押してはいけない
随二 

 駅のホーム。都会というには少々田舎くささも残る、そんな町の駅だが、人はそれなりに多い。
階段で狭くなった通路に、二列横隊の形で並んでいる。各々携帯電話やスマートフォンを手に、あるいは雑誌や本を読みながら電車の到着を待つ中、一人、じっと、ただひたすら前に立つ女性の背を見つめる男がいた。しばらく微動だにしなかったその男は、ついに女性の背へと手を伸ばした。まもなく電車が到着する線路へ、彼女の背中を押すべく――

*

 自分はどうかしてしまったのだろうか。最近どうもらしくない、というか、変だ。
 道路の側溝やちょっとした段差、あるいは階段や駅のホームで、近くにいる人の背中を、無性に押してしまいたくなるのだ。もちろんそんなことはやってはいけない、と理性でストップをかけているのだが、いつか理性の制止も聞かずにその欲求が暴走するのではないかと、内心ひやひやしている。人に相談すべきかとも思ったが、どう考えても頭がおかしいと思われるに違いないため、それはあきらめることにした。哀れみの目や奇異の目で見られるなんて、耐えられそうにない。そこで精神科を受診することも考えたが、そもそもこれが病気なのか疑問である上に、精神科を受診すること自体に抵抗があるため、これも保留にしている。
 
 ある日のこと。休日に近くのコンビニまで出かけた際、学校からの帰り道であろう小学生たちが、道路の縁石の上を綱渡りの要領で歩いていた。なぜ休日に、と疑問に思ったが、そういえば何かしら行事があると、休日でも学校に来させられたものだ、ということを思い出し、その疑問はすぐに解決した。
それはさておき、自分も幼いころはよくそうやって縁石の上を歩いたりしたものだが、やはり見ていると危なっかしい。ここは大人として、一言声をかけてやらねばならぬものだろう。そうして、彼らに一言、危ないよと言いかけた、その時。

自分の手が、意識することなく、彼らの方に向かって伸びていた。その手が、彼らを縁石から突き落とそうとしていた。

まさに一人の肩に手が触れようかとする時、その子がこちらを振り向き、はっとした。今、自分はいったい何をしようとしていたのだろうか。子供たちがこちらを見ている。道路側に落とそうとしていたんじゃないか。子供たちが不審そうな目で見てくる。まずい。
「あ……危ないよ? 縁石の上を歩いちゃ……」
震える声で、何とか搾り出した。子供たちの視線は変わらない。それはそうだろう。自分を客観的に見たら完全に不審者だ。大声を出されるか、通報されるか。もしそうなったらどうしようか、周りのものに迷惑がかかるな、その後は……とぐるぐる先のことを想像したところで、
「行こう」
という少年の声がした。その声で、少年らは、依然不審そうな目を向けつつも、小走りに去っていった。

 自分はいったいどうしてしまったのだろうか。こんなことは今までになく、かなりショックだった。いよいよ危なくなってきた、ということだろうか。今までは先に「人を押したい」欲求が生じて、その存在を意識した上で、理性で抑えてきた。だが今回の件は違った。無意識に手が伸びた。「人を押したい」欲求を自覚する前に体が動いてしまった。これはもう病気なのかもしれない。やはり病院にいくしかないのか……。

 しかしこんな時に限って、都合よく、仕事が忙しくなった。

 *

 目の前に人が立っている。こちらに背中を向けている。そしてここは断崖絶壁。その人は崖の先のほうにいて、おまけに、ここには自分と目の前の人間しかいない。
 背中を押したい。今なら誰も見ていない。今しかない。さあ、今だ、ツキオトセ――
 どん、と背中を押す。ふわり、と相手の体が浮く。そのまま崖を落ちてゆき……
 と思いきや、突然、その人物がこちらを振り向き、私の顔を見た。私もその人物の顔を見たが、黒く塗りつぶされたようでわからない。そして、背中を押したまま伸びていた腕がつかまれ、私の体も宙に浮いた。
「……」
一緒に落ちながら、その人物は私に何か言ったが、聞き取ることができなかった。
 やがて地面が近づき、まもなくぶつかる、というところで、目が覚めた。

 思わず飛び起きた。何だ、さっきの夢は。汗をびっしょりかいている。一度、大きく息を吐く。あたりはまだ暗い。ようやく冷静になり、夢でよかった、と声に出した。
 ……ん? 待てよ。確かに夢でよかったが、そもそも現実ではあり得ないじゃないか。以前小学生を突き落としそうになった事件があったからあんな夢を見ただけであって。自分は至極まっとうな人間だ。夢だからあんなことができるのだ……
 自分を言い聞かせているうちに、だんだんと自信がなくなっていった。自分は本当におかしくなってしまったんじゃないか。考えれば考えるほど不安が募る。夢の中の自分は、笑っていたような気さえしてくる。その日はもう眠れなかった。

