お茶請けにはさわらびを
巴巴巴(みつどもえ)

 ハンカチで額を拭うと、思ったより赤く染まった。お気に入りのハンカチだったのに。ため息をつきながら、もう一度強く傷口を抑えて、止まりかけた足を速める。まだだ。まだここじゃ見つかっちゃう。わたしは町はずれの山への道を、一人で歩く。
 春めく世界が恨めしい。暖かな日差しが、たくさんの芽吹きが、うららかな陽気が恨めしい。世界がいつまでも冬に閉ざされていれば、どんなにか良かったろう。そうすれば、何も思い煩(わずら)わずに済むのだから。
 考えているうちに目当ての草木一本無い殺風景な岩山にたどり着き、外から目が届かない程度に奥まった岩陰にあるいつもの平べったい岩に腰かけて、改めて自分の姿を確認する。
 切ってくれる人もない髪は乱れ放題なので、手櫛で何とか整えようとする。膝のあたりに打ち身を見つけ、またため息。ひと月前に袖を通したばかりのセーラー服は、早くも所々穴が開き始めている。下ろしたてのローファーは痛々しい傷跡に彩られ、ほどけたスカーフは首元にぶら下がって揺れているといった有様だ。無事なのは、逃げる時手に持っていた財布と肌身離さず持ち歩いている日記だけだ。
せめて財布は鞄にしまおうか。そう思って鞄に伸ばそうとした手が空を切る。その時やっと、鞄を含む諸々を全て逃げる際に置いて来てしまったことに気付いた。
 額から血が垂れてくる。乱暴に手で拭うと、鋭い痛みが手の方に走った。見れば、三日ほど前に手に出来た切り傷がぱっくりと割れ、にじむ血に透明なしずくが混ざり、汚らしいマーブル模様を描いていた。汗だと思いたかったが、目頭の熱さからして、涙らしい。
 悔しかった。悲しかった。惨めだった。暗い感情が小柄なわたしの胸から湧き上がる。溢れ出した思いに突き動かされ、気づくとわたしは駆けだしていた。
 どうして、どうしてどうしてどうして、わたしはこんな目に遭わなきゃいけないの? 数えきれないほど取り組んだ問題が、今日はやけに頭の中で反響して、わたしの背中を追いかけてくる。捕まったら押しつぶされそうで、華奢(きゃしゃ)なわたしの足が悲鳴を上げるのも構わず、むき出しの岩肌をわたしはひたすら駆け上った。
「どうして……」
固い岩肌が掠めて、血がにじむ感覚。冷たく吹き抜ける風が目に刺さり、目を開けることも出来ない。それでも足は止まらない。春を感じさせないほどに生き物の気配のない岩山の道なき道を、がむしゃらに走り抜けていく。
「どうして……、どうして……」
だから、わたしは気づかなかった。目の前の黒い大きな塊に。真正面から思い切りぶつかり、ひっくり返って無様に尻餅をついてしまった。
「痛い……」
自分の惨めさが頂点に達し、わたしの顔が歪む。目尻がきゅっと熱くなり、喉奥から嗚咽がこみ上がる。でも、叫ぶ元気もなくて、わたしは膝を抱えて、ぐっと歯を食いしばる。このまま小さくなっていったら、消えてしまえるんじゃないか。腕にありったけの力を込めて、小さく、小さく……。
「もし。お嬢ちゃん」
肩に小さく触れる冷たい指の感触。一体誰だろう。わたしなんかに話しかけないで、どっか行ってくれないかなあ。
「もし。もし。お嬢ちゃん」
うるさいなあ。もういっそ、振り払ってしまおうか。今は誰とも話したくないし、これからもそう。この森の中で、眠るように死んでしまえたら……。
 ことり。何かがわたしの目の前に置かれる。こぽこぽ。何かが注がれる。ふわりと広がる心地よい香りが、そっとわたしの鼻をくすぐる。不思議な香り、一度も嗅いだことのない、世界中の花を集めたような……。
 そっと目を開ける。殺風景な岩山は何処へやら、暖かな木漏れ日がそっとわたしを包んでいる。ぎょっとして身を竦ませるわたしに、優しく寄り添ってくれる。
 耳に入るのは、さわさわと柔らかく風に揺れる木の葉の音。わたしの周囲をぐるりと囲んで大合唱を繰り広げている。いつもなら立っていることもままならないほどに恐怖を感じるだろうその光景は、しかし不思議と怖くない。不思議な香り、不思議な光と一緒に、わたしをそっと手招きする。
 そっと顔を上げる。深い森の中の開けた箱庭、その隅っこでわたしはしゃがみこんでいた。それなりの広さなのに、同じ植物が一つとしてない。大きな木、小さな木、太い枝、細い枝、きれいな花に青々とした葉が、そよ風に吹かれて小さく揺れている。不思議だった。箱庭より、箱庭の植物が、だが。こんなに植物に囲まれているのに、全く怖くない。
 ふと気づくと、視界の隅の花畑の中で、黒い大きな塊が蠢(うごめ)いている。
白い花に水をやり、雑草を抜き、せっせと世話に励んでいる。長くこなしたらしい淀み無い動きの中に、どことなく場違いで不慣れな雰囲気があるのが不思議で、わたしはぼんやりと黒い塊の作業を見つめていた。
 花畑の端まで作業を終えて、塊は立ち上がる。遠目でもそれが三メートルを超える巨大なものだと分かった。
黒の下から袴のようなものが見て取れる。どうやら黒い塊は、羽織袴で庭仕事をしていたようだ。
すると、巨大な庭の主はわたしの視線に気づき、振り返る。それを見たわたしは、完全に腰を抜かしてしまった。
 鹿の角、虎の牙、魚の鱗、馬のたてがみ、熊の爪、蛇の尻尾。数多の生物の強さだけを集めた伝説の怪物、その神通力は涸れた土地を雨で潤し、驕(おご)れる文明を洪水で洗い流す。神にも匹敵し、神として祀られる最上位の存在。それが今……!
「む、起きたかね。どうだね、一緒に茶でも飲まんか」
黒い鱗の老龍(ろうりゅう)は、呆けて座り込んでいるわたしを何気ない様子でお茶に誘った。
 春風がふわりと舞って、わたしのぼさぼさの髪を撫でた。

