テーブルクロスタイム
巴巴巴

 不味い。私は単純にそう思った。かぶりつく時、口の中、舌の上で転がして。飲み下す、滑るように、重い。
 二週間ぶりの食事に身体が打ち震える。食べられる喜びに? 時間を空け過ぎた反動に? それとも……。
 喉奥からせり上がってきた何かを、半ば無理矢理に飲み込む。食いしばった歯に、嫌な酸味がにじむ。もし吐き出したら、止まらないから。止められないから。代わりに、私はそれにむしゃぶりつく。最高に美味しい、私は幸せ者だ。何度も何度も自分に言い聞かせて。
「…っ…」
 美味しい。こんなに美味しいものは生まれて初めて食べた。美味しい美味しい。涙が出るほど美味しい。こんな素敵なものが食べられて私は幸せだ。美味しいおいしい美味しい。この色、この香り、この味わい! おいしいおいしいおいしいおいしい! ほら、あなたも食べてみて
……あなた?
「っぐ」
 口を手で押さえ、床にへたり込む。心臓が跳ね回り、胃が縮み上がる。頭の中で電気が走り、視界が真っ白に染まる。荒れ狂う自分の身体に悶えながら、私は堪えるしかなかった。
 動機が収まるころには、か細い食欲が完全に消え失せていた。寒気がどっと体を包む。一人ではいられなくて、私はあなたに抱き付く。いつも頼りにしてきた広い肩が、大きな背中が、今日は妙に軽い。
 このまま死んじゃおうか。あなたと一緒に居られるなら、それも悪くないのかもしれない。背中から手を回して、彼の首に擦り寄る。いつからこうして甘えていなかっただろう。いつもあなたは「からかうんじゃない」って嫌がっていたけど。あなたの髪の匂い、あなたの背中の暖かさ。大好きだったんだけどなあ……。
 ふと、彼の胸元に目が行く。彼の上着の胸ポケットから、小さく覗く紙。あなたは頑なに見せてはくれなかったけれど、これは……。
 躊躇いは一瞬、そっと手を伸ばす。ぼろぼろで皺だらけ、傷み切って色褪せ切ったそれは。
「……そっか」
 まだ震えの残る手足に鞭打って、のろのろと立ち上がる。お腹も減って、眼も霞む。あとは死ぬだけ。わたし達の夢は、もうすぐ終わる。
 だけど。
「行かなきゃ」
 わたし達の夢は、まだ終わってない。


 やっと悪夢が終わったと思ったら、間髪入れずに二回戦とは、最近の神様はえらくハッスルしているらしい。気に入ってくれたのはわかるが、時と場合を考えろよ。
 台所で大きく息をついて、作業に取り掛かる。一晩寝かせたブイヤベースは寸胴に半分。温められるのを待つばかりの冷蔵庫のミートパイは十三皿ぐらいだったか。和食派用にこしらえた筑前煮はタッパーに放り込んで、甘めのだし巻き卵はラップで何とか一日持つ。あとは……。
 捨てる。そこまで至った考えを、かぶりを振って振り払う。話が早く着けば食べてもらえるかもしれないし……、無理か。あいつらの昨日の夕飯が、冷蔵庫に半分近く残ってるんだから。
昨日から何百度目かのため息をついて、とりあえず重箱に手を付ける。昨日の内に洗って乾かしておいたが、収納場所が離れの蔵なのでとりあえず並べておいた代物だ。一度では運べないので、とりあえず抱えられる分だけ抱えて、勝手口へ向かう。
「おい、何しとる」
 背後からかけられた野太い声は、親戚の……誰だっけ? まあ、親戚のおっさん、らしい。俺も親父も親戚とは疎遠で、繋がりなどほとんどない。
「……昨日の夕食の片づけをね、してるんですよ」
「そんぐらい、昨日の内にやっちょれ。まったく、爺様が亡くなったっちゅうのに、呑気なもんじゃな」
 そんなお前は、難儀な奴だよ。じじいも親父も俺も、爪弾きにしてたくせに。田舎の土地持ちのじじいが死んだからって、ありもしない遺産目当てに寄ってきたありんこが。
 そんな言葉をぐっと飲み込んで、極めて慎重に言葉を選び、限りなく誠実そうに、真面目で純朴な青年風に、俺は答えてやる。
「……すみませんね、根っからの呑気者でして。それで、何かお宝でも見つかったんですか?」
