ヘブンズゲート	一章 比翼の焔蛇
くじらすぎ

	一

 いつの時代も、不幸な人間というのは居るものである。そんなつまらない現実が俺には、押倉(おしくら)直(すなお)には許せない。
 朝から爆撃三発、地雷五個のお出迎えに、嘆息しながらの通学風景。今度の学校生活も灰色だな、これ。ポケットティッシュはたちまち底をつき、新品の制服は色合いも匂いもひどい有様だ。空を悠々と滑る降下爆撃兵(カラス)に清々しい呪詛を吐き、通りすがりの遊撃工兵(のらいぬ)に熱い呪怨の視線を送る。群衆がひそひそと目配せ耳打ちをしながら、押し合いへし合いの末俺から距離をとる。
割といつも通りの日常。うん、嫌いだ。こんな日常が一番嫌い。
 しかし、今日の理不尽は一味違った。
 たまたま駅のホームで線路際を歩いていて、偶然突風が吹いて目の前のサラリーマンが体勢を崩して、ちょうどそれを避けそこなった俺が線路に転落して、奇跡的に目の前で電車がホームに入ろうとするような理不尽は、ありがちに見えてとても現実離れしており、素晴らしい独創性に溢れています。大変良くできました。
 ……いやいや、現実逃避してる場合じゃない! 異常が日常の男、普通なんて糞くらえの高校生押倉直の脳味噌は、今日も朝からトップギアだ。取り敢えずは状況確認から。
急ブレーキが悲鳴を上げるも、目の前の電車はすぐに止まれそうにない。受け身のとり方が悪く、俺の身体は線路の真ん中まで来てしまっていた。……なるほど、これはやばいな。
こういう時ってホーム下のくぼみに逃げ込めばいいんだっけ。それとも線路の間でうずくまるんだっけ。慌てる間にも電車が迫る。人々を運ぶ文明の利器は、さながら獲物に突進する鋼鉄の猛獣だ。どう動くにしろ、あまり時間はない。
(電車の下は無理だ。とりあえずホーム下へ……っ)
 立ち上がろうと立てた膝を、電流が走った。線路に落ちた時に、くじいていたらしい。
「……俺ってどこまでも、ついてねーな」
 くじいた足ではホーム下は遠すぎる。こうなったら電車の下でやり過ごすしかないわけだが、上手く行くか。痩せぎすの俺なら、ギリギリ行けるはず。
 まただ、またこうなる。いつもの事とはいえ、今日は特にひどい。生きるか死ぬかの大立ち回りは、あんまり多くなかったんだがなぁ……。
ふと顔をあげると女子高生の怯えた顔が目に入る。一瞬の視線の衝突と、耳をつんざく絶叫。駅のホームではあっという間に悲鳴が連鎖し、周辺を緊迫感で包む。
だが、皮膚を刺すようでねっとりと時間に絡みつくこの感覚も、今となっては顔馴染みだ。大丈夫、俺は死なない。さっきの女子高生のへそチラを反芻する余裕だってあるくらいだ。理不尽には、慣れているから。
線路に敷かれた砂利の上に寝転んで、目を閉じ思いを馳せる。一か八かの時は、いつも走馬灯のように浮かんでくる情景。蒼(あお)い羽根の舞う夜道で、灼けつく背中。霞む視界の端で、俺を見つめる碧(あお)い目の人。翼が羽ばたく轟音と、甘い林檎の香り……。
 そうそう、こんな香り。どこか幻想的な……、あれ?
「……  が」
 若い女が目の前にいた。いつの間に現れたのか、全く気付かなかった。背を向けられているので顔はよく見えないが、緋色の髪がビル風になびいている。時代がかった民族衣装のようなけばけばしいのを羽織っているが、腕、腰、腿と、要所で肌を見せるエキゾチックな造りだ。呟いた言葉は聞き取れなかったが、それは声のか細さ以上に彼女の異様な外見にこそ理由があるだろう。
 翼だ。見間違えようもない、髪と同じ緋色で織り成された美しい翼。それはさながら神話に謳われる天使のようだった。目にしたが最後心奪われずにはいられない、そんな理不尽な美しさを周囲に放っていた。
 左手だ。電車の鼻先に添えられた、凛と伸びる左手。まるで力を込めているように思えない指先は、数十トンを優に超える鋼鉄の猛獣を完全に黙らせている。目にしたが最後心掴まれずにはいられない、そんな理不尽な強さがそこに満ち満ちていた。
 尻尾だ。線路に蠢くたくましい蜥蜴の尻尾。翼以上に人間に生えていそうもないそれは、紅く怪しく光る鱗に覆われ、冷やかに艶やかに存在を主張する。目にしたが最後心折られずにはいられない、そんな理不尽な異常性がそこから迸(ほとばし)っていた。
「……っ」
 しかし、圧倒的な美しさと強さを兼ね備えた異形の天使は、目の前の光景に歯噛みしていた。憤り、悲しんでいた。俺は彼女の背越しに同じ光景を覗こうとする。
「……!」
 それは、目前の異形の天使に勝るとも劣らないものだった。駅ビルがくの字に折れている。飛び散る鮮血と共に、ホームに肉塊が散らばる。風景がずれ、滑っていく。
驚きもつかの間、突然背後に回られ学ランの襟を掴まれた。首根っこを掴まれた猫のような気分だ。
「行くぞ」
「……え」
 その瞬間、凄まじい風が吹き荒び、俺の意識を風景ごと刈り取っていった。
 それが、全ての始まりだった。ヘブンズゲートの伝説を巡る、長い長い一ヵ月の。くだらない日常に興味がなければ、ぜひ聞いていってほしい。これは、人らしくない人間と人らしい人外の、人間の物語だ。


