
 改めて目の前に横たわる陽菜の体へと目を向ける。ヴァレットの言葉通りならば、陽菜は魂のない抜け殻だとでもいうのだろうか? そして、その魂は行方も知れず、戻ってくることがないとでも言いたいのだろうか?
 無理やり塞いでいた傷口が開くようなじくりとした痛み。心臓の奥底からドロドロとしたものが流れ出ていくような錯覚を覚える。
「では、魂はどこに消えるのか? 天国に召されるのか? 地獄に堕ちるのか? 違うな。世界を、超えるんだよ。太陽の昇る世界から、太陽を堕とす世界へとな」
 そこまで言われてしまったら、理解できてしまった。
 つまりは、僕らの生きていた世界から、ここ堕陽郷に移るということだろう。ここは天国で地獄だったわけだ。
 それなら、陽菜の魂もこの世界へと移ってきているのだろうか。それを手に入れさえすれば、陽菜は生き返るのだろうか。それはどこにあるのだろうか。
 思考が何度目かのドツボにはまる。
 陽菜のことを考えて、陽菜のことで悩んで、陽菜のことに葛藤して、陽菜のことが頭の中を埋め尽くしていく。心がすりつぶされていく。――どうして、陽菜がいないんだろう?
「堕陽郷にはこの瞬間にも数千の魂が流れ込んでいる。それらは混ざって、融けて、この世界を満たす。この世界の生き物は魂を吸って生きてるからな。もちろん、俺もお前も例外じゃない。まぁ、空気みたいなもんだな。そして、」
 僕の後ろに立つヴァレットの顔を僕のほうから伺い知ることはできない。反対にヴァレットも僕の表情を見ることはできないのかもしれない。
 見えていたのなら、少しでも喋るのを止めただろう。おそらく今の僕からは表情が抜け落ちているだろうから。
「  で? それが陽菜を生き返らせることとどう関係してくるのさ。蘊蓄を垂れ流すのが随分好きみたいだけど、今の僕にとってそんなことどうでもいいんだよ」
 感情のない声で告げる。普段だったらもっと心穏やかに聞けたのかもしれない。新しい知識を手に入れること自体はむしろ好きな性質だ。
 でも、陽菜の死体を目の間にして、これ以上、耐えることはできそうになかった。ぐるりと首を回し、彼を見る。
「あぁ、良いなぁ。すごく良い。特に眼が良い。その調子だ。もっと俺を恨むといい」
 ヴァレットの声に興奮の色が混じったのを感じた。
「もっと焦らして、もっともっと恨まれるのも捨てがたいがな。まぁ、お望み通り、細かいことは後回しにして、ちゃっちゃと済ませてしまおうか」
 僕の肩越しにヴァレットの手が差し出される。その手は僕の目の前、テーブルの上に一本のナイフを置いた。
「覚えてるか? 忘れられないよなぁ」
 妹を殺したナイフなんだからな。
 耳元で囁かれれる。
 白銀に輝く小ぶりなナイフ。その切っ先には赤黒く変色した汚れがこびりついていた。それが、あの時の記憶を否応なしに思い出させる。
「方法は簡単だ。この世界に融け込んだ、お嬢ちゃんの魂を引き戻してやればいい。それができるのは殺した本人、魂と最後の縁を持っている者だけだ。蘇生術っていうよりは死霊術に近いか。っと、分かってる。無駄話はこれくらいにしとくさ」
 手順は簡単だ。凶器に触れて、故人のことをひたすら考える。後はヴァレットが引き戻された魂を陽菜の体へと戻す。
 ヴァレットが語った方法とはそんなものだった。随分と大雑把なものだが、それで陽菜が生き返るのなら文句はない。
 ゆっくりとナイフへと右手を伸ばす。ひんやりとした感触が伝わってきた。
「最後に一つだけ忠告しておく。人に戻れるなんて考えるな。お嬢ちゃんの魂は程度の大小はあれど、他の魂と混ざり合って汚染され、削られてるんだ。蘇ってもそれは人じゃない。自我を失うことはないにしろ、どういう形で蘇るかは運しだいだ。さぁ、始めるぞ」
 抗議の声を上げる暇もなく、肩に手を乗せられ、背後から何かを唱えるヴァレットの声が聞こえた。陽菜の体が仄かに光る。
 くそ、これじゃ言い逃げじゃないか。始まってしまったからには失敗させるわけにはいかない。
 苛立ちそのままに、目を瞑り、精神を集中する。ナイフの冷たさを感じながら陽菜のことを考える。
 僕の最初の記憶は僕がまだ言葉すら得ていなかった頃、そんなころの記憶だ。隣を見れば陽菜が幸せそうに寝ていて、それを見て僕も眠りに落ちる。そんな光景。
