夜王物語

秋野 優

【一】別れと出遭い

 頭が沸騰する。視界が瞬く。血を流し過ぎた体は脳の指令をうまく伝えてくれない。ズルズルと足を引き摺りながら彼女の方へと歩く。
「おいおい、大丈夫か、少年? 手ェ貸してやろうか?」
 声を聴いただけでにやにやと笑っている顔が簡単に想像できた。
 鬱陶しい。余計なお世話だ。これは僕の力だけでやらなきゃダメなんだよ。
 そう答えようと思うが、言葉をうまく発することが出来ない。思い通りにならない自分の体がわずらわしい。
「――――ぁ」
 壁にもたれ掛った彼女を見下ろす。彼女はただ虚ろな目で僕を見ていた。その目の奥に隠れているのは僕に対する怒りなのか、右手に持ったナイフに対する恐怖なのか。僕には分からなかった。
 空を見上げると真っ黒な夜空にぽつんと満月が浮かんでいた。いやに綺麗な満月だった。
 ナイフを彼女の首へと向ける。息を吸い込む。
「さよなら、陽菜」
 ただ、薙いだ。

◇

 『春眠暁を覚えず』と言う言葉がある。要するに暖かい春は眠い、と言う意味なんだけど、我が妹には季節は関係ないらしい。隣の席で見事に寝ていらっしゃいます。先ほどまでは眠たそうにしながらも起きていたのだが、睡魔に負けてしまったのだろう。
「お〜い、起きろ。授業中だぞ」
 先生にばれない様に小声でささやきながら、シャーペンで突っつく。兄としてのせめてもの情けだ。キャップ側で突いてやろう。
 まぁ、一度寝たら、なかなか起きないのは知ってるんだけど。幸い授業も先生の無駄話になっていたので、突きながらぼうっと彼女を眺める。
 純日本人のはずなのに何故か色素の薄い髪に整ったパーツ。今は目を閉じているため分からないが、その目には生気が満ちて溢れていることを僕は知っている。兄の贔屓目抜きでもかなりの美人だ。
 彼女は白河 陽菜。双子のはずなのに僕とは全く似ていない妹だ。どうやら神様は僕と陽菜で容姿のステ振りに贔屓をしたらしい。
「ん〜、おはよう。朋くん」
 しつこく続けたかいもあってか陽菜が目を覚ます。
「おはよう、じゃないよ。授業ちゃんと聞きなさい」
「ん、聞く」
 受け答えからして、まだまだ寝ぼけているようだが、一応授業を聞く気はあるらしい。目をこすりながらも黒板をノートへと写していく。
 と、起きてくれたのは良いのだけど、どうやら時間切れらしい。先生が無駄話を切り上げてしまった。すでに黒板は文字でいっぱいだ。端から消されていくだろう。ほら、早速消された。

◇

「写し切れなかったぁ」
 案の定、写し切れなかったらしい。授業中に寝る陽菜の自業自得だとは思うけど、早く帰り支度をしてもらわないと困る。
「早くしないとタイムセール始まっちゃうよ? 今日は卵が安いとか朝、騒いでなかったっけ?」
 今日は学校が終わったらすぐに買い物に行こうと言っていたのは陽菜の方だったはずだ。
「そうだった!! 朋くん、後でノート見せてね」
「はいはい」
 言いながら陽菜は机の上の物をカバンへと流し込んでいく。女の子なんだからもうちょっと落ち着いた行動をして欲しいものだ。
 僕も机の上に置いておいたカバンを肩にかける。
「さぁ、行くよ。ほら、早く」
 詰め終わったらしく、ドアに向かって歩き出した。せわしないな、と思いながらもその後ろに着いていく。
「朋くん、今日は何食べたい? 卵縛りね」
 校門へと続く廊下を歩きながら陽菜が問いかけてきた。卵縛りと言われても、困る。
 ちなみに、白河家では料理は陽菜が掃除、洗濯は僕が、買い物は二人で分担している。もちろん、僕が料理する時もあるのだが。今日の朝はちょうどそんな時だった。
 今朝見た冷蔵庫の中へと記憶を馳せる。少し考えて答えを出した。
「鶏肉余ってたし親子丼にしよう」
「了解。じゃあ、卵にネギとお味噌汁の具でも買って帰ろっか」
 そんな会話をしているうちに靴箱まで着いた。スニーカーを取り出し、履き替える。隣を見ると一通の手紙を手にしている陽菜。
「また? 今度は誰なの?」
「あー、隣のクラスの人っぽい。クラスの人がイケメンって騒いでた気もする。貰っても困るんだけどなぁ」
 陽菜が差出人を見ながら苦笑する。
「今、全国のモテない高校生を敵に回したからね。僕、含め」
「そんなこと言われても、面識のない人だからねぇ。クラスと番号書いてあるし、取りあえず靴箱の中に返してあげよう」
 陽菜は隣のクラスの靴箱まで行き、手紙を入れた。随分とえげつないことをする。まぁ、イケメンらしいし、一言送っておこう。ざまぁ。
「ほら、買い物行くよ」

