本日は雪、のちかき氷
巴巴巴(みつどもえ)

 頭から溶けてしまいそうな暑い夏の日は、決まってかき氷を作る。コンビニ弁当しか食べない俺にはいささか不似合いともいえる製氷機付きの大きな冷蔵庫から、作り置きの氷を取り出す。
 がり。がりがり。
 磨き上げられたかき氷機は、やけに古めかしい大きな体を震わせて今日も元気に氷を削っていく。
 がり。がりがり。
 用意したいつもの器いっぱいにかき氷が積もったところで、俺はシロップとスプーンを取り出す。シロップの容器を両手に持ってひっくり返すと、真っ白な雪山が一瞬で色づいた。
 ひとつは赤に。一つは緑に。
 緑が生い茂った雪山に、お気に入りのスプーンをさして気づいた。赤色のシロップが一滴も残っていない。
 後で夕飯と一緒に買っておこうと心にメモしながら床にどっかと座る。すると、開け放した窓から夏特有の蒸し暑い風が舞い込み、部屋の紙くずを吹き散らしながら、さっき開いた心のメモのページをくるくるとめくっていく。
 夏になると思い出す。うだるような暑さ。かき氷の味。あの子の体温。
夏になると思い出す。あの子の顔。冷たい手。真夏の雪。

 小学生のころ、俺はひどく病弱だった。今でこそ人並みの暮らしが送れるが、小学五年生の夏までは、年がら年中咳き込んで、血を吐いたことも一度や二度ではない。
学校や自分の家より、病院のベッドの上にいる時間のほうが多かったぐらいだ。しかも俺の病気は奇病も奇病、現代医学では対策はおろか原因すらわからないという。しかも俺以外に症例もなく、もちろん完治例もない。人にうつるかどうかもわからないと判明したからお手上げだ。名医がそろって匙を投げた結果が、過疎の進んだ田舎の病院付きの、余った税金のなれの果ての古びた病棟唯一の入院患者であるこの俺だ。
治る見込みは全くなく、それを医者や看護師はまるで隠そうとしない。どうやら俺を体よく隔離したオンボロ病棟はもうすぐ売り払って経営の足しにする予定だったらしい。俺にそんな辺鄙(へんぴ)な場所を紹介したのはどうやら商売敵を蹴落とす意味もあったらしい。俺がなかなか死なないのに苛立った主治医は、俺の名前をこの奇病につけて予算の足しにならないか画策しているようだ。
 両親は最初こそ俺のために奔走していたが、世界各地の名医を訪ねる旅は彼らの資産を次々と食いつぶし、およそ治る見込みがないとわかってからは見舞いに来る足も遠のくばかりで、正直顔もおぼろげにしか思い出せない。看護師たちの益体(やくたい)もない話の中で俺には弟ができているとも聞いたが、確認してないしする気も失せた。
「疫病神」
 俺をそう呼んだ人間を数えるのも三十人ぐらいで辞めた。周りの人間がそれくらいしかいなかったのもあるが、生みの親が言い放ったのを聞いてしまったのも大きかったのかもしれない。
周囲の人間が誰も感染しなかったのは不幸中の幸いだったが、同時に最低の不幸だった。誰も感染しなくても、可能性は人をおびえさせた。『人間は信用ならない』という悟ったようなことを、十一歳の子供は半ば確信していた。
 自分も人間なんだから、自分すら信用できないとか、もし自分が信用できるなら俺は人間じゃない、人間じゃなかったら俺は何者なのかとか、当時の俺はそんなことばかり考えていたような気もする。悟った風を気取る子供の自己嫌悪は、そのまま周囲にも牙をむいた。どうせ治らないんだろう。もうほっといてくれ。言葉にせずとも、頼りないながらに差しのべられた手を払う俺の放っていた雰囲気は、俺の孤立を一層加速させた。遠ざけられていながら、遠ざけてもいたのだろう。
医者に。親に。友達に。看護師を。人間を。世界を。
 だから、気づかなかった。ベッドの横合いにたたずんで俺をまじまじと覗き込む女の子に。
 きれいな女の子だった。背丈を見るに、俺より一歳上かどうか。しかし透けるような白い肌に端正な顔立ちは、はるか年上の見知らぬ女性のような一種の近寄りがたさをひしひしとぶつけてくる。それでいて、乏しい表情にどこかしら温かみがあるような気もする。絹のように細い黒髪は腰まで伸び、氷の結晶をかたどった髪留めに軽く止められている。まとっている白地の浴衣の裾にちょこんと佇む(たたずむ)雪うさぎは、大人びた雰囲気の少女のあどけなさをそっと主張している。病室でありながら使い込んだ草鞋(わらじ)を履き、たたずまいもどこか古めかしい。
 何より不思議なのは、彼女を目で捉えてから、なんとなく肌寒い。夏用の半袖の寝巻は今の俺を寒さから守るにはいささか頼りない。高い湿度と気温に寝苦しさを感じる夏の夜はなりを潜め、季節外れの寒さが俺の背ににじり寄る。しかし寒さは突き刺さるような痛みでなく、ひんやりとした天鵞絨(びろーど)のようにふわりと俺に寄り添う。
天鵞絨は、毎晩続く俺の微熱を滑らかに掬(すく)い取る。それがたまらなく心地いい。
 深夜零時を回り自分の手の輪郭すらにじんでぼやけるような闇の中で、彼女の姿は存外はっきりととらえることができる。それは、服から肌から透き通るように白いからか。それとも…。
 彼女の出現からもう秒針が一回りしようとしているというのに、突然の事態に俺の思考は減速を続ける。思うように回らない頭で呆然としている俺に、彼女はいきなり声をかける。
「あなた、ひとり?」
 見た目通りに透き通った声に、俺の思考は確かに一瞬停止した。かろうじて首を縦に振る。
「そう」
 さらりと答えた彼女は、近くの椅子を引き寄せて、慣れない様子で腰かけると、
「じゃあ、ここにしよう」
「え?」
 つい間抜けな声を上げる俺に、苦笑交じりで彼女は続ける。
「しばらくここにいさせてもらうわね」
 その言葉を最後に、やけにはっきりしていた彼女の輪郭もぼやけ、俺の意識は夢の中に落ちていった。取り残された身体に、どこか肌寒さを感じながら。

