ゴミの行く先
千集 一

「……ここは、どこだ?」
 気がつくとぼくは見覚えの無い場所にいた。
 周囲を見渡すが、そこには何もなかった。視界を遮るものは文字通り何一つない。
しかし、ぼくは直感的に、ここが閉じた場所であると感じていた。一度落ちたら這い上がれない、アリ地獄のような閉塞感がここには漂っていた。
 目の前では、蛍のような光がいくつか浮かんでは消えている。ただその色は、燃えるような赤色だったり、深く滲んだ藍色だったり、およそ蛍の明かりとは似ても似つかないものだった。
宙に浮かぶ青い光に手を伸ばす。触れたと思った瞬間、痛みが走った。物理的な痛みではない。急に心が締め付けられ、ぼくはその場にうずくまった。驚いて手を放すと、心の痛みは跡形もなく消えていた。
「おいおい、見慣れないもんに何ホイホイ触ってんだよ。お前は幼稚園児か」
 突然の声に心臓が縮む。
 馬鹿にしたようなその声は背後から聞こえた。とっさに振り向くと、そこには一人の少年が立っていた。年は中学生くらいだろうか。学ランを身に着け、顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
「えっと……その、ごめん」
「は? なんで謝んの?」
「何でって……勝手に触ったから怒ってるんでしょ?」
 ぼくが恐る恐る言うと少年は大きくため息を吐いた。そして、ほんの少しだけ表情を柔らかくした。
「怒ったわけじゃねえよ。だいたい、そんなもん勝手に触ればいいだろうが」
「……え?」
 ぼくには少年がさっきと真逆のことを言っているようにしか思えなかった。少年の意図を理解できないでいると、少年はイライラしたように頭をかく。
「あーもう、だ、か、ら、触るんだったらそれが何だか分かってから触れって言ってんだよ!」
「わぁ、ごめんなさいっ!」
「……だから、怒ってねーって言ってんだろうが」
 少年はもはや呆れているようだった。これではまるで、少年の方が年上のようだった。
「じゃあ、君が色々教えてよ。正直分からないことだらけなんだ。ぼくよりは詳しそうじゃないか」
「やだ」
 少年が急に後ろを向いて歩きだしてしまった。ぼくは急いで追いかける。
「ちょっと、何で?」
「めんどい」
 少年は振り返らない。ぼくは必死にすがりつく。こんな知らない世界で一人残されたらたまらない。
「いいじゃん、頼むよ。ここ、人いないから、君しか頼れる人がいないんだよ」
 少年の動きが止まった。
「……今更頼るのか」
「え?」
 こころなしか、少年の声が震えていた。
「他に人がいないから、俺を頼るのか」
「……」
 少年が振り返る。怒っているのか悲しんでいるのか喜んでいるのか、よく分からない顔だった。何でそんな表情をしているのか、ぼくには分からなかった。
 少年はしばらくぼくの顔を眺めていた。なぜ見つめられているか分からないでいると、彼は寂しそうな顔をして呟いた。
「……そっか。お前は覚えていないんだったな」
「何の話……?」
 覚えていない? 何の話だ。初対面であるはずなのに。
「いいよ。教えてやるよ」
 あまりにもさらっと言うので、ぼくは一瞬聞き逃していた。そこにはもうさっき見せた寂しさは感じられなかった。
「あの光のことも、この場所のことも、俺の知ってることは教えてやる。……まあ、本来はお前が一番よく分かってるはずのことだけどな」
 突然の心変わりに、ぼくは耳を疑った。戸惑うぼくを見て、少年は露骨に嫌そうな顔をする。
「……嫌ならいいけど」
「いやじゃない! 聞かせて!」
「あっそ。……じゃあ、ちょっとついてこい」
 そう言うと少年はスタスタと歩きはじめた。
「え、あ、ちょっと待ってよ!」