「ふん、蛙の子は蛙、だな。あのすねかじりによう似とる。心配せんでもなんも見つかってないわ。せいぜい土地の権利書くらいか。米粒ほどでも平等に分配せねばならんから、あとで客間に顔を出せ」
 言うだけ言って、おっさんは台所から出ていく。土地ったって、ここは山のど真ん中。最寄駅から車で三時間、山二つ分の広い土地とはいっても、あるのは田んぼと畑と森と山。話を聞く限りでは地盤もそんなに良くないらしい。宅地どころかゴルフ場にもできず、間伐しきれてないから林業すらできない……。売っても二束三文か。ここまでの交通費にすらなるかどうか。それでも奴らは売るだろう。はした金でも無いよりゃましだ。
 それは、俺のせいだ。俺も一応二十歳。独り立ちにはいい頃合いだと、はした金を握らせてどこかに放り出す。それで全部おしまい。目の上のたんこぶはきれいさっぱりなくなって、あいつらは帰っていくのだろう。
 俺が欲しかったものを、俺の大事なものを、全部全部台無しにして。
 ……でも、まあ、仕方ない。仕方ないんだ。しょうがないんだ。俺には叶えられっこない夢だった。最初で間違えて、最後まで間違えた。だったら間違い倒してしまえ。最後は潔く諦めちまえ。普通の夢を持てばいい。バリバリ働いて嫁さん作って子供作って家建てて。そんな普通の夢にすればいい。
 そう結論付けて、俺は勝手口から裏庭に出る。履き古しの便所サンダルをかぽかぽ鳴らしながら、勝手知ったる蔵の戸を足で開けて滑り込む。
 と、埃っぽい空気にむせてしまう。一昨日入ってそのままなのに、さては子供が遊び場にしたのか。痒い目を擦って見てみると、紙やらガラクタやらが散乱している。もうため息すら出てこない。
 この蔵は嫌いだ。民族研究家か何とかの親父の研究室兼資料室。親父の専門は妖怪や神様といった人ならざるものらしく、この蔵だけでもみょうちきりんなもので溢れ返っている。記憶の中の親父は、大事な資料だとかなんとかほざいていたが、俺には馬鹿げているとしか思えない。二、三枚の紙切れを蹴りあげると、ひらひらと笑うように舞い落ちていく。何だか親父に笑われてるようで無性に腹が立つ。
 一昨日から出しっぱなしの重箱用の箱にピカピカの重箱を詰め込みながら、俺はクソ親父に思いを巡らす。
 俺が七つの時、親父は俺を連れてこの田舎に引っ越してきた。じじいは嫌がったが、親父は畑仕事を手伝うからと言って、強引に居座った。
 俺が九つの時、親父の研究は行き詰っていた。日がな一日蔵にこもり、約束の畑仕事もしようとしない。その分くそじじいは俺に家事と畑仕事の全てを丸投げした。毎日くたくたになって夜中まで働き、じじいが残した冷え切った飯を一人でもそもそ食った。行き場も伝手も他にない俺は、歯を食いしばって頑張った。
 俺が十四になった時、親父は出ていった。家から、田舎から、この国から。「この国にはもう私の求めるものはないようだ。私はこの狭い世界を飛び出してでも私の理想を追求してみせる」蔵に残された書置きを、俺はばらばらに引き裂いた。田植えの日だったから、蔵は放っておくことにして。すでに寝たきりになっていたじじいは、親父の失踪を伝えても何も言わなかった。
 そして、俺が十九になった時、親父の死亡報告が届いた。送り主はフランスの警察。中身を見る気はなかったので、その辺に放っておいてから見ていない。
 そして今。俺はこの家で一人。寂しさはない、慣れているから。苦しくはない、慣れているから。あるのは、慣れない親戚への苛立ちと、夢破れた悔しさだけ。
 あとはそう、苦々しいが、この蔵を含めたじじいの家。数日以内に追い出されるであろうこの家の事は、俺が誰より知っている。じじいのへそくりの在処、道具の場所、傷んだ床板、雨漏りする天井の位置も。この蔵の中身だって手に取るようにわかる。やけにでかいこけし、おどろおどろしい掛け軸、ガラクタの山と、そこにちょこんと座っているフランス人形  。
「ねえ、あなたが潤(じゅん)?」
「……は?」
フランス人形がしゃべった。空耳かと思ったが、違う。こいつは俺の眼をじっと見つめている。見つめて、瞬きする。……いやそもそも、こんなものがこの蔵にあったか?
