夜王物語(U)

秋野 優

「おいおい。うるせぇなぁ。俺は眠たいんだ。喧嘩するなら静かにしてくれねぇかな」
 薄暗い路地裏でも輝くような白銀の髪。地を濡らす血液よりも鮮やかで、見つめられた人を飲み込むような紅の瞳。僕の前に突然現れた彼はまるでおとぎ話の世界から迷い出たような容姿をしていた。
「おぉ、随分と飛んだな。にしても、どうしてこんな町中にケルベロスがうろついてんだ?」
 彼の視線の先には少し離れたところでうずくまるケルベロス。どうやら、彼が吹き飛ばしたらしい。
「さてさて、そこの少年。随分と格好いい姿じゃねぇか」
 もはや声すら出ない僕を見下ろしながら彼は言う。
「まぁ、どうせここに迷い込んでケルベロスに襲われたとかそんな感じだろうがな。ん〜、その傷じゃ、今から医者に見せたって助からねぇな。ご愁傷さま」
 顔に笑みを張り付けて彼は楽しそうに僕に告げた。しかし、僕はそんな言葉など耳に入っていなかった。先ほど吹き飛ばされたケルベロスがゆっくりと起き上がってきていたのだ。
 路地の奥の闇の中二つの光が煌めく。それはケルベロスの目であり、その目にはまごうことなき怒りの炎がともっていた。比喩ではなく本物の炎が。
 怪物は膝を貯め、飛ぶ。
「鬱陶しいんだよ。駄犬風情が」
 男は何の感慨もなく告げ、ケルベロスの巨体を腕一本で受け止めた。まるで、親が幼い子供を受け止めるかのように。なおも進もうとするケルベロスをゆっくりと眺めながら男が首をかしげる。
「ん? このケルベロス目が一個潰れてんな。そんで、少年の右手にこいつの血液、っと。ふむ、これ潰したの少年?」
 男はケルベロスを止めたまま、僕の方に振り返り、問いかける。
 あっけにとられた僕がうなずくと、彼はより一層その笑みを深めた。
「おい、おい。ケルベロスだぜ? 知ってるか? 目の一個や二個潰したところで一週間もすれば元通りだ。少年がやったことはただの労力の無駄だな」
 ニヤニヤと笑う。もはやそのふざけた態度に腹を立てる力すら僕には残っていなかった。
「だけど、俺そういうの嫌いじゃない。アレだろ? こういうの窮鼠猫を噛むって言うんだろ? いじらしいじゃねぇか」
 そう言うと、彼は僕から視線を外し、振り返る。
「んで、駄犬よ。うるさいって言ったろ? 俺は少年と喋ってるんだ。ちょっと黙ってろよ」
 依然として男に襲い掛かろうと唸っていたケルベロスを彼は睨みつける。
「邪魔」
 腕を振る。たったそれだけの動作でケルベロスは再び闇の中へと飛んで行った。
「うん、これで静かになったな。でさ、あそこに落ちてるアレって、少年の知り合い?」
 男はしゃがみこみ、僕と目を合わせながら自身の後ろを指さす。その先にはもはや血を垂れ流す装置となり果てた陽菜の姿があった。
「あぁ、分かった。分かった。知り合いな。分かったから、そう睨むなって。じゃあさ、」
 ――復讐したくないか?
