あくまで 巴巴巴(みつどもえ) 「静粛に!」 けたたましく打ち鳴らされる木槌と、凛としたよく通る声が、大部屋に満ちたざわめきをピタリと止める。 「これより、悪魔三〇〇四(サンマルマルヨン)号の神界裁判を始める!」 張りつめた糸のような緊張感が場を包む。さすがは神界の裁判長アルテミス。女神だてらに名のある戦神、悪神ですら竦み上がらせるような堅物は違うな。……目の前にいる俺としては、頭にキンキン響いて敵わないが。 「えー、被告の罪状といたしましては……」 やんわりと立ち上がるバーコードハゲのおっさんはハプシエル。神界の事務職担当として辣腕を振るってるそうだが、正直見た目がセクハラだな。ネチネチした声と相まって、ひたすらキモイ。 「神界における仕事の放棄。神々の至宝【ヘルメスの兜】の窃盗。万を超える無辜の民の堕落への関与。太平洋戦争を始め、二十を数える戦争への扇動。千度に及ぶ再三の帰還命令無視……」 延々と続く罪状を、しかし俺は鼻で笑う。確かにそれは悪魔の所業。しかしあくまで悪魔の所業。一番重く、一番大事なものが抜けている。 「 何より皆様方もすでにご存じであるとは思いますが……」 声のトーンが下がる。最も重い罪状、普段なら流れ作業に過ぎない神界裁判に、数多の名のある神々が傍聴に訪れた理由。 「聖人一名の死亡に関与したという疑い 」 「そりゃ違うな」 大天使ハプシエル様の清く尊い間違いを、心優しい俺はちゃんと訂正してやる。 「聖人一名の殺害だ。寝ぼけんなよおっさん?」 その瞬間、裁判場が間違いなく数センチ浮き上がっただろう。耳をつんざく怒号と、膨れ上がった怒気によって。神々が期待をかける若葉を鼻歌交じりに引き毟った大罪人が、反省の色も謝意の一つも見せようとしない。そんな俺のふざけた態度に、戦神も美の女神も、みんな茹で上がった顔で罵詈雑言をぶちまける。 だが、それでいい。反省なんかしなくていい。反省なんかしてやらない。反省なんか、してはならない。 「静粛に! 静粛に! 悪魔三〇〇四号、私語は控えなさい! 被告者、自己弁護に移ります!」 「いーって、大体合ってる。全面的に降参でーす。あ、それとも悪魔らしく、『あくまで僕は無実です』とか言ったら、許してもらえるっけ?」 「挑発的言動をやめなさい! 法廷侮辱罪を付加しますよ!」 「へーいへい」 悪魔の俺にとってのいつものノリは、神界のお偉方には通じなかったらしい。堅物どもめ。「処刑しろ」だの「永久に幽閉しろ」だの、挙句には「怪物に喰わせる」とか「さらし首」とか、前半はともかく後半はお偉い神さまの言葉じゃねーだろ。 「有罪!」 「有罪!」 「有罪!」 「有罪!」 「有罪!」 「有罪!」 「有罪!」 「有罪!」 「有罪!」 「有罪!」 「有罪!」 「有罪!」 出来の悪いコーラスみたいに連呼される罵倒を、あくまで悪魔らしく子守歌のように聴きながら、俺はふと目を閉じて、簡単に記憶を振り返ってみる。 「……よくわかりました。反省の色が全く見られませんね。これ以上の自己弁護が無いようなら、判決を下します」 俺が、悪魔としてのこの俺が、胸を張って最悪最低だと言える大罪を。クソガキを泣かせて、痛めつけて、殺して、そして全て奪った罪を。 夜の帳が静寂で包んだ街を、俺は音も無く駆ける。レンガの屋根を伝い白塗りの壁を滑り、暗い路地裏から大通りを一息に飛び越えて。たくましい悪魔の蹄は、そこがどんな場所であれ強く踏みしめ、しかし音すら残さない。何より偉そうな神様たちからこっそりくすねた【ヘルメスの兜】は、あらゆる眼から俺の姿を隠してくれる。人の目は言わずもがな、あまねく動物のみならず、物言わぬ機械の眼でさえ俺を捉えることはできない。誰にも何にも気取られないのをいいことに、俺は様々な悪戯を仕掛けて楽しむそれなりに愉快な日々を送っていた。 俺は悪魔だ。大仰な名前こそ持っていないが、確かに俺は悪魔だ。何せ、悪いことをするのが何より楽しいのだから。 人間をからかうのが好きだ。 人間に意地悪をするのが好きだ。 人間に悪さをするのが好きだ。 自分が楽しいと思えることが、大好きだ。 そして、俺は楽しいことしかしない。