橙
随二

梅雨のある日、幼い子供とその母親が、雨の中手をつないで歩いていた。子供はカッパを着、母親が傘を差している。
「あ、みかん」
少年が唐突に声を上げた。母親が辺りを見回すも、そんなものはどこにも見当たらない。あそこ、と少年が指さす方を見ても、何もない。母親は困ったように、
「何もないわよ? ほら、行くよ」
そう言って、手を引いて行ってしまった。
よくよく考えると、この季節に路上にみかんが転がっているなんて不自然極まりないのだが、母親は橙色のボールをみかんに見間違えただけだと思って、特に気にすることはなかった。
実際そこにあったのはボールでもみかんでもなかったのだが。

◇

僕が小学校に入学したばかりの頃。入学式の次の日ぐらいだったかな。僕らがそれと出会ったのは。
桜の花びらが舞う通学路を、まだ傷一つない真新しいランドセルを背負って、幼なじみのけーちゃんと一緒に歩いていた。けーちゃんとは家が近くで、幼稚園に入る前からの仲だ。そういうわけで一緒に登下校することになっていて、このときはその帰り道だった。
「ねえせーちゃん、友達できた?」
「となりの席の子としゃべったよ。けーちゃんは?」
同じクラスになったものの出席番号の関係で席が遠い僕らは、そんなたわいもない会話をしながら、のろのろ歩いていた。そうして電柱のそばを通り過ぎようとしたとき、ふいにその陰で何か動いた気がした。僕は足を止めて、じっとそこを見つめる。
「なあに? 何かいた?」
ちょっと不満そうにけーちゃんが言ったけど、構わずに、今度は少し違う角度から見てみた。すると、そこにはただの橙色のボールが転がっているだけだった。大きさはだいたい野球ボールくらいだろうか。横から一緒にそれを見たけーちゃんが、もう行こうよと言いかけた、その瞬間。
ボールが、勝手に動いた。
坂道でもないし、風もないのに、どうしてかそれは勝手に転がって、向こうに行ってしまおうとしていた。けーちゃんが目を丸くしているのを横目に、思わず叫んだ。
「待って!」
するとボールは止まって、こちらを振り返った、ような気がした。見た目はただのボールなのだから、その感覚が正しかったのかはわからない。けれど、僕が歩み寄ってもそいつはその場を動かなかったから、話は通じそうだと思った。
「君は何?」
「ちょっと、せーちゃん!?」
そいつに話しかけてみた僕に、けーちゃんは驚きの声を上げた。大丈夫だよ、と根拠のないことを言って、このボールの反応を見ていた。が、何も言わない。というより、口がないようだった。
「生き物なの?」
そう聞くと、返事をする代わりにうなずくような動きをした。
こんな生き物見たことがない。目を見開いて突っ立ったままのけーちゃんの隣で、同じように目を大きくしてしばらく黙って見ていると、ふいにそのボールが跳び上がった。二人がわっと声を上げる間に、そいつは僕を跳び越え、僕のランドセルの上に乗ってしまった。けーちゃんはどうしたらいいかわからずに固まってしまっているようだった。僕も驚きはしていたが、それよりもこのボールのような生き物についてもっと知りたいという思いが生まれてきていた。
「けーちゃん、ぼく、これ連れて帰るよ」
少しの間があった。口をあんぐり開けた顔は、少しまぬけだった。
「だ、だめだよ! 何でもかんでも拾ってきちゃいけないってお母さん言ってたもん。怒られるよ」
やっとの事で声を発したみたいだったけど、僕には関係なかった。
「ばれなかったら大丈夫だよ」
そう言ってボールをランドセルの中に入れた。
「しーらない!」
けーちゃんは怒った顔をして先に行ってしまった。けれど、
「けーちゃん! 一人で帰ったらだめだよ!」
そういうことで、けーちゃんの数歩後ろを歩いて帰ることになった。