 そこから続く僕と陽菜の十数年の思い出。その中に両親はほとんど存在していない。
 母親は享楽主義者だった。楽しいことにしか興味がなかった。本人曰く、『もう子育てに飽きた』らしい。僕らが中学に上がったころには家からいなくなっていた。
 父親は悲観主義者だった。楽しいことを見つけられなかった。本人曰く、『この世には絶望した』らしい。僕らが小学五年生になった春、突然世を儚んでしまった。
 物心ついたころにはあの二人はお金を生産する機械にしか見えていなかった。だから、僕らはたった二人の家族。
 様々な出来事が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
 幼稚園の時の遠足。小学校への通学路。中学生の時の放課後。高校での他愛のない会話。幸せで、幸せで、幸せで、幸せで、幸せだった思い出。
 そして、あの夜へと至る。激痛。絶望。憤怒。あの時の気持ちがあまりにも新鮮に駆け巡る。最後の場面は虚ろな目をした陽菜の顔だった。


 何十、何百回と思い出を巡る。もはや、時間の流れさえ忘れ、どれほどの時間こうしているのか分からなかった。
 ふと、気配を感じた。一度感じてしまったら、それまで気づかなかったのが不思議なくらいに強くはっきりと感じる。
 例えるならそれは糸だった。今にも切れてしまいそうな頼りない糸。片方は僕自身に、もう片方は虚空へと繋がる。これが縁、なのか? 
 その糸を少しずつ手繰り寄せる。千切れないように、丁寧に。ゆっくり、ゆっくりと。
「そこまで引き戻せば十分だ」
 ヴァレットに声と共に糸が千切れる。思わず目を開けると、仄かだったはずの光が、大きく明滅を繰り返していた。
「さぁ、本日のハイライトだ」
 肩をつかむヴァレットの手に力がこもる。瞬間、陽菜の体が燃え上がった。エメラルドの炎。その炎は一瞬で消え、そこに残されたのは卓球の玉ほどの大きさの一つの種だった。
 失敗、したのか? 絶望が頭をよぎる。
 しかし、その種は一瞬震えたかと思うと、小さな芽を出した。それは見る見るうちに成長し、数十秒後にはかなりの広さがあったはずの部屋を埋め尽くすような大木へ変わっていた。テーブルの上は小さなオレンジ色の花で埋め尽くされている。周囲に甘い香りが立ち込める。
 その花が一枚一枚と風もないのに騒めく。一枚、一枚と散ってゆく。橙の花びらが舞う中、最後に残ったのは机の上に横たわる緑色の髪を持った女性だった。その姿は僕の記憶にある姿とは違った。しかし、確かに彼女は陽菜の面影を残していた。
「陽菜?」
 声がかすれる。ガタンと何かが倒れる音がした。僕は立ち上がったらしい。そんなことを他人事のように考える。
 その音に反応したのか、目の前の女性が少し身じろぎする。ゆっくりとその瞳が開いていく。柔らかな橙色。目が、合った。
 あぁ、陽菜だ。そう確信する。
「朋、くん?」
 耳に慣れた心地よい声が鼓膜を震わせる。気づいた時には僕は陽菜の体を抱きしめていた。
「ちょっと、痛いよ」
 そんな声が聞こえたが一層強く抱きしめる。もう、離れていかないように、離さないように。
 頬に何かが流れたのを感じた。
「ごめん。ごめん、陽菜」
 何とかその言葉だけ絞り出した。
 守れなくて、ごめん。殺しちゃって、ごめん。人のまま生き返らせてあげられなくて、ごめん。
 心の奥底に仕舞い込んでいたはずのそんな思いが溢れ出す。
 僕の都合だけで殺して、僕の我儘で生き返らせて、陽菜のことを弄ぶにも程がある。許してくれなくていい。恨んでくれたっていい。罪の意識から逃れるためだろって、罵ってくれればいい。
 でも、僕はこれ以上、君がいない世界に耐えることはできそうになかったんだ。
「もう、泣かないの。朋くんって、そんなに泣き虫だっけ?」
 僕の背中に手が回され、まるで子供をあやすようにさすられる。その手は確かに暖かかった。


 それからどれほどの時間がたったのだろう。ようやく落ち着いた僕は改めて陽菜を見る。
 茶色だったはずの髪は鮮やかな緑に変わり、肩ほどまでの長さだったはずが、背中を通り過ぎて腰へと届こうとしていた。
 瞳は周囲に散らばる花びらと同じような橙色。その花の名前は僕には分からないが、甘い匂いが部屋の中に漂い続けている。どこかで嗅いだことがあるような、なんだか懐かしい匂い。