現に今日も、面白そうな人間がいるっていうんで、わざわざこんな北国の田舎町まで足を運んでいるのだ。 そうこうしているうちに、目的地が見えてきた。ぐっと足に力を込めて、最後にひとっとび。 音も無く着地した目的地は、教会。……いやいや礼拝なんてしに来たわけじゃない。教会の横手、こじんまりした礼拝堂には明らかに不釣り合いな、レンガ造りの塔。 あらゆる病を癒す聖女。世界中からあらゆる人々が、その加護を求めてこの辺鄙な街を訪れる。 もちろん俺は病人じゃない。そもそも俺は神様の類が嫌いだ。大体あいつらは頭が固いし、冗談の一つも通じやしない。あいつらは俺を嫌っているし、俺もあいつらを嫌っている。しかし、いやだからこそ、俺はあいつらに嫌がらせをするのが大好きだ。 神さまのお気に入りに適当にちょっかいをかけて、馬鹿にして、虐め倒して、満足したら帰る。そんなつもりだった。いつもの悪戯のつもりだった。 ひとっとびで塔の天辺の小部屋に窓から飛び込み、あいつと出会うまでは。 「わ、わ、いらっしゃい、ま、せ?」 そいつは十歳くらいの女の子だった。真っ白なワンピースに身を包み、手首まで隠れる袖からはこれまた真っ白なリボンが覗いている。背丈にしてはひどく華奢で、手も足も触れれば折れそうなほどに細い。腰まで伸びた金の髪は、空中をたなびく砂金のようで、白いフリルで彩られたリボンによって簡素にまとめられている。幼気さの残る顔立ちにほんのり赤みが差しているのは、驚きか羞恥か、それとも寒さか……。 そこまで思い至って、素早く俺は開け放していた窓を閉める。今は年の暮れ、俺は寒さなど感じないが、この子は寒いのではないか? ふと、この女の子に気を使っている俺に気付く。なんだこれ、なんだこれ? 心臓が跳ねる。顔が火照る。なんだ、これ? 「あのー、あなた、お客さん?」 いつの間にか足もとまで近づかれていた。つい飛び上がってしまう。 「お、おう」 つかえながらの俺の返事に、彼女はぱっと顔をほころばせて、いそいそと暖炉にかけられたポットを手に取る。 「じゃあ、そこに座ってて?」 暖かな紅茶の湯気を挟んで、俺と彼女はいつのまにか談笑していた。大半は彼女が他愛無い話をまくし立てるだけだったが、それが何となく心地よかった。 「それでね、それでね! 神父さんがガス爆発のね……」 「おう」 はしゃぐ彼女を見ているのが、楽しい。楽しすぎて、顔をのぞかせた朝日の光が窓の隙間から差し込むまで、夜が明けたことにも気付けなかった。 「それでね、それでね! 神父さんが冒険をね……」 「ああ、悪い。俺、帰るわ」 出来る限り自然に切り出したつもりだったが、無粋な俺でも不自然なのがまるわかりだ。びくびくしながら立ち上がり、彼女に背を向ける。これ以上彼女を見ていたら、離れられなくなりそうで。 「また明日も、来てね?」 しかし彼女は、そんなことを気にも留めず、和やかに俺の背に聞いてくる。 「……多分な」 だから俺は背を向けたまま、適当に言い残して、窓から身を躍らせた。 多分な、と言っておきながら、俺は毎日あの塔に足を運んだ。俺は何をするわけでもない。ただ夜中に窓から忍び込み、出される紅茶を飲みながら、彼女の話に相槌を打つ。まくし立てるような彼女の話は、ひどく閉じた世界の事ばかりだった。やれ神父が、やれ聖書が、やれ神さまが。決して面白い話ではなかったが、少なくとも愉快ではあった。愉快ではあったので、毎日足を運んでいた。笑顔で出迎えてくれる彼女に、ぎこちなくも笑顔を返せるようにもなっていった。こっちも他愛無い話を振って、一緒に笑えるようにもなった。 今思うと、ものすごく悔しい。せめて毎日でなければ。いやもっと単純に、少しずつ丈の長くなるワンピースや、手首から覗くリボンにもっと注意を払っていれば。 ある日、いつものように彼女のもとへ向かう俺は、強い悪寒に襲われた。聖なる力による防御、俗にいう結界であることに気付き、舌打ちしながら迂回路を探した。 しかし、そんなものはなかった。小一時間以上、いつも彼女のもとを訪れる時間を過ぎても一向に彼女の居る教会の塔に辿り着けなかった。 町中駆けずり回っていると、真夜中の道端で人の気配を感じた。そっと気配を消して近寄っていく。 「どうですかい、聖女様は」 「……とても駄目だ。