	二

「いつまで寝ている。起きろ」
 好きな女の子に起こされるシチュエーションは男なら垂涎の代物だが、コンクリートに寝かされた挙句蹴り起こされるというのはなかなかにマニアックではなかろうか。しかも生足で。
 呻きながら目を開けると、さっきの赤色天使が俺を覗き込んでいた。足でこめかみを小突いているが、まさかこいつ気付いていないのか。
「……見えてんぞ」
「ッ!」
 渾身のローキックをすんでのところで躱す。しかし悲しいかな、彼女のすらりと長い脚は的確に第二撃を叩き込んだ。……鳩尾への、全力踵落としという。
「ごふっ」
「ななな何を見ているのだ、このド変態!」
 見せたのはそっちだ無自覚痴女、とか言いたいことは山ほどあるが、さすがに痛い。呼吸も碌に出来ず身をよじる俺に、天使改め赤色悪魔は罵詈雑言と蹴りを浴びせ続ける。
 蹴られながら、彼女の姿を改めて検分する。紅い翼、紅い尾。動きも帯びた熱も生き生きとしている。途切れ途切れの記憶を組み立てながら、改めて本物と確信した。目の前の彼女は人間じゃない。けばけばしい民族衣装も、生足の伝える熱も、緋色の髪も、垣間見えるへそも、繰り返される罵倒も、弾む双丘も、蹴られる痛みも、目に焼き付いたパンツも。
「……おい、何か下卑た想像でもしているのではあるまいな。蹴られてにやつくな気色悪い。」
 肩で息をしながら核心をついてくる。女の子の直感って怖いな。
 とりあえず体を起こすと、自分のいる場所を見回す。どことなく埃っぽい廃墟、か? 壊れた椅子や机、割れた窓ガラスが散乱し、周りは足の踏み場も無い。二つある扉は半開きで、その先の廊下も同じ状況だと分かる。しかし、不思議と初めて来た気はしない。心の底でくすぶる安心感が、余計に違和感を駆り立てる。そんな俺を見かねてか、さっきより幾分か優しめに彼女は言葉をかけてきた。
「起きられるなら是非もない。小僧、しばらくここに居ろ。半時間で戻る」
「ちょ、置いてくのかよ」
 不安に重ねて告げられたにべもない言葉に、一も二もなく食いつく。しかし、彼女の意思は変わらないらしい。すでに扉の一つに手をかけ、強引に開き始めている。
「心配はいらぬ、この部屋から出なければ安全だ。傷は癒したしな。……勝手も分かろう」
 そう言うと(面倒になったのか尻尾でドアを毟り取って)、彼女は振り向きながら笑った。人に慈愛の光を注ぐ、心優しい女神だったように。
「私は、神であるぞ」
 とてもそう思っていそうにない、乾いた笑顔で。
 部屋を出ていく彼女を見送って、とりあえず手近な椅子に座る。
(……聞きたいことは色々あるが、名前聞き損ねたな)
 場所が場所なのだから、授業してほしいものだ。状況とか、そこの黒板にまとめてさ。
 *


