冬来たりなば
                      真世

 浩一郎は腕を組み、前を見据えた。左のこめかみが脈動に合わせて疼く。火鉢の熱が頬を焼く。正面の相手は深く項垂れ、畳に両拳をつけて肩を震わせている。二人の膝の間には、油絵具の色彩鮮やかなキャンパスが幾枚も、呉服屋が若い娘へあれこれと反物を広げた時のように散らばっていた。
「それで、君は一体どうしようと言うのかね」
「ですから、奥様をいただきたいのです」
 客間は火の薄らぼんやりとした明かりしかなく、相手の何もかもが暗く見える。
 浩一郎は喉元まで出かかったため息をごくりと飲み下した。
 勤めを終え、寒風吹きすさぶ中を歩いて帰宅し、着流しに着替えたところで客が来るなどということは、人づきあいのそう多い方ではない浩一郎にとって只事ではなく、鬱々とした予感を引き出した。その予感は奇妙な現実へと昇華して、浩一郎の胃の底に汚泥が如く澱んでいる。
「うちの妻が欲しいというのは分かっている。そして君がこの油絵達を私に渡す所存だというのも先程聞いた。しかし、うちの妻とこの絵にどういう関係があるのか私には分からない」
 胸の内とは裏腹に、少しも閊えることなく喋る自身に不思議な心持ちがした。
「これは何だ、手切れ金のつもりかね? それとも身請け金のつもりかね?」
「いえ、そんな――」
「妻を売り買いされる、また自分が売り買いの通用する男だと思われているというのは非常に不愉快だが、そこは置いておこう。私は常々君の絵を、そして君を褒め称えてきた。しかしそれは君が富や名声に拘らず、ただ己の情熱のみを以って絵を描き続けている、そういう人間であったからに他ならない。君は以前言ったね。批評家達は自分の絵など見向きもしないが、自分だけはこれらに何物にも代えがたい価値があると思っている、と。その君の輝きが私にも伝播して、だからこそ君の絵は私の眼にまばゆく映ったのだ」
 相手はただ顔を青ざめ、項垂れている。そのてんでばらばらに伸びきった頭髪やほつれのある肩口、垢で鈍く光る衿を見つめた。
 相手の名は藤田俊郎という。浩一郎より六つ年下の、画家を生業とせんとする男である。
 出会いは三年前、帝大文学部の同輩であり、浩一郎の数少ない友人である野中の紹介がきっかけだった。野中は学生時分から変わり者で知られ、卒業に際しては同胞達が堅実な職を得ていくのを尻目に、自分は物書きで食っていくのだと高らかに宣言し、そして現在に至る十年以上の年月を高等遊民に近しい生活のまま過ごしている、浩一郎の知る限り最も奇抜な男である。その野中が、
「面白い男がいる」
と浩一郎に引き合わせてきた人物こそ、この藤田であった。
 最初、浩一郎はこれに困惑した。浩一郎自身が美術には興味もなければ明るくもなく、現在の勤めとも何の関わりもなければ、芸術家の後ろ盾になれるほどの財力もなかったからである。自分に紹介したところで相手には何の足しにもなるまい、と尻込みした浩一郎に、野中は
「少しばかり貧窮している男だ、書生にしてやれとまでは言わないが、用事のある時にでも使ってやってくれ。何、たまに飯を食わせるぐらいでいい。いい油絵を描くが、如何せん生活苦に喘いでいるのだ。それにお前は洋行の経験があるだろう? その辺りの話もしてやって欲しい」
とこともなげに言った。ほんの僅かな洋行の話が絵画と何の関係があるのだろう、とは思ったものの、浩一郎は野中の家で藤田と対面することになった。
 書籍独特の匂いと煙草の香りが混ざり合う書斎で野中と二人、ぽつりぽつりと思い出話をしているところに藤田は入ってきた。何となく小柄な男を想像していたが、なかなかに背は高く、その代わり頬がこけるほど痩せていた。
 浩一郎と藤田がぼそぼそと挨拶を交わす最中、野中が
「藤田、お前の絵を見せてやれ」
と咥え煙草で気ぜわしく顎をしゃくった。藤田は無言で頷くと、抱えていた大きく平たい風呂敷包みの結びを解き、その中身を露わにした。大きなキャンパス一面の色、それが目に入った瞬間、浩一郎は自分の胸に奇妙な高揚が湧き上がるのを感じた。