「答えてよ。私はエミリー。私はしばらくここに居たいの。ここあなたの家でしょう? あなたの許可がないと、私ここには居られないの」
……いきなり何言ってんだこいつ。さっさとつまみ出したいが、親戚の子供とかだとどうにも面倒だ。なので、せめて意地悪く説得することにした。
「そりゃ無理だな。今は俺の家だが、明日にはおそらく俺の家じゃない。田舎暮らしはレジャーにはいいが、君みたいないいトコのお嬢ちゃんじゃきつ過ぎる。別荘が欲しいなら、君のパパにでもねだってみろよ」
「子ども扱いしないで」
 精一杯の言い訳をぴしゃりと却下され、こちらとしても非常にばつが悪い。フランス人形  エミリーだったか、は顔を背けてぶつぶつ言ってるから向こうもそうなのかもしれないが。
 年恰好は十歳くらいか。亜麻色の髪は緩やかに波打ちながら腰まで伸びている。整った顔立ちに、白を基調としたフリルの多いドレスは、やはりどこかのお嬢様を思わせる。しかし白磁のような顔に表情は乏しく、触れれば折れそうなほど華奢な脚は作り物のようで、それがお嬢様をかたどったフランス人形に見える一因であるようだ。この年頃の女の子にしてはやけに服が埃っぽいのも気にかかる。蔵は掃除こそしているとは言い難いが、それでも一日二日暴れまわったところでここまで薄汚れるほど汚くもないはずだ。まとっている雰囲気もそう、アンティークの一つのような壊れやすい美しさだ。
 そうこうしているうちに、エミリーが傍まで寄ってきていた。無駄に伸びた俺の背丈は、エミリーが背伸びしても胸まで届かない程だったが、それでも彼女は俺の眼をその碧い目で睨み付けてきた。
……面倒だな。
そう思った矢先、エミリーは突然俺の手を引き、蔵の外へと歩き始めた。思ったより強い力だったので、軽くつんのめってしまう。
「お、おい。どこ行くんだ」
「事情は大体わかった。私に任せなさい」
 エミリーは振り返ろうともしない。ただ俺の手をつかんで引きずっている。俺は抵抗する気もなかったが、この力なら抵抗したってそうそう止まらなかっただろう。それほどにエミリーの力は強い。
「任せるって、何を」
「決まってるでしょ、この家をあなたのものにしてあげる。そしたら、あなたは私に許可が出せる。万事解決じゃない」
「いや、なんでお前が」
 その時、エミリーは急に足を止める。自分でも足を動かしていた俺は、またつんのめってしまう。
「……あなたが知る事じゃないわ」
 小さく、か細く。エミリーは言った。何かの琴線に触れたように。
「まあ、見てなさい。さして時間はかからないから」
それだけ言って、エミリーはまた歩き始めた。三度つんのめって、文句の一つも言いたくなる。
でも、やめた。久しぶりだった。誰かに手を引かれるのは。誰かの温もりを感じるのは。


 結論から言うと、親族会議は十五分で決着した。親戚どもはほとんど俺の予想通りの結論を出していたらしく、誰が土地の売却や俺の行く先の後始末をするかでもめていた。そこにエミリーは鮮やかに割って入ったのだ。