「どうじゃ、ほれ。ここに座るといい」
木漏れの落ちる木陰にぽつんと置かれたベンチに、わたしは促される。端のほうに腰を下ろして、体をよじらせてもっと端へとにじり寄る。その横にどっかりと老龍は座る。びくりと肩を震わせるわたしの手には、いつの間にか湯呑(ゆのみ)があった。驚いているうちに老龍は湯気の立つお茶を自分とわたしの湯呑に注ぐ。さっきと同じ不思議な香り。
「ほれ、ゆっくり飲むといい。茶請けは手元にあるでな」
大きな口でにっと笑う龍にたじろぐ。気が付くと、ベンチの肘掛けにお皿が一枚。一口サイズのわらびもちがいくつか乗っていた。
「ゆっくりしていけ、何も取って食ったりせんよ……。む、怪我をしているのか」
びくりと肩が跳ねる。俯(うつむ)いて視線をそらす。何をされるかわからない恐怖が、さっきまでの嫌な記憶を連れてやってくる。背中に嫌な汗が流れるのが見なくてもわかる。
「ふむ、これでよし」
わたしを軽く眺めてそう言うと、老龍は湯呑を傾け、茶を舌の上で味わう。特に何もしないのだろうか。横目で自身の体を見ると、目ぼしい傷は跡形もなく消えていた。
驚いて体をまさぐるわたしの頭に、ごつごつした大きな手が乗せられる。鱗はひんやりとして、どこかくすぐったい。手はゆっくりと動いて、わたしの頭を撫でる。不思議な感覚。人に触られるのが大嫌いなわたしは、その時大人しい猫のようにされるがままになっていた。
「何も言わずともよい」
ゆっくりと溶けていく意識に、落ち着いた声が反響する。
「何も語らずともよい。君が求めるだけ、ここにいるといい。つらい時、悲しい時、ここにいるといい。儂(わし)は何もしない。出来ない。君の気が済むようにすればいい」
大丈夫だよ、と老龍は言う。
「儂はいつでもここにいるよ」
意識が安息の中に沈む。こんなに心地よいのは久しぶりだなあ……。