家に帰ると、お母さんのおかえりという声に返事だけしてそそくさと自分の部屋に入り、ランドセルを開いた。連れ帰ったそいつを取り出そうとすると、自分からかばんの外に飛び出してきた。
「わっ」
思わず大きな声が出てしまった。
「もう、驚かせないでよ。君のことは内緒なんだから」
そう言うと、そいつはしゅんとするような仕草をした。それが何とも生き物らしく、何とも言えない気持ちになった。
そうだ、名前をつけなくては。うーん、何かいい名前はないかな。オスかメスかもわからないし、そもそも性別なんてあるのかな。
そんなことを考えていると、そいつが僕のそばに転がってきた。おもむろに手に取ってみると、さっきはあまり意識していなかったが、見た目以上に柔らかかった。その見た目というのは、橙色のゴムボールそのもので、大きさは野球ボールほど。しかしながら、ほとんど重さを感じない。そのままよく見ていると、こいつには口だけじゃなく、目や鼻、耳もないようだった。そりゃあ、ゴムボールに目とか鼻とか耳とかがあったら怖いけど、じゃあどうやって僕の言うことを理解しているんだろう。
そんなふうにまた考え事をしていると、そいつは僕の手から飛び出し、床の上で跳ね始めた。重さはないはずなのに、なぜかそいつが跳ねるとどんどんという音が鳴った。
「ちょ、こら、やめてよ、お母さんに聞こえちゃう」
口で言っても、手で止めようとしても、跳び跳ね続けた。案の定、お母さんの足音が近づいてきた。
「お願い、やめて、こっち、隠れて!」
やっとの思いで押さえつけ、机の引き出しに隠した瞬間、部屋の扉が開かれた。
「何やってるの、どんどん音立てて。……もしかして、何か連れてきた?」
どきっ。どうしてこんなに鋭いのか。
「そんなわけないじゃん。ほら、虫がいて、今は、どっかいっちゃったけど」
「……そう? あんまり大きな音立てちゃだめよ」
それだけ言って、行ってしまった。なんとかごまかせたようだ。ゆっくりと机の引き出しを開けると、そいつはさっきまでと打って変わっておとなしくしていた。
「なんだったんだよさっきのは……ん?」
外に転がっていたボールだったからだろうか、細かい傷がいくつもあった。さっき見たときは気がつかなかったのに。

翌朝、けーちゃんと家の前で顔を合わせると、昨日のことは忘れたかのようにこっちに来て耳打ちした。
「名前! 考えなきゃね! それとももう決めた?」
そうだね、と言いきる前に、
「ね、だいだい色のだいちゃんっていうのは?」
提案というよりも確認のような口調で言った。それよりも、
「あれ、反対してなかったっけ? 拾ってきちゃいけないって」
「それはもういいの。あの後なんか気になっちゃって。ねえ、どう? まだ持ってるんでしょ?」
「それは、今ここにいるけど」
そう言いながらかばんをそっと開けると、橙色のボールが顔をのぞかせた。けーちゃんはそれを興味津々に見つめた。するとそいつは照れたようにまた奥の方に隠れてしまった。
「だいちゃん、だいちゃーん」
けーちゃんが呼ぶと、また少し顔を見せた。
「ほら、やっぱりだいちゃんがいいんだよ。ね、だいちゃん」
今度ははっきりとうなずいた。代わりの案がなかったので、結局、けーちゃんに決められてしまった。

そいつの名前がだいちゃんに決まってから数日。その日の体育の時間は、鉄棒の授業だった。けーちゃんは鉄棒が得意だけど、僕は苦手だった。逆上がりができた人は、まだできない人を手伝ってあげましょう、なんて先生が言うから、さっさと終わらせたけーちゃんが僕の所に来て、あーだこーだと言っている。
「いい? よく見てて。まずしっかり持つでしょ。で、こうやって、こう! わかった?」
「さっぱりわからないよ」
見本を見せてくれるのはいいけど、説明が説明になっていないせいで、どうしてそうなるのかさっぱりわからない。
そうこうしているうちに授業の終わりが近づき、先生が、できなかった子は前回りでも何でもいいからできることをやって終わりましょう、という指示を出した。この時間ずっとできないできないと言ってきたので、ちょっとやけになってえいやと勢いよく前回りをした。
勢いがつきすぎて、手が滑り、途中で落ちてしまった。
「ちょっと、大丈夫?」
そばにいたけーちゃんが、驚きと心配の声をかけた。
「うん、平気。そんなに、痛くない」
不思議なことに、思っていたほど痛くはないのだ。幼稚園で鉄棒から落ちたときはもう少し痛い思いをしたような気がするのだが。
その日の放課後、人気が少なくなったところでこっそりだいちゃんを見てみると、表面が数ミリ程度欠けていた。何か傷をつけるようなものをかばんに入れていたかなと思って見直してみたけど、特にだいちゃんに傷をつけそうなものはなかった。