 あくる日の朝目覚めると、いつもの病室だった。どこか日当たりの悪い部屋の、いつものベッドに横になっている。朝一番の病室巡回で、気だるさを隠そうともしない看護師長が俺の病室に入ってくる。ダメ元で昨晩の不思議な少女のことをそれとなく聞き出そうとするが、小さな病院を隅々まで把握している看護師長は怪訝そうに首を横に振った。
「記憶障害かしら……。全く、面倒事を増やして……」聞こえないと思ってつぶやく看護師長の背中に内心舌を出しながら、おもむろにベッドに横たわる。横たわっても、思考にかかった靄(もや)は晴れない。俺の心はなんだかよくわからない感情が芽生えたことにいささか戸惑っていた。
 悶々とした思いを抱えながらも、変わりのない日常を過ごす。主治医の問診で、空で言えるほど繰り返された陳腐な励ましを聞き流す。籍だけ置いている学校から律儀に届く課題を片手間で解き上げると、およそ小学生では読めないような専門書に取り掛かる。
哲学、心理学、管理栄養学、薬学、独語学、そして医学。今日び大人でも読めないような本や論文をすらすらと読めるのはひとえに時間があったからだ。大人すら話し相手になってくれなかった俺は、人より多くある時間の使い道を人でなく本に見出した。もっとも病院に置いてある児童書などさして多いわけでもない。仕方なく俺は医者たちの持っていた本を読み始めた。最初こそちんぷんかんぷんだったが、慣れというのは恐ろしいもので、今となってはすらすらと読める。
周囲の大人たちは一層気味悪がったが、俺は気にも留めなかった。本は俺を嫌わない。俺は本を読み、本は俺に読まれる。完全に一方通行のコミュニケーションは気楽だった。
本を閉じたころには空の緞帳(どんちょう)もぴたりと閉じる。薄味の夕食も済み、発作止めの苦い薬を飲み下して布団の中に潜り込むと、若い看護師は寝たと思って照明を落とし、病室を出ていく。
 人の気配がなくなるまで待って、夜の病院を探検してみよう。彼女はどこにいるだろうか。幼心に冒険心を抱きながら、看護師の靴音が聞こえなくなったのを確認し、ばれないようにそっと布団から抜け出そうとする…。
「何してるの?」
いた。気配も前触れもなく真横に。
 昨晩と変わらぬ服装で、小首を傾げて佇(たたず)んでいる。その何気なさに、面食らった俺は押し黙るしかない。
「何してるの?」
同じ質問を重ねる彼女。一度押し黙った手前、小粋な答えを探すが、どうも考えがまとまらない。
「何してるのって、聞いてるのに」
 どうしよう。考えが空回りして、返事が思い浮かばない。頬が火照(ほて)り、鼓動が速くなる。そういえば、同年代の子供、それも女子と話すのは初めてだ。
 焦るばかりの俺をじっと見ていた彼女は、突然ふっと笑い出した。
「うふふ。あははは。ごめんごめん。ちょっと意地悪だったかな」
 一通り笑って、茫然としている俺をしり目に、彼女は何やらごそごそとテーブルのあたりをいじっている。何を言えばいいやらわからずまごつく俺の手元に、振り返った彼女は冷たいものを押し付ける。
「ね、一緒に食べよっか」
 見れば彼女の手にはコップに積もったかき氷があった。
目線を手元に落とすと自分の手にもかき氷。8月1日の蒸し暑い夏夜は、これを食べない選択肢を与えてくれなかった。
 それからかき氷を食べながら、いろんな話をした。とりとめのない話題ばかりだったし、色気のない病室でのこと、記憶から消えてしまっても仕方のないようなつまらない話ばかりだったが、この上なく楽しかったのだけは覚えている。彼女は病院暮らしで話題も少ない俺の話を楽しそうに聞いて、時折相槌を打ってくれた。普段の問診ですら咳き込んでろくに話すことのできない俺の口は、彼女の前では別人のもののようにくるくると回った。
 夜が明けるころになると、決まって俺は急に眠気に襲われ、そのまま倒れるように寝てしまう。目が覚めた時には彼女の影も形もなくなっている。しかし夜病室の電灯をけし、病室に俺一人になると、決まっていつの間にか彼女は現れる。そしてかき氷を作って一緒に食べながら、またとりとめのない会話を繰り返すのだ。
 彼女は決して名乗ろうとしなかった。どこの誰かもわからない。なぜ俺と話してくれるのかもわからない。聞いてもはぐらかすばかりで、俺自身も興味がなかったので、深く問い詰めるようなことはしなかった。
 彼女の作るかき氷のシロップは決まってイチゴとメロンだった。頭にしみる冷たさとシロップのなめらかな甘みは、味の薄い病院食続きの俺の舌を大いに喜ばせ、催促するように俺の舌は一晩中止まらなかった。彼女のかけるシロップは随分と量が多く、俺が自分でかけるようになるまで緑と赤の雪山になっていたのが難点か。もっとも、大の甘党らしい彼女は俺が止めても気にも留めなかったが。正直そこだけは分かり合えない。
 周囲の大人たちは気づかないようで、子供心に面白かった。そしてそれ以上に、彼女との会話が楽しかった。会話の最中に発作が起こる事が無かったのもあり、気兼ねなく話せる友人ができたこともあり。俺は夜が待ち遠しかった。夜になるまであとどのくらいか、時計を眺めて一日中そわそわしていた。
 思えば、あの夏の夜は俺の、初恋だったのだろう。