 春の柔らかな日の光がわたしの頬を撫で、わたしは目を覚ます。寝起きの意識は錆びついたように、なかなか回ろうとしない。ゆっくりと昨日からの記憶を手繰って、やっと回転し始める。
 昨日?
 目が一瞬で冴える。がばりとベンチから起き上がると、高級そうな反物がはらりと落ちる。視線を巡らすと、老龍がいた。今度は黄色の花を一つ一つ手入れしている。こちらの視線に気づき、軽く手を振る。
ぎこちなく手を振り返し、そっと目をそらすと、脇に新品同然の鞄があるのが目に入った。
「拾ってきておいたぞ。傷んだところも直した。よく眠れたようで何よりだ」
いつの間にか横に来ている老龍が説明する。何か言おうとするが、声が出ない。
「ん? ああ、今は昼の一一時といったところか。戻るなら送っていくが」
かろうじて頷くと、老龍はにっこり笑って、手を軽く振った。何の変哲もない緑色の森が、ぐにゃりと歪み、じわりと赤色が浮かぶ。赤色はすぐに形を整え、一つの鳥居になった。
「狭間の園の出入り口だ。開けておくから、またいつでも来るといい」
おずおずと鞄を持って、鳥居をくぐる。一瞬のめまいの後、わたしは岩山に戻ってきた。振り返ると、鳥居がぽつんと立っている。不思議な箱庭は影も形もない。怖かったはずの箱庭から、落ち着ける岩山に帰ってきたはずなのに、わたしの心は故郷を想う渡り鳥の様に喪失感で満ちていた。

 化物って何だろう。龍なんかは言わずもがな、妖怪や怪物の類は化物と呼ぶことに差し支えはないだろう。では、その定義は? いったい何が理由で、人は何かを化物だと定義する?
 わたしは、『人間でないと思うもの』だと考えている。人間でないと思えば、猫だって嫌いな人にとっては化物だ。逆に、犬だって家族だと、人間の仲間だと思えば化物じゃない。
 だから、わたしは化物なんだと思う。

「む、来たか。待っていた……」
老龍が最後まで言い終わる前に、わたしは老龍のおなかに飛びついていた。土のにおいがする羽織袴に顔をうずめ、歯を食いしばる。
 最初は戸惑っていた老龍は、そっと手を回しわたしの背をさする。痛みが引いていくとともに、感情が昂(たか)ぶる。
 あれから十日、毎日不思議な箱庭に通いながら、出されたお茶もお茶請けにも手を付けず、何も話すことなく俯いて座っていたわたしは、今日初めて老龍に触れた。
何かに触れていないと、どうにかなってしまいそうだったから。
 ひんやりした身体が熱を吸い取り、神通力(じんつうりき)が傷を治していく。その分だけわたしの中で何かがこみ上げ、喉元まで至る。出してはいけない。わたしの理性は必死に押さえつけようとするが、今度ばかりはどうしようもない。
「我慢することはない」
老龍はそっと囁(ささや)きかける。
「我慢することはない。溜まったものは、吐き出してしまうといい。気にするな、儂はいつでもここにいる」
老龍の柔らかい言葉が、わたしの最後の理性を溶かしていく。こみ上げる衝動が、喉元を突破する。それは、大きな叫びとなって、涙と共にこの世に生れ出る。
 泣きじゃくるわたしを、年老いた龍は優しく抱きしめ、泣き止むまで背をさすってくれた。