その後、不思議なことがたびたび起こるようになった。

通学路の途中に、見通しの悪い交差点があった。そこは車や自転車は頻繁には通らないけど、たまにスピードを上げて通っていくことがあるから、お母さんから気をつけなさいと言われていた。けれど、やっぱり油断してしまう。
その日はちょっと寝坊して、小走りで行かないと遅刻しそうだった。もっと早く起きなきゃ、なんて小言を言うけーちゃんと一緒に、あの交差点にさしかかった。その時、片方の肩を後ろから引っ張られた感覚がして、立ち止まった。それとほぼ同時に、目の前を自転車が猛スピードで走っていった。
危うくひかれるところだった。そうか、さっき引っ張ってくれたのはけーちゃんだったんだ。はたと気づいてお礼を言おうとしたら、
「危なかったー。ねえ、さっき引っ張ってくれたでしょ? ありがとう!」
「え? けーちゃんが僕を引っ張ってくれたんじゃないの?」
「あれ?」
どうやら、けーちゃんも僕と同じように、交差点にさしかかったときに誰かに後ろから引っ張られたらしい。ほかの誰かが僕ら二人を引っ張ってくれたのかもしれないけど、その場にはほかに誰もいなかった。二人とも黙ったままで、交差点には奇妙な雰囲気が漂っている気がした。
「もしかして……ユーレイ!?」
その雰囲気を打ち破るように、けーちゃんが興奮気味に言った。
「ちょっと待って、ユーレイだったら逆に背中を押すんじゃない? 道連れとかで」
「それは……そう、いいユーレイよ。いいユーレイが助けてくれたのよ」
「いいユーレイって?」
「うーん……ああ! そんなことより! 遅刻!」
結局、予鈴には間に合わなかった。

夕飯の時、今朝の出来事をお母さんに話してみた。
「……それでね、けーちゃんはいいユーレイが助けてくれたんだって言うけど、いいユーレイって何だろう」
「うーん、そうね、ご先祖さま――あなたのひいおじいちゃんやひいおばあちゃん……ひいひい、ひいおじいちゃんぐらいかもしれないわね。そういう人たちの幽霊は、あなたを助けてくれるかもしれないわね」
「ふうん……」
僕がとりあえず納得したのを見計らって、お母さんの口調が変わった。
「ちゃんと自分で早く起きて、余裕をもって行かないからそうなるんでしょ? けーちゃんにちゃんと謝った?」
「謝ったよーちゃんとわかってるよー。ごちそうさまー」
夕飯のあと、自分の部屋に戻ってだいちゃんを見てみると、また表面が欠けていた。今度は前のような数ミリの傷ではなく、指の先が入るくらい大きな穴が開いていた。それも二つ。
「どうしちゃったんだよ……」
いつもは話しかければ反応するだいちゃんが、今日は何も反応しなかった。もしかして、何か隠しているのか、それともどこか悪いのか。明日、けーちゃんに話してみよう。
突然、だいちゃんが初めて出会ったときのように高く跳び上がり、開いていた窓から外に出て行ってしまった。
「だい……っ!」
思わず大きな声が出そうになって、慌てて口をふさいだ。窓から下をのぞいてみたけど、だいちゃんの姿は見えなかった。
「どうかしたー?」
お母さんの声。
「……なんでもない」
声が少し震えた。お母さんがこんな声を聞いて、近くにやってきた。
「何でもないことないでしょ。どうしたの」
「なんでもない……なんでもないよ……」
涙があふれてきてしまった。止まらない。なんでもない、と繰り返すしかなかった。
「……わかった。本当に何でもないのね?」
こくりとうなずくと、思案を巡らせた顔のまま部屋から出て行った。
しばらくして、ようやく落ち着いてきた。そうだ、きっと戻ってくる。ちょっと散歩に行っているだけなんだ。でも、どうして? 何か怒らせちゃったかな? もう会えない? いや、きっと会えるはず。そう信じて待つしかなかった。