 エミリーは俺の親父の妻を名乗り(見た目に大分無理がある)、正々堂々と親族会議に参加すると、俺も知らなかったじじいの隠し財産の在処(全く鳴らない軒先の風鈴の中とか気付けるか)を見事に言い当て、一瞬で会議の中核に躍り出た。欲に目がくらんだ親戚を華麗にかわしながら、親父の妻として俺を認知すること、この家と二束三文の山を自分の取り分として相続すること、それ以外は全て残りの親族で公平に分配すること、これらをあっという間に取り付けてしまった。ホクホク顔で帰っていく親族どもを見送って、エミリーはせせら笑った。
「隠し財産ってだけで目の色変えちゃって。ざっと調べたらあれ、数十万くらいの債権ね。人のいいお爺さんだから取り立てずに残してたんでしょうけど、債務者は巡り巡って今は日本指折りのやくざの組頭みたい。下手に取り立てたら、それこそ身ぐるみ剥がれて路頭に迷うわよ」
 冷やかに言い捨てるエミリーに、俺は背筋に冷たいものを感じた。じじいの奇縁もそうだが、エミリーは邪魔者にまるで容赦がない。自分の目的が優先で、それ以外は二の次三の次。そのやり方に、少なからずクソ親父と重なるものを見て、なんとなくむかついた。
「じゃあ、これで問題ないわね。というわけで、しばらく蔵に居させてもらうわ。……そうね、一週間くらい? その後勝手に出ていくから、別に気にしなくていいわ」
 でも、なんだか憎み切れなかった。こいつは親父と何か違う。違和感、みたいなもんか。こいつは何処か焦っていて、何かがずれていて……、なぜか、親近感が湧く。
「……そう、何か困ったことがあったら、適当に言ってきなさいな。聞くだけなら聞いてあげなくも……、って痛い痛いいひゃい!」
 でも、むかつく。だから、とりあえず長い耳を思いっきり引っ張ってやった。耳を押さえてうずくまるエミリーの姿に少し満足して、重箱の片づけを再開しようとした。俺の背中に、玄関から追いかけてきたバカがドロップキックを炸裂させて、第二ラウンドを始めるまでは。


 日が暮れてから、あのバカが蔵にやってきた。相当とっちめてやったつもりだったのに、顔中絆創膏だらけでひょっこり顔だけ覗かせてる。
「エミリー、いるかー?」
「……何の用よ」
 せっかく浸っていたっていうのに、無粋ったらありゃしない。しかし相談を許可したのは私だから、あれこれ愚痴愚痴言うのもばからしい。黙っていると、向こうから気の抜けた声が飛んでくる。
「いや、夕飯作るけど。リクエストとかあるかなーって」
「お生憎様。そこまで世話になる気はないし、食欲もないの」
「そうか? お前絶対やせ過ぎだって。ダイエットしてると背が伸びないぞ」
「あなたには関係ないわ。出てって」
「胸も育たないぞ」
「ケンカ売ってんなら買うわよこのウスラトンカチ!」
「最近めっきり聞かない罵倒だなぁ」
 椅子代わりのガラクタの山を蹴立てて立ち上がる。このクソガキいちいち癇に障る! 私の気にしてることストレートに逆なでして! これじゃあまるで  。
   まるで、あの人じゃない。
 全身に嫌な汗が伝う。寒気が手足の先から這い上がってくる。がちがち言ってるのは、私の合わない歯の根?それさえよくわからない。世界が回る、捻じれて捻って、色がスパークする。口の中に何かがにじみ出てきて、それは……。
「おい、大丈夫か!」
 ふと気が付くと、目の前にあのバカの顔。やけに深刻そうだけど、どうしたんだろう。まだ体が浮いているみたい。ふわふわ、ふわふわ……風船みたいに体が軽く、鉛のように意識は重く。少しずつ鮮明になる視界、背中に感じるごつごつした感触は何?