もう一週間も持たんだろう」 片方の脂ぎったおっさんは村長だ。もう片方のガリガリのおっさんは神父か。彼女の話に何度も出てきて、とっくに覚えちまった奴らだ。 いや、それよりもだ。あいつら今、なんつった? 「なんでまた? あの人はどんな病でも治しちまうすごい力の持ち主だろうに」 そうだ、あいつはそういう力を持っていた。一度だけ昼間に見にいったとき、あいつは俺の力でも治せるかわからん重病人をあっという間に治してたんだぞ。 「それは違う。彼女は病を治しているのではない。病を自分にうつしているだけなのだ」 ……なんだって? 「なんだいそりゃ。そんなのあんだけ病人治してりゃいつか自分が死んじまうじゃねえか」 「だからこその聖女なのだよ。彼女は病に対する抵抗力がとてつもなく強い。万を超える人々の病を引き受けても、なお死なぬほどに」 ちょっと待て。それはつまり、お前らから病気を押し付けられたから、あいつは倒れたってことじゃねえのか? ふつふつと燃え上がる衝動が、俺の手から禍々しい爪を伸ばし始める。 「じゃあ、なんでまた今度は倒れちまったんだ?」 「わからん。ただ一つ言えるのは……」 黒い気持ちが腹の底から吹き上がってくる。偉そうな神様どもとケンカした時だって感じなかったひどく黒い思いが、ゆっくりと鎌首をもたげていた。 だから。 「彼女が己が身に溜め込むことが出来るのは病に限らん。悪いものなら何であろうと、溜めこむことはできよう。悪意だの呪いだの……」 その言葉を聞いて。 「瘴気だの、な」 俺の足は動いていた。 「少なくとも我々にできることは、原因の特定と代理の捜索だ。奇跡の聖女がいなくなれば、この辺鄙な村に先はない」 「そりゃえらいこった。じゃあ早く、代わりを見つけないとなあ」 行き掛けの駄賃に、ふざけた口ごとバカどもを八つ裂きにして。 俺は走った。走った。走った。結界が俺の身を焼いても。張り出た枝葉が俺の顔を掠めても。逞しい悪魔の足が悲鳴を上げても。俺は走った。 悪魔はただそこにいるだけで、瘴気を発する。人心を惑わし、命を蝕む毒の空気だ。それは俺だって知っている。分かっている。実際にそれで悪戯を仕掛けたことだってある。 だけど。だから。 あいつが、今、苦しんでいるのは、全部。 俺のせいだ ! 傷だらけになって、それでも塔に辿り着いて。顔に滴る汗や血を乱暴に拭う。特に目のあたりがひどく濡れているのが、本当に気持ち悪いが。 俺は、いつもより遥かに高く思える塔のてっぺんへと、一息に跳んだ。 「ちかよら、ないで」 いつものように、いつも通りでなく辿り着いた俺を出迎えた声が罵倒であったことは、俺の心を容赦なくえぐった。 「……うつす、わけには、い、かないから……」 そしてその言葉が、俺を想っての言葉だったことは、さっきとは比べ物にならないほど、俺の心をえぐった。 初めて出会った時から、はるかに丈が長くなったワンピースは、彼女の身体を覆い隠すものだった。数多の病魔をその身に引き受け、醜く変色した肌を見せないために。鎖骨まで這い上がったそれは、まるで彼女を飲み込もうとする何かのようで。降り積もったばかりの真新しい白雪を、根こそぎ飲み込む濁流のようで。 俺は、自然に膝をついていた。申し訳なさ、情けなさ、歯がゆさが、俺に立っていることを許さなかった。 「すまねえ……、済まねえ……!」 謝る言葉も知らない自分に腹が立った。何もできない自分が情けなかった。そして。 「俺、悪魔なんだ」 何も言っていない卑怯な自分が、許せなかった。 悪魔は瘴気を発していること。彼女の負担は間違いなく俺であること。彼女との時間の居心地の良さに、甘えてしまったこと……。 聞かれなかったからじゃない。そんな言い訳じゃ取り返しがつかないって心から思って、誠心誠意俺は懺悔した。拙い言葉だったが、彼女は黙って聞いていた。 全部言い終えると、彼女はくすくすと笑いながら答えた。 「全部知ってた」 私ね、あの日あなたが現れた日、何してたと思う? ほんとはね、応対の練習してたんだ。 私は生まれつき、すごい力を持ってた。 それで助かる人もいた。 数えきれない程のお礼を言われた。 あなたがいてくれて良かったって。 