◇

「陽菜さん、陽菜さん。こんな買う必要ありました?」
 僕の両手の大量の荷物を陽菜に見せる。とにかく重い。
別に極貧生活を送ってるわけでもないし、少々無駄遣いするくらいは問題ないのだけど、重い。それに尽きる。てか、ちょっとは持ってくれ。
「男の子が弱音吐かないの」
「運動不足の兄に期待してくれるなよ。下手したら陽菜より体力ないんだから」
 数年前から陽菜の体力テストの結果聞いてないからな。抜かれてたらさすがにショックだし。現実は見ないに限る。
「自慢気に言わないでよ。情けない」
 陽菜がため息を吐いているが、運動苦手なもんは仕方ない。陽菜は運動神経抜群なんだから、ここでも神様の贔屓が見て取れる。
「ねぇ、朋くん。あそこの店に寄ってきてもいいかな?」
 指さす方を見ると小さな露店がそこにはあった。少し距離があるため詳しい品ぞろえは分からないが、どうやらアクセサリーを扱っているようだ。
「あぁ、行っといで。もう、僕は疲れたからそこのベンチで休憩しとくよ」
 露店の近くにベンチを見つけたのでそこで待っていることにする。地味に腕が限界だったのだ。
 ベンチに荷物をおろし、腰かける。これは明日は筋肉痛かもしれない。筋肉痛で体育って休めるんだろうか。休めるんだったらもう少し頑張ることも考慮に入れる。
 カバンからスマホを取り出して、時間を確認する。四時五十二分。まだ、日が暮れるまでは少しあるが、早めに帰った方がいいかもしれない。最近日が短くなってきたし。
 陽菜の方はと言うと、どうやら、店員さんと話をしながら選んでいるようだ。楽しそうで、お兄ちゃんはうれしいです。
 そうして陽菜を眺めていること十数分。不意に陽菜が振り返りこちらに手招きをする。
「朋く〜ん。ちょっと来て」
 彼女の手招きに従って露店へと向かうと、陽菜の前には二つのブレスレットが並んでいた。
「この二つのうちどっちが良いかな?」
 手に取ってついていたタグを読んでみると、どうやら色付きの水晶をメインに据えたブレスレットらしい。まぁ、本当に水晶なのかガラス玉なのかははっきりしないが、綺麗であることは確かだ。
 片方は暖色系の色で統一されており、鮮やかなオレンジ色の水晶がひときわ目立っていた。
もう一方は先ほどとは反対に寒色系だ。こちらは紫色のアメシストがあしらわれている。
「う〜ん、僕はこっちのオレンジの方が好きだけど」
 言いながらオレンジのブレスレットを陽菜に手渡す。彼女はそれを手首に着け、光に透かしてみる。
「じゃあ、こっちにしようかなぁ。おじさん。これちょういだい」
 決まったようなので、露店の店先から離れる。そんな広い店でもないからね。買いもしないのに店先に居たら他のお客さんの邪魔になってしまう。
 そうやって、待つこと数分。無事会計を済ましたらしい陽菜が僕の待つベンチへとやってくる。その手首には先ほどのブレスレットがはまっていた。夕日を反射してオレンジ色に煌めく。
「お待たせ。じゃあ、そろそろ帰ろっか」
「そうだね。もう日が暮れそうだしね」
 西の空に目を向けると、太陽がだいぶ傾いていた。時刻は五時半くらいだろう。秋も深まって来たからか、少し肌寒くなってきた。
「よし、近道しよっか!!」
「……は? 近道なんかあったっけ?」
 このあたりに引っ越してきたのは高校に入ってからだからもう一年半になる。買い物に行くのは陽菜が多いとはいえ、僕だってそこそこ、この辺りには来ている。その間に近道なんてものあった記憶がない。
「ふふふ、朋くん。研究が足りないよ!!」
 僕のぽかんとした顔に気付いたのか、陽菜が自慢げな顔で説明してくれる。
「ちょっと行った先にある路地裏が抜け道になってるんだよね。それを抜けると、公園に出て――」