 8月の終わり、今夜は何を話そうか考えながら、子供が読むにはおよそ似つかわしくない小説を読んでいると、ふとページの真ん中に赤い斑点があるのに気付いた。
ごみと思って払おうと手を動かして、ページが真っ赤になった時、びっくりして見た掌(てのひら)が真っ赤だった。そのあと意識が飛んだ。
 朦朧(もうろう)とした意識の中で、いろんな音が聞こえてきた。ばたばたと走る足音。むせび泣き。心拍を表す電子音。「……ついに……」「……どうしてこの子が……」「……今夜が峠……」
 すべてがあいまいな音の奔流の中で、やけに自分の鼓動がはっきり聞こえて。鼓動以外が聞こえなくなったら、自分は死ぬんじゃないか。ぼやけた思考の中で浮かんできたその考えに、自分の体がずぶりずぶりと沈んでいく。
……ああ、俺、死ぬのか。……ああ、おれ、しぬのか。とくになんにもなかったけど、なにもできやしなかったけど。
けど。せめて、さいごに、あのこと、はなしが、したかったなぁ……。
「ダメ」
 なんだよ。もうねむいんだよ。ねかせてくれよ。
「ダメ」
 いいじゃん。もう、つかれたよ。どうせしぬんだからほっといてくれよ。
「絶対ダメ」
 ……じゃあ、どうするんだよ。
「……」
 ほら、むりじゃん。じゃあ、ばいばい。えっと……。
「……ゆきな」
 え?
「ゆきな。私の名前。絶対忘れないで……それと、ばいばいじゃない」
 え?え?
「あなたは死なないから。いつかまた会えるから。それまで待ってて」
 ……どういうこと?
「…わたしもね、ひとりぼっちだったの。同じ一族の中でも体温が高いから、腫物扱いされて。行く場所もなくてふらふらしてる時に、あなたを見つけた。周りから遠ざけられてるあなたにすごく共感して。仲間がいたって思って…。とっても嬉しかった。お話も楽しかったし、私の下手くそなかき氷をおいしそうに食べてくれる人は初めてだったから」
 だから、と一呼吸おいて、彼女は言った。
「あなたは絶対、死なせない」
 その言葉と同時に、暗くよどんだ周囲の闇が晴れていく。白く、白く、白く、白く、白い世界へと様変わりしていく。よどんだ意識も真っ白に染まっていく。白くて白くて白くて白い世界に、彼女の、ゆきなの声が響く。
「真夏に雪が降ったら、また会いましょう」
 それを最後に、すべてが白に染まった。