 小さな町に生まれたわたしは、生まれた時から化け物として扱われた。幽霊。吸血鬼。雪女。悪魔の子。数え上げればきりがない。友人などできるはずもない。石つぶてを受けて逃げ回るのがわたしの日常だった。
 両親は駆け落ちの末、地縁のないこの町に落ち着き、慎ましくも幸せな生活を送ろうとした矢先にわたしを産んだ。
「呪いの子め」
母が言った最期の言葉は確かそうだ。ろくにわたしの世話もせず、夫と共に酒におぼれ、あげく心中したと聞いた。町の人間の間でたらいまわしにされ、腫物扱いされる間に聞いた。学校でも義理の父母の家でも、わたしには居場所がなかった。
 理由はわたしの耳にある。わたしは、植物の声を聴くことが出来る。たとえどんな植物でも、生きているものである限り話をすることが出来る。いや、少なくともしようとは思わないが。全ての植物が人間に好意的というわけではないからだ。
 人間社会は植物に支えられているといっても過言ではないだろう。食事、建築、鑑賞、家具調度。一般的な家屋で植物のないものなど非常に少ない。食事のたびに頭に響く断末魔、粗雑な木製調度の怨嗟(えんさ)の声。物心つく前から、わたしはやむことのない声の嵐の中で過ごしてきた。
 それに伴って、わたしの行動は自分でも異常に思えるものであることを余儀なくされた。日常的に何かに怯え、食事もとらず、近づくと逃げる。さまざまな迷惑を周囲に及ぼしたわたしにとって謂(いわ)れのない暴力は日常。わたしはひとりだった。わたしは、ひとりだった。