◇

だいちゃんがいない間に、僕は小学校を卒業し、中学生になった。もっとも、この頃にはもう「だいちゃん」とは呼ばなくなった。中学生になったばかりの頃、鏡餅にのっているあのみかんのようなものは橙というのだということを知って、ちょうどだいちゃんのようだということで「橙」と呼ぶことにした。「だいちゃん」と呼ぶのがなんだか気恥ずかしいと思うようになったというのもあるのだが。ちなみに「鏡餅にのっているみかんって橙っていうんだって」とけーちゃんに言ったら、「知ってるわよ。え? 今さら?」と返されたのは余談である。
この六年間はいろいろなことがあった。まあ、何もなかったなんてことはあり得ないのだから、当然といえば当然なのだけれど。
橙がいなくなった翌日、けーちゃんに今日は連れてきていないのかと聞かれて初めて橙がいなくなったことを話した。彼女は橙とはちょっとした時間に顔を合わせ、少し話をする程度だったのだが、僕と同じようにショックを受けていた。なんで、どうしてと問い詰められたが、僕にもわからなかった。
「ねえ、戻ってくると思う? また会える?」
昨日考えたことを確認したかった。すると彼女は、
「戻ってくるわよ! また会えるよ! ぜったい!」
力強く、おそらく願いを込めて、言った。

それから数日たって、冷静になってその日のことを思い出してみると、その日の朝、通学路で事故に遭いかけた。その時、僕らは何者かに助けられた。そのあと橙のからだが欠けていた。いや、「その時」欠けたのかもしれない。そう思い立ったとき、何かつながったような気がした。
「けーちゃん、もしかしたら、あの時助けてくれたのはだいちゃんだったのかもしれない」
「あの時って、前に自転車とぶつかりそうになった、あの時? どういうこと?」
「だいちゃんは、あの日の夜見たとき、からだが欠けてたんだ。僕の指先が入るくらいの穴が、二つあった。前の日にはなかったんだ。関係あると思わない?」
「うーん、でも、どうやって?」
「きっと、前から僕らの肩に体当たりか何かしたんだよ。後ろから誰かが引っ張ったんじゃなかったんだ」
「でも、全然気がつかなかった。もしそうだとしたら、だいちゃんはすごいスピードでわたしたちにぶつかってきたことになるんじゃない? 見えなかったもん」
確かにそうだ。野球ボールほどの大きさのものが飛んできたらわかるはずだ。しばらく思案して、はっと気がついた。
「かけらだ。だいちゃんは自分のかけらを飛ばしたんだ。あれくらいの大きさだったら、気がつかないかもしれない」
「そんなことできるの?」
「僕もそれは思うけど、わからない。だって、僕らはだいちゃんのこと、だいちゃんが何なのか、知らないじゃないか」
そうだ、何も知らない。何も知れないまま、橙はどこかへ行ってしまった。
「思い当たることはあるんだ。僕がけがをしそうになるたびに、あいつ、傷だらけになってたんだ。もしかしたら、僕の代わりにけがしてたんじゃないかって」
けーちゃんは言葉を失っていた。突飛な話だけど、そう考えるとつじつまが合う。僕はほぼ確信していた。
「じゃあ、どうしていなくなったの?」
けーちゃんが再び口を開く。どうしていなくなったのか。心の中で反復して、考える。それは……。
「それは、心配をかけたくなかったから。僕らを助けたことを知られたくなかったから。気づかれたくなかったから」
自分の答えに、なんとなく納得できた。
これまでの不思議なことは、橙の仕業だったのだ。陰から、誰にも気づかれることなく、僕らを助けてくれていた。僕が橙の変化に疑問を抱いたから、気づいてしまうと思ったから去っていった。
小学生の時はあの時の橙の気持ちは想像でしかなかったけど、中学生になってからようやく理解できた。