 次の日目覚めた俺を迎えたのは、心からの驚愕(きょうがく)と心にもない歓喜の入り混じる声だった。かかりつけの医者は「ありえない……」とうめきながら膝をついているし、看護師たちはそろって口をぽかんと開けている。家族は俺に縋り付いて泣きじゃくっているし、もうなにがなんだかわからない。
 真横なのに遠く彼方のように聞こえる万歳の声を背に、近くの窓に目をやる。
 純白だった。
 新雪が青葉に積もって、白く染め上げている。薄汚れて灰色がかった病院の壁、病室の窓から見える家の日焼けた屋根にも白くないところはない。休日の街を支配する喧騒は、つがいを求める蝉(せみ)の歌声は、降ってわいた大雪に縮こまってしまっている。真夏の異常気象は、町一つを一変させてしまった。
 後ろで医者が読み上げる『異常なし』のカルテは、家族のみならず看護師たちをも巻き込んで万歳の呼び水となる。ぼんやりとした俺の手を強引に握って男泣きしているのは父だったか医者だったか。誰もが真夏の大雪と相まった奇跡に狂喜乱舞する中、俺がめぐらせた視線はベッド横の棚の上にぽつんと置かれた髪留めで止まった。
 氷の結晶をかたどった、小さな髪留め。
 そのとき、俺の感情は爆発した。
 医者どもや家族は急転直下の展開に右往左往して、必死に俺の泣くわけを聞いた。答えないとわかるや、改めて検査しなおす。もがく俺の脈をとり、はだけた寝巻を直しながら触診する。暴れる俺を抑え込みながら取れかかったたくさんのコードをつけ直し、ぷーぷーと間抜けな音を上げながら紙を吐き出す古びた検査装置から、俺の体調を事細かに記した紙をむしり取る。隅から隅まで舐めるように見て、俺の主治医はほう、と息をつき、また歓声が上がる。
「きっと病気が治ってうれしいのだろう」
家族や医者たちはそう結論付け、肩を叩きあって喜んだ。
 心底悔しかった。まるで奴らはわかってない。彼女が俺と話してくれたわけ。彼女が俺を救ってくれたこと。そして、彼女は今、いなくなってしまったこと。嬉しくて悲しくて悔しくて辛くて歯がゆくて…。言葉で表せない感情の奔流が俺の全身を貫いて。あんなに人前で泣いたのはあれが最初で最後だった。普段は感情を見せない俺は、おそらくあの日一日流した涙で、一生分の涙を使い切ってしまったのかもしれない。

 真夏の暑い日は、俺は決まってかき氷を作る。これは、一日だって欠かしたことのない俺の大事な習慣だ。
 大学三年生になっても、ちょっとぐらい具合が悪くても、卒業がかかったレポートが残ってたって、これだけは譲れない。
 俺のかき氷好きは、サークル内なんかでは有名な話だ。
年がら年中不思議な髪留めをつけている男はキャンパスでも割と目立つ。もちろん人が何と言おうと俺は気にしないが。
 さあ、切らしてしまったイチゴのシロップを買いに行こう。もう五時だし、暗くなる前に帰らないと。ひどく寒いから、靴下をはいてフード付きのジャケットを羽織って…。
 ん?
 慌ててぼろアパートの立てつけの悪い窓を開くと、ちらちらと雪が降っている。舞うように降りてきた雪は、融けることなく屋根に、塀に積もっていく。手を伸ばすと、俺をからかうように指の間をすり抜けて俺の鼻先にとまる。冷たい。
 雪が降っている。真夏の、終わりに。
 そっと振り返ると、ちょうどドアベルが鳴った。古めかしく耳障りな音の後に、十年越しの『彼女』の声が聞こえた。
「おまたせ」



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