 たまらず、飛び起きた。
「ああ、よかった……。急にひきつけ起こしたみたいで、心配したよ。ごめんな、無理言って」
 何を言っている。こいつは何を言ってイル? あの人に似た声デ、アノ人に似た顔で。私ヲ? 心配しテいる?
私ニ? 優シクシテイル?
「今日は無理すんな。気分が悪い時に喰う飯は不味いもんな。何か胃に優しいものは作っとくから、いつでも言ってくれ」
「黙れ」
 そのまま帰ろうとする背中を、私は止める。やはりあの時甘いことを言うべきではなかった。ほんの少しの気まぐれ、ほんの少しの気の迷い。決して許されない間違いを、二度と繰り返さないという誓いを破ってしまった報い。最初で間違えて、最後まで間違えた私が、もう間違えたくないから決めたのに。
「私を人ならざる者と知って、この侮辱。もはや只では済まさない」
 だからせめて。
 この夢を、きれいに終わらせて。
「人の子よ、その髄に至るまで、私が喰らってくれる!」


其の者は、夜を統べる妖。
曰く、その身を自在に狼、蝙蝠、霧へと変じる。
曰く、心臓へ刺す鉄杭を除いて、殺す事能わず。
曰く、美女の生き血を啜り、夜ごと街を彷徨う。
 知らぬもの無き妖にて、世に並ぶ者無し。
しかしてそれは過去の話。
もはや彼らは消え行く者。
日々の糧にさえ事欠く者。
かつての力は既になく。
日向に怯え日陰で震える。
「そうか」
 長ったらしい前置きはいらない。いつもなら与太話にも付き合うが、今日ばかりは本題に切り込む。
「で、あのクソ親父はそれで何がしたいんだ?」
 冷や飯をかき込み、味噌汁をあおりながら、俺は訊ねる。一番話の出来る奴が、話を折られて嫌そうに答える。
 吸血鬼の人間化。
 人と同じ生活を。
 人と同じ食事を。
 同じ食卓で同じものを食う。
 人ならざるものと家族になる事。
 人ならざるものと一緒にいる事。
 そのための方法の確立。
 吸血を補うために膨大な食事が必要で
「ふざけてんのか」
 黙り込む奴らを無視して、立ち上がる。歯を食いしばっても、まだ足りない。手近な柱に拳を叩きつけて、必死に動機を押さえる。
「ふざけてんのか」
 それがお前の夢? 何もかも捨てて、俺も捨てて、それでも追い続けてんのが、お前の夢? なんでお前は一言言ってくれなかった。なんで俺は一言言わなかった。それだけで、何もかもが変わったというのに。
「ふざけてんのかっ!」
 俺のあげた大声で震え上がる奴らに、今このときは何もしてやれない。やりたくない。こいつらが悪いわけじゃない。悪いのはこいつらが見えなかった親父と、それを言わなかった俺なんだから。


「なん、で」
「悪いな。俺、昔から霊感強くてさ。皆が見えないものが見えるし、みんなが触れない奴にも触れる……。君ぐらいなら、普通かな」
 弱り切ったこの身体でも、霧になることは辛うじてできる。あの人の夢の結晶、人間になりかけの吸血鬼でも。日差しは苦手でも、致命傷じゃない。ニンニクは苦手でも、劇毒じゃない。川も難なく渡れるし、永井はできないけど許可なしで家にも入れる。すごく人間に近づいた。憧れの、人間に。
 でも、人間じゃない。私は吸血鬼。力は人並み外れて、変身も少しならできる。それを、こんな簡単に捕まえる?