「うわー、物が一杯……」
 連れてこられた場所には、先ほどまでとは打って変わって、物で溢れかえっていた。本や紙が山積みになっていて、地面にも多く散らばっている。古ぼけた家具やおもちゃなども所狭しと並んでいて、散らかしっぱなしにしたままの子供部屋のような懐かしさを感じた。
「……これでも大分整理してんだ」
 誤魔化すように、少年は呟く。申し訳なさ気に床に散らばった物を端に寄せて座る。促されたのでぼくも座った。地面は固すぎず柔らかすぎず、不思議な感触だった。
「どうしたの? これ」
「捨てられてきたから使ってる」
「え、ここ、ゴミ捨て場か何かなの?」
 こんな場所に、ゴミを捨てるような他の人間がいるとは驚きだった。そう言われて見れば、こんなにゴミを捨てるのにうってつけな場所もないだろう。だだっ広くて更には人も少ないこの場所は、不法投棄には最適だ。
「う〜ん、ゴミ捨て場でも間違っちゃないんだけど……まずはこっから説明しないといけないな」
 少年は背筋を伸ばす。ぼくもつられて姿勢を正した。
「ここは、この世界全体がゴミ捨て場みたいなもんだ。ここだけが特別、ゴミ捨て場とか不法投棄場とか、そういうもんじゃない。言ってしまえば、この世界にあるもん全部ゴミだな」
「『この世界』? ここは普通の場所じゃないの?」
「そんなの、見りゃ分かるだろうが」
「いや、まあ……」
 言われてしまえばその通りだった。現実的なものは何一つ無い、不思議な光が漂う空間なんて、物語の中ぐらいでしか見たことが無い。
「じゃあ、この場所はどこなんだ? どうやったら戻れるんだ?」
「そんなの、俺が知りたいぐらいだ」
「そんな……」
「言っただろうが。『俺の知ってることは教えてやる』と」
「なら、ここはどういう場所なんだ? 君はぼくよりはこの世界のことを知ってるんでしょう?」
「さあ、どうなんだろうな。本当はお前の方がよ〜く分かってんじゃねえのか?」
「……?」
「……まあ、俺の知ってる話、だったっけか。――さっきここをお前はゴミ捨て場と言ったが、俺はどっちかって言うとゴミ箱だと思ってる」
「ゴミ箱?」
 ぼくにはその違いがよく分からない。どちらもゴミを捨てる場所じゃないか。
「まあ、確かにニュアンスの違いだがな」
 少年はニヒルに笑う。
「パソコンの中に『ごみ箱』ってフォルダあるだろ?」
「パソコン?」
「ああ。パソコンのデータって、消しても『ごみ箱』の中を空にしないと、本当に消えたことにはならないだろ? それはゴミ箱が一時的にゴミを保管してるってことだ」
「なるほど」
 でも、だから何なんだ。中にあるものがゴミだということに変わりは無いはずだ。
「確かに、捨てる場所だってことには変わりはない。でも、間違って捨てたもんでも、ゴミ箱にある状態ならまだ見つけられると思わねえか?」
「……へぇ」
「なんだよ。興味なさそうだな」
「正直、どっちでもいいよ、そんなの」
 ぼくは出る方法が知りたいだけだ。ここがゴミ箱だろうが何だろうがどうでもいい。
「へえ〜そうか」
 少年の口調が変わった。馬鹿にするような嘲るような、誰かを傷つけるための言葉に。
「そうだよな。お前は捨てられたんじゃないから分かんねえか」
「え?」
「捨てられたもんにとってみれば、これは大きな違いだ。見つけてもらえる可能性がわずかにでも残ってるんだからな」
「……『捨てられた』? え? 君はここの主とかじゃないの!?」
「言ったろ。『この世界にあるもん全部ゴミ』だって。俺だって例外じゃねえ……まだ思い出さないのか?」
「……何を」
 そんなことを言われたって、ぼくは何も思い出せなかった。この場所のことも、少年のことも、ぼくがどうしてここにいるかも、何一つ思い当たることはなかった。ただ、言葉の続きを聞きたくないとだけ思った。
 しかし、少年は僕を見据えてこう言った。有罪判決を告げる裁判官のように。
「ここにあるもんは全て、お前が今まで捨ててきたもんだろーが。俺を含めてだ」