 紅が僕の視界を奪う。脳が蕩ける様な甘美な言葉。まるで熱に浮かされた様に頷く。
「さぁ、聞かせてくれ、少年」
 彼は歌うように続ける。
「世界が憎いか?」
 頷く。
「運命が恨めしいか?」
 ――頷く。
「怒りで身が焦がれそうか?」
 ――――頷いた。
「なら、俺が牙をくれてやる。代わりに少年の人生をよこせ」
 男は立ち上がり大仰に手を広げる。それは天秤。片方には僕の人生が、もう片方にはあの化物に食らいつく牙が乗っている。
 迷うはずもなかった。
「こんな物で良いならいくらでもくれてやる。だから、力をよこせ」
 かすれて言葉にもなってないようなソレに男はより一層笑みを深めた。
「少年。名前は?」
 再びしゃがみ込んだ男が耳元で尋ねる。
「朋(とも)希(き)。白河 朋希」 
「それじゃあ、朋希。ようこそ、夜の世界へ」
 その言葉と共に首筋へ鋭い痛みが走った。続いて、何かが血管に流れ込む異物感。それは僕の中を流れていき、やがて僕の中心に達した。
 その瞬間、心臓が大きく跳ねた。脈打つごとに鼓動が早くなる。心臓から送り出された血液が細胞を満たすたびに細胞が変質していっているのを感じる。途方もない解放感。まるで、今まで自分にまとわりついていたおもりが一つ一つ外れていくような。目の前が真っ赤になって、戻って、真っ赤になって、戻って――
 同時に頭にナニカが流れ込んでくる。自分自身をすり潰されてグルグルとかき回される。ドロドロに溶けたそれをぎゅっと圧縮して、また融かされる。
 キモチワルイ デモ キモチイイ
 何かの箍が外れそうになった時、不意に首筋にあった牙の感覚が消えた。
 時間にしたら数秒にも満たないだろう。しかし、僕にとっては何千年にも感じた。
「よう、気分はどうだ?」
 声のした方へと顔を向けると、口元をゆがめた男が立っている。
「今までにないくらい最悪な気分だよ」
 先ほどよりもよっぽど力強い声で告げる。
「上々のようだな。では、改めて告げよう。ようこそ夜の世界へ。俺は不死の王。嘲笑する影。誇り高き吸血鬼真祖ヴァレット。我が眷属よ、歓迎しよう」
 男――ヴァレットが僕に向かって手を差し出す。掴まれということなのだろう。そう思って、その手を取った。グイッと力強く引き寄せられる。
 その力に逆らうことなく、僕はふらつきつつも数時間ぶりにしっかりと地面に足を着けて立ち上がることが出来た。
 あれ、何で立ち上がれてるんだ? そう疑問を感じるとともに僕の脳は答えを返してくれていた。
 曰く、ヴァンパイアに変わるとは生まれ変わることと同義。体は完全に死んでいるものを除いて新たな物へと作り替えられる。
 それはまるで生まれる前から知っていたかのように自然と僕の知識へと変わる。
 いや、僕が知識の言うようにヴァンパイアへと生まれ変わったのなら、それは実際に生まれる前から知るものなのだろう。これはヴァンパイアの血に刻まれた記憶なのだから。
「ふむ。全快とは言わずとも、左眼以外は概ね動ける程度にはなってるな」
 ヴァレットの言葉で左側の視界が未だに闇に閉ざされていることに気付いた。治らなかったのは残念だが、それを悲しむのは後で十分だ。
「さぁて、朋希。御覧の様に駄犬が起きだした」
 やっとくか?
 ヴァレットの言葉が終わる前に僕は駆け出していた。先ほどまで見えなかった闇の中がまるで昼のように見える。その視界にはゆっくりと体を起こすケルベロスがはっきりと映っていた。
 より強く踏み込む。血流が速くなる。
 一瞬の後、僕の体はケルベロスの腹の下にあった。力任せに体を跳ね上げる。ズドンと言う重苦しい振動が僕の鼓膜を震わせた。刹那の間、腕にかかった重みもすぐに軽くなる。勢いそのままに脇腹に回し蹴りを叩き込む。
 体が軽い。思考の通りに身体が動く。以前なら考えられないような芸当も軽々行うことができるだろうことが分かった。
 ケルベロスが壁にめり込む。今まではなかった血の匂いが路地裏に漂う。
 ――まだ足りない。
 抜き手を作り、怪物の腹へと突き刺す。生暖かい血が僕の右腕を濡らした。体内で手を閉じ、引き抜く。
 始めて聞くケルベロスの苦悶の声。それは酷く耳障りだった。
 ――うるさい。
 空いている左手でケルベロスの胸部を強く打つ。周囲に生臭いにおいが充満した。
 肺の中の空気をすべて吐き出したからか、ケルベロスの口から漏れ出る苦悶の声が止まる。
 足を振り上げる。
 ――頭が三つもあるんだ。一つ位、潰れたところで死にはしないだろう。
 向かって左の頭。そこに向かって全力で振り下ろした。足元から返ってくるクルミを踏み潰すような感触。路地裏に紅が広がる。