「……全部俺が悪いんだ。俺が人じゃないものが見えること。それを親父に伝えてりゃ、親父はもっと研究がはかどっただろう。『妖怪と家族になりたい』……。可愛い夢じゃねえか。すぐにでも叶えてやれたかもしれないな」
「違う……」
「でも、できなかったんだ。親父が一生をかけて、心血を注いでやってるライフワークを、俺が一歩で踏み潰していいのかって。もしかしたら親父が壊れてしまうかもしれない。それが怖くて、まともに言い出せなかった」
「違う……!」
「思えば、母さんが死んだ時から、だったかな。同じ食卓を囲んでないのは。じじいもその辺分かってて、黙認してたのかもなぁ。その分、俺に期待してたんだろうなぁ……。ほんと駄目だよな、俺」
「違うっ!」
 もう霧の姿も保てていない。潤に捕まったまま、人の姿に戻る。軋む体に活を入れて、私は告白する。
「私が! あの人を、……あなたのお父さんを、殺したのっ!」


「ぐっ……」
フランスの山岳地帯は冬になると雪に閉ざされる。それを見越して、私たちは逃げてきていた。
原因は大きく分けて二つ。私が成長しないことと、私の食事量が異常なこと。イギリスにいたころは誤魔化しもきいたけれど、逃亡生活に入るとそうもいかなくなった。
成長しないことはまだいい。私自身成長期の来ない身体にいい加減意地が来ている。しかし食事量はダメだ。うら若い乙女が一日に二軒定食屋を食い潰していては、さすがに怪しまれる。
あの人もいろいろと隠蔽工作をしてくれた。あの人は私たち吸血鬼の恩人だ。私たちのような日陰者にチャンスをくれ、元から人間に憧れていた私はそれに飛びついた。吸血鬼は空腹を感じると人を襲ってしまう。だから輸血用の血液を横流ししてもらい、細々と暮らしていくしかなかった。
試行錯誤の末、人を襲わなくても生きられることが分かった時、彼を一晩中振り回してしまった。眼を回しながらも微笑みかけてくれる彼に、私はいつしか惹かれていた。
でも、幸せは長く続かなかった。吸血鬼たちによる食料品店の侵略は、私たちを敵視する理由に十分だった。有志による自警団に追われ、私たちは散り散りになった。
イギリスからドーバー海峡を飛んで渡り、フランスへ。追ってから逃れるように東へ、東へと。その間、満足な食事をとれなければ選択肢は二つに一つ。追っ手に捕まって殺されるか、誰かを襲って吸血鬼に戻るか。もっとも、下手に戻ってしまえば日光で消滅してしまう。イギリスでの根城ならその心配が無かったろうが、逃亡中にそんな隠れ家を見つけるのは至難の業だ。結果、どんどん仲間が死んでいくことになった。
一年前、フランス山間部の奥地、誰も来ないような洞窟で、私はあの人と二人寒さをしのいでいた。
私は二週間の間何も口にしていなかったし、彼もほとんど何も食べていなかった。それでも、諦めたくなかった。憧れの人間としての生活。彼の夢の実現。そして、彼との愛。でも、冬山の寒さが容赦なく体力を奪い、精神を蝕んでいて、名実ともに限界だった。
そしてその日。久しぶりの野兎を掲げて、意気揚々と洞窟に帰ってきた私が見たのは、彼の死体と、一通の遺書だった。
遺書には、様々な思いが書き連ねてあった。夢破れて死ぬ自分を許してほしい、私の思いに応えられなくて済まない。そして、自分を食べて、私には生きてほしい、という願い。
悔しかった。悔しかった。悔しかった。
 私が殺した。私が追いつめて、私が死に追いやった。
 涙が出て、悲しくて、辛くて、何度も吐いた。
 それでもなにより。
 お腹が鳴るのが憎らしかった。
 彼の無残な死体を美味しそうだと思う自分が許せなかった。
 彼と共に死のうか、と思った。