 先ほどまではブレザーだったはずの服装は、白いワンピースのようなものへと変わっている。
「髪、伸びちゃったねー。もったいないけど切らなきゃだね。ちょっと、鬱陶しいし」
 髪をつまみながら陽菜が告げる。記憶にある限り陽菜がここまで髪を伸ばしたことはなかったはずだ。少し新鮮な気分で陽菜を眺める。
「ところで、朋くん。後ろのお兄さん、お姉さんのことは紹介してくれないの?」
 陽菜が僕の後ろを指して言う。僕が後ろを振り向くと、にやにやと笑うヴァレットとその隣で静かにたたずむ明日香さんがいた。
 経緯はどうあれ、陽菜を生き返らせてくれたのは紛れもなくヴァレットだ。感謝の一つでも伝えなければ、そう思って口を開きかける。
「おや、もう兄妹の感動の再開はいいのか? せっかくだ。もうちょっと続けてくれても構わんぞ。先ほどまでにらむような顔しか見せなかった相手の泣き顔を見るというのも、中々に良いものだ」
 開きかけたのだが、そのまま閉じる。先ほどまで存在を忘れていたヴァレットの発言に途端に恥ずかしくなった。知り合って数時間の相手の前で思いっきり泣いてしまった。
 黙って陽菜から少し離れる。その姿を見て、より一層にやにやと笑うヴァレット。心なしか明日香さんの顔にも笑みが浮かんでいる気がするのは気のせいだろうか。
「ほら、紹介してくれよ。お兄さん」
「……ヴァンパイアのヴァレット」
 不本意ながらヴァレットを手で示しながら紹介を始めた。
「ヴァンパイア・ロードで、この屋敷の主らしい。この人のせいで僕は半ヴァンパイアになっちゃった。性格の悪い自殺志願者」
「どうも、お嬢ちゃん。朋希の紹介の通り、ヴァンパイア・ロードのヴァレットだ。これから末永く、かどうかは分からないが、ともかく。よろしくな」
 陽菜に向かって手を差し出す。握手ということだろう。陽菜もそう思ったのか未だに座り込んだままだった机を降り、その手を取る。
「よろしくお願いします。知ってるかもしれないけど、白河 陽菜です。朋くんを助けてくれて、ありがとうございました」
「おいおい、兄貴よりも随分、礼儀正しいじゃねぇか。実は兄妹逆だったりしないか?」
「うるさい。いい加減、手を放しなよ」
 握手したままだった二人の手を振りほどき、明日香さんの紹介へと移る。明日香さんは僕が目を向けると、優雅にスカートをつまみ一礼した。
「この屋敷のメイドをしております。明日香=オルディスです。何か御用がございましたら、遠慮なく申し付けてください」
 明日香さんの苗字はオルディスというらしい、ハーフか何かなのだろうか? 確かに純日本人にしては珍しい髪の色をしてはいるけども。
「おぉ、リアルメイドだ。秋葉とかにいるアレじゃなくて、本物のメイドだ」
 なぜ二回言った。気持ちはわかるけどさ。
 今度は陽菜から明日香さんへと向かって手を差し出す。明日香さんは一瞬、驚いたように表情を変えたが、すぐに微笑んでその手を握る。
「明日香さんも、朋くんがお世話になりました。ありがとうございます」
「いえいえ、私がしたのは紅茶をお出ししたくらいなものですよ。それにご主人が誰かを連れてくるのは久しぶりなので私も楽しかったです」
 こうして自己紹介は終わった。
 会話を聞く感じでは、心配していたような自我の消失とかはなかったらしい。本当に良かった。そうなると気になってくるのは彼女の容姿の変化である。
 ヴァレットの言う様に陽菜はもはや人間ではないのだろう。地球上に存在しえないようなカラーリングしてるし。まぁ、僕も人のこと言えないけど。
「ヴァレット、陽菜って何になったのさ?」
 明日香さんと仲良く盛り上がっている隙に、少し離れたところにいたヴァレットへと近づき、囁く。
 本人に聞かせないのは、彼女が人間じゃないということにショックを受けるんじゃないかと思ったからだ。本人には様子を見ながら、ゆっくりと伝えたい。
「あぁ、お嬢ちゃんな。ありゃ、ドリアードだな。霊族の中でも精霊種に区分される。簡単に言うと樹の精霊だな」
「ちょ、声が大きい! 陽菜に聞こえる!」
「はぁ? 本人に教えなくてどうすんだよ。と言うか、とっくの昔に本人は知ってるよ」
 ……え? どういうこと?
