ぬくもり
巴巴巴

 おはようのハグを済ませると、千秋(ちあき)はパジャマの裾に手をかけた。パステルな布地が大きくまくれ、可愛らしいヘソが顔を覗かせる。小ぶりながらも柔らかく揺れる素裸の胸が続き、最後に顔まで抜ける。広がった黒髪を手櫛で整えながら、ズボンも下ろす。昨晩の間にずり落ちていたショーツをぐっと引き上げて、手元のパジャマ上下は丸めてそこいらに放り出した。
年頃の乙女が人目を気にする素振りもなく、水色の下着一丁で部屋を練り歩くのはやっぱり如何なものか。毎日の光景とはいえあまりにだらしない日常を、俺はいつも通り、声もなく見つめていた。
 ふと、姿見の前で千秋は足を止める。全身をくまなく映した鏡の前で、千秋はしげしげと自分の半裸を検分している。ウエストを摘まむ、二の腕を伸ばす、脚から視線を巡らせる、尻、脇、肩と来て、顔。髪を整えながら矯めつ眇めつ。笑ってみたり、赤くなってみたり。真剣に、楽しそうに。
 それは、今までなかった日課だった。
 それは、これから始まる日課なんだろう。
   そうか。
呆ける俺の目の前で、千秋はいつも通りの日課に戻る。
 布団にひっかかっていたヒレが、ぱたりと落ちた。

 *

 俺は、千秋を俺の妹分だと思っている。
妹と言わないのは、血が繋がってないからだ。
妹分と言えないのは、血が流れてないからだ。
俺は、ぬいぐるみのくじらだから。
千秋とは、十五年前に水族館で出会った。一三〇センチ強のくじらのぬいぐるみは珍しく、水族館に訪れる客の注目の的だった。子供は揃って俺をふかふかもふもふと撫でまわして、キラキラした目で見つめてきた。
ただ、大人は違った。最初は笑顔の母親が、値札を見るなり目をむいて、般若もかくやの形相で子供を引きずっていく。亭主がたじろぎ泣く子も黙らす修羅の顔、母恐るべしの俺の値段は、しめて二九八〇〇円也。
それで大人しく聞き分ける子、泣く子喚く子、ひっくり返って暴れる子、丸二年間商品棚に居て、いろんな子供とその親を俺は見ていた。触られ過ぎて手汗と垢でべたついて、欲しがる子がほとんどいなくなっても見続けて、半分諦めていた。子供の気持ちもわかるし、親の気持ちもわかる。まともな親子なら俺を買うまい。このまま売れ残りで廃棄もやむなしか。俺を気にかけて、たまに埃を払ったりしてくれた売店のばあさんとどっちが先にお陀仏か、考えていた矢先だった。
「……これ買って」
「いいわよ」
 千秋とその母親は、何の喜びもなく、一瞬の迷いもなく俺を買ってくれた。
 それから俺は、千秋の兄貴になると決めたんだ。

 *

 一通り着替え終わると、朝飯の時間だ。ベッド脇の小さなテーブルに豆乳と菓子パンを並べ、俺の脇にどかりと座る。勢いが強すぎて、ベッドのスプリングは軋みと共に俺の身体を打ち上げた。顔が柔らかいものに突っ込む。
「……んふふ」
 柔らかさが何か確認する前に、上からも柔らかさが覆いかぶさってきた。
「むっつりさんめー、こうしてやるー!」
 言うが早いかもみくちゃにされる。全身くまなく撫で回されて、くすぐったい。暖かさが全身を駆けまわっている。腕、胸、腹に太もも。手だけに留まらない全身使ってのハグは、いつもより激しいか。そう思うと、ちくりと刺さるものがある。ふかふかだが。
 ひとしきり撫でまわして満足したのか、千秋は俺を膝枕したまま、朝食を食べ始めた。もそもそとクロワッサンを頬張り、豆乳の紙パックを空にしていく。膝の上から眺めていると、千秋の咀嚼に合わせて喉元が動くのがはっきりとわかる。自然と踊る鎖骨が不自然に艶めかしい。そう考えて、俺は未だ開いたままのブラウスの首元に意識が行っていたことに気付いた。
 目線を逸らしたくても、ビーズの目は動いてくれない。
 身をよじりたくても、体を占める綿は動いてくれない。
 何より。
「……今日はセンパイの誕生日」
 カレンダーに大きくつけられた花丸印。二週間も前から千秋はそれを眺め、様々に想い、悶え手足をバタつかせていた。何度となく抱き締められ、甘い睦言の練習台にさせられ、顔の傍で熱い吐息を感じさせられた。
「センパイ……喜んで、くれる、かな」
 夜ごと千秋の顔に浮かぶ蕩け。これまでの子供の顔でない、憧れの人に思いを寄せる女の顔。
 こんなに近くに居ても、伝わらない。愛情も、劣情も、嫉妬も悲愴も焦燥も、熱量も。
   さむいなぁ。
 こんなにも千秋はあったかいのに。