「宙に舞ってたあの光は、お前が要らないと思ったその時々の感情。怒りとか悲しみとかが多いみたいだな。で、このやたらめったらに置いてあるものたちは、思い出だ。意図的に捨てたもんもあるだろうが、忘れてるだけってもんも多そうだ。思い出す必要もないって意味では確かにゴミだろうな」
 少年が色々言っているようだったが、全て頭をすり抜けていくようだった。
「なあ、」
「ん? 何だ?」
「君は何でぼくのことを知ってたんだ」
「そりゃあ、俺はお前だからだ」
「どういう意味だ」
「より正確に言えば、俺は中学時代のお前の人格だ」
「中学時代の人格……」
「そう。ここまで言っても思い出さないか?」
 改めて少年を見る。言われてみれば、彼が着ている学ランはぼくの通っていた中学のものと似ていた。でも、どうしても彼のことが思い出せなかった。
 ここで思い当った。全体的に中学時代の記憶が薄いことに。エピソードとしていくつかの話が辛うじて浮かぶだけで、具体的なことは何も思い出せない。
「まあ、色々あったんだよ。嫌な記憶全部俺に押し付けて捨てたって仕方なかったかもしんねえ」
 だからお前が中学時代を覚えてないのは仕方がねえ、と少年は何てことなしに呟いた。
「でもさ、せめて俺を捨てたってことぐらい覚えてくれてると思ったんだけどなあ……」
「……」
 寂しそうに続ける少年に、ぼくは何も言えなかった。言えるはずがなかった。
「……ねえ、もう一つだけ、聞いてもいい?」
「一つでいいんだな?」
 からかうように彼は言った。この重い空気を何とかしようとするかのように。
「君がその方がいいなら」
「……別に何個聞かれようが同じだ。どうせ時間は有り余ってるんだから」
「そっか……」
 彼がここに一人でいた時間を思えば当然かも知れなかった。
「……ぼくは、どうしてここにいるんだと思う?」
「そんなの俺が知るかよ。俺はてっきり前みたいにここを整理しに来たんだと思ってたんだから」
「え……? 前にもぼく、ここに来たことがあるの?」
 そんなの初耳だ。てっきり初めてここに来たと思ってたのに。
「あれ、言ってなかったか?」
「うん、聞いてない。それに覚えてない」
「お前、何なら覚えてるんだよ……」
「……」
「あー、もうしょげるな! 面倒臭い。教えてやっから」
「……別にしょげてないし」
「あっそーですか! じゃあさっさと顔上げろ。拗ねてもかわいくねーんだよ!」
「だから別に拗ねてないし」
「ああーっ、本当にめんどくせえなあ! 聞く気ねえのか!?」

 ――本当にめんどくさい奴だな、お前は。
 ――鬱陶しいから死ねばいいのに。
 ――あー無駄無駄。こいつ、どうせ死ぬ勇気もないんだから。

 突如思い出したその言葉がぼくの心を突き刺した。それが引き金となって、思い出したくもないことが無数に頭を駆け巡る。視界が歪んでいき息が苦しくなっていく。心臓が激しく空回りしている。
「――っ、おいっ、大丈夫か!?」
 少年が激しく叫んでいるのが聞こえてきた。少年に肩を支えられ、ようやく落ち着いてきた。でも、動悸は未だ治まらない。
「どうした急に!」
「……こんな痛みを、君は今まで一人で耐えてたのか」
「は……?」
「思い出したんだ、ぼくがここにいる理由」
 彼は途端に嬉しそうな顔をする。
「そうか、よかったじゃねえか。帰る手掛かりが出来て」
「よくないよ」
 彼の喜びを断つようにぼくは告げる。途端に少年の顔は曇っていく。
「え……?」
「ぼくはもうここの主なんかじゃない。君たちと同じ、ここに捨てられたんだ」
「は……? 何、言ってんだよ……」
「二年前にぼくが君を捨てたように、ぼくはぼくを捨てたんだ」

「きっかけは何だったか思い出せないけど、ぼくはいつからか苛められっ子だった。それはもうしょうがなかった。どうしようもなかった」
「……どうしようもなかったってことはないだろう。誰かが助けてくれたかもしれないし、自分で何とか出来たかもしれないだろうが」
「……そうかもしれないね。君だったらなんとか出来たんだろうね。でも、ぼくには無理だった。少なくとも、ぼくにはどうしようもないように思えた」
「そんなこと……!」
「でさ、ぼくはどんどん自分が嫌いになっていったんだ。せめて苛める奴に怒ってたらよかったんだろうけど、この現状を生み出したのは自分でしか無いように思った。ぼくが悪かったんだよ。全部ぼくが『めんどくさい奴』だったせいだ」
「……」
「もう嫌になったんだ。何もかも。こんな自分なんていらないって思った。この世から消し去ってしまいたいって思った。最後に見たのは歩道橋だった。車通りが激しい道だったかな。で、気がついたらここにいた」
「……」
「どう思う……?」
「……」