 いつの時代も、不幸な人間というのは居るものである。そんなつまらない現実が私は大嫌いだ。
  くくるかんさま。
『……やめろ』
   くくるかんさま、なぜですか。
『やめてくれ』
   くくるかんさま、なぜですか。
『……やめろっ!』
 ああ、今でもありありと思い出せる。この目に焼き付いた焔、この鼻に突き刺さった死の風、この尾を走った怖気。ああ、それは呪いだ。永遠の命に深く深く刺さった棘。私が神をやめ、神になることを決めた原因。
 きっかけは、些細なことだった。世界を揺るがす幾度の戦いを越え、創り上げた楽園。昇る太陽と共に畑を耕し、森で狩りに勤しみ、子を育んで身体を満たす。沈む太陽を見送ると、太鼓に合わせ歌い踊り、笑顔を肴に飲み明かし、愛し愛されて心を満たす。これ以上ない地上の楽園。
『神姉さまっ!』
 国中見渡せる神殿の高みに腰かけて愛する人々の営みを見つめていると、背中に飛びついてくる暖かさ。とりあえず引きはがして、顔を覗き込む。
『えへへ……』
『勤めは終わったの?』
『ばっちりです!』
『そう……』
やはり妹か。神に仕える巫女。私の傍近く侍って、雑事や世話、民との仲介をこなす人間。私の方が遥かに年上なのもあり、妹と呼ぶ習わしだが、それ以上に今代の少女は背格好に比べて幼気で、私にもよく甘えてくる。神官たちは不敬であると不満をこぼすが、私はこれぐらいの距離感が初めてで戸惑うだけで、むしろこのぐらい甘えてくれた方が親しみがわく。
『どうしたんですか、神姉さま? 夕日なんて眺めて』
『……いやな、少し虚しくなったのよ。人の儚さに』
 そう、親しみがわくのだ。先代巫女との代替わりから一年、二十年かけて交わすようになっていた軽口を、既にこの子とは出来てしまっている。妹の方に先代巫女が安らかに息を引き取ったと伝えられたのが一昨日、彼女はどちらかというと堅物で、神と人としての相性はよくとも、友としての契りには難儀した。それでも最後は、この神殿で語らう事が出来た。
『神の力は凄まじい……。私が力を振るえば、傷は癒え病も失せる。山が沈み国が亡ぶ。人も獣も世界さえも、生かすも殺すも私の指先三寸よ』
 手のひらに視線を落として、私は続ける。
『だが、だからこそ口惜しい。人は儚く死んでいく。長くて五十年、早ければ三日と持たず死んでいく。私はそなたらを愛したい。そなたらは私を崇めるが、それは愛とは違う。限りなく同格でないがゆえに』
 おずおずと手を伸ばし、妹の顔を撫でる。温かい。しかしそれは私が冷たいからでもある。
『私は、人間と同格でありたいのよ。いつでも、いつまでも共にありたい。……愛するとは、そういうことではないか?』
 躊躇いがちな私の問いに、妹は苦笑して答えた。
『神姉さま、ひどいです。私たちが愛してないなんて』
『いや、そんなつもりは……』
 慌てる私の手を取り、確かめるように頬擦りしながら、妹は諭す。
『愛の形は人それぞれ、ですよ。神姉さまのは親愛、私たちのは敬愛。枝葉の形は違いますけど、根っこはおんなじです』
 それに、と妹は続ける。
『神姉さまがみんなを愛したいなら、私たちみんなも神姉さまを愛したいんです。……神官様はちょっと違うかもですが。だから、心配しなくてもいいんです』
 そう言うと、妹は私の腿に頭を置いて、膝の上で甘えながら視線を合わせてくる。くすぐったいのは柔らかな髪か、それとも視線の合う気恥ずかしさか。
『何より、神姉さまがみんなを愛したいってずっとずっとみんな一緒に居たら、新しい人が生まれません。先代の生きてる間だったら、私お腹の中にもいませんよ?』
『……そうだな』
 そうか、誰も死なさず、誰も生まれない楽園では、この子に会えなかったのか。一人で難しく考えていたのが莫迦に思える。悔しいので、妹の髪をちょっと強めに撫でまわしてやる。猫の子の様にじゃれる妹を膝に乗せ、日暮れとともに闇に包まれゆく楽園を見守った。こんな日常が、永遠に続くように祈りながら。
そこで起きた、起こってはならない事件。出来心だったのか、酒乱の上での過ちか、それとも他の何かなのかは今となっては分からない。確かなのは、妹が子を孕んだこと、そしてその晩私と妹が同衾していたこと。何より妹は神に仕える巫女であり、掟の上で清廉無垢でなければならなかったことである。私は豊穣と再生を司る女神の姿を好んだが、破壊と統率の男神でもあった。故に妹が身ごもったのは、神の子であることも考えられる。すぐに議論が始まった。
私と妹で子を成せるか、確かに神の子供か、どちらかが隠れて懸想していたのか、兄妹の交わりは是か、本当に記憶にないのか、闖入者の可能性は、神殿の警備は、巫女の役割とは、そも処女性を絶対視する掟の真意は何だ、神とは何だ? 長が問い、神官が答え、民が悩み、戦士が吠える。幾日も議論が続くが、結論には至らない。それもそのはず、結論が出るということは掟破りの確定、最悪の場合死罰をもって償うことになる。
掟を破り、淫欲に溺れて処女を散らした妹か。
掟を破り、神の褥にて獣欲を吐き散らす不埒者か。
掟を破り、人に懸想して俗に堕した神か。
私は、見ていられなかった。愛する人間がいがみ合う光景を。神という存在がもたらした悪魔の証明、楽園に撒き散らされた不和を。
だから、私は楽園を自らの足で去った。自らの神の力に満ちたこの楽園から出たら最後、何の力も持たぬ一匹の蛇に成り下がることを承知の上で。
『いつかまた、白き肌の人の子としてこの地に戻ろうぞ』
 泣いてすがる愛しい者たちにそう言い残して。
 私は不幸が嫌いだ。不幸をもたらす存在が嫌いだ。神と人は交わらぬ、それでこそ神は人と異なり、神と人は互いを愛し存することが出来るのだ。分かったようなことをうそぶき、偶像となった神を崇める人間を愛でるばかりのあの時の私が、この上なく大嫌いだ。
 あの夜が、嫌いだ。