 ――次は右側。
 もう一歩踏み込み、その勢いのまま右側の頭を殴り飛ばした。頭が弾け飛ぶ。右手に脳漿が纏わりつく。片方しかなかった瞳が白目をむいたのを視界の端でとらえた。
「これで最後」
 正面の頭へと視線を移す。その時、ケルベロスの瞳に浮かんでいたのは紛れもない恐怖だった。その目を見て、少しだけ僕の中で燃えていた怒りの炎が鎮まる。だが、もはやそれくらいのことで消えてしまうことはない
 正面の頭へと手をかざす。
 先ほど、足が治っていた理由を知った時から脳の片隅では圧縮されていたフォルダが解凍されていくように次々と知識が僕のものとなっていた。
 知識は語る。ヴァンパイア。その生き物に対する世間一般のイメージは生き血をすする、夜の怪物である。だが、このイメージは間違いらしい。
 ヴァンパイアは生涯たった一度を除いて血を飲むことはない。人であったときと変わらずにその行為に嫌悪感さえ覚えるほどだ。
 なら、なぜそんな名前がついているのか? それは彼ら、いや僕らの唯一と言って良いほどの特異点にある。
 血液に対する遠隔操作。自身の感知範囲にある血液をある程度自由に動かせる。ただそれだけの能力である。 
 そして、その範囲は皮膚や筋肉ごときでは遮られることはない。
「感知」
 それはまるで掌にもう一つ目が付いたような感覚だった。感じるというよりも、見える。
 荒れ狂う心臓で加速された血流がケルベロスの脳を駆け巡るのを。僕自身が刻み込んだ傷跡からどれほどの量の血液が流れ出ているのかを。それはまるで体の延長線上にある様で。
「停止」
 首から上。その部分だけ血流を停止する。
 静止した血液は硬い壁となり、流れ込もうとする新鮮な血液をそこから先に進めることはない。逃げ場を失った血液により動脈は肥大していく。
 一方、首から上では細胞の壊死が始まっていた。新たな血液の流れなくなった血管はヘモグロビンからすべての酸素を奪い尽くし、なおも酸素を求める。
 血管が内側から押し広げられる痛みと酸素が受け取れなくなったが故の喘ぎ。苦痛からかケルベロスは地面をかきむしり、暴れる。それを眺めながら、血流の速さをさらに速くする。
 血管の内圧はその耐久値を超え、内側から食い破る。
 酸素欠乏は限界を迎え、意識を薄れさせていく。
 手をかざして十数秒。パンという軽い音と共に、苦悶の表情を浮かべた頭が地面へと落ちた。せき止められていた血液が僕へ向かって噴き出す。ケルベロスの末期の血を浴びながら、僕は肉塊と化したケルベロスを見下ろす。
 あまりにあっけない最期。時間にして数分にも満たないだろう。ケルベロスに遭った時点でこれだけの力があれば、と考えても仕方ないことが頭をよぎる。
「……疲れたな」
 口に出して初めて体が随分と重いことに気付いた。幾ら生まれ変わった、と言っても失った血を全部元に戻すとはいかなかったらしい。再び意識が薄れ始める。少し無理しすぎたらしい。
「よぉ、お疲れのところ悪いがな。まだ、仕事が残ってるみたいだぜ?」
 声と共に肩に手が置かれた。顔を横へと向けると。ヴァレットのやけに端正な顔があった。
「少年は俺の予想をはるかに超えてたよ。ご褒美にいいこと教えてやる。あのお嬢ちゃんな、まだ死んでねぇよ」
 彼があごをしゃくる。そちらの方へと目を向けると、血の海に沈む陽菜の姿がある。
 陽菜が、まだ死んでない? 期待と不安が入り混じった思考が脳内をグルグル回る。
「おいおい、勘違いすんなよ? 『死んでない』は『助かる』と同義じゃねぇぞ」
「どういうことだよ?」
 何とか言葉を絞り出す。
「なぁに、お嬢ちゃんのことを感知してみればいい。俺が言うよりよっぽどよく分かるだろうさ」
 言われて陽菜へと意識を集中する。徐々に彼女の血液を感じ始める。
 すぐに、分かった。あまりに、あまりに微かな彼女の鼓動。何時その鼓動が止まってもおかしくない。その事実が嫌と言うほど叩きつけられた。
「いやぁ、人間ってしぶといよな。俺も始めは普通に死んでると思ったよ。で、どうしたい?」
「助けたいに……決まってんだろ。でも、」
 意識があったとはいえ、死にかけには変わりなかった僕が完全にとまでは言わずとも回復したんだ。同じようにヴァンパイアにすれば助かる。
 ――そんな楽観的な考えは持てなかった。
「分かってるなら良い。どうする? 試すか?」
 どうやら僕の頭の中にある知識は何かしらのきっかけでどんどん展開されていく仕様らしい。ヴァンパイア化について考えた途端にそれに関する知識が脳内に湧き出てきていた。