 藤田が持ってきたのは先日完成したばかりの新作で、何のことはない近所の池の風景を描いただけだと彼は言ったが、その色彩には目を見張るものがあった。確かに構図の歪みと言おうか、素人目にも分かる未熟な部分もあるにはあったが、それを凌駕する驚きがあった。
 それを矯めつ眇めつした後、素晴らしい、と浩一郎が素直に漏らすと藤田は少し赤面して目を伏せた。野中はただにやにやした。
 また何かあったら野中を通して連絡する、と浩一郎が告げると、藤田は一礼して帰っていった。
「どうだ」
「よくは分からないが……いい絵だと思った」
「そうだろう」
 野中は満足そうに頷いた。
 それから野中は藤田俊郎がどういう男であるかを詳らかに語った。自分達とは六つ違いであること、独り身であること、ほとんど独学で絵を描いていることから、その生い立ちまで。聞けば聞くほど、藤田という男が筆を握っていることに首を傾げざるを得なかった。芸術に傾倒するような環境に生きている人間ではなかったのである。
「どうして絵描きになどなろうとしたのだろう」
 どうしても解せず、浩一郎は呟いた。野中は紙巻煙草を一度深く吸うと、
「それが奴の業なのさ」
と目を瞑った。
 それからしばらくして、浩一郎は藤田を家に招いた。書斎の本を整理しようと思い立ち、せっかくならあの困窮している画家にも手伝ってもらおうと考えたからだ。いつもなら浩一郎一人が一日がかりで行う作業ではあるが、少し疲れてもいた。それに何かあれば連絡すると言った手前、いつまでも約束を果たさずにいるというのは自分自身どこか居心地の悪い思いがするのである。
 妻にはもてなしの料理を言いつけ、自分も僅かばかりの謝礼を用意した上で連絡を取った。
 恐縮しながら入ってきた藤田を浩一郎は快く迎え入れた。相変わらず痩せていて、身なりも粗末ではあったが、その顔にはどこか清潔さが感じられた。その日は絵を持参しておらず、ほぼ手ぶらの状態であったことだけが浩一郎にとって残念であった。
 本棚を整理していく中で、二人は訥々と会話した。藤田の話すことには既に野中から聞き知っていることもあったが、その一つ一つに浩一郎は丁寧な相槌を打った。
「絵を描くのは楽しいかい?」
 浩一郎は尋ねてみた。
「はい、楽しいです」
「止めたいとは思わないのかね?」
「思うことはありますが、止められた例がありません」
 そういうものか、と思った。年齢的にはもういい大人である藤田の、夕日に照らされた横顔は少年そのものの輝きを放っていた。
 処分する本を何段か積み上げた後、この中で欲しいものがあれば持って帰っていい、と浩一郎は勧めたが藤田は固辞した。尤も浩一郎が買う本と言えば仕事か文学に関するものしかなく、藤田の求めるものとは異なっていたせいかもしれない。
 藤田は浩一郎の細君と女中が作った料理を健やかなる食欲で平らげ、銚子一本分の酒を呑んだ。
 何度も礼を述べて頭を下げる藤田を玄関先まで送り出しながら、
「今度は君の絵も持ってきたまえ。他のも見てみたい」
と浩一郎は声をかけた。藤田は嬉しそうなしかしどことなく恥ずかしそうな童子の笑みを浮かべ、夜道に消えていった。
 それから何度か、浩一郎は藤田を家へ招いた。最初の数回は簡単な用事を言いつけるなどしてそれなりの形を保っていたが、しばらくするとそんな小細工が煩わしくなり、ただ友人の一人として招き、話をし、食事を提供するようになった。藤田は絶えず恐縮していた。そしていつも自分の描いた絵を風呂敷に包んで持ってきた。
 藤田のそれはどれも色彩豊かで、浩一郎の胸を躍らせた。未だ一枚もまともに売れたことがないというのに、素見だけというのも申し訳なくなってきて、どれでもいいから言い値で買おうかと申し出たこともあった。しかし藤田は
「確かに誰の目にも留まらずに来た作品達ではありますが、私にとっては何物にも代えがたい価値があると思っております。今はまだ、これらの絵に自分からいくらいくらと値はつけられません。お求めとあればどうぞ差し上げます。誰も欲しがらぬものですので。しかしお金をいただくわけには参りません」
と恐縮や遠慮の色を見せることなくきっぱりと首を振った。浩一郎はますます藤田の絵が好きになった。