三
  おお、もしや……。
  おかえりになられたのですね。
  うたげじゃ、うたげをひらけ。
  くくるかんさまだ。
  でんしょうのとおりだわ。
  おかえりなさいませ。
  くくるかん、さま?
 衝撃だった。『ククルカンが戻った』と風のうわさに聞いて、私は楽園に急いだ。蛇の姿が恨めしい。身にへばりついた羽毛は何のためにあるのだ。言いようのない焦燥が私の身を包む。ククルカンはここだ。羽毛ある蛇、死と生、破壊と豊穣、楽園の主人はここに居る。
 死が蠢く川を越え、獣の住まう森を抜け、やっとの思いで楽園に帰還した。数百年ぶりの帰郷、望まぬ出奔から何度となく思い描いた楽園はどうなった。私は祈った。全てが杞憂であってくれ、祭りの誘い文句であってくれと。おびただしい火の匂いも、焼ける肉や血の匂いも、私の心配症、過保護の生み出した幻想であってほしいと。
 目の前で雷鳴が轟き、屈強な戦士が一撃で地に倒れ伏すのも。
 街並みに見たこともない人もどきが蔓延り、略奪を繰り返すのも。
 女子供が逃げ惑い、捕まって許しを請う姿に下卑た嘲笑が浴びせられるのも。
 人も街も神殿も、猛る炎に包まれているのも。
 現実でない、悪夢であってほしいと。
  くくるかんさま。
 やめてくれ、その名で呼ばないでくれ。そんな目で見ないでくれ。奴らは私じゃない。約束を違えても、裏切ってもいない。そいつらは私を騙っている偽物だ。逃げろ、地の果てまで逃げろ。逃げてくれ!
 血を吐くほどに、顎よ裂けろとばかりに口を開いても、声になることはない。私は神じゃないから。
  くくるかんさま。
 国中で私を呼ぶ声がする。炎から、崩落から、怪我から、痛みから、略奪者から守ってくれと、声の限りに呼ぶ声が。死と生を司る、破壊神にして豊穣神。私を崇める、私を信じるものたちの声が。
 身を千切るほどに、翼よ壊せと身体をよじっても、目前の敵が破壊されることはない。私は神じゃないから。
  くくるかんさま。
やっとの思いで神殿に辿り着く。燃え盛る炎と瓦礫の隙間を縫って、かつての高みを目指す。妹と語らった、思い出の場所。
果たしてそこには、覚えのある顔がいた。一時も忘れたことのない、可愛い妹の顔。最後の力を振り絞って、その少女に近づいていく。
『ひっ、何……?』
 しかし思い出の妹とうり二つの少女は、私を見て怯えを露にする。蛇の姿では分からないか。それほどまでに時が過ぎていたのか。落胆し絶望に呑まれる私に、しかし救いの糸がもたらされた。
『その羽毛……ククルカン様、なの?』
 少女は思いがけずそう言った。間違いない、今代の巫女だ。伝承は薄れながらも、しかし根付いていた。何も守れない無力感の海に、一筋射し込んだ光明。意思疎通も出来ず、力を振るう事すらできなくとも、こうして傍に居て、私を信じるものの寄る辺になれる。これを救いと言わず何と言おうか。
 だが。
『こっちにも何かあるぞ』
 悪夢は。
『おっ、子供がいた。女だから俺のものな』
 終わらなかった。
『ククルカン様』
 救いは。
『いつでも、いつまでも、お慕いしております』
 ……なかった。
 巫女は私を掴むと、手近に転がっていた壺に押し込む。驚き暴れる私に笑顔を向けて、ふたを閉めた。その後のことは、見ていないから確証はない。
 目の前で響く絶叫、淫欲でなく辛苦に喘ぐ女の声。殴る、殴る、蹴る。笑い声。涙交じりでも、決して屈しないと声がする。吹き飛び、転がり、また喘ぐ声。揺れて、揺れて、浮遊感。声も音も遠くなる。落ちる。落ちる。落ちる……。
 気付いた時には、割れて散乱した壺の破片の中で、神殿傍の茂みに転がっていた。私は、私を信じるものを守ることも出来ず、私を信じるがゆえに守られた。そっと視線を巡らすと、楽園は跡形もなく灰燼に帰し、死屍累々の地獄だけが残っていた。
 *

「……そう聞いてるぜ。どうだ、悪魔もすげえだろ」
「ああ、サンキュー。大体わかった」
 そういって俺は笑う。成程、あいつククルカンっていうのか。アステカだっけ。
 考え込んでいると、目の前の得意顔がだんだん不機嫌に歪む。もともと不細工なんだから勘弁しろよな。
「で、ホレ」
「なんだよ」
「とぼけんじゃねーよ、契約だろ! 俺は聞かれたことを話す、お前は話を聞いたらこの部屋から出てくる、そういう悪魔の契約だろうが!」
 差し出された手を怪訝に見つめたら、案の定怒られた。何なら反故にする気満々だったんだが、悪魔っていうのも律儀だな。
 そう、今俺の目の前にいるのは悪魔だ。とがった耳、山羊の角、蝙蝠の羽根、痩せぎすながら引き締まった身体、性悪そうな顔面。悪魔の見本のような身体を、何故か糊のきいたスーツで包んでいる。気になったんで聞いてみたら、「……上司の趣味だ」らしい。若干見せたくたびれた顔は、なんだか通勤ラッシュのサラリーマンみたいだな。
「いやいや、聞く内容が一つとは言ってねーぜ。俺は状況が知りたいんだ。とりあえずここに俺を連れてきた赤色痴女は誰かっていうのは、その触りだろ?」
「……っけ。後何が聞きたいんだ、クソガキ」
 気だるそうな態度を隠そうともしない。しかし俺は、その裏に何かあることを察している。察したうえで何もしない。ただ相手の話に合わせて踊るだけだ。黒板にまとめた赤痴女の話を横において、手の中でチョークを弄ぶ。
「そうだな、まあ色々とあるが、とりあえず核心を聞こうか」
 こんな楽しいのは、久しぶりだからな。
「いま世界で何が起こってる。お前や赤痴女みたいなのが湧いてきて、何やらかすつもりだ」
 その問いに、悪魔はにんまりと笑って答えた。
「ヘブンズゲートさ。平たく言えば、祭りだよ」