 慌てて陽菜の方へと目を向ける。彼女は僕が見ていることに気づくと、苦笑いしながら頷く。
「うん、知ってるよ。気が付いた瞬間に、どばぁー、って頭の中に流れ込んできたんだ」
 何だか聞いたことあるような話だ。ヴァレットから注がれた血に刻まれた記憶を見る僕のものとは違うのだろうけど、彼女にもそれと似たようなことが起こっていたらしい。
 それは本能とも呼べるものなのだろう。例えば、カッコウの雛は托卵された先で誰に教わるでもなく、本来の巣の主である未だ孵らない卵を巣の外に放り出すという。
 そんな誰に教わるでもなく受け継がれていく知識。それがドリアードという種にもあるってことだろうか?
「何たって樹の精霊だからね。こんなこともできるんだよ」
 そう言うと、陽菜は軽く指を振る。その動きに合わせて周りの木々が蠢き始める。部屋中を埋め尽くしていた大木は陽菜の近くへと成長を巻き戻すように縮んでいく。
 数秒後、彼女の隣には彼女の背丈ほどの木が一本伸びていた。その枝には橙色の花が無数に咲いている。
「うん、すっきりしたね」
 陽菜が満足そうにうなずく。確かにいつまでも部屋中を木が埋め尽くしたままだったら、不便だろうけど。
「ほお、生まれて数十分でここまで木を操るか。将来有望だな」
 ヴァレットが感心したように声を上げる。陽菜もちょっと得意そうだ。
「えへへ、ありがとうございます。ぶっつけ本番だったけど、思ったよりうまくできました」
「それじゃあ、その木は庭にでも植えておくか。どこに植えて良いのかは、明日香にでも聞いてくれ」
「かしこまりました。それじゃあ、陽菜様。ご案内いたしますね」
 ヴァレットにそう言われ、陽菜と明日香さんは部屋を出ていく。このまま、庭に出て位置を確認した後、あの木を植えるのだろう。と思ったのだが、すぐ陽菜が帰ってきて、ちょいちょいと手招きする。
 ん? 僕を呼んでるのかな? そんなことを思ったがすぐにその予想は覆されることになる。
 木がぶるぶると震えたかと思うと、独りでに歩いて彼女に着いて行った。
「……陽菜まで。変な事し始めた」
「いい加減慣れろよ。お前だってあの駄犬の血、操りまくってただろうに」
「それはそうだけど。自分の家族が染まりきってるのを見ると、クるものがあるんだよ」
 二人が去った扉を見つめそうしみじみと呟いた。
?