「……落ち着いたかい?」
「……うん」
一通り泣きに泣いて、少しだけ落ち着くことが出来た。吐き出せるだけの感情を吐き出して、体中の生傷を老龍に治してもらって、とりあえず泣き止むことが出来た。でも、暗い感情がおなかに重くのしかかって、顔を上げることが出来ない。
「何かできることがあるなら、言っておくれ。お茶はどうかな?」
 こくりとわたしが小さく頷くと、老龍はいつもの急須を取り出して、湯呑みにゆっくりと注いでいく。
「さあ、おあがり」
差し出される湯呑を受け取って、何の気なしに口をつける。初めて飲んだ不思議なお茶は、外から包み込むような香りと相まって、おなかからじんわりと体を温めた。
「……わたしね」
「うん?」
 老龍はわたしの横に座って、話を聞こうとしてくれた。ためらいながら切り出したわたしも、二の句が続いた。そういえば、誰かに話を聞いてもらうのは、はじめて、かな。
「わたし、化物で。今日、襲われて。学校の、先輩なのに。わたし……」
 たどたどしく話すわたしの話を、しかし老龍は親身に聞いてくれた。いつもわたしをいじめる男子の先輩が、今日もわたしに因縁をつけてきたこと。逃げようとすると、五人ぐらいで取り囲まれてしまったこと。そのまま体育倉庫まで連れて行かれそうになったこと。血走った目。汗臭い匂い。飛び散る鮮血。腰に忍ばせておいたナイフ。悲鳴と怒号。靴も履かずに、学校から逃げてきたこと……。
「もう、帰れないよ。取り返しなんてつかない……。わたしが全部、悪い」
「そうかい?」
 老龍は首をかしげて不思議そうにしながら、お茶請けのわらびもちをつまんで口に運ぶ。
「君は、悪くないじゃないか。君は、自分を守っただけだろう?」
「だから、だよ。わたしは化物だもの」
「どこがだい?」
言葉に詰まる。そういえば、老龍には話していなかったっけ。かいつまんで説明すると、老龍は笑って言った。
「じゃあ、君はここにいて辛いかい?」
 そうだ、どうもこの箱庭はおかしい。ここには植物たちの罵詈雑言がない。地面を踏むだけで、どこかから小さく足を踏まれたような悲鳴が聞こえるはずなのに。
「ふむ、では、儂も一つ話をしようか」
老龍は湯呑を一気に傾けると、ゆっくりと語り始めた。
「実はな、このあたりの岩山は、昔それはそれはきれいな山だったんじゃよ」
 言われて思い浮かべるが、どうも今と結びつかない。
「何、五百年ほど前の話よ。業火に焼かれて土ごと熔け、今は見る影もない」
 でもな、と言って老龍は振り返る。その陰の鳥居のそばに、小さく揺れるものが見えた。何かの新芽が、たくましく芽吹いている。
「植物は強い。業火に大半を焼かれても、こうしてまた芽吹く。踏まれても、またたくましく空に手を伸ばす」
一言切って、老龍は厳めしい顔を伏せる。
「焼けぬものなき業火より、焼けても立ち直る草木の方が、よほど強いと思うよ」
 小さな葉がどこからか風に乗って飛んできて、老龍の肩にちょこんと乗った。
 言葉が途切れる。後ろ姿に声をかけようとするが、何を言えばいいのかもわからない。とりあえず、一歩踏み出したわたしの足に、何かが当たった。
「……?」
 ノートだった。この間鞄から抜け落ちたのだろう。こげ茶色の表紙が嫌いで、つい目を背けていたのだろうか。
「それはなんだい?」
 気が付くと、老龍がわたしの方を向いていた。拾い上げたノートに興味を持っているのだろうか。
「ノート。書くもの」
「ほう。見せてもらえるかな?」
 手渡すと、老龍は矯(た)めつ眇(すが)めつしながらノートを興味深げに見る。ノートを開き、適当なページにどこからか取り出した筆を走らせて、目を丸くする。
「これはすごい。何とも書きやすくて片手で持ち歩ける。人間はすごいなあ」
「あげるよ、それ」
 興味津々の老龍にそう告げると、老龍はノートを取り落した。
「本当に?」
「うん」
「本当の本当に?」
「うん」
老龍はノートを拾い上げ、心底嬉しそうにはにかむ。
「きれいな茶色だ……、わらびのような。はは、嬉しいなあ」
 表紙に筆を走らせて、わたしに見せてくる。【蕨(わらび)】というのは、ノートの名前だろうか。
「誰かに何かをもらうなんて、はじめてだよ。ありがとう」
 わたしもだよ。そんな言葉を飲み込んで、わたしは俯いた。ゆるんでしまった顔が、気恥ずかしかったから。風に舞い上がった小さな葉が、今度はわたしの肩に乗った。