	四

 ヘブンズゲート。それは、千年に一度の奇蹟。
曰く、あらゆる願いを叶える万能の魔法である、と。
曰く、天上の神の座へと至る回廊への門扉である、と。
曰く、神の喉元へ届きうる絶好の機会である、と
曰く、強欲が跳梁跋扈する悪魔達の謝肉祭である、と。
悠久の時を超えて、なお人ならぬものに受け継がれる伝説は、かくも無制限に形を変え、今も多くの心を震わせる。
何より、この伝説が時を越え国を越え伝わる理由。それは、『陰陽混淆』ということ。
人ではならない。一人でも、二人でも。
人外ではならない。一柱でも、二柱でも。
陽たる人と、陰たる人外の混淆。一人と一柱。
それが、世界を揺るがす所以。
悪魔は人を誘惑し堕落させようとする。
天使は人を矯正し導こうとする。
魔獣は人を喰らい腹を満たそうとする。
神々は人を玩弄し永遠の暇の慰めにする。
人間の長いようで短い歴史のはるか前から、この奇蹟は幾度となく世界を変えた。表舞台と舞台裏、客席さえもない嵐の如き混沌。世界の裏側の存在は、見えていなかっただけでこの時を待っていたのだ。旗を掲げて陣営を営み、数多の牽制や手練手管を交えて、千年に一度の奇蹟を鑑賞する準備をしながら。
しかし、今回は様子が違う。千年ほど前、多少知恵のついた獣と思った人間が、どうも今まで通りにいかない。発達した科学と卓越した技術の果てに、人外を忘れながら人外の力に届きうる人間。適当な人間を見繕って引きずっていき、内密に事を済ませるつもりが、どの陣営も相当苦戦している。気付かれたら最後、奇跡だと崇められたり侵略者だと抵抗されたり。陣営同士の小競り合いも含めて、人間にもそれなりの対応が必要だとあいなった。表舞台と舞台裏、おぼろげに思えて明確な一線を、越えてしまうような強硬策を。
 *

「それでまあ、上司が癇癪おこしてな。とりあえずこのあたり一帯の見込みのある奴は全員連れて来いとさ。見つかっても構やしない、ジャマとゴミは掃除したうえで、ってな」
「そいつは大変だな。人間だろうと悪魔だろうと、目上とか上司って奴らはほんと変わんねーよ」
「分かってくれるか!」
 や、バイト先の糞店長を思い出しながら簡単に相槌を打ったつもりが、感涙させてしまうとは……。我ながら罪な男だな、おい。
「で、何で俺にそんな執着すんだよ。一人ぐらいいいじゃん」
「完璧主義なんだよ、あのアスモデウス。だったら自分でやれっつーの」
「違うっての。何でただの人間にしか見えねえ俺にわざわざ説得してまで執着するのかって聞いてんだよ」
 悪魔の愚痴なんざ聞きたくないから、俺は畳みかける。
「あいつは、あの赤痴女は何がしたいんだ。俺に何をして、お前らに何をしてんだ。一番聞きたい状況ってのはそこなんだからな」
 すると、目の前の馬鹿はせせら笑った。馬鹿が莫迦を笑うのは、なかなか面白い絵面とも思うが。
「世界を救うんだと、たった一柱で」
 *