【二――三】樹精霊のキョウキ
 朋希がヴァンパイアと化し、陽菜がドリアードと成ってから数時間後。朋希と陽菜は割り当てられた部屋へと移動し、ヴァレットは食堂でグラスを傾けていた。その後ろには明日香が静かにひかえている。だが、その部屋にいたのはその二人だけではなかった。
「お嬢ちゃん。どうせ見るなら、中に入ってみたらどうだ?」
 ヴァレットが入り口に背を向けたまま、そこに隠れる影に向けて告げる。その言葉と共に明日香が入り口へと向かい、その影を部屋へと引き入れる。
 明日香の後ろに続いて、部屋へと入ってきたのは翡翠の長髪に橙の瞳を持った少女。白河 陽菜だった。
「朋希と話してたんじゃなかったのか? 積もる話もあるだろうに。まぁ、良いさ。適当な席に掛けると良い」
 やはり、後ろを振り返ることなく彼女に席を勧める。
「いえ、朋くんには、ちょっと外の空気を吸ってくるって言ってあります。そんなに時間をかけるつもりありませんから」
 陽菜は数時間前より幾分トーンの低い、落ち着いた声でそう告げる。その瞳にはある種の覚悟のようなものが浮かんでいた。
 そうまるで、決死の戦いに赴く前の様に。
 その言葉にヴァレットは皮肉げに笑った。肩をすくめ、初めて彼女の方へと目を向けた。
「そうか。じゃあ、さっさと用件を言ってくれ。あの少年がお嬢ちゃんが帰ってこないことで、また暴走しても困るからな」
「ヴァレットさん。改めてお礼を言います。朋くんを救ってくれて本当にありがとうございました」
 そう言って、彼に向かって深く、深く頭を下げる。それは彼の予想とは違っていたのか、少し驚いたような視線を彼女に向けた。
「おいおい、本当に礼儀正しいお嬢ちゃんだな。と言うか、朋希から事の顛末は聞いてるんだろ? それを踏まえての言葉か?」
 ヴァレットと朋希が交わした契約のことを指して、そう言う。グラスを握るヴァレットの右手の裾の奥には黒々とした蔦の文様が見え隠れしていた。
「ええ、ヴァレットさんが朋くんを鍛え上げるって事も、朋くんがヴァレットさんを殺さなきゃいけないって事も、全部聞きました。でも、それはそれで終わりでしょう? ヴァレットさんが朋くんを助けてくれたことの方が大事ですよ」
 陽菜の口調はさも当たり前のことを語るようだった。実際、陽菜はそれをなにもおかしな事だと思っていない。
 朋希の命を救った。陽菜にとって、その事実はほかの何よりも上位に存在しているのだ。ヴァレットの企みも意図も悪意も関係ない。それに言ってみれば、代償がたかがヴァレットの命である。朋希の命と比べるまでもない。
 それに、契約は朋希が全力を持ってヴァレットを殺す努力をすること。努力をすることであり、必ずしも殺すのは朋希でなくとも良い。そう、陽菜は考えていた。
 事実、彼女の予想はそう外れているわけでもなかった。朋希以外がヴァレットを殺したところで契約違反にはならない。
「だから、私がここであなたを殺してあげます」
 そうして、陽菜はこの部屋にやってきてから初めて、笑った。
 同時に彼女の周りから何本もの樹木や草が生える。それは優しい橙色をしたキンモクセイではなく紫や紅などの毒々しい色をしていた。
 ドリアードである陽菜が操れるのは彼女が宿るキンモクセイだけではない。彼女は樹の精霊であり、決してキンモクセイの精霊ではないのだ。キンモクセイはいわば、もっとも扱いやすい道具であり手足ではない。
「ここの庭ってすごいですね。植えてある草から木から全部毒があるんですもん。おかげでこんなにいっぱい用意できました」
 陽菜はそう言うと、右手を前にかざす。そこへめがけて、植物は集まりねじれ、まとまり、一本の槍になる。
 それは持ち手こそ木々の素朴な茶色をしていたが、先端に行くほどその色は鮮やかになり、そして禍々しくなる。
「あぁ、忘れてました」
 そう言うと今度は左手を挙げた。直後、背後からぐっ、とくぐもった声が聞こえる。
「朋くんが明日香さんに首に斧を突きつけられたって言ってたんでした。危ないなぁ。まぁ、本気で首をはねるつもりはなかったんでしょうけど。でも、邪魔されても困りますから、拘束させてもらいますね」