「……おい、」
 しばらく考え込むように黙っていた少年が、意味もなく黙っていたぼくに話しかける。
「……何?」
「お前さっき『ぼくを捨てた』って言ったな?」
「うん、ぼくは多分捨てられた。だからもう無駄だよ」
「逆だ」
「何が?」
「無駄なんかじゃない。お前は同時に捨てた側だ。捨てた側の人間だったらここから出られるかもしれねえ」
「もうどうでもいいよ」
「……は?」
 熱弁する彼の言葉を遮る。彼が考えている間に、ぼくもいろいろ考えていた。
「ぼくはあんな場所に帰りたくない。そのために逃げたんでしょ」
「……っ、でも」
「それに、戻ったってぼくがまだ生きてるとは限らない。もうとっくに死んでるかもしれない。たぶんぼくは死ぬ気だったんだ」
「それは、そうかもしれない、けど……」
「だいたい、君は何でぼくにかまうんだ。ぼくは君を捨てたんだろう? こんな一人ぼっちの世界に苦しみだけ残して。もっと恨めばいいじゃん、憎めばいいじゃん」
 言葉の途中で、パーンッ、と大きな音がした。痛みは後からやってきた。いつの間にか目の前にいた彼に気付いてようやく、ぼくはビンタされたのだと知った。
「恨んでるさ、憎んでるさ! 決まってるだろうが!」
 彼が泣き出しそうな大声で叫んだ。
「そいつのために頑張ってたのに、裏切られて捨てられた気持ちがお前に分かるか!」
「……」
「ここだって何度だって出ようとした! ひたすら端を目指して歩いたこともあるし、何日もかけて地面を掘ろうともした。無駄だって分かっていながら空を飛ぼうとしたこともあった。どんなに頑張ったって50センチぐらいしか跳べなかったけどな」
 自嘲気味に彼は笑う。ぼくは笑えなかった。
「でもさ……無理なんだよ。どれだけ憎んだって、俺はお前なんだ。お前の『こんなもの捨ててしまいたい』って気持ちだって分かっちまうんだ」
「……」
「だから俺は耐えた。お前が幸せならそれでいいと思って。……でも、無駄みたいだったな」
 ぼくは何も言えない。ただ、彼の思いを無駄にしてはいけないのだろうとだけ思った。

「……で、ひたすら端を歩いても、地面をどれだけ掘っても、空を飛ぼうとしたって出られないような場所、どうしてぼくは出られるかもしれないの? ぼくだけが空を飛べるとでも言うの?」
 あえて軽い口調で聞く。こうでもしないと押しつぶされそうだった。
「ああ、そうだったな。さっきから言いそびれてた、前にお前がここに来た時のことだ」
「あ、そんな話だったね、確か」
「どうやらお前は俺に気付いてなかったみてえだったから、後をつけてたんだ。まさかこんな隠れるものが何もない場所でばれないとは思ってなかったがな」
「悪かったね」
「それはどうでもいいんだよ、今は。大事なのはこっからだ。お前は落ちてたぬいぐるみを拾って歩き出したんだ。そして、とある扉の前で立ち止まった。その扉の前でぬいぐるみを抱きしめると、ぬいぐるみはキラキラ光ってお前の中に消えてったんだ。そしてお前は平然と扉を開けて消えたんだ」
「……そのぬいぐるみってさ、」
 心当たりがあった。いつか不意に思い出した懐かしい思い出。
「ん?」
「熊じゃなかったか? 焦げ茶色の」
「正解」
「やっぱり……」
「これで繋がったな」
「何が?」
「いや、自分で直接試したわけじゃねえから不安だったんだよ。本当にここが外と繋がってんのかが。ここがゴミ箱だってのもあくまでも推理でしかなかったんだ」
「なるほど……ん?」
「何だよ、可笑しなことでもあんのか?」
「いや、……何で君はその時出なかったの? 扉は平然と開いたんでしょ?」
「ああ、確かにお前は平然と開けた。でもすぐ閉まっちまったんだ。その後俺がどれだけ頑張ったって、扉は開かなかった。つまり、その扉をお前なら開けられるかもしれねえ」
「……でも、もし仮に君の言う通りその扉が開いて戻れたとしても、死んでたら意味ないじゃん。わざわざ死にに帰るくらいだったらここでダラダラ存在してたい」
「意外とテキトーだな。何だよ、生きてるかもしれねえじゃん」
「死んでたら遅いんだよ。それに、怖いんだよ、あの場所に帰るのが……」
「……っ!」
 突然、轟音とともに地面が大きく揺れた。積み重なった物たちが崩れていく。空も何故か歪んでいるような気がした。
「ねえ、これ何なの!?」
「分かんねえ! こんなこと今まで無かった」
 揺れは時々弱まりこそするが、収まる気配が無かった。
「これ、もしかしてだけど……世界が崩れていってるんじゃない?」
「世界が崩れる……」
「きっとぼくが、主がいなくなっちゃったから」
「いや、それはきっと違う」
「何で?」
「だったらもっと早く崩れてるはずだろ」
「そっか……」
「この世界が崩れるとしたら……、持ち主が死んだ時か! ――急ぐぞっ!」
 強引に腕をつかまれ引っ張られる。突然のことに頭が追い付かない。
「えっ、何っ!?」
「今ならまだ間に合うかもしれない、行くぞ」
「ちょっ、どこにっ?」
「決まってんだろ、扉だよ」
 そのまま彼は走り始めて、ぼくも必死についていく。握られた手はとても暖かかった。