 曰く、ヴァンパイア化の成功確率は一割。失敗した九割のうち人のまま死ねるのが二割。残りの八割は喰屍人(グール)という最低の怪物に成り果てる。そこに人と呼べる意識は、無い。ただ本能に従って、闇から闇を彷徨い、墓を荒らし、死体を貪り、腐り、蛆が湧き、最期には自らを喰い、死ぬ。
 それを陽菜に試すのか? そんな声が頭の中から聞こえる。
「少年がやりたいなら、手伝ってやるよ。実の兄が成功してんだ。少しは成功率も上がってんだろうさ」
「ちょっと、黙っててくれ」
 陽菜を醜い怪物に堕としてしまうかもしれない。その事実に僕は腹の底にある何かを吐き出してしまいそうだった。
「まぁ、俺はいくらでも待つけどさ。でも、お嬢ちゃんはそんなに待てないんじゃねぇかな。心臓止まっちまったらヴァンパイアにするのも無理だぞ」
 そう言いながら、ヴァレットは懐から煙草の箱を取り出す。そのまま流れるように煙草をくわえ、火をつけた。路地裏に煙草の匂いが充満する。
 どうする? 陽菜に残された時間はおそらく数分しかない。長々と悩んでいる時間は、ない。
 例えば、陽菜を人のまま逝かせる。そうすればどうなるか。簡単だ。このまま、何もせずに、陽菜の事を想いながら、眺めてればいい。そうすれば、何の苦労なく解決する。
 例えば、ヴァンパイア化を試す。そうするなら、ヴァレットに一言頼めばいい。陽菜をヴァンパイアにしてくれと。そうすれば、数十秒後にはヴァンパイアになった陽菜がそこにいる。あるいは怪物がそこに居る。
 僕の答えは――
「ヴァレット」
 彼の元へと歩みを進める。こけてしまわない様にしっかりと。一歩一歩、踏みしめて。
「ナイフか何か、手にもてるくらいの凶器貸して」
「フフ、大事に扱えよ」
 すれ違いざまにヴァレットからナイフを受け取る。それは大きさの割に随分と重いナイフだった。
 踏み出す。
 頭が沸騰する。視界が瞬く。血を流し過ぎた体は脳の指令をうまく伝えてくれない。
 踏み出す。
 どんどんと体から力が抜けていくのが分かった。でも、まだ倒れるわけにはいかない。
 踏み出す。
「おいおい、大丈夫か? 手ェ貸してやろうか?」
 声を聴いただけでにやにやと笑っている彼の顔が簡単に想像できた。
 鬱陶しい。余計なお世話だ。これは僕の力だけでやらなきゃダメなんだよ。
 そう答えようと思うが、言葉をうまく発することが出来ない。思い通りにならない自分の体がわずらわしい。
 踏み出す。
 踏み出す。
 踏み出す。
 踏み出す。
 踏み出す。
「――――ぁ」
 そして、壁にもたれ掛った彼女を見下ろした。彼女はただ虚ろな目で僕を見ていた。その目の奥に隠れているのは僕に対する怒りなのか、右手に持ったナイフに対する恐怖なのか。僕には分からなかった。
 空を見上げると暗くなりゆく空にぽつんと満月が浮かんでいた。嫌に綺麗な満月だった。
 ナイフを彼女の首へと向ける。息を吸い込む。
「さよなら、陽菜」
 ただ、薙いだ。
?
【二】堕陽郷

 夢を見ていた。
 朝起きたら陽菜がキッチンで朝ごはんを作ってくれてて、二人で学校に行って、ちゃんと授業を受けない陽菜に注意をしながら勉強して、買い物行って、夕飯食べて、お風呂入って、寝る。
 なんてことない。楽しくて、幸せな、
――そんな悲しい夢。
「……ん」
「起きたか。起きたなら、歩いてくれ」
 いつもより少し高い視線に、自分がヴァレットに背負われていることに気付いた。
「あ、ありがとう」
 未だに覚め切らない頭のまま、地面へと足を下ろす。ヴァンパイアにケルベロス。まるで悪い夢を見ていたような気分だ。
 自分の手を見る。真っ赤に染まったそれはぬくもりをまだ残していた。どうやら、現実離れした現実だったらしい。
 周囲を見渡すと、どうやらここは先ほどとは違う路地裏のようだ。
 徐々に頭がはっきりしてくる。
 そして思い出す。僕自身の事も。陽菜の事も。
 あの後、限界を超えた僕は倒れたらしい。ナイフを振った後からもう記憶がない。
「って、陽菜は!? 陽菜はどうしたの!?」
 暗い路地裏に置き去りにされる陽菜の死体。そんな、光景が頭をよぎる。
「落ち着け。知り合い呼んで、先に持って帰ってもらった。俺たちは仲良く歩きで帰宅だ」
 ヴァレットはこちらをチラリと振り返って答えた。
 放置されているということはないらしい。取りあえず、一安心だ。
 それからは黙々と路地を奥へ奥へと歩みを進める。そう、黙々と。……黙々と。
 どうやらヴァレットは沈黙が苦にならない性格らしい。僕の疑問に答えたのを最後に何もしゃべることなく歩き続けている。
「……あの」
 僕が沈黙に耐えられたのは、ほんの数分だった。
「何だよ」
「おいくつですか?」
 ナニコレ?