「ああ、ありがとう」
お茶の注がれた湯呑を受け取って、老龍は心底うれしそうに笑う。つられてわたしの顔もほころぶ。誰かに感謝されるなんてまるで経験もなかったけど、出会って一年、わたしは老龍と大分仲良くなった。老龍は延々と庭仕事を続け、時たまベンチで休憩する。わたしは、そんな老龍にお茶を出すようにまでなった。
 学校には行っていない。あれからずっとこの箱庭で生活している。水や食料は老龍が全部出してくれる。わたしは、毎日の炊事やお茶くみ、掃除をしながら、老龍と談笑する日々を送っている。
「……お茶請けも、あるよ」
「いいな、頂けるか?」
返事と独り言しか出なかったわたしの口は、たどたどしくも回るようになった。おなかに入れば、動けるだけの栄養になればそれで良かった食事は、美味しさを求めるもの、誰かと楽しむものになった。
「今日のわらびもちは、一段とうまいな」
「……ありがとう」
といっても、まだわらびもちしか作れない。料理なんて見たこともない。老龍の神通力で無限に生えてくるワラビで、老龍に教わった通りに作るだけ。それでも、喜んでもらえるのが素直に嬉しい。ほのかな甘みが口の中に広がって、とても幸せな気分になる。
「今日は、海に行ったときの話」
「ほう。それは楽しそうだなあ」
 主な話題は私の思い出。幼いころからの唯一の習慣である日記が、はじめて役に立った。ここで生活することを決めた日、老龍に頼んで取りに行った数十冊のノートをめくる。嫌な思い出を吐き出すだけだったものが、今は遠い彼方の記憶を呼び覚ますものになるのだから世の中分からない。
 たどたどしい私の話を、老龍は静かに聞いてくれる。初めて出来た話し相手は、人間じゃないのに、人間以上に人間味を感じた。
「……おじいちゃん」
「ん? 何か言ったかい?」
「……何でもないっ」
 つい口に出してしまった言葉を慌てて否定しても、老龍は知ったような顔で微笑んでいる。気恥ずかしさから、わたしはついそっぽを向いてしまう。気恥ずかしいのは、本当に自然と口をついて出た言葉だったからか。取り繕うかのように、わたしは話題を変えにかかる。
「それじゃ、そろそろご飯作るねっ」
「む、もうそんな時間か」
慌てて立ち上がろうとして、老龍はむせてしまう。つい笑ってしまいながら、そっと背中をさすってあげる。
「ごほごほ……、いや、すまぬ。助かった」
「……どういたしまして」
本当のおじいちゃんみたいで、何か可笑しい。いつまでも話していたいと思う。この、はじめての相手と。いつまでも楽しみたいと思う。この、はじめての時間を。
 箱庭は春を迎えて、箱庭一面に生えた草木が色とりどりに踊っている。まるで、終わり際の歌劇のように。

 明くる日、目を覚ましたわたしが見たのは、老龍が箱庭の中央で仰向けに倒れている姿だった。慌てて駆け寄り、息があるかを確かめようとする。しかし、それは叶わなかった。箱庭の中央、雪のように白い花畑の周りは見えない壁のようなものに覆われ、入ることが出来ない。拳で壁を叩いてみても、大声で叫んでも、老龍は横たわったまま何の反応も返さなかった。
途方に暮れるわたしの頭に、耳慣れた声が響いた。
(君か。何、心配することはない。予定通りだよ……。少し延びてしまったが)
「なんの、こと……?」
(ここは儂の墓だよ)
突然の話に、思考が追い付かない。墓標? 誰の? 死ぬの?
(ふむ……、では、一から語るとしよう)
老龍は、ゆっくりと話し始める。最後の話を、楽しむように。
(儂は悪龍だった。海を焼き、地上を洗い流し、天空を思うがままに駆け回った。数多の生物を殺した。もちろん、人間も。化物と呼ばれ、忌み嫌われた。嫌われた分だけ、儂もすべてを嫌った。全てを殺し続けた)
……そんな。
(ある時、とある聖人に退治された。わが身は時の権力者に献上され、伝説となった。しかしその時、聖人は儂を封じなかった。体のみ奪って、力は残された。そして聖人は儂に、罪を償うように言いつけた。億万の草木をもって、殺したものの菩提を弔え。殺した数だけ草木を生かせ。その図抜けた力を持って、奪うのではなく救え、とな……)
……そんな。
(簡単なことではなかった。壊すことしか知らぬ儂は、弔い方すら知らなんだ。およそ六〇〇年かかって、ここまでこぎ着けた。これで終わるはずだった。君が来るまでは)
え?
(君を見て、同じだと思った。一目でわかったよ……。怪我にこもる悪意が。君が化物と呼ばれ、周囲から忌み嫌われているだろうことが。……放っておけなかった。同じ化物と呼ばれていても、君は悪くない。君は何も、何一つ悪くない。放っておけなかった。罪を犯したわけでもなく、化物として石を投げられる君が。だから……)