「ねえ、ちょっと、どういうことだよ?」
 まだぼくには理解が出来ていなかった。何で急に引っ張られながら扉を目指しているのか。
「もしこの世界がお前の体とリンクしてたとしたら、お前が死んだらこの世界は無くなるはずだ」
「えっ……じゃあもう駄目じゃん」
「違う! 崩れつつあるってことはまだ死んでねえってことだ。……相当危ないだろうが」
「でも、間に合わないかもしれない……」
「だが、ここにいたところで結局どうせ何も無くなる!」
「そうだね。でも、あんな世界に戻るくらいなら、君と消えた方がましだ」
「お前が何と言おうと、俺はお前に生きてほしいんだ!」
 彼の言葉が胸を刺す。どうして君はそんなことが言えるんだ。恨んでいてもおかしくない相手に。
「俺はお前が生きるために生まれたんだ。お前が生きていくために存在したんだ。例え捨てられようが、俺がお前を救うために誕生したことに変わりはねえ」
「何で……」
「怖いってんならその感情も記憶も全て置いてけ」
「……」
「とりあえず行くぞ。扉が開かなかったらどうせ無駄になるんだ」
「……」

「あった……」
 少年が足を止める。
 目の前には扉があった。ぼくの家の玄関の扉と大して変わらない、木製の扉だった。ただ、そこには家や壁は無く、扉だけがそこに立っていた。
「これ、なの……?」
 正直に言うと拍子抜けした。もっと重厚な扉をイメージしていたから。でも、こんなものなのかもしれない、現実へ帰る扉なんて。
「ああ、これだ」
 扉の前に駆け寄る。
 揺れはまだ続いていた。むしろ先ほどよりも激しくなっている。立っているのもやっとだ。それでも扉は倒れることなくそこに立っていた。
 扉の取っ手に手を掛ける。金属製の取っ手はひんやりと冷たかった。回して引くと、いとも簡単に扉は開いた。
「さあ、早く行け」
「嫌だ」
 少年が離そうとした手を、ぼくはそれ以上に強く握りしめる。
「何だよ、まだ迷ってんのか? 要らないもんは全て置いていきゃいいじゃねえか。また俺が預かっといてやる」
「違う」
 迷ってなんかいない。これがぼくの答えだ。
「もう何も置いていかない」
 もう二度と、ここには何も置いていかない。逃げるのはもうたくさんだ。
「じゃあさっさと」
「『お前だけでも行け』、か?」
「そうだ」
「何でだ?」
「でないと間に合わねえ」
「違う。何で『ぼくだけ』なんだ?」
「は……?」
「ぼくは君も連れていくよ」
 彼のことを知ってしまったからには、彼をもう一人には出来ない。ゴミはいつまでもゴミ箱に入れたままじゃ駄目なんだ。いつか、整理しないといけない。ぼくには彼を捨てることは出来ない。だって彼はぼくなのだから。
「え……」
「押し付けてごめん、今まで一人にしてごめん」
「……!」
 少年を強く抱きしめる。ぼくの肩ほどまでしかないその体は、とても、とても温かかった。
 ぼくたちが徐々に一つになっていくのが分かった。たくさんの記憶や感情が流れ込んでくる。苦しいけれど、悲しいけれど、捨ててはいけない大切な感情。
「こんなにつらいものを、君は一人で抱えていたのか」
 でもこれからは二人で抱えていこう。
「預かっていてくれて、ありがとう」
 そう呟いた時、少年はもういなかった。ただ、今まで欠けていたものが戻ってきたかのような安心感と懐かしさを感じた。
「じゃあ、行こうか」
 ぼくは言った。自分に言い聞かせるために。彼に語りかけるために。
 そしてぼくは一歩踏み出した。暗くて明るい現実に、二人で立ち向かうために。






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