 藤田の影響で少しは目を向けるようになったものの、相変わらず浩一郎は美術に疎いままであった。だんだんそれでいいような気さえしてきた。世間や玄人の評価に左右されず、自分が何かをいいと思い、そう主張することに対しての誇らしさ、虚栄心を満たす何かがあった。そのため画廊に足を運ぶことも他の画家と付き合おうとすることもせず、浩一郎はただただ藤田だけを自宅に呼びつけ、その絵を楽しむことしかせずにいたのである。
 妻は当初、夫が突如として付き合い始めた、この見るからに貧しい絵描きにいい顔はしなかった。しかしこの朴訥な男が、月に一、二度、一食分だけ飲み食いをしていく以外は金の無心をするでもなく、他の仲間を連れてくるでもなく、ただ風呂敷に自分の絵だけを包んで訪ねてくる様に好感を持ったらしかった。上辺だけ慇懃であった態度は徐々に軟化して、しばしば浩一郎の横から藤田の絵を眺めるようになった。夫唱婦随とでも言うべきか、妻も絵に対しては全くの素人であったが、さすがに女は色に対しての感覚が優れているのか、どこのこの色がいいなどと浩一郎のそれよりももっと具体的で微細な感想を述べたりもした。
 浩一郎と妻、そして藤田の交わりはあくまでも清いままであった。浩一郎はそう信じていたし、多少の打ち解けあいはあるにせよ、妻と藤田の挙動にも別段変化は見られなかった。少なくとも妻を譲ってほしいと藤田から詰め寄られるような予兆など何もなかったはずなのである。今日までずっと。突然の来客が藤田であると取り次がれた時、浩一郎はひょっとするといくらか用立ててほしいという話かと思いはしたが、そんな頼み事をされるとは想像だにしていなかった。
 藤田が自身の絵をぶちまけ、青白い顔で奥さんをいただきたいと吐露した時、浩一郎はひたすら当惑した。何も分からなかった。
 浩一郎はまたため息を飲みこみ、腕を固く組んで藤田のつむじを睨み据えた。どこがどうとは分からぬが、ここが踏ん張りどころな気がした。胡坐をかいたまま、丹田に力を入れる。
「君と妻の間に、姦通……の事実はあるのか」
「いいえ、いいえ、そんな――そんなことは誓って」
 藤田は畳に額を擦りつけんばかりにして頭を振った。
「していない、というのだね。なら何故いきなりこんな話をするのだ。そもそも妻は君が今日、こんなことを言い出すことを知っているのかい」
「いいえ、奥さんは何も」
 そうであろう、と浩一郎は頷いた。自分が帰宅して藤田がやってくるまで、そしてその後も、妻の顔つきや所作に平素と変わったところはちらとも見受けられなかったのである。
「ならば私が、君にいくら奥さんをくださいと頭を下げられたところで、はいそうですかと言えぬことも分かるだろう。確かに今は私の細君で、私の所有物に見えるかもしれないが、いきなり私の妻にと天から落ちてきたわけでも、土から生えてきたわけでもない。良識のある家で、良識をもって育てられた、一人の娘、一人の人間なのだ。親にとっては大事な娘だよ。それを証拠に、妻の実家とも篤い付き合いがある。君だからどうこうと言ってるんじゃない。誰がどう頼んできたところで、簡単に差し渡すことができるものかどうか、よく考えてみたまえ」
 藤田は恥じ入ったように深くうつむいたまま、小さく震えている。浩一郎は急にこの痩せた画家が気の毒になって優しい声音で訊いた。
「女が欲しいのかい、それとも身の回りの世話をする人間が欲しいのかい」
 藤田はまたも強く首を振った。
「じゃあ、何が欲しいのだ。それとも、あいつに本気で惚れているとでも言うのかね」
「私はもう逃れたいのです」
 藤田は悲鳴のような声を上げ、自分のキャンパスを右手で大きく振り払った。そのうちの一枚が畳の上をどこまでも滑り、障子の枠に当たってようやく動きを止めた。
「私は、もう、もう、こんなところから逃れたいのです。職につき、自分の家庭を持ち、安穏とした人生を送りたいのです。私は私を捨てたいのです。でなければいつか駄目になるのです。――あなたの奥さんからは温かみを感じます。それが今の私にはどうしても必要に思えるのです。奥さんをください。奥さんをくださるならあなたに私の描いた絵の全てをお渡しします。そして私はもう二度と絵は描きません」