◇

 そんな感じで陽菜に連れられて路地裏へと入ったのが数十分前。
「それで? 近道じゃなかったの?」
 僕たち兄妹は今、薄暗い路地裏に居ます。ここがどこなのか皆目見当が付きません。
「あはは、迷っちゃったね」
「迷っちゃったね、じゃないよ。まったく、もうほとんど日が暮れちゃったし」
 一応街灯あるから、陽菜の顔くらいは見えるものの、かなり視界は悪くなってしまっている。
 こうなったら仕方ない。引き返して普通に帰ろう。そう思って、スマホを取り出す。地図アプリを起動して現在位置を検索する。
「……朋くん、ごめんね」
 さっきからしゃべらないと思ったら陽菜は俯いて、しょんぼりとしていた。何となく苦笑する。美人って言うのはこういう時に本当にずるいな。
「別に怒ってないよ。未開の地で迷ったわけじゃないんだから。地図もあるし」
 未だに俯く陽菜の頭を軽くなでて歩き始める。地図を見る限り相当入り組んだ路地の様だ。これなら迷ってしまうのも仕方ないのかもしれない。
 それは突然現れたとしか思えなかった。
 最初に感じたのは臭いだった。生臭いすえた臭い。動物園で嗅いだ獣の匂いを何十倍にも濃縮したような。続いて感じたのは音だった。唸り声。かすかにねちゃり、ねちゃりと粘着質な湿った音もする。
「何これ?」
 陽菜が後ろから僕の腕にしがみついたのを感じた。彼女の震えが伝わってくる。でも、僕には彼女の問いに答える余裕はなかった。とてつもなく嫌な予感がする。一刻も早くここを離れたい。
 全神経を周囲の観察に費やす。一瞬たりとも気を抜くなと、頭のどこかで警鐘が鳴り続けていた。とにかく、この路地を抜けるのが最優先だ。
「陽菜、急ご――」
「朋くんッ!!」
 陽菜に急ぐよう促そうと振り向いた瞬間、陽菜に捕まれていた腕が強く引っ張られる。僕は陽菜の方へと倒れこみ、陽菜は勢いのまま前に出る。反転する僕と陽菜の立ち位置。瞬間、鈍い音がした。
 倒れこむ僕の視界に映ったのは宙を舞う陽菜の体だった。何故、僕の前に出たはずの陽菜が後ろに飛んでいるんだ? そんな馬鹿みたいな疑問が浮かんだ。
 その答えを得る間もなく、視界いっぱいにナニカが広がった。街灯の光が隠され、視界が暗転する。
 途端に肩のあたりに力が加わった。倒れこむ速度が加速する。背中に感じる衝撃。脳が揺れる。視界が眩む。意識が歪む。消えゆく意識の中、目にしたのは紅に輝く大きな瞳だった。