 そう、私は神じゃない。信じるものを、救いを求めるものを救えないで、何が神だ。何と言おうと、私は彼らを裏切った。言葉も、力も、祈りも届かない、ただの莫迦だ。
 ならば。
「ぐわっ!」
「回り込め、正面はダメだ!」
「知るか、薙ぎ払われたら終わりだぞ!」
「いったん距離を……」
 有無を言わさず、燃え盛る羽根の雨で焼き尽くす。これで大体三、四〇〇ぐらいか。次々に群がってくる悪魔はきりがないが、それでもこの身は昂ぶっていく。
「居たぞ、向こうだ!」
「アスモデウス様に報告を……っ」
「時間を稼ぐ、その間に」
 行け、とは言い切れなかった。下級悪魔は尾の一閃で首から上が消し飛ぶ。死体には目もくれず、次の標的を探す。片翼を羽搏かせ、虚空を駆けた。
 ならば、神はやめだ。あの日の贖罪のためなら魔になろう、鬼にもなろう。悪神として全てを破壊しよう。人に関わろうとする、全ての人外を滅ぼそう。
 ヘブンズゲート? 知ったことか。神と人が関わって碌なことはない。何としても止める。罪もない人の子を守るため、私はこの力を振るう。全てを焼き尽くす紅き炎の片翼と、硬く鋭く冷たく薙ぎ払う火蜥蜴の尻尾と、最後の奥の手を。
「ッ!」
 突然飛来した攻撃を寸前で躱す。頬を掠めたそれは、鉄球と、鎖?
「ぬうん!」
「なっ……」
 轟く声とともに、鎖が螺旋に捻じれ私を追ってきた。振りほどく間もなく翼に絡みつく。たまらず炎の羽根をばらまくが、遅かった。
「……っ」
 そのまま瓦礫の山に叩き付けられる。咄嗟に尻尾を伸ばして鎖を千切ろうとするが、どうしようもなく硬く、振り下ろした尻尾が弾かれてしまう。
「無様よな、【羽毛ある蛇】。かつて創世の十神にも数えられた貴様が、この儂にも勝てんとは」
 あげた視線の先で、燃える羽根を摘まんで悠然と佇む上級悪魔。【縛鎖の魔象】アスモデウス。その鍛え抜かれた鋼の肉体には、邪悪な象の首が生えている。しかしその顔は、絶対的優勢にも歓喜も嘲笑も浮かばない武人の面構えだ。油断なく手の中の巨大な鎖分銅付きデスサイズ(大鎌)を構えている。
「ぬかせ。貴様の上司もその一柱。【光を掲げる御子】と末席の私では比べ物にならんぞ」
「だからこそ分からん。なぜ我らの邪魔をする?」
 変わらぬ調子でアスモデウスは続ける。
「我らはただ、ヘブンズゲートを開くための人員を選定しているだけのこと。才あるものを選ぶのは当然、才無き有象無象を切り捨てるのもまた必然。多少知恵を付けようと、所詮は畜生と変わらぬ。千年前も、二千年前も全く変わりない。そうであろう?」
 その言葉に、私は歯噛みする。そんな気軽に吐いていい言葉か、それが?
 返答のない私に、アスモデウスは嘆息するばかりだった。
「変わったな、蛇」
「ああ、変わったさ」
 神である自分を変えた。弱い自分を変えた。使えない自分を変えた。再生に時間のかかる、左翼を自らの手で引き千切って。数万年使うことのなかった、最後の奥の手を調整して。あらゆる自分を変えたんだ。
「傷ついて痛みを知った。焔に焼かれて熱さを知った。祈りを受けて寒さを知った。私は変わった、このつまらない世界を変えるために!」
 吠える私にそうか、と奴は返した。戦いの最中のそれは、武人の手向けだったのかもしれない。猛獣にも等しく与える投降の機会。越えれば戻れない、理性のない死闘への一線。
「ならば、世界は変えられんと知るがいい」
 形勢の立て直しを図る私の前に突き出されたのは、ついさっき助けた少年だった。

	五

「やめろ、何でそいつがここに居る」
「このあたり一帯は多くの部下が動員されている。魔力で保護された生存者を探すなど、造作もない」
「しかし、どうやって……」
「自分から出てきたと言っておったそうだ。崩壊する街、同族の無残な死。それを見て恐怖にかられ、逃亡を図るのは動物として自然な習性だ」
「……」
「ああそれと、このオカヤマなる街はこの小僧で全て選別完了だ。地下も多くて手間がかかったが、極東の島国はなかなかどうして質がいい。おそらく二%は使い道があろう」
「……れ……」
「各地の都市圏も同時制圧が行われている。欧羅巴(ヨーロッパ)は天使共がうるさいが、この島国なら話は別だ。既に九割がたの作業が終わったと聞き及んでいる」
「……黙れ……」
「分かるか、蛇よ。貴様が変わったところで何も変わらん。世界を守るなど、貴様一柱では絵空事に過ぎん。挙句一度助けたものを捨ておいてまた失うとは、貴様はアステカの最期から何も変わっておらんのではないか?」
「黙れっ!」
 翼を無理やりに羽搏かせ、象の悪魔に突進する。しかし折れ曲がった翼は風を掴むこともなく、無様に墜落した。それでも立ち上がる。満身創痍にも屈しないのは、許せないからか。自分が、相手が。
 だからこそ、最後の奥の手が発動する。
 紅い翼が輝きを増す。背から伸びた光の線が羽毛をなぞり、不可思議な文様を描いていく。開いた眼にも文様が走り、悍ましい気配が辺りを包んでいく。世界の開闢にふさわしい光が、刹那瞬く。
 それこそ、【羽毛ある蛇】の奥の手。【天地再創造(リロード)】。創世の十神最弱ながら、曲がりなりにも末席を汚す理由。世界の創造は一筋縄ではいかなかった。混沌に秩序の筆を入れ、世界を形作る。言葉にすれば簡単でも、その加減は極めて難しい。故に創った世界を一度消去して、白紙の状態に戻す力が必要だった。
 世界を創り直す。それが【羽毛ある蛇】の奥の手。
 ただし、これは諸刃の剣でもあった。何せ、世界の創造は名だたる神々が十柱集まって奇跡的に完成したもの。たとえ世界をリセットできても、一柱では戻しようがない。白紙の世界に残るのは、力を使い果たした神のなれの果て。永遠に混沌を漂い、死ぬことも生きることも出来ないまま朽ちるのを待つばかり、と考えられている。
つまりは、自分を含めたすべてを巻き込む壮大な自爆技である。
 その寸前、悪魔は口を開く。悪魔らしい、悍ましい呪いの言葉を唱えるために。
「この小僧、まだ息があるぞ」
 頭を掴んでぶら下げた身体を、軽く振って見せる。
 効果は劇的だった。繰り出さんとした奥の手が、途端に勢いを失う。世界を呑み込むような光はしぼみ、その中心には哀れな女が立ち尽くしていた。
「……出来んだろうな。既に死んでいるならともかく、まだ息のあるうちならお前の力で癒せよう。まだ取り返しがつくものを、今のお前は捨てられまい」
 完全に折れていた。力も、思いも、無駄だった。震えながら地面にへたり込む。事実だけを突きつけ無理に煽らないのは、やっぱり武人の心意気か。
 ゆっくりと歩み寄ると、巨躯の悪魔はデスサイズを振り上げる。決して外さぬ決意でもって、逞しい腕に目に見えて力がこもる。
「情けだ、一撃にて殺す。言い残すことはあるか」
 その言葉にも、反応が薄い。口角が不自然に上がる、泣き笑いの顔。二言三言咀嚼して、ゆっくりと唇が動いた。
「その子を、お願い」
「……承知した」
 無慈悲のデスサイズが、鈍色の残像を伴って振り下ろされた。