 *

 千秋はネグレクト児童と言われる、らしい。テレビの受け売りでしかないが。放置児童という、最もそう見えづらい虐待。
 千秋は連れ子だった、らしい。母親の愚痴の盗み聞きでしかないが。否応なしに過去の夫の存在を主張する、人の形をした枷。
 千秋は一人だった、らしい。まだ幼い千秋の呟きでしかないが。辛いではない、寂しいでもない。感情のこもらない事実の確認。本当の気持ちを吐き出せば、この不安定な安定が崩れ去ってしまうから。途方もなく広くも何もない世界で、当時五歳の女の子は、あらゆる感情を呑み込んだ。それでも。
 俺は、千秋の最初で最後の我儘だった。今思えば、虫の知らせだったのかもね。そう言って千秋が寂しげに笑ったのはいつだったか。千秋の母親はその当時六人目の男と交際していたらしい。千秋の存在、芳しくない懐、世間体、性格の不一致と、泡のように現れては消えていく五人の男とは違う、真実の愛だと。彼女は舞い上がっていた。母として以上に女として、憎い娘の我儘を聞くほどに。自分も周囲も全く見えなくなるほどに。
千秋の母親は、俺を買って二週間もしないうちに風呂場で揺れていたという。愛する未来の夫へのプレゼントにと、有り金をはたいたネクタイを首に。ふさがりかけた手首の古傷から血が噴き出るほど、怨嗟と悲嘆の渦に呑まれて。弄ばれ、玩具にされ、犯され、殴られ蹴られ、折られ砕かれ、捨てられた女だったものが、ゆらゆらと。
千秋は、それを間近で見ても何も言わなかった。親戚の間をたらい回しにされても、孤児施設に入所しても、小学校、中学校、高校と進学を続けても、何も。
「いい子でいなきゃ」
 俺は、それを間近で見ても何も言えなかった。親戚の陰口を浴びて、孤児施設で馴染めなくて、学校で理不尽な目に遭って、それでも笑顔を絶やさないようないい子に。
「いい子でいなきゃ」
 布団の中で唇を引き結んで、潤んだ眼を見開いて、何度も繰り返す千秋の話し相手になって。
「いい子でいなきゃ」
 朝刊の配達で疲れ切り、倒れ込むように仮眠をとる千秋の枕になって。
「いい子でいなきゃ」
 節約のために自炊をはじめ、お世辞にもおいしくなさそうな炒飯を頬張る千秋の背もたれになって。
「いい子でいなきゃ」
 晴れの日に布団や洗濯物と一緒に干され。
「いい子でいなきゃ」
 雨の日に濡れた合羽をかぶせられ。
「いい子でいなきゃ」
 雪の日に傍に居て。
「いい子でいなきゃ」
 暑い日に蹴落とされ。
 そして。
「……いい子で、いるから」
 風邪をひいて、高熱にうなされる千秋の横で。
「……一緒に、いて」
 ずっと傍についていて。
 時に父親として、兄として、弟として、友達として、支えてきた。今も支えてるし、これからも支えていくんだろう、と思っていた。
 だから、千秋の口から「カレシが出来た」と聞いた時。
 父として悩んで、兄として祝って、弟として茶化して、友達として応援して。
 千秋を愛する男性として、嫉妬して。
 千秋のぬいぐるみとして、虚しくなった。
 そうだ、俺はくじらのぬいぐるみだったんだ、って。

 *

 短大に通いながらアルバイトに励む千秋の帰りは遅い。いろいろ掛け持ちしているようだが、一体いくつあるのやら。花丸に彩られたカレンダーの日付は金曜日。いつもなら土日の夜勤に合わせ、少し早く帰ってくるはずなのだが。
 部屋の中でも秋を感じるこの頃に、風邪でも引きやしないか、暗い夜道で危なくはないか。いつものように小言が頭に浮かぶのが、今日はやけに面白く感じた。
 来ないで欲しかった今日も、来てみるとなんだか感慨深い気がする。あの日、カレシが出来たと喜ぶ千秋を見た時は正直頭が真っ白になったと言っていい。俺から千秋が離れる、それはヒレを?がれるような苦痛と絶望に思えた。だが、時間と共に落ち着いて考えてみると、愛する人が出来るというのはこの上ない成長ではないか。
 幾千の夜を共にした。幾万の涙をこの綿の身体で受け止めた。いい子でいよう、捨てられないよう振る舞おうと、千秋はいじましいまでに堪えてきた。我儘も不平不満も口に出さなかった。全部見てきた俺だから言える。もう千秋は、一歩踏み出すべきなんだ。
 ぬいぐるみの温もりは、抱き締める人の暖かさだ。目いっぱいの熱量を、俺は受け取った。それほどに千秋も熱を取り戻した。冷え切った人形のように振る舞う千秋はもういない。だから今度はその温もりを、自分の愛する人に伝えればいい。そう思えば、広く寒々しい部屋でも俺は堪えられる。
   あったかいなぁ。
 千秋がいなくても、いないからこそ、あったかい。寂しさを噛みしめながらも、あたたかく祝福する父親の気持ちを感じ、俺はそれに浸っていた。
ふと窓に目をやると、秋雨がしとしとと降りだしている。静かな部屋が、しんと冷えていく。つるべ落としに日が沈み、茜色に包まれた景色が黒に呑まれていく。
 その矢先だった。
「っ……!」
 けたたましい音とともに、アパートのドアが開いたと思うと、何かがものすごい勢いで飛び込んできた。コートは水と泥でぐっしょり濡れており、布団が凄まじい惨状だ。それにも構わず、俺は組み伏せられ、何度となくはたかれた。
 俺のビーズの目に、しずくが落ちる。涙だ、と思う間に、今度は抱き締められた。絶対に、絶対に離さないように。
 体にぬくもりが染み込んでいく。濡れた髪より、煙草の混じった香りより、震える肩より、涙交じりの声より、抱き締められて伝わる熱量ですべてが分かる。
 秋雨は強さを増し、窓を打つ。風が雨戸を軋ませる。
   いたいなぁ。
 ぬいぐるみの温もりは、抱き締める人の暖かさだ。しかし、抱き締められて寒く感じ、離れることで温まる俺は、一体何なのだろう。
 ぬくもりが、冷たく刺さる。

〈了〉



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