「二百から先は数えてない。多分、二百五、六十」
 再び沈黙。あれか。もっと広がる話題を振らないといけないのか。……どうしよう。広がる話題なんて知らないや。
 ……あれ? 僕、随分と普通じゃね?
 気絶していたとはいえ、少し前。長くても数十分前まで生命の危機に晒されて、苦渋の決断で妹にとどめを刺したはずなんだけど。
 体がヒトじゃなくなったから心も人と同じようにはいかないのか。それとも、僕はもともとそういう奴だったのか。後者ではないと信じたい。
「……あの」
「何だよ」
「ヴァレットさんとかって読んだ方がいいですか?」
 相手は年上。僕は年下。礼儀は大事だ。
「さっきまで、呼び捨てため口だっただろ。今更敬語使われても気持ち悪いから、さっきみたいな感じでいい」
「なら、お言葉に甘えて。家に帰るって言ってたけど、家ってどこなの?」
 どれくらい意識を失っていたのかは分からないが、完全に日が沈んでるから、それなりの時間がたっていることは分かる。
「そうだな。それなりに離れたし、この辺りでいいか」
 そう言うと、ヴァレットは十字路を左に曲がる。彼が何を言っているのかいまいち分からないが一先ず着いていく。
 そして、たどり着いたのは行き止まりだった。
「よし、ここにするか。一回しかやらないから覚えろ――いや、思い出せよ」
 ヴァレットはチラリと僕の方を振り返り、壁をなぞり始める。彼の指の動きを追うように壁に光の線が走る。
 それは次第に幾何学的な紋様を描き、始点と終点が結ばれると共に、一層大きく輝いた。
 光が消えた後にそこに残ったのは、硬質な壁ではなく、ぐにゃりと蠢く暗い穴だった。
「これが夜の国への入り口。白夜門だ。知ってただろ?」
 ヴァレットが口元をゆがめて笑う。彼の言葉通り、僕はこれを、白夜門を知っている。繋ぎ方も、使い方も、原理さえも。
 なんせこれを作ったのは儂なのだからな。
 ――ズキリと頭が痛む。自らを流れる血が熱を帯びているように感じた。自分の中で別の生き物が何十人もいる気分だ。これが血に記憶が刻まれているということなのだろうか。
「随分ときつそうだな。まぁ、それも慣れだ。数年もすれば折り合いがつくさ。ほら、さっさと通るぞ。ぐずぐずしてたら夜が明けちまう」
 言葉の通り、ヴァレットは速足に白夜門の中へと身をくぐらせる。
 僕は頭痛でうずくこめかみを押さえながらその背中へと続いた。

◇

 白夜門を抜け、出た先はどうやら玄関の様だった。内装は西洋風と言うか何と言うか、ドラマで見るようなお屋敷そのままだった。
 その光景に呆気にとられていると、奥から一人の女性が歩いてくるのに気付いた。それは赤みがかった髪を後ろで一括りにした女性だった。空想じみた外見をしているヴァレットに比べていくらか普通な感じだ。ある特徴的な服装を除けば。
「おかえりなさいませ。ご主人様」
 濃紺のワンピースに白いエプロン。頭にはきちんとフリルのカチューシャを着けている。
 メイドである。
「取りあえず茶でも出してくれ。食堂な」
 ヴァレットは彼女にコートを渡すと家の奥へと進んでいく。メイドさんも手早くそれを受け取り、一礼したかと思ったら、フッと消えた。って、消えたぁ!?