	六

 死んだはずだった。変われなかったことに、変えられなかったことに絶望して。アスモデウスのデスサイズによって、私は絶命したはずだ。
 ならばなぜ。
 私は生きている?
「つーかさ」
 あの少年は、平然と私の前に立っている?
「やめてくれない? そういうつまんないことすんの」
 上級悪魔を含めた悪魔の軍勢を相手取って。
「久々に楽しめそうなんだからさ」
 楽しげに、笑っていられる!?
 *

「アスモデウス様、そいつは危険です! 今すぐ逃げあがっ」
 さっきタクシー代わりにこき使った悪魔が帰ってきたらしい。やっぱ馬鹿だな、まだ効いてるぞ?
「小僧、何をした」
「別に何も?」
「何をしたと聞いているっ!」
 柄だけになったデスサイズを投げ捨て、口から火炎を吐き出した。……やっべ、割と熱い。
「うーわ、学ランぼろぼろじゃん。どうしてくれんだよ」
「……それはこちらの台詞だ。なぜあれだけの爆炎に巻かれても無傷でいられる!?」
 そう、多少熱いし学ランはぼろぼろ、カッターシャツまではだけてるが、俺は無傷だ。初めて見る奴は大概驚く。お前どんだけ強いんだよって。
 でも逆だ。
「俺が強くなったんじゃねぇ、お前が弱くなってんだよ」
 ズタボロになった上着を引き千切り、上半身を露出する。……うわっ、空気も熱いな。
「そ、れは……」
「イカすだろ」
 背後の赤色天使が絶句して見つめるのは、俺の背中。正確には、俺の背中に刻まれた片翼をかたどる碧い翼。
「最高に最低な呪いさ。【比翼(ひよく)の影(かげ)】っていうんだと」
 *

 一か八かの時は、いつも走馬灯のように浮かんでくる情景。蒼(あお)い羽根の舞う夜道で、灼けつく背中。霞む視界の端で、俺を見つめる碧(あお)い目の人。翼が羽ばたく轟音と、甘い林檎の香り……。
『あなたは危険すぎる』
 ある夜突然現れた碧い天使は、そう言った。
『あなたの業は、本来あってはならないもの』
 一方的に、まくし立てるように。
『だからこそ、これは必要な措置』
 痛みに呻く俺に諭すように。自分の痛みを誤魔化しているかのように。
『いつか、良き番(つがい)を見つけられることを祈っています』
 その時、俺はこの呪(ちから)を与えられた。
 *