ところで、橙がいなくなったことによって不思議なことが起こらなくなったわけではない。
階段から転げ落ちそうになったとき、車にはねられそうになったとき、自転車で転んだとき、いつも寸前で助かったり、ほとんどけがをせずにすんだりした。単なる偶然かもしれないけど、僕はこれらを橙のおかげだと思うようにしている。僕らの見ていないところから、僕らのことを見守っていてくれている。そう思うだけで、力がわいてくる気がするのだ。けーちゃんも、それについては同意見だと話していた。
けーちゃんといえば、彼女とは中学に入ってから話すことが少なくなった。何かと男女別で行動することが多くなったから、当然だろうし、仕方ないことなのだろう。今では当番や班が一緒になった時ぐらいしか話さない。違うクラスだったら、全く話す機会がなくなっていたかもしれない。部活もそれぞれ違うことだし。彼女は運動部、僕は文化部に入った。運動部はいつも遅くまで頑張っているらしいが、僕ら文化部は遅くても下校時間には学校を出る。朝は朝で運動部は朝練にいそしんでいるため、通学路でけーちゃんと会うことはほとんどなかった。
ただ、この日は僕の方はいつもより少しだけ長引き、けーちゃんの方はいつもより早く部活が終わったため、校門のところで一緒になった。
「あれ、今日はひとり?」
「いつも一緒に帰る子が今日は休みで」
それが何か? というような顔をしてそそくさと帰ろうとする。
「あ、待って。よかったら一緒に帰らない? 久しぶりに」
けーちゃんが目を丸くして立ち止まった。その間に、一緒に帰る予定だった同じ部活のメンバーに断りを入れに行った。
「なあ、あれ、まさかカノジョ?」
「違うよ。ただの幼なじみ。今日はひとりみたいだから、一緒に帰るだけ。家すぐ近くだし」
「ふーん、ま、がんばれよー」
「ちょ、どういうことだよ!」
答えを聞く前にそいつはじゃーなー、とひらひら手を振って行ってしまった。
「なんだよ、カノジョって」
「何か言った?」
「うおあ!? なっ、何も言ってない!」
ぶつぶつ言っていたひとりごとをけーちゃんに聞かれて、顔から火が出ているんじゃないかというほど顔が熱くなった。その様子を不思議そうな顔でけーちゃんが見ていた。
「なんでもない、なんでもないから、行こう?」
慌てて取り繕って、僕らは歩き始めた。

歩き始めたのはいいものの、重い沈黙が続いていた。夕焼けのせいか、顔だけが妙に熱い。
「……つ……しい?」
「え、ごめん、今、何て?」
頭がぼーっとしていて、何も聞き取れなかった。
「だから、部活は楽しいかって」
「ああ、うん、楽しいよ。けー、ちゃんは?」
なぜか呼びなれたはずの名前で詰まってしまった。
「んー、しんどい、かな」
「やっぱり大変なんだね、運動部って」
月並みの言葉しか出てこない。もっとほかに言い方があるだろうに。また、沈黙が訪れてしまった。早々に沈黙を断ち切らねば。
「そういえば、昔、よくけーちゃんはお母さんみたいだなーって思ってたんだ」
「はあ? それってどういうこと?」
何を言っているんだ僕は。どういうことか、僕にもわかりません。
「えっと、そう、さっきの部活は楽しいかとか、友達できたかとか、お母さんみたいなこと聞くからさ」
苦し紛れだったけど、それは本当だった。
「お節介って言いたいわけ?」
「あー、いや、そういうんじゃなくて……」
なんでこうなるかな……と自己嫌悪に陥りかけて目をそらした、その視線の先の電柱の陰で、何かが動いた。
「けーちゃんっ!」
「なに、……!」
電柱の陰から、橙色のボールがのぞいていた。