「おい、朋希。なに呆けてんだよ。さっさと行くぞ?」
「いや、ちょっと衝撃的過ぎて。余計、頭が痛くなってきた」
「これぐらいで驚くなよ。あいつはまだましな方だぞ? 性格も能力も。ほら、さっさと歩け」
 人が消えるよりもとんでもない事態があると言うのか。
 慄きながらもヴァレットの後ろを着いて行く。それにしても随分と長い廊下だ。壁に立ち並ぶ扉の数はすでに十を越え、まるでホテルのような印象を受ける。
「ヴァレットの家って広いんだね」
「まぁ、それなりに偉いからな、俺」
 偉いらしい。そう言えば、ヴァレットはヴァンパイアロードだと、ヴァンパイア化の時に言ってた気もする。
「何部屋くらいあるの? 三十くらい?」
「あー、確か百はないくらいだったと思う。ちゃんと数えたことはないけどな」
 予想以上に多かった。広いお屋敷にメイドって本当にヴァレットは高貴な身分――ロードの名にふさわしい暮らしをしているようだ。
「まぁ、使ってない部屋も大量にあるからな。広くても持て余してる状態だな」
 そんな風に取りとめのない会話をしながら、廊下を奥へ奥へと進んでいく。
 数分歩いた後、辿り着いたのは屋敷の突き当り。そこには立ち並ぶ扉の中でも一層豪華な扉があった。
「ここが食堂。基本的に飯はここで食べるから」
 言いながら扉を開ける。その中には中央に大きなテーブルが置かれている。
「ほら、そこら辺に座れ。そろそろ明日香――さっきの女が紅茶でも持ってくるはずだ」
 ヴァレットに促され、近くにあった椅子に座る。ヴァレットも僕の向かいへと腰を下ろした。
 改めて部屋を見渡すと、壁に絵が何枚か飾られているのに気付いた。タッチも様式も様々なその絵たちだが、唯一共通しているのは全て銀髪紅目の人物が書かれていることだった。そして一番右には見覚えのある人物。ヴァレットの肖像画が飾られていた。
「あぁ、あの絵な」
 僕の視線の先を辿ってヴァレットが話し始める。
「あれは歴代ヴァンパイアロードの肖像画だ。右に行くほど新しい」
「だから一番右はヴァレットなんだね」
「そういうこと。確か……俺で十二代目だな」
 その言葉と共にまたもや知識の展開がおこる。無理やり知識を流し込まれる苦痛に耐えながら、もう一度肖像画を眺める。
 先ほどと違ってすべての人物の名前や経歴が分かる。ひどい頭痛を代償に。この能力って便利なのか不便なのかよく分からないな。
「おっと、来たな」
 ヴァレットが呟いたすぐ後に扉がノックされた。
「入ってくれ」
「失礼します。お茶とお菓子をお持ちしました」
 明日香さんがカートを押しながら部屋に入って来る。その上には紅茶のポットとクッキーが載せられていた。
 机にそれらを並べ、明日香さんはヴァレットの後ろに控える。見れば見るほどメイドである。
「さて、揃ったことだし。朋希、ちょっとお兄さんとお話ししようか」
 明日香さんが並べた紅茶に口をつけながら、ヴァレットが僕の方を見ながら、にやりと笑う。
 何だろう。すごく嫌な予感がする。
「なぁに、少し俺たちのことを説明するだけだ。いろいろとな」
 笑みが一層深くなった。
 その笑顔に含まれた凄みに思わず後ずさる。その時、椅子の脚が何かに引っかかったのか、椅子の動きが止まった。行き場のなくなったエネルギーは回転へと変わる。ふわりと体が浮くような感覚。
 転ぶ。そう思った時、僕の椅子の傾きは止められた。
「朋希様、お気を付けください。あまり動かれると転ばれますよ?」
 後ろから女性の声が聞こえる。恐る恐る振り返るとそこには先ほどまでヴァレットの後ろに居たはずの明日香さんが僕の椅子を支えていた。
 囲まれた。そう思った。
「危なっかしいなぁ。まぁ、紅茶でも飲んで落ち着けよ」
 ――さぁ、話を始めようか。
 彼の言葉が僕にとっては、死刑宣告のように聞こえたのだった。

◇

 僕だけが変な緊張感を感じるなか、ヴァレットのお話しとやらが始まった。
「まずは、そうだな……どこから説明するか。少年にどこまで記憶が受け継がれているか分からんしな。まぁ、一先ず」
 そう言うと、ヴァレットはどこからか一冊の本を取り出した。それを受け取り、表紙を見てみるとそこには『Pasakos nakt?』の文字。……読めない。
「まぁ、リトアニア語だからな。読めないのも仕方ない。そのうち教えてやるから、一先ずそれの三ページを開け」
 リトアニアってどこだっけ? そんなことを思いながら本を開く。案の定、中は日本語でも英語でもない言語がびっちりと並んでいた。これもリトアニア語なのだろう。