色とりどりに華やぐ世界に、変化が現れる。光がすべてを塗りつぶし、白く染めてゆく。わたしの視界のあらゆるものが白に染まる。周りの草木も。いつものベンチも。最愛の友人の姿も。
 そして……。


 こんな話がある。難病奇病、世界に名だたる名医ですら匙を投げる業病を、容易く根治する生き神がいると。病を理由にあらゆる人々に見放された者のもとに、わらびの葉が生えた鳥居が現れ、それをくぐると不思議な箱庭に入ることが出来ると。そこにいる生き神の霊薬を飲めば、どんな病も消えて失せると……。そして、生き神は代価として、不思議なものを要求する、と。

 年端もゆかぬ女の子が、鳥居をくぐって箱庭に現れた。といっても、歩いて、ではない。トカゲのように這いながら、やっとのことで鳥居をくぐったように見える。わたしは慌てて駆け寄り、そっと抱き起こす。
「大丈夫?」
わたしの声に少女は身を竦ませる。よほど精神が不安定になっているようだ。がくがくと震えて、目線を彷徨わせている。
「よし、じゃあ、ちょっと向こうまで行こうか」
 また一段と大きく震えたのは、わたしの声が怖かったのか、それとも移動することが怖かったのかな? じりじりと後ずさって、わたしから離れようとしている。抱え上げることも出来るけど、今は体に触らない方がいいかもしれない。
 そう思ってわたしは、軽く手を振る。その一瞬で、わたしと女の子は古ぼけたベンチに移動する。女の子は心底びっくりした様子で、自分とその周囲をきょろきょろ見回している。そんな彼女に、だいぶ前の自分を重ねて思わず笑みを浮かべてしまう。
「はい、どうぞ」
 差し出した湯呑を、女の子はおっかなびっくり受け取った。なかなか口を付けようとはしないが、それならそれでいい。何時間、何日、何年経っても、それでいい。
「気楽にしてていいよ」
わたしはそう言いつつ、軽く腕まくりをする。神さまにしては似合わない、セーラー服の袖を。
「ちょっと待っててね、今からお薬作って来るから」
呆気にとられる少女を背に、わたしは大きく息をつくと、空を見上げた。春めく世界が心地いい。暖かな日差しが、たくさんの芽吹きが、うららかな陽気が心地いい。ずっと春であったらいいと、心底思う。

(だから、儂は君に力を引き継ごうと思う)
老龍はそう言った。今でも鮮明に思い出せる。
(別に君が龍となるわけではない。この姿は儂にとって都合がよかっただけのこと。もとより儂の体は火の中で燃え尽きた。今の儂を形作るのは、この神通力のみ。これを君に与え、儂は最後の仕事を行う)
……なんで、わたし?
(元々は封じるつもりだった。しかしここまで莫大な力、完全に消し去ることはおろか、封じることさえままならぬ。誰かが悪用せんとも限らぬ。使い切るにも始末が悪い。誰か信頼できる者に与えてしまうのが一番いい)
だから、なんで、わたしなの?
(謂れもなく化物と呼ばれながら、君は誰も傷つけなかった。化物を前にして、君は笑顔を見せた。儂を友人として扱ってくれた。それで十分だよ)
……。
(それに、君のためにもなるだろう。君が化物とされるのは、ひとえに君の能力だけのこと。誰かを救える君ならば、正しく使える力と相まって、君の能力は邪悪でなく神聖として受け取られることだろう)
……違うよ。
(む、何がだ? 相応の理屈であると思ったのだが……。何か問題があるのか?)
違うよ、馬鹿ッ!
(?)
なんで! わたしはまた一人にならなきゃいけないの!? 初めてできたともだちなのに! 一緒にお茶飲んで、一緒にお話しして、一緒に笑っていられる! 当たり前だけど手に入らなかった、わたしの宝物なのに! なんで!
(……)
一人は嫌だよ……。さみしいよ……。力なんていらない、何もいらない……。お願い、一緒にいて……!
老龍はゆっくりと浴びせられた言葉を噛みしめて、ゆっくりと答える。
(君の気持ち、心から嬉しい。その言葉、決して忘れないだろう。しかし)
……。
(しかし、まだ償いは終わっていない。菩提は弔った。救うべきを救った。この世でやるべきことはすべて終えた。あとはあの世で裁きを待つだけだ。……それだけは、叶えられない)
……そんな。
(それに、忘れてはいけない)
……?
(儂はいつでもここにいる。君のいるそばに、絶対に)
……!
(君は一人じゃない)