 その時だった。
 彼の胸ポケットの写真。すり切れて、ぼろぼろで、皺くちゃで。彼が何より大事にしていた、子供と写った写真。
 だから。私はここに来た。
 私のせいで何もかも歪めてしまった、あなたの全てへの罪滅ぼしのために。


 一通り話し終えるまで、潤は私を抱き締めてくれていた。不器用な手づかいだったけど。潤と同じあったかい手で。それがたまらなく嬉しくて、同時に申し訳なかった。
「そっか」
 話し終えた私に、潤は一言だけ言って黙り込む。その沈黙が怖くなって、私は考えていたセリフを切り出した。
「だから、すべては私のせい。私が全てぶち壊したの。あの人の夢も、命も、思いも。だから、罪は償う。朝になったら戸を開ける。それで私は二時間もせずに死ぬわ。なんなら、あなたの言うことを何だって聞く。言いなり人形にしたければしてもいいし、何ならくびり殺してくれたっていい」
「そっか」
 これでいい。予定とは多少違ったけれど、やるべきことは全てこなした。間違いだらけの一生だったけど、もう何も思い残すことはない。
「じゃあ、ちょっとついて来いよ」
「……はい」
 促されるままに彼の後ろについていく。ここではできないことだろうか。なんにせよ私はそれに従う。これは罪滅ぼし。彼には何をされても文句は言えない、それほど私の罪は重い。
 だから。
「じゃあ、とりあえず食おうぜ。さっさと食わなきゃ冷めちまう」
「……は?」
 ブイヤベース、ミートパイ、野菜の煮物と、卵焼き?
 目の前に並んだ机いっぱいの美味しそうな料理を見て、訳が分からなかった。
「ん? お前いうこと聞くんだろ? ああ、口で言ったほうがいいのか」
 ……なるほど、合点がいった。つまり、残飯処理をしろと。思っていたより罰が軽いが、この国の若者はすこぶる平和的なようだ。あの人も、英国紳士以上の紳士だったからな。
「よし、お前今日から俺の家族な。あ、残さず食えよ。農家はそういうのに厳しいんだ。んじゃ、いっただっきまーす」
「……は?」
「おい、早く食えって。量が量だから冷めちまうぞ」
「……家族?」
「あ、言ってなかったっけ」
 むぐむぐと頬張った分を飲み込んでから、潤は照れ臭そうに話す。
「俺の夢はさ、『家族で一緒の食卓を囲むこと』だったんだよ。親父はいないし、じじいも一人で食うのが好きだったから、いっつも一人だった。妖怪は周りにいたけどさ……、やっぱ、一緒のもんが食べたかったんだよ」
 あいつら、これ食えないんだよな、美味いのに。そうやって潤は卵焼きを箸で器用にはさんでみせる。
「だからさ、ほら」
 そして、それをわたしに向けてくる。目の前のそれは、とても美味しそうで、つい口の端から涎がこぼれる。
「……でも、私、食べる量が」
「気にすんな」
 潤は笑った。太陽のように。吸血鬼が忌み嫌い、人間が尊ぶ太陽のように。
「それもこれも、みんなうちの畑で採れたものばっかりだ。肉だってそうだ。牛も豚も鶏も、数はいないけどここで全部飼ってる。エミリーが守ってくれた、この山で。」
喉が鳴る。唾が溢れ出る。お腹がきゅっと締め付けられるのがわかる。
「エミリーが、最後の最後でやってくれたんだ。なあ、俺たち、最初から間違えて、途中も間違いだらけで、最後まで間違えたけどさ」
 身を乗り出す、テーブルの上に手が乗って、テーブルクロスが皺くちゃになる。マナーがなってないとか、この際どうでもいい。
「ロスタイムは、上手く行ったろ」
「……しょっぱい」

了




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