「右側に書いてあるのがこの世界の地図だ。と言っても、形としては少年がいた世界と同じだからな。面白味もないだろうが」
 ヴァレットの言う地図へと視線を動かすと、そこには東西が逆転した世界地図が描かれていた。
「ちなみにここは地図で言うと、この位置になります」
 後ろから明日香さんが手を伸ばしてきて地図の一点を指さす。そこは元の世界で言うと、ロシアのあたりだった。
「この世界を表す言葉は無数あるが、一般に使われているのは、堕陽郷(ディストピア)ってのだな。この落陽郷は四つの国に大別される」
 今度はヴァレットが地図をなぞっていく。
「この辺りが妖精郷(アルフヘイム)」
 アフリカ大陸をぐるりとなぞる。
「こっちがタカアマハラ」
 次は北アメリカだ。
「幻想連合」
 南アメリカからオーストラリアまでを囲む。
「最後に極夜王国」
 残ったユーラシア大陸を指さす。
「つまり俺たちが今いるのは極夜王国ってことだな」
 改めて地図を見てみると、先ほど言った国の名前が記されていた。
「この国はそこに住む夜の住人の種類によって分けられている。妖精郷には妖精や霊なんかの肉体を持たない種族――霊族が、タカアマハラには少年達が神様と呼ぶ神族の奴らが、幻想連合には動物に似た種族である幻獣種。そして、ここ極夜王国には尽きぬ命の泉をその身に宿した超越種。ヴァンパイア、キョンシー、仙人なんかの不死種が住んでる。不死種は良いぞ。何たって死なないからな。幾ら殴っても死なないし、いくら斬っても死なないし、何より死なない」
 うん。ヴァレットが不死種が大好きなのは分かった。つまりは、この世界には夜の住人たちが、自分たちの生態に合わせて住み分けをしてるってことなんだろう。
「うん、この世界の説明はこんなもんでいいか。何か分からないことがあったら大体はその本に載ってるから頑張って読め」
「説明は終わりですか?」
 明日香さんが僕の後ろからヴァレットに向かって声をかける。
 これで終わりなのだろうか。思った以上に短かったし、特に危険な事態もなかった。
「そうだな。取り急ぎ説明しなきゃいけないことは……あぁ、そうだ。明日香。鏡」
「はい、どうぞ」
 気づいたら明日香さんはヴァレットの隣に立ち、鏡を差し出していた。
 ……もう、驚かないぞ。
「おう、サンキュー。ほれ、朋希。自分の顔見てみ」
 そう言って、ヴァレットは机の上に鏡を立てる。そこをのぞき込んでみると、僕じゃなくて別人が映っていた。
 いや、正確に言おう。顔立ちは僕だ。左眼もきちんと潰れている。僕の動く通りに鏡の向こうの人物も動いている。違和感が微塵もない。
 まったく、最近のCG技術は凄いな!!
「現実逃避はそれくらいにしとけ。そこに映ってるのは紛れもなく少年だ」
 僕らしい。もう一度、鏡を覗いてみる。そこに映っているのは濃い灰色の髪に、暗褐色の瞳を持った人物だった。日本人顔に現実離れしたカラーリング。そのせいかは分からないが、酷く浮世離れした印象を受ける。
「良く似合ってるぜ。これで少年も立派な半ヴァンパイアだ」
 ヴァレットがニヤニヤしながら僕に告げる。その言い方に少しイラッとしたが、彼の言葉に少し引っ掛かりを覚える。
「半ヴァンパイア? 僕はまだヴァンパイアじゃなかったの?」
 僕自身はずっとヴァンパイアになっていると思っていた。しかし、ヴァレットの物よりもくすんだ色に、自身が半ヴァンパイアであることに少し納得する。
「一気にヴァンパイアってのは、喰屍人になる危険性が高いからな。一端、半ヴァンパイアにして、段階を経てヴァンパイアにしていく予定だ。まぁ、裏技だがな」
 今回は知識が流れ込んでいくことも無い。彼の言葉通り、裏技的なやり方なのだろう。
「納得したか? なら本題に入るか」
 今までの話は本題じゃなかったのか。僕の中で再び緊張感が高まる。それゆえか、少し喉の渇きを感じたので、明日香さんが淹れてくれた紅茶に口を付ける。
 おいしいな。少し、落ち着いた。
「さて、本題ってのは、俺と少年の契約についてだ。覚えてるか?」
 言われて数時間前の記憶を辿っていく。
「確か、牙をくれる代わりに人生を寄越せ的な」
 改めて言葉にすると、かなり恥ずかしい会話である。
「そうそう。俺は牙を与えた。次は朋希の番だろ?」
「どういう意味?」
 言葉通り取れば、これから僕は一生ヴァレットの奴隷にならなきゃいけなくなってしまう。
「言い回しがややこしいな。簡単にしようか」