あなたのおかげで生きられるって。 でも、私はずっと一人だった。 神父さんはこの塔から私を出してくれなかった。 悪い奴らから守るためだって。 でもそうじゃなかった。 悪い奴らっていうのは、私の力を欲しがってる人。 そのためならなんだってするような人。 でもそれって。 神父さんもそうだったよね。 たくさんのお金を、受け取ってるのを見ちゃった。 私は聖女かもしれない。 私は神様みたいな人かもしれない。 でも、私には同じ目線で話してくれる人がいなかった。 友達が、いなかった。 だから、神父さんの目を盗んで、一人で勉強したの。 おいしい紅茶の淹れ方とか。 楽しいおしゃべりの仕方とか。 何より、誘い方とか。 ずっとずっと、練習してた。 何度も何度も。 でも、誰も訪ねてこなかった。 高い塔の上になんて、誰も来れないもんね。 だから。 あなたが初めて現れた時。 そして一緒にお茶してくれた時。 何より私とお話ししてくれた時。 夢が叶ったって、思ったの。 だから、ね? 私の初めての、一番大切な友達。 もう、泣かないで? 暖炉で薪が爆ぜる音が響く。夜の帳が街を包み、静けさに支配されていて。 彼女が一通り語り終えて、俺と彼女の間に沈黙が落ちる。 「ねえねえ」 「……なんだよ」 「最後にしてみたいことが、あるんだけど」 「……なんだよ」 「私ね、外の世界が見てみたい」 「……」 「ずっと教会か、この塔の中だけだったから」 「……」 「あなたは外から来たんでしょ? だったら教えて」 「……」 俺は悪魔だ。大仰な名前こそ持っていないが、確かに俺は悪魔だ。何せ、悪いことをするのが何より楽しいのだから。 外の世界に連れ出せば、こいつは間違いなく死ぬ。 人間をからかうのが好きだ。 どうせ窓があるんだ。見せるだけなら簡単だ。肩でも貸して窓辺まで連れていけばいい。 人間に意地悪をするのが好きだ。 「外の世界が見てみたい」とこいつは言った。だから見せるだけでいい。くだらない言葉の裏の意味なんて、考えるのも面倒だ。 人間に悪さをするのが好きだ。 そう、俺は悪魔だ。神さえ恐れぬ悪魔様だ。人間如きの頼みを聞いてやる義理なんて、これぽっちもない。 自分が楽しいと思えることが、大好きだ。 そう、だから……。 そして、俺は楽しいことしかしない。 俺は、楽しいことしか、しない。 俺はおもむろに立ち上がり、クソガキに告げる。 そして 。 夜の帳が静寂で包んだ街を、俺は音も無く駆ける。レンガの屋根を伝い白塗りの壁を滑り、暗い路地裏から大通りを一息に飛び越えて。たくましい悪魔の蹄は、そこがどんな場所であれ強く踏みしめ、しかし音すら残さない。何より偉そうな神様たちからこっそりくすねた【ヘルメスの兜】は、あらゆる眼から俺の姿を隠してくれる。人の目は言わずもがな、あまねく動物のみならず、物言わぬ機械の眼でさえ俺を捉えることはできない。誰にも何にも気取られないのをいいことに、俺は 。 「うわぁ……!」 クソガキを抱えて、夜の街を駆けまわっていた。結界が身を焼き、吹き荒ぶ風が傷に染み込むというのに。このたった一回の愉快な散歩が、クソガキの身体にとてつもない負担になり、一週間どころか今日明日とも分からぬことになるだろうに。 「あ、ねえ、あれ!? あれがクリスマスツリー!?」 満面の笑顔で楽しそうにはしゃいでいるこいつが途方もなくかわいくて。俺は今にも崩れそうな足に力を込めて、大地を蹴る。 「ねえねえ、あれって雪!? 雪じゃない!?」 白いこいつと、黒い俺。闇の中で白く染まる街に、よく映えて。 「あはは、あははははははは!」 笑うこいつに合わせて俺も笑おうとしたら、目から汗が垂れてきやがった。心なしか鼻の奥まで熱くなってきやがった。腕で乱暴に拭う俺の顔に、ひやりと冷たい感触があって。 腕の中のクソガキが、そっと俺の顔に手を伸ばして。 「ありがと、ね」 それが、無性にあったかくて。むずがゆくて。 「わははははははははははははは!」 「あははははははははははははは!」 俺等は二人して、夜の街を笑いながら駆けまわった。 その後あいつを塔まで送って、慣れない手つきでベッドに寝かせ、朝まで他愛無い話をして。あいつの手を握って、くだらない話で笑って、笑って。