「はい、おしまい」
目をぱちくりさせる女の子に、わたしは笑いかける。彼女にかかった呪いは解けた。足に手形のようなあざが浮き出て、歩くたびに強く締め付けられる呪いだった。足首から下を切断しなければならないほど痛めつけられていた彼女の足には、もう手形どころか傷もない。
「ほら、ゆっくり立ってみて」
 そろそろと立ち上がろうとする女の子。恐怖に足が竦んでいる。でも、彼女の立派な両脚は、しっかりと地面を踏みしめることが出来た。ふらつく彼女を肩からそっと支える。
「どう、して」
「ふふふ。アジサイの葉から作った薬だよ。すごく苦いけど、こういう呪いにはめっぽう強いお薬なの」
 呆気にとられる彼女に、わたしは微笑んでみせる。こんな薬があるなんて、って顔を彼女はしている。それはそうだ。植物そのものに、それぞれの持つ薬効を尋ねることの出来るわたしにしか、この薬は作れないのだから。
「ともかく、これで治療はおしまいだよ。よかったね」
「……あの」
「うん?」
「……お、お代は」
「ああ、そうだったそうだった」
 言われて思い出した。彼女を箱庭の真ん中に鎮座する、巨大な楠(くすのき)の切り株に座らせて、わたしは箱庭の隅に置かれた本棚へと向かう。一冊のノートをとって、また戻る。
「……お金は、あんまり」
「いやいや、お金はいらないよ。その代わりに」
 わたしは彼女の横に腰かけ、ノートを開いてペンを取り出す。
「あなたの話を、聞かせてほしいんだ」
「……わたしの?」
「何でもいいよ。見たこと聞いたこと、あなたが経験したこと。なんなら、あなたが想像したことでもいいよ? このノート一冊分のお話を、聞かせてほしいんだ」
「……どうして?」
 わけが分からない、といった様子の彼女に、わたしは続ける。
「わたしね、とっても大事なお友達を待ってるの。いつになるかわからないけど、絶対に帰ってくる友達。だから、帰ってきたときに、いっぱいお話をするの。わたしが見たことしたこと、思ったことも」
 わたしは歌うように続ける。
「わたしはここで待ち続けなくちゃならないから。だから、あなたの力を貸してほしい。歩けるようになったあなたの、過去や未来の話を、聞かせて」
「……ひとつ、いい?」
「なあに?」
「……その表紙、なんて書いてあるの?」
 そういって、彼女はノートの表紙を指さす。だんだんと彼女に積極性が見えてきたことを内心喜びながら、つまらない失敗に少し反省する。そういえば、わたしもあの時、ちゃんと読めなかったっけ。
「うん、これはね……」
 言いながら、わたしは思い出す。目の前の女の子を、あの時のわたしと重ねながら。出会った時から、別れる時までを振り返りながら。初めてあげたノートの表紙に書かれた字の読み方を、教わった時を思い出しながら。
   これはな、儂の大好きな植物の名前だよ。
   春の頃はこの茶色が楽しみで仕方ない。
   この『のーと』というものには、いかにもお似合いだろう?
   『わらび』。とてもいい名だなあ。
「『さわらび』って、読むんだよ」
 若い蕨で、早蕨(さわらび)。わたしは答えた。
ねえ、わたし、あなたのことが、大好きだよ。いつまでだって、待ってるからね。

了






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