「だいだ……だいちゃん!」
「だいちゃあーん!」
僕とけーちゃんはほぼ同時に叫び、橙に駆け寄った。僕は橙の前で「橙」と呼ぶことはできなかった。
僕が手を差し出すと、橙はその上に乗ってきた。
「あれ、お前、そんなに小さかったっけ?」
「ほんとだ、前はもっと大きかったはずだよね」
というのも、以前は野球ボールほどの大きさがあったと思っていたのに、今僕の手のひらに乗っている橙はピンポン玉か、それよりも小さいくらいなのだ。表面はでこぼこしていて、みすぼらしい感じがした。
「今までどこにいたの? そんなにでこぼこになって」
僕が思っていたことをけーちゃんが先に口にした。すると橙は、犬が水をかぶった後に体をふるみたいに、ぶるぶるとからだをふるわせた。橙色のかけらが飛び、きれいな球の形になった。その代わり、もう一回り小さくなってしまった。まさか……
「まさか、このままどんどん小さくなって、消えてなくなっちゃうんじゃ……」
「まさか! ねえ、だいちゃん」
けーちゃんがすがるように橙を見るが、橙は何も反応しない。何も言いたくない、ということなのだろう。いなくなったあの日も同じだった。
僕らはしばらく橙を見つめながら、その場に立ち止まっていた。ぽんぽん、と橙が手のひらの上で小さく跳ねた。そして、僕の方を見た、気がした。久しぶりに、橙と見つめ合った。懐かしい気持ちになった。
「ねえ、今日はうちにおいでよ」
優しく言った。橙は、大きくうなずいた。

「久しぶりの僕の家はどう?」
僕の部屋に入った橙は、楽しそうに、しかし音を立てずに部屋中を跳ね回った。僕のからだの上で跳びはねたりもした。
「ねえ、だいちゃん、明日、僕と学校に行かないか? 中学校は初めてなんじゃないかな? 見ていってよ」
そう言うと、橙は嬉しそうに跳びはねた。
そのあとも橙と話をしていたけど、これまで僕らを助けてくれていたのか、なんてことはあえて聞かなかった。

翌朝、教室に入って席に着くと、先に来ていたけーちゃんが迫ってきた。
「だいちゃんは?」
「ここにいるよ」
けーちゃんに見えるようにかばんを開いてみせた。けーちゃんがのぞき込むと、橙が少し控えめに顔をのぞかせた。それを見て、けーちゃんはほっと胸をなで下ろした。
「よかったー。またどこかに行っちゃうかと思った」
けれど、やっぱり言わなければいけないよな。
「けーちゃん、僕、だいちゃんをずっと家においておくわけじゃないよ」
「えっ」
けーちゃんの声が裏返り、教室中に響き渡った。教室にいたみんなの視線が集まる。しかしまたすぐにそれぞれの会話に戻り始めたため、続けることにした。
「昨日考えたんだ。自由にさせてあげようって。その方がいいかなって思ったんだ。だいちゃんが家に遊びに来たい時は来ればいい。僕らのそばにいたい時はそうすればいい。こういうのって、だめかな?」
けーちゃんはうつむいて僕のかばんの方を見ていたけど、意を決したように顔を上げた。
「わかった。せーちゃんがそうしたいならそうすればいいよ」
僕は大きくうなずいた。かばんの方を見て、小声で言った。
「そういうことだから、学校でも好きにしていいよ」
しばらく動かなかったけど、確かにうなずいた。
放課後、荷物をまとめるのにかばんの中を見たけれど、そこにはいなかった。
家に帰っても、橙はいなかった。好きにすればいい、と言ったのだから、どこにいようが橙の勝手だ。僕の所にとどめておく必要はないはずだ。けど、たまに来てくれたらいいのにな。そんな思いだった。
しかしながら、橙が僕らの目の前に現れることはめったになかった。目の前に、というのは、たまに後ろを振り返ったりすると、動く橙色が目に入ることがあるのだ。家に来たり僕らに乗っかったりはしないけれど、近くにはいる。見守るのが好きなんだろう。小学生の時も、気がついていなかっただけでこうやって見守っていたかもしれない。自然に笑みがこぼれた。