今まで通りに。 最期を看取って。 その後すぐ俺は神界に殴り込んで、なす術もなく捕まって、神界裁判に引きずり出されている。神さまたちが期待をかける聖人の死 。割と大事になっているようで。それに関わったとされる俺は、すでに十分に殺されて余りある状況な訳で。 で、それがどうした? 反省なんてしなくていい。 俺は悪魔だ。悪いことして何が悪い。 反省なんてしてやらない。 俺は悪魔だ。楽しく生きて何が悪い。 反省なんて、してはならない。 俺は悪魔だ。俺は悪魔で 。 『 で、これは。私が こと、だから』 あくまでも、約束は守る。 『だから、ね? やくそく』 少なくとも、誰を裏切っても、あいつとの約束だけは。 とまあ、簡単に振り返ってみたわけだが。自分のその部分以外の人生が、取るに足らないものだと思わせるその記憶は、思ったより色濃い内容で。 だからこそ、不思議だ。なんで、いつまでたっても判決が下らないんだ? そっと薄目を開けてみると、裁判場が何やら騒がしい。しかしどうも様子が変だ。ついさっきまで場を支配していた俺を弾劾する空気は跡形もなく、代わりに聞こえてくるのはすすり泣きと、鼻をすする音。 何やら慌ただしい動きがあったかと思うと、ハプシエルが書類を抱えてそそくさと裁判場を出ていった。……バーコードハゲのおっさんが鼻水垂れ流しは直視できないほど気持ち悪かったが。 「静粛に!」 心もち目を赤くしたアルテミスが、咳払いと共に場を仕切り直す。俺がぼんやりと妄想たくましくしてる間に、こいつら一体何があった? 「あなたへの罰が確定しました。執行者があなたを召喚するので、あなたは召喚先で、しばらく待機することを命じます。……それからもう一つ」 急に発現した空間転送の魔法が俺を包み、どことも知らぬ場所へ俺を運ぼうとする中。正義を司る女神アルテミスは、あえてその鉄仮面のような表情を少し崩して俺に告げた。 「約束は守りなさいね?」 その言葉と同時に、空間転送が完了した。 「……どこだ、ここ?」 神界裁判で裁かれた悪魔はもれなく消滅刑 。それを知っていたからこそ、俺は躊躇いなく神界に殴り込みをかけたのだが。 転送されたその先で見たのは、一面花畑の世界だった。っていやいや、これどう見ても天国の類だろ。 とりあえず胡坐をかいて、頬杖をしながら考える。 ここが天国だったとして。悪魔が消滅した先がここであるとか、転送先を間違えたとか、そういうのは置いといて。ここが天国だったとして。 あいつがいない天国に、意味あるのか? そういう意味ではここは地獄として最も適切だと言えるかもしれないな。生半可な地獄なら逆に嬉しいぐらいだ。あいつがいない世界で、あいつのことを考えながら生きる。それに耐えられなくて、ここに来たはずなのに。 「あーあ、ひどい罰もあったもんだな。まったく、とんだ地獄だぜ」 「そうね、ひどい悪魔もいたものね。まったく、とんだ地獄だわ」 適当な呟きに返事があった。その声に聞き覚えがあって、その気配に、その香りに覚えがあって。 肩越しに振り返った先には、見覚えがあって。 腰に手を当てて近づいてくるそいつは、俺の前で屈んで目線を合わせる。 「勝手に約束破って。神様方にケンカしかけて。説明とか、釈明とか。全部全部私にやらせて。まだ新入りの神様なのに。とんでもない特例作ってもらっちゃって。その分の仕事も。いっぱいもらっちゃって」 言葉に合わせてそいつは指で俺の鼻を押してくる。とどめとばかりに額にでこピンして。 「ほんとバカ」 呆気にとられる俺をよそに、そいつは、クソガキは、彼女は。 「あくまでこれは罰なんだからね……っ。『新たなる神に傍近く仕えよ』。私だって転生して間がないんだから、仕方なくあなたに協力してほしいだけなんだからねっ」 笑顔でそう言った。 「……なんだよ」 仰向けで倒れこみ、透き通るような青空を見ながら、俺は本心からこぼす。たかだか約束を破ったにしては。 「ひでえ罰だ」 『あくまでもわたしのもとめにおうじて、あなたはうごいただけなんだから。あなたはあくまであくまじゃない。だから、ぜったいにじぶんをせめないで。あくまで、あくまでも、ぜったいに』 了
さわらび102巻へ戻る
さわらびへ戻る
戻る