「『俺に触れたものに俺の持ってるもん押し付けられる』。力としてはそれだけさ」
 俺は平然と説明する。アスモデウスは動揺を隠せずにいるが、毅然と問いただしてくる。
「……確かにその背の文様、熾天使の魔法に相違ない。しかしその魔法、与えるだけならばなおの事分からぬ! なぜ儂が弱くなる! 貴様一体、儂に何を押し付けた!?」
「不幸」
「っ!?」
「生きてるのが不思議なぐらいの、えっぐい理不尽をたっぷりと。悪いこと言わないから投降しな、アンタ多分まともに歩くことも出来ないって」
「猪口才な……っ!?」
 言わんこっちゃない、歩き出しから瓦礫につまずいてやがる。歴戦の勇士もこれじゃ形無しだ。
「おのれ……!」
「あんたの行動は全部裏目に出る。そういう不幸だからあきらめろって」
「ならば、なぜ貴様は動けりゅ!」
 噛んだ。だせえ。
「……なぜ動ける!」
「あんたのやった通りだよ。『ここで噛むかもしれない』って思ったら直せたろ? 俺はそれを、十八年間一挙手一投足に至るまで続けてるだけだ」
 まあ、慣れだな。そう結論付けるも、アスモデウスはなおも噛み付いてくる。
「ならばなぜ、我らの邪魔をする! それだけの力、世界すら揺るがすものだろう! しかし、我らと刃を交える理由にはならぬ! 我らは人間を攫い、其奴はそれを止める。お前が割り込む余地などあるまい! 貴様は我らと事を構えてまで、何故その蛇をかばう! 助けられた恩返しか、人間への脅威の駆除か!」
 決死の叫びに、戦場がしんと静まる。誰もが固唾を飲んで見つめてくる。俺の一言を待ちわびて、空気が張り詰めていく。
「……探してたんだ、翼」
だから、俺は言う。
「俺、ほんと理不尽でさ。生まれてこの方、何もかもが裏目に回るんだ。なぜ動けるなんて言うけど、実際立てるようになったの五歳になる直前だぜ」
 だから、俺は言う。
「親もいない、家もない。金も友達もない。出来たそばから失くすんだ。仕組まれてるみたいに、そうカミサマに決められてるみたいにさ」
 だから、俺は言う。
「でも、正直諦めてたんだよ。こんなもんだって。理不尽も苦労も、そういう運命だったんだ、決めた奴なんていやしない。まじでカミサマなんているわけねーだろ、って」
 だから、俺は言う。
「居たんだよカミサマ。俺の人生めちゃくちゃにしてる、人外共の元締めが、ヘブンズゲートって伝説にさ」
 俺は、言う。
「俺はカミサマをぶん殴りに行く。そのために翼がいるんだ。『助けて』って言ったら助けに来ちまう、『翼になってくれ』って頼んだら引き受けちまう、どうしようもなく莫迦で、都合のいい蛇神。比翼の鳥の、片割れがさ」
 *

 目の前でアスモデウスが喚いている。少年はそれを平然と受け流している。どちらも言っていることが耳に入ってこない。
 少年の一言が頭の中で反響する。『神様をぶん殴る』? そんなことが出来るわけがない。誰が具体的な相手かは知らないが、たとえ私相手だったとしても、彼が拳を握る前に潰せるだろう。理性が声高に主張する。
 しかし。私の心の中で何かがふつふつと湧いてくる。怒り? 呆れ? いや、もっと原始的な熱量だ。数百年前楽園で求めた、焦がれた熱。言いたくてたまらなかった言葉。
その時アスモデウスが動いた。腕を振り上げ、少年を襲う。差し出された手。救いを求める、救いの手。腕が動く。脚が、翼が、尻尾が動く! 今度こそ掴んで離さない、理想への光!
「後は頼むわ、蛇神さん?」
 一枚の羽根に全霊を込めた炎の槍。それは、容易く屈強な肉体を貫いた。
 *

 アスモデウスが倒れると、その他の悪魔どもは蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。まあ、こいつには勝ち目なかったしな。
「じゃ、早速行くか」
「どこへだ」
「ヘブンズゲート」
「無茶を言うな」
 ぴしゃりと言い切られ、黙るしかない。本気でやったら勝ち目がないのは、俺も悪魔達と大差ない。俺の能力、【比翼の影】は触れないと意味がないからだ。
 新たな敵は味方にありかと怯えていたら、ため息交じりにまくし立てられる。
「どこにあるかも分からん所に、おいそれと準備もなく出発しようとする莫迦がいるか。私もお前も、それなりに傷を負っている。私が司るのは再生で、他人の傷を治すのは苦手なのだぞ、全く。大体、神を殴るなど正気の沙汰ではない。私なぞ神々の中では良くて中の下、遥かに強いものもごまんといる。千年前とて数えきれない命が失われた。それをお前と言う奴は……」
「分かった分かった。お前は俺のお袋か」
 長くなりそうなので早めに切り上げる。これもまた理不尽回避の一端である。
「じゃあ、行かないのか?」
 ぐ、と呻く。
「そっかー、行かないのかー。困った困った、助けてくれるからいけると思ったのにこれじゃ水の泡だぜー。あーあどうしよっかなー見捨てられるとは思ってなかったからなー」
「……行かないとは言ってないっ!」
 真っ赤になって怒る。やっぱちょろいな。
「いいか! お前の話通りなら、お前の能力は非常に、非っ常に危険だ! それをあろうことか、神への八つ当たりに使うなどと……。知ってしまった以上、私はお前の動向を監視する義務がある!」
「へいへい」
 ほんと、ちょろいよな。
「押倉直。スナって呼んでくれ」
「【羽毛ある蛇】ククルカンだ。……言っておくが、神としての格は高くないし、ヘブンズゲートについてもほとんど知らんぞ」
「いいって。じゃあ出発な」
「人の話を聞く気があるのかお前は! ……こら待て!」
 一目惚れでここまでするとか、さ。
 *

「……あれが【羽毛ある蛇】、か」
 スナとククルカンの居る廃墟の上空に、小さな泡が浮かんでいる。虹色の浮かぶその表面は、二人の姿を留めたまま風に流されることもない。
「早めの対処が必要だな」
 それと同時に、泡は音も無く割れて消える。二人はまだ知る由もない。ヘブンズゲートを狙うとはどういうことか。

〈続〉



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