 もし陽菜が後ろを振り向けば、自身の背後数十センチの距離。そこで明日香が斧を振りあげた体勢で拘束されている姿が見れただろう。明日香に巻き付いているのは樫の木だ。しかも、屋敷の庭で異常な成長を遂げていたものである。
 朋希がナイフを投げた時は微動だにしなかった明日香が、本気ではないとは言え攻撃を仕掛けた。
 それは彼女がこの家の庭に生える植物の毒性のことを知っていたことも一因ではあるが、何より陽菜が本気でヴァレットのことを殺しにきていることを本能的に察したからであった。
「明日香、誰が攻撃しろと言った? 余計なことをするんじゃねぇよ。親切にもお嬢ちゃんが俺のことを殺してくれるって言ってんだ。是非とも、お願いしようじゃないか」
 ヴァレットは立ち上がり、陽菜の方へと向くとその穂先を自身の胸の上に当てる。
「分かるだろ? お嬢ちゃんがこのまま槍を突き出せば、心臓へと一直線だ」
 ――外すなよ? その言葉が終わらないうちに、陽菜は力一杯、穂先をヴァレットの体の中へと滑り込ませる。
 彼女の手に伝わった感触は確かに心臓を貫いたことを知らせていた。穂先に集まっていた数十種類の毒が冠動脈、肺動脈、大動脈とヴァレットの血管を侵していく。
 その勢いのままヴァレットを押し倒し、机へと彼の体を縫い付ける。それから何度もヴァレットの体を貫いていく。
「死ね。死ね。死ね。死ね。死ね」
 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も――。
「そろそろ。お辞めになってはどうですか?」
 傷の数が二百を数えた頃。槍を振り上げた陽菜の手に後ろから別の手が添えられる。陽菜が後ろを振り向くとそこには拘束していたはずの明日香が立っていた。その後ろでは樫の木がパチパチと音を上げながらも燃えている。そして、明日香自身も燃えていた。
 揺らぐ。人から炎へ。炎から人へ。揺らめいていく。そんな見た目に反して、陽菜を掴む彼女の手はむしろ冷たいくらいであった。
「これ以上やっても無駄ですよ。だって、ご主人様はもうこれじゃ死ねませんから」
 改めてヴァレットのほうを見る。そこには血まみれの槍を構えた陽菜を笑みを浮かべながら眺める吸血鬼がいた。
 彼は自らの体に刻み付けられた傷の一つを軽く撫でる。指が通り過ぎた後、そこには既に傷は残っていなかった。
「お疲れさん。いやぁ、惜しかったな。最初の三回くらいは死ねたんだがな。どうにも、生き還っちまう」
「……へぇ」
「すごく良かったよ。だけど、まだ足りねぇな。次に期待だ」
 笑う。嘲笑う。せせら笑う。獰猛に笑う。
「……そうですか。じゃあ、私は部屋に戻りますね。そろそろ戻らないと、朋くんが心配しちゃいますから」
 陽菜も笑う。朗らかに、鮮やかに、晴れやかに。白いワンピースを返り血で真っ赤に染めながら、何事もなかったかのように。最後にもう一度だけ、ヴァレットに向かって槍を突き刺す。
 陽菜はヴァレットに向かって軽く一礼すると、入り口に向かって踵を返した。それから振り返ることなく、彼女は部屋を去っていった。服を着替え、朋希の部屋へと向かうのだろう。
「ったく、まさか、妹の方が歪んでるとはなぁ」
 残された槍を自ら引き抜く。その槍は既にぐじゅぐじゅと腐り始めていた。
「まったく、迷惑な話だよ。数時間だぞ? 数時間。生き返ってからたったの数時間だ」
 現在進行形で腐りゆく槍の成れの果てを明日香へと渡す。明日香はそれを受け取ると、無言でそれを薪へと変えた。
「仮にも命を救った相手を本気で殺しにかかるか? 朋希でさえ、遠慮があったぞ」
 無数の穴が開き、もはや襤褸切れと化してしまった服を見て、顔をしかめる。
「しかも、あの毒、体の中から融かすタイプだった。性格悪いにもほどがある」
 先ほど陽菜が出て行った入り口の先、朋希と陽菜がいるであろう部屋の方へと目を向ける。
「まったく、」
 ――興奮しちまうじゃねぇか。
 ヴァレットの口元には隠し切れない笑みが浮かんでいた。






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