こんな日々が続いた中学校生活も、いつの間にか終わってしまった。けーちゃんとは別の高校に進むことになった。何かあったときに、ということで、メールアドレスだけ交換した。

◇

高校へは自転車で通うことになった。中学生になる以前から使っている自転車をきしませながら、起伏のある通学路を行く。
高校に入ったからって橙のことをすべて忘れたわけではないけど、勉強やそのほかのことで忙しく、以前より思い出す頻度は少なくなってしまっている。携帯電話も静かだし。こういうのをぼっちっていうんだろうな。自虐的にそんなことを考えながら、帰り道を走っていた。まだ高校生活に慣れないせいか、心身ともに疲れ果てていた。
頭が少しぼんやりとしたまま、坂道にさしかかった。帰りは下りで楽なのだが、行きは上りなので、朝からつらい思いをすることになる。それも、緩やかな、長い坂道なので、上るときは勢いをつけないとなかなかきつい。逆に下りは思った以上にスピードが出るので、坂の終わりの信号までに減速をしないと危ないことになる。安全運転は大事。
いつも通り坂道を下る。スピードが出てきたら、いつも通り減速する。
ばつん。
「……は?」
ブレーキが、両方効かない。そんなに強く握っていないのに、ブレーキが切れた。
「うそだろ!?」
こんなことってあるのか。まあ、それなりに古い自転車だから、寿命だったのかもしれない。とそんなのんきなことを考えている暇はない。信号は赤。ブレーキが効かず、どんどん加速する。足で止めようにも止まるはずもない。なんか映画でこんなの見たことある気がする。なんか走馬燈見えてきた。
信号にさしかかる。青に変わらない。車が来ている。
あ、死んだ……。
衝撃が走り、宙に投げ出された。

空が見える。ざわめきが聞こえる。体も動く。
生きている。そう気づくまでにだいぶ時間がかかったきがする。大丈夫かという声に返事をして、何とか立ち上がった。
その後いろいろな手続きをして、体に異常もないということでやっと家に帰れた。お母さんに相当心配されたけど、今日はもう何もせずに寝ることにした。

ふと、目が覚めた。時間は夜中の二時。まだまだ眠れると思って寝返りをうったところ、窓のほうから物音がした。もしかして、と思い近づいてみる。
そこには、以前見た時よりもさらに小さくなった橙がいた。
「おかえり」
その一言だけ言った。
橙のからだがぼろっと崩れた。そうか、また助けてくれたんだな。橙はみるみる崩れていく。崩れていきながらも、その表情は笑っているような気がした。
ほろほろと形がなくなってゆき、とうとう、消えてなくなった。

――ありがとう。

けーちゃんに、初めてのメールを送った。事故のことから、橙が消えるまでの、長いメールになった。送信して少しして、真夜中にもかかわらず、直接話そう、ちょっと出てきてと返ってきた。
家から出ると、ちょうどけーちゃんが走ってきていた。
「だいちゃんが……」
黙ってうなずくと、けーちゃんは涙を浮かべた。僕はそっと抱き寄せていた。
「……え?」
「え?」
お互いに何が起こったかわかっていなかった。頭がこんがらがって、露骨に話を逸らすしかなかった。
「あー、もう遅いから家に帰ろうか。ていうかなんで起きてるの?」
「なんかね、目が覚めちゃって。携帯が鳴ったから、見てみたら……」
再び涙目になる。
「けーちゃん、あいつ、笑ってたよ」
「……うん」
「帰ろうか。送っていくよ」
「うん」
真夜中に見る月は、きれいだった。

◇

「それで? その後は?」
「その後も何もないさ。お話はこれでおしまい」
「えー」
ある老人と、その孫とおぼしき少年が話している。
「ねえ、それって本当の話なの?」
「どうだろうね。むかしむかしのお話だから。僕にとっては本当の話だけどね」
帰ろうか、と老人が手を差し出す。二人手をつないで歩いて行く。

今日のお話は、これにておしまい。






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