◇

 意識を取り戻して、初めに感じたのはやはり臭いだった。むせ返るような錆びた鉄の匂い。僕は何をしていたんだっけ? 朦朧とする意識の中、考える。思考が纏まらない。体が重い。体が痛い。痛い。暗い。痛い。痛い。痛い。痛い。
 浮かんでは消える思考。そのほとんどが痛みに塗りつぶされていた。特に顔の左半分が焼けるように痛い。反射的に左手をそこへと持っていくと、どろりとした感触。薄く目を開けると左手にはどす黒い血がべっとりと着いていた。
 そこで気づいた。いつもよりも視界が狭い。本来見えるはずの左側の視界が黒く塗りつぶされている。自身の怪我を意識したからか急に体中が痛み出す。
「ぐふっ」
 喉元に何かが込み上げてきて、思わず吐き出した。口元をぬぐうとやはり血がこびりついていた。満身創痍。そんな言葉が浮かぶ。背中の固い感触からして、どこかの壁にもたれかかっているらしい。
 何でこんなことになってるんだ? 未だにはっきりとしない思考の中、考える。確か僕は陽菜と買物に来て、て――あれ? 陽菜はどこ行った?
 とてつもなく嫌な予感がした。心臓が狂ったように脈打ち始めたの感じた。呼吸が乱れる。冷汗が流れる。
 急速に覚醒していく意識。これ以上、考えてはいけない。そう思いながらも、思考は加速し、感覚は研ぎ澄まされていく。
 ぐちゃり。そんな音がした。何か硬いものを砕くような音がした。見ちゃいけない。そう思うものも、目はそんな思いとは裏腹に音の方へと向いていく。
 街灯の根本。淡く照らされたそこに僕に背を見せてソレはいた。僕はソレを適切に表現する言葉を知らなかった。
 漆黒の毛並みに筋骨隆々な後ろ足。左右に揺れる尻尾。一番近いもので言えば犬なのだろう。その数メートルを超える大きささえ無視すればだが。
 ぐちゃり、ぐちゃりという音に合わせてその体が揺れる。
 食べている。そう思った。では、何を?
 不意に音がやんだ。ゆっくりと、緩慢ともいえる速度でソレはこちらへと振り返った。初めてその正体が知れる。
 ギリシャ神話曰く、ソレはテュポーントエキドナの息子であり、その唾液には猛毒が含まれているという。グリモワールによれば二十四番目の勇猛なる伯爵ナベリウスのもう一つの姿ともいわれる。
 地獄の番犬。ケルベロスがそこに居た。
 六つの目全てが僕を見つめる。その口からは真っ赤な血が滴っていた。その滴を目でたどる。そこにあったのは赤黒い何か。
 ――やめろ。それ以上、確かめるな。
 それの大きさはちょうど僕と同じか小さいか。血に染まっているためか、それが何だったのかさえすぐには判断がつかない。だけどそれは人の形に似ていて。
 ――やめてくれ。理解したくない。確信を得てしまったら僕はもう耐えられない。
 ちかちかと街灯が瞬いた。それに反射して何かが光る。それが人だとするならちょうど手首の位置。それは綺麗なオレンジ色をしていた。
 ――あぁ、もう無理だ。
「あぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁああ!!」
 脳が過熱される。視界が赤く染まる。アドレナリンが体を駆け巡っている。痛みが消えた。体に力を入れる。筋肉が軋んだ。
 でも、そこまでだった。いくら力を入れようとも僕の足はピクリとも動かない。と言うより、腰から下の感覚すらなかった。
「――――動けよぉぉぉ!!」
 叫ぶ。それしか今の僕にできることはなかった。限界を超えた声量に喉が切れたのか口の中の血の味が濃くなる。
 そんな僕を見て、ケルベロスはただ、笑った。六つの目を細め、三つの口を歪めて。嘲るように、嬲るように、乏しめるように、嗤った。
「くそ、くそ、くそ、くそぉぉ!!」
 動く腕で足を叩くがその痛みを感じることはない。
 ケルベロスが一歩、また一歩とこちらへと歩いてくる。その距離はおおよそ五mほど。かの怪物の大きさからすればすぐに埋めることのできる距離だ。
 その距離をゆっくりと詰めてくる。間違いなく遊ばれている。圧倒的強者ゆえの余裕。依然として、僕の足は動いてくれる気配がない。
 迫ってくる怪物。巨体ゆえの足の間の隙間からは無残な姿となった陽菜が見える。怒りが再燃した。
 とうとう、ケルベロスが僕の目に立つ。相変わらずその顔には嘲笑が浮かんでいた。前足が僕の体に掛けられる。ケルベロスの作る影に視界が暗くなる。折れるギリギリまで体重をかけられ、骨が軋む。最期までいたぶる気らしい。
 ケルベロスはより一層、笑みを深くするとその三つの顔を徐々に近づけてきた。生臭い臭いがより一層濃密になる。大きく開かれる口。立ち並ぶ鋭い歯には血と肉がこびりついていた。
 近付いてくる死を目の当たりにしながら思う。どうやら、陽菜の敵を取るのは無理らしい。ならば、せめて――
「ぐるぁぁああああああああああ!!」
 ケルベロスが突如として叫び声を上げる。地面を蹴り後ろに跳んだケルベロスの目は一つが潰れていた。
 僕は右手に持った眼球を握りつぶす。ぐちゃりとした嫌な感覚。ざまぁみろ。これで僕とお揃いだ。
 唸るのを止め、再び僕の方へと目を向けたケルベロスの顔には先ほどまでの笑みはなかった。残った五つの目には溢れんばかりの殺気が宿る。牙をむきだし、関節を曲げ、体勢を落とす。もう遊ぶつもりはないらしい。
 終わりだ。先ほどとは比べものにならない速度でかけてくるケルベロスを見ながら思った。再びケルベロスの影で視界が暗くなり、そして――
 鈍い音共に視界が明るくなった。
「おいおい。うるせぇなぁ。俺は眠たいんだ。喧嘩するなら静かにしてくれねぇかな」
 まるで日常のワンシーンであるかのような緊張感のない台詞と共に彼はここに現れた。
 白銀の髪。紅の瞳。まるでおとぎ話のような風貌をした彼は、その口元にシニカルな笑みを浮かべ、僕を見下ろしていた。




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