 そう言って、ヴァレットは左の人差指を立てる。
「俺は少年にヴァンパイアとしての力を与えた」
 続いて右の人差指を立てる。
「その代わりに、朋希に一つ俺の願いをかなえる手伝いをして欲しいんだ」
 ヴァレットの顔から笑みが消えた。空気が変わった。より、緊張感へと溢れたものへと。
「その願いの内容を聞かないと返事がしにくいな」
 安易に答えて良い事じゃない。そう思って、彼の発言を掘り下げていく。
「それもそうか。なに簡単な仕事だ。期限は無制限。方法も問わず。仕事内容は俺を殺して欲しい」
「は? 何言ってんの?」
 思考が停止する。意味が分からない。目の前のヴァンパア・ロードは自殺志願者だったとでもいうのか。
「言葉通りの意味だ。俺を、殺せ。心配するな。今すぐ殺せなんて無茶は言わない。さっきも言っただろ。期限は無制限だ。俺らには時間なんて腐るほどあるんだ。俺を殺せるようになるまで鍛え上げてやるよ」」
 ヴァレットは再びニヤリと口元をゆがめる。しかし、その目にはあきらめと疲れがにじんでいるように感じた。 
 だからこそ僕は問いかけたのだった。
「断ったらどうなる訳?」
 簡単に判断できることではない。そう思ったが故の問いに、ヴァレットはより一層笑みを深めると、ゆっくりとなぶるように告げる。
「じゃあ、もう生きてる必要ないよな?」
 その言葉と共に、首筋にヒヤリとした感覚が走る。顔を動かさず、感覚の元に目を走らせるとそこには巨大な戦斧が突きつけられていた。
 すでにヴァレットの隣には明日香さんの姿はない。つまりは僕の後ろで戦斧を突きつけているのは明日香さんと言うことなのだろう。
「随分と物騒だね」
 思考のチャンネルが切り替わったのを感じた。血に刻まれた記憶が頭の片隅で走り出す。そこで、 解決策が浮かんでは、消えていく。
「それだけ本気ってことさ。さて、どうするよ? ゆっくり考えてくれ。俺はタバコでも吸いながら待ってるさ」
 長期戦も覚悟と言うことらしい。
 どうする? 正直この状況を打開できる策は一つも思いつかない。つまりは、今ここで答えを出さなければいけないということだろう。
 一先ずは会話して、時間を引き延ばすのが先決か……。
「あぁ、そうだ。あの時、死体はヴァンパイアにはできないって言ったけどな、別に生き返らせられないとは言ってないぞ?」
 思考が停止した。
 脳裏に陽菜と過ごした日々が駆け巡る。笑ってる姿。怒ってる姿。泣いてる姿。ありとあらゆる思い出が、そして最後に見下ろした彼女の表情が。
 それらすべてが僕を責め立てているようで。
「この性悪ヴァンパア・ロードめ」
 吐き捨てるように告げる。そんなことを言われて僕が首を横に触れると思っているのだろうか?
「何とでも言え。さぁ、契約を始めよう」
 ヴァレットがそう言うと、首から戦斧が引き上げられる。後ろを振り向くと既に明日香さんは居なかった。
 首筋をさすりながらヴァレットの方へと視線をもどす。
「契約と言っても人間たちの様に無駄にややこしい契約書にサインをする訳じゃない。血を垂らすだけだ」
 そう言うと、明日香さんが再び現れ、てきぱきとティーセットを片付けて机の上に一枚の紙を置く。その上には一つの複雑な魔法陣が描かれていた。
 それは契約陣と呼ばれるもので、その中には契約内容が書き込まれている。
 契約内容はヴァレットは全力をもって僕を鍛え、僕は全力をもってヴァレットを殺す努力をすること。
「読めてるみたいだな。なら話は早い」
 ヴァレットは早速自身の手をナイフで傷つけ、契約陣へと血を垂らしていく。
「ほら、少年の番だ」
 ナイフが差し出される。それを受け取り、自らの手へと突き立てた。ドクリと真っ赤な血が流れる。
 流れ落ちた血が契約陣へと注がれ、一瞬輝き、燃え尽きる。同時に左手首が熱を帯びた。
 目を向けると、手首には絡みつく様に蔦の紋様が浮き上がっていた。契約を破った時、この紋様は心臓まで伸び、具現化し心臓を握りつぶす。
「ナイフ返すよ」
 言いながら、ヴァレットに向かって投げつける。それなりの勢いで投げたそれをヴァレットは難なくそれを受け止める。
「そうそう、その意気だ。さぁ、少年も気になってるであろうお嬢ちゃんの話に移ろうか。明日香」
 ヴァレットが呼ぶと、明日香さんが三度現れる。
その手には陽菜の死体が抱えられていた。





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