 藤田はそう言ったなり、自分の絵に覆いかぶさるようにして嗚咽を繰り返した。その肩が大きく上下に揺れるのを浩一郎はただ黙って見ていた。
 その時、みぞおちに何か熱いものが滑り落ちてくるのを知覚した。いや、滑り落ちてきたというよりは胸の奥にしまっていた何かが、突如熾火となって自分自身を燃やそうとしているようだった。浩一郎は狼狽し、薄暗い部屋のあちこちに視線を投げかけた後、こんなことを思い出した。
 何度目か、藤田が家に来た時のことである。書斎で二人、あれやこれやと話していて、ふと、自分も学生時分に物を書いていたことがあったと藤田に漏らした。藤田は驚いた様子で、
「何をお書きになっていたのですか」
と尋ねてきたが、浩一郎は急に羞恥を覚え、
「いや、大したものではないのだ。もう忘れてしまった」
とごまかした。では野中さんとお付き合いが続いているのもそういう訳ですか、と得心したように藤田が頷くので、浩一郎はますます慌て、
「野中とは別に文学で繋がっているというわけじゃない。私はもうすっかり書くのを止めているし」
と取り繕った。何故止めたのです、とは藤田は訊かず、
「物書きで食べていきたいとは思いませんでしたか」
とこちらの心を貫く眼をして言った。
「考えたことがないとは言えない。……けれど、私は野中のように格別裕福な生まれでもないし――いや、ただ勇気がなかった」
 遠い昔に捨てたつもりの情熱が波の如く胸に押し寄せてくるのを感じて、浩一郎はなす術もなく目を細めた。
「君や、野中が羨ましい」
 あの時何故自分はああ言ったのか、今でも分からぬ。しかし現在浩一郎の身を焼こうとする熾火の端緒はあの時に生まれた気がした。
 藤田はなおも下を向いてしゃくりあげている。時折、もう嫌だとか逃げ出したいとか、頑是ない子供のようなことを呟いた。
 藤田は報われたくなったのであろう。誰に評価されずとも構わない、自分は自分の描きたいものを描く、などと高潔な姿勢を保ってはいるが、その中に痩せ我慢の影が混じっていることに浩一郎は気づいていた。
「ようし、それほどうちのが欲しいならくれてやる」
 弾かれたように藤田は顔を上げた。その頬は涙に濡れ、瞼は赤く腫れていたが、表情には驚愕の色があった。そうして僅かにずり下がった。
「君がどうしても我が細君を欲しいと言うなら、よかろう、くれてやる」
浩一郎はなおも腹の底から、まるで雷電が響き渡るような声を出した。自分からこんな声が出たことが浩一郎自身、奇妙としか言いようがなかった。こめかみがいよいよ脈打ち、頬に血が上ってきた。
「だがな、君、あれはただの女だよ」
 藤田は何も言わない。
「――ただの女だ。今日だけでなく明日や明後日の飯が約束されなければ生きていけぬ女だ。それは君とて、我武者羅に働けば容易いことだろう。しかし、君は失わなければならない。……何のことか分かるね?」
 外で一度強い風が吹き、庭の木の小枝が屋根瓦をぴしりと打つ音がした。
「それは君以上に君自身であるものだ。君の肉体や精神よりはるかに君であるものだ。君はそれを全て捨て、いや、それだけを捨て、のっぺらぼうの面を被って生きていく。……本当にそれができるかね」
 できるのであれば、くれてやろう。
 藤田は否とも応とも答えず、眼前に散らばる己の絵に視線を落とした。その顔が歪み再び項垂れるのを浩一郎はただじっと見ていた。
「なあ、君」
 腕組みを解き、浩一郎は羽織の襟元を掻き合わせた。
「今は冬だ。そして冬のあとに春が来る。誰の元にも平等に春が来るなんて言うやつもいるが、私は、君と私の春は違う形をしているだろうと思う。野中と君の春も、やはり異なっているだろう」
 紅く燃えていた火鉢の炭が、今では灰白色となって瓦解している。
「しかし、私は君の春が羨ましい」
 


                       了





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