 翌日になっても、その翌日になっても、あの夢が気にかかってしょうがなかった。たいていは夢のことなんて目が覚めた瞬間に忘れてしまうのに、今回ばかりはなかなか忘れることができない。あの、背中を押す感覚が、実際に押したわけでもないのに、いつまでも手に残っているのだ。人を押すことが快感? いや、そんなはずない。そんなはずはないのに、なぜか否定しきれない自分がいた。いったい自分はどうしてしまったというのだ。
 自分はまっとうな人間だ。それは間違いない。ごく普通の家庭に育ち、ごくまじめに働き、それなりに人望だってある。
「はあ……」
深いため息をつき、何気なくテレビをつけた。
――で起きた死体遺棄事件の容疑者が逮捕されました。逮捕されたのは、近所に住む四十代の男性で――
最近世間を賑わせていたある事件についての報道だった。その事件について、近隣の住民の話が続いた。
――「いやー普段からすごくまじめで、とてもそんなことするような人じゃないですよ」
――「礼儀正しい人ですよ。挨拶もちゃんとする人でしたから……正直信じられないです」
 まるで自分のことを言われているようで、いたたまれなくなり、テレビを消した。

 自分の妙な欲求について考えると気が重くなる。しかし、どんなに気が重くても、仕事は休めないし、たとえ休みの日でも外に出ないわけにはいかない。だからなんとかあの欲求を抑えつけようと、もう二度とあの欲求に負けてはいけない、いや負けたりしないと心に言い聞かせているのだが、その欲求はますます強くなってしまった。全くの逆効果である。
例えば先日、エスカレーターに乗った際、前に乗っている人の背中をちょっと押してみようか、なんてことを考えてしまった。それを実行しようとする手をなんとか押さえつけて事なきを得たが、危ないところであった。
忘れようと思っても忘れられない。そういうものかもしれない。考えないようにしても考えてしまう。それならばと思い、ほかのことに没頭することにした。仕事が休めないなら、仕事に没頭すればいい。特に没頭できるほどの趣味を持ち合わせていないので、かえって好都合だった。

 こうして、徐々にあの「人を突き落としたい欲求」を忘れていくことに成功した。同時に、崖から人を突き落とした、あの夢のことも、手に残った感覚も、次第に忘れていった。

 *

「君、最近よく働いているみたいじゃないか。何かあったのかい?」
気がかりだったこともすっかり忘れ去ったある日、通りすがった上司に声をかけられた。
「そうですね。ちょっとした心境の変化といいますか……」
「ほう、そうか。まあ、なんにせよ、これからもこの調子でよろしく頼むよ」
はい、と返事をしたのを確認して、上司は去っていった。
 最近、仕事に根を詰めすぎているのか、どうも疲れがたまっているようだ。慢性的な寝不足でもある。今日はできるだけ早く帰ろうか。
 しかしそういう時に限ってなかなか仕事が片付かないもので、結局いつも通りの時間になってしまった。
 いつもよりも疲れを感じ、くたくたになった状態で、駅のホームで電車が来るのを待っていた。なんだか頭がぼーっとする。帰ったらすぐに寝よう。
 人が多い。慣れているはずなのに、疲れのせいかくらくらする。いや、熱でもあるのかもしれないな。ここのところ体調が優れなかったから、こじらせたのかもしれない。いよいよ布団が恋しい。
 電車が到着するまであと二、三分ほどある。周りのものは、携帯電話やスマートフォンを見ていたり、雑誌や本を読んでいたり、あるいは談笑していたりする。自分が今いる階段脇の通路は人でいっぱいである。そのため、そこを通る人はホームの端ぎりぎりを通る。
――落ちそうだな。
そんなことを考えてしまった。すると、しばらく忘れていたあの感覚がよみがえってきた。
――ちょっと、押してみたい。少し押せば、線路に落ちるだろう。……押したい。
いやいやだめだろう。絶対やってはいけないことだ。朦朧とした頭で必死に否定する。
――ちょっとだけ……
そのちょっとが大惨事につながる。だめだ。頭ではわかっているのに、目の前を通り過ぎてゆく人を目で追ってしまう。
 電車の到着音が流れる。まもなくホームに入ってくる。早く乗ってしまいたい。もう少しで、この状況を乗り切れる。

 電車がやってきたことで、少し気が緩んでしまった。
 ちょうどその時、目の前をホームの端ぎりぎりに歩いていく女性の姿が目についてしまった。
 気がつくと、自分の手がその女性を線路へと突き落としていた。

 悲鳴が聞こえる。電車が来る。到着音が鳴り響く。
 悲鳴。悲鳴。悲鳴――

 喧噪が頭の中を通り過ぎてゆく。
 何も考えられない。身動きもとれない。ただ呆然と立ち尽くしていた。
 夢であってほしい。そう願わずにはいられない。夢ならさめる。しかし、この悪夢からさめることはない。
 真っ逆さまに落ちていく――